日本の「3.11」、東チモールの「3.11」
青山森人 e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
あれから1年、あれから14年
この3月11日、第二の“敗戦”ともいわれる東日本大震災発生から一年たちました。福島第一原発事故の放射能被害による見えない恐怖が福島やその周辺のみならず日本全体を覆っている状況では、大地震と大津波で被害をうけた地域の人びとの復旧・復興がはかどらないばかりではなく、日本そのものが沈みゆく感じさえ覚えます。第二の“敗戦”の“戦後”は延々と(あるいは永遠に)つづく感覚を日本人は人間として本能的に抱いているのではないでしょうか。
こうした状況を打破するには、科学的なデータに基づいた正確な情報を国民が得ることが大前提となるはずですが、政府はこれせず、大手マスコミは福島第一原発事故をまるでなかったかのように過小評価し、タチの悪い”敗戦”状況をつくりだしています。
一方、東チモールでは14年前の3月11日、FALINTIL(ファリンテル=東チモール民族解放軍)のニノ=コニス=サンタナ司令官が亡くなりました。解放運動の最高指導者で現在の首相であるシャナナ=グズマンが1992年インドネシア軍に捕まり、その後継者もすぐ占領軍の手に堕ちたあと、コニス=サンタナ司令官は、抵抗組織の建て直しを図り、1990年代の困難な武装闘争と地下活動を指導したゲリラの英雄です(詳しくは拙著『東チモール 抵抗するは勝利なり』[社会評論社、1998年]を参照)。
3月8日、海岸沿いを歩いているわたしの姓名を正確に発音して呼ぶ若者に遭いました。かれは、コニス=サンタナは自分のおじさんにあたると流暢な英語で自己紹介し、わたしはかれのことを、かれの話の内容から、そして何よりもおじさんそっくりの面構えをしていることから信用しました。かれの周りには数人の若者が座り、東部ラウテン地方行きのバスを待っているところでした。「わたしたちみんなコニス=サンタナの親類なのですよ」という。「3.11」がもうすぐやってくるので、わたしたちはコニス=サンタナを偲びました。
コニス=サンタナ司令官の死因は当時、サンタナ司令官をかくまう住民を侵略軍から守るため、渓谷からの落下と抵抗組織から発表されましたが、占領軍から解放されてからは死因が病気であったことが写真や証言で明らかになりました。しかし不思議なことに東チモール政府から公式に発表されることはなく、いまも「3.11」は家族やゆかりの人びとが個人的に追悼するだけとなっています。民衆とともに解放闘争に身を捧げた指導者を国家と国民で追悼できない状況は、東チモールの「未完の肖像」を映し出しています。
大雨による自然災害
3月7日の午後、わたしはタイベシという町内にいました。夕方の雨で路肩から濁った水が川のように溢れ、タイベシの道路は数箇所寸断されました。道を歩いているのか、川を渡っているのか、わからないほどでした。都市部の水はけ機能は劣悪な状態です。
東チモール人の友人によれば、インドネシア軍に占領されていた時代に首都が今みたい水浸しになることはなかったし、山林の伐採は占領軍によって厳しく規制されていたので山の保水機能も良く、濁った川が激しく海に流れ込むこともなかったといいます。
また別な知り合いによれば、1999年インドネシア軍が撤退したあと約20年ぶりに祖国の地を踏んだときに一番驚いたのは、昔の記憶と似ても似つかない伐採された山林の無残な姿だったといいます。占領軍から解放された住民は自分のためと販売のために山の木を切り倒し始めたのです。燃料としての焚き木はいまも市場で売られています。
人工的な要因にラニーニャ現象などの気象条件が加わり、最近の東チモールは頻繁に大雨の災害に襲われ、人びとの生活・移動・経済活動に大きな障害となっているのです。
7日夜のニュースは「独立宣言者」であるフランシスコ=シャビエル=ド=アマラルの死去で占められ、浸水から避難する住民のニュースは脇へ追いやられました。それでもこのニュースの映像は、川の濁った激流が橋をうちつけ、民家に浸水し、避難する住民の様子を映していました。大統領選挙と「独立宣言者」死去にかんする要人たちのコメントばかりが報じられ、大雨の災害対策を語る政府要人の姿がないのは奇異に感じられます。もっとも、福島第一原発事故の深刻さに背をむける日本の政府やマスコミを思えば、日本人として人の国の報道にケチをつける義理ではないのでしょうが……。
大統領選挙の12人の立候補者
現在おこなわれている大統領戦の選挙運動は、2月29日に始まり、3月14日で終了します。2日間、頭を冷やし、17日が投票日。投票時間は朝7時から午後3時まで、アッという間に終わる投票です。有権者資格は投票日に17歳以上の東チモール人であること。今回の有権者は63万449人(5年前の前回は52万2933人)です。
ここで簡単に12人の候補者を紹介します。
1.マヌエル=ティルマン……野党コタの党首、前回に引き続き2度目の挑戦。
2.タウル=マタン=ルアク……解放軍の参謀長を務め、占領軍撤退後は東チモールの国防軍司令官を大統領選挙に出馬するために辞職した去年の9月まで務めた。今回の大統領選挙における最大の注目人物。
3.フランシスコ=グテレス=ル=オロ……前回の国会議員選挙では政党として最大支持率を維持したが、シャナナ=グズマン率いる連立勢力に過半数を奪われ野党に甘んじているフレテリンの党首。大統領選挙は2度目。前回は第1回目の投票では最高得票率(27.89%)を獲得したが、決選投票では30.82%の得票率に留まり、反フレテリン勢力の支持を集結させ69.18%を獲得したジョゼ=ラモス=オルタに敗れた。
4.フランシスコ=シャビエル=ド=アマラル(3月6日死去)……この人物を党首としたASDT(チモール社会民主協会)はタウル=マタン=ルアクの支持を表明したが、一部はジョゼ=ラモス=オルタ支持するとも報じられている。
5.ロジェリオ=ティアゴ=デ=ファティマ=ロバト……フレテリン政権下で内務大臣を務める。1970年代、シャビエル=ド=アマラルがフレテリン党首の座を剥奪されたのち2代目の党首となったニコラウ=ロバト(1977年に戦死)の弟。2006年の「東チモール危機」のさい、武器を不正流用した罪で2007年に7年6ヶ月の実刑判決をうけたが、病気の治療ために海外の病院に入院し、その後、ラモス=オルタ大統領による恩赦により無罪放免となった。
6.マリア=セウ=ロペス=ダ=シルバ……アタウロ島の王家の出身。わたしがオーストラリアのダーウィンからチモール島のクーパンを経由して東チモールに入っていた1990年代、わたしはダーウィンに在住するセウさん宅に泊めてもらったことがある。最近は東チモールのオーストラリア大使館職員として働いている。彼女の夫だったホアン=フェデレールは、チリのアジェンデ政権下のインドネシア駐在大使を務めた人物で、東チモール抵抗運動の外交に関与していた人物である。
7.アンジェリタ=マリア=フランシスカ=ピレス……2006年の「危機」から2008年2月11日の大統領・首相襲撃事件まで、武装反乱集団を率いたアルフレド少佐を操った女性といわれ、「2.11」事件に関与した容疑で裁判にかけられたが、無罪の判決が下った。その後、自分をおとしめた相手に対し民事訴訟を起こすとオーストラリアのラジオ番組に出演して息巻いたが、結局、その行動はおこさなかった。
8.ジョゼ=ラモス=オルタ……1月末になってようやく出馬を表明した現職の大統領。今回は有力候補のなかでは比較的地味な存在となっている。選挙運動の勢いから推測すれば、再選は難しいのではないか。しかし決戦投票に参戦できれば再選の可能性はなきにしもあらず。
9.フランシスコ=ゴメス……去年、結成された新党PLPA(Partido Liberta Povo Ai-leba=アイレバ人民解放党、[アイレバ]とは肩に担ぎ売り物をぶらさげる棒の意)の党首。12人の利候補者のなかで一番地味な存在か。
10.ジョゼ=ルイス=グテレス……シャナナ=グズマン連立政権下で副首相を務めている。インドネシア軍占領時代、フレテリンの国連大使を務めた。フレテリン改革派として、2006年「危機」のなかでおこなわれたフレテリン全国大会で現体制に反旗を翻したが失敗。フレテリンと改革派の確執は続いている。
11.アビリオ=ダ=コンセイサン=アブランテス=デ=アラウジョ……かつてはフレテリン海外代表部の代表であったが、1993年、インドネシア主導のいわゆる「和解会談」を進め、フレテリンから解任された。その後、ジャカルタとのビジネスに身を染めた。最近は中国との関係を深め、東チモール政府による中国への二隻の巡視艇の発注はこの人物を介している。
12.ルーカス=ダ=コスタ……民主党の国会議員。デリ大学や平和大学の創設に関わった学者。
13.フェルナンド=ラサマ=デ=アラウジョ……連立与党の一つ民主党の党首で国会議長。2度目の大統領戦。前回は19.18%の得票率でラモス=オルタに肉薄した。この5年間、与党指導者として勢力を拡大しているであろうことを思えば、今回は決選投票に参戦するかもしれない。
改めて有力候補を絞ると……
前号の『東チモールだより』でも述べましたが、以上12名の中で有力視されているのは、タウル=マタン=ルアク、ル=オロ、ラモス=オルタ、ラサマ、の4人です。フレテリンと民主党のどちらの候補が多くの票を得られるかは、6~7月の国会議員選挙に反映される意味で注目すべき点です。フレテリンは、5年前の選挙から推測すると30%の支持率が限度で、この5年間野党生活に甘んじ支持を拡大しているとは思われないので前回の得票率を下回ると予想されます。一方、逆の環境にある民主党のラサマ候補はフレテリンのル=オロ候補に大接近するかもしれません。
いずれにしても過半数の得票はどの候補者にとってかなり難しいことでしょう。もし、一発で勝負を決められる可能性を秘めている人物を敢えてあげろといわれれば、タウル=マタン=ルアク候補でしょう。タウル候補の選挙参謀の一人・ガトーさんにそのへんのところをたずねると、決選投票なしで勝てるようにいま票計算をして全精力を注いでいるところですよと穏やかに笑います。しかしフレテリンと民主党へ入る票数を考えると厳しいような気がします。
歴史的なツーショット(白髪がシャナナ、サングラスがタウル)が帰ってきた。タウル候補のデリ市内での選挙集会にて。タウル候補の支持を表明している与党CNRT(東チモール再建国民会議)党首のシャナナ首相が飛び入り参加して、集会参加者は大いに沸いた。シャナナ首相の参加はこの集会の直前になってタウル陣営に知らされた。「観衆以上にこっちが驚いたよ」とタウル陣営のジョゼ=ベロ君がいう。「民主主義広場」にて、2012年3月10日。 ⒸAoyama Morito
写真の右下がタウル、マイクを持つのがシャナナ。看板の軍服姿のシャナナとタウルのツーショットは1999年10月、大観衆の前で解放軍のシャナナ総司令官とタウル参謀長が並んで独立戦争の勝利を陽の光を浴びながら高らかに謳いあげた瞬間である。歴史上、東チモール人が一番歓喜した瞬間といってよい。民衆とともに歩んだ解放軍の最高峰2人が国連統治下で国づくりの基礎固めを指導すると思われたが、国連を介した国際社会の舌を巻く巧妙な工作によって、この瞬間を境にして指導者たちは散り散りバラバラとなり、民衆の希望は疑心暗鬼となっていった。そして独立後のフレテリン政権下で疑心暗鬼の状況はついに2006年の「危機」で東チモール人同士が殺しあう事態にまで発展してしまったのである。再びこの二人が並んで大衆の声援に応えるまで、1999年からおよそ13年も待たねばならなかったのである。同、 ⒸAoyama Morito
~次号へ続く~
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0802 :120314〕