1991年11月12日~2024年11月12日
1991年11月12日、侵略軍であるインドネシア軍占領下でモタエル教会からサンタクルス墓地まで平和行進した若たちはサンタクルス墓地で占領軍による無差別発砲にみまわれました。これにより死者と行方不明者をあわせると五百名を超える犠牲者がでました。東チモールではこの「サンタクルスの虐殺」が起こった「11月12日」を「国民・若者の日」と定めています。
毎年「11月12日」の追悼行事としてモタエル教会からサンタクルス墓地まで当時と同じ経路たどって行進を再現し、墓地の前で追悼式典をおこないます。
今年2024年「国民・若者の日」の追悼行事の様子を簡単に写真でたどってみましょう(日付は全部2024年11月12日)。
ミサが7時からモタエル教会で行われ、大勢が教会周辺に集った。
8時40分ごろ、ⒸAoyama Morito.
ミサが終わると行進の準備。行進の先頭は旗持ちがつとめる。
ポルトガル国旗もある。写真中央の後姿はポルトガルのマヌエラ=バイロス大使。
8時48分ごろ、 ⒸAoyama Morito.
犠牲者の遺影を抱いた遺族の子どもたちが先頭につづく。
8時55分ごろ、ⒸAoyama Morito.
33年前に生まれていない子どもたちが歴史を引き継ぐ。
8時55分ごろ、ⒸAoyama Morito.
行進が始まる。33年前に思いを馳せて。
9時ごろ、ⒸAoyama Morito.
行進の先頭が政府庁舎前を通る。毎年この日は晴天だ。暑さが厳しい。
9時19分ごろ、ⒸAoyama Morito.
行進の半ば集団が政府庁舎前を通る。写真には雲が写っているが、われわれの頭上に雲がないので暑い。
9時20分ごろ、ⒸAoyama Morito.
行進は、独立宣言(1975年11月28日)をしたフランシスコ=シャビエル=ド=アマラルの銅像がたつ環状交差点を通過する。
9時34分ごろ、ⒸAoyama Morito.
赤いジャケット身に着けた医療班も多くいた。
9時38分ごろ、ⒸAoyama Morito.
軍と警察からも多数参加した。右から三人目(サングラス)が国防軍のファルル=ラテ=ラエク将軍。緑のベレー帽の人物(写真やや中央)は憲兵隊の将校で、かれはわたしが故・デビッド=アレックス司令官の森(拙著『東チモール・山の妖精とゲリラ』[社会評論社、1997年]を参照)で会ったときは17歳の青年であった。
9時38分ごろ、ⒸAoyama Morito.
写真中央は、わたしの最初の下宿先の家族の一員であるエウゼビオ君(拙著『東チモール・未完の肖像』[社会評論社、2010年]に登場)。かれも「サンタクルスの虐殺」の生存者の一人である。
9時43分ごろ、ⒸAoyama Morito.
サンタクルス墓地まであと少しの直線距離を残すだけ。鼓笛隊が待ち受け合流する。
9時50分ごろ、ⒸAoyama Morito.
行進は墓地前に到着。写真奥が特設ステージ。去年と比べ広範囲に臨時の屋根が設置され、より多くの人に日陰を提供する式典会場になっていた。
10時ごろ、ⒸAoyama Morito.
遺影がテーブルに飾られる。左の大きな写真はセバスチャン=ゴメス。33年前、セバスチャン=ゴメスが侵略軍に殺害されたことから、モタエル教会からサンタクルス墓地への平和行進が計画・敢行された。
10時11分ごろ、ⒸAoyama Morito.
国歌斉唱、一分間の黙祷、「11月12日委員会」の挨拶、ジョゼ=ラモス=オルタ大統領の挨拶などが終わると、会場の人びとは墓地内に入ってセバスチャン=ゴメスたち犠牲者の墓に献花する。まずはラモス=オルタ大統領から。
11時30分ごろ、ⒸAoyama Morito.
つづいてルオロ前大統領とその夫人が献花に入る。そのあと外交官や政府高官など、そして一般の人びとが墓地敷地内に入って犠牲者の魂を慰め、追悼式典参加者はまちまちに会場をあとにした。
11時30分ごろ、ⒸAoyama Morito.
「サンタクルスの虐殺」をフィルムに収めたイギリス人ジャーナリスト・マックス=スタール(1954年12月6日~2021年10月28日)の石碑にも献花の山ができた。
11時53分ごろ、ⒸAoyama Morito.
青山森人の東チモールだより 第522号(2024年11月13日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion13960:241113〕