青山森人の東チモールだより…ハイジャック機でオーストラリアに逃れた東チモール人

50年前の9月4日、空路で逃れた者たち

26年前の1999年8月30日は東チモールの帰属問題に決着をつけるための住民投票が国連後援で実施された日であるので、「8月30日」を「住民投票の日」と呼ぶことができます。そして1999年9月4日は、住民投票の結果が発表され、国際社会が文句のつけようがない東チモール独立が決定づけられた日ですので、「9月4日」は「勝利の日」と呼んでもよいのではないでしょうか。

さて26年前からさらに遡って50年前の1975年の8月、フレテリン(東チモール独立革命戦線)とUDT(チモール民主同盟)が内戦に陥り、東チモール人が海外に逃れるという苦難が始まりました。二つの政党が相交える戦火から逃れようとする人びとが、陸路で西チモールへ、海路ではノルウェーの貨物船でオーストラリアのダーウィンへ逃れました(東チモール人だより第542号)。これは日本の新聞でも報じられたことなのでよく知られたことですが、50年前の9月4日、空路で、つまり飛行機で、しかもオーストラリア空軍機をハイジャックしてオーストラリアへ逃げた東チモール人がいたことをわたしはつい最近まで知りませんでした。

このことをわたしが知ったのは『ガイドポスト』(2025年9月第226号)の記事を読んでのことです。この『ガイドポスト』の記事は、東チモール人がハイジャック機でオーストラリアへ避難した事件の発生から50年たったことに因んで、4年前にこのことを伝えた『ガーディアン』紙(The Guardian、2021年1月16日)の記事を再録したものでした。

4年前の『ガーディアン』の記事の筆者は、祖父がハイジャック機でオーストラリアに逃れた44人の東チモール人の一人であるというルーク=エンリケス=ゴメスという人物で、記事には「生きるか死ぬか:オーストラリアが迎え入れたハイジャック避難者たち」と題が付けられています。たいへん興味深い内容ですので、ここで大雑把に要約したいと思います。まず序文です(文中の「私」とは記事の筆者・ルーク=エンリケス=ゴメスのこと)。

= = = = =

簡単な思考実験をしてみよう。もし、ある日、ほとんど知られていない小さな島の内戦のさなかに避難民集団がオーストラリア空軍機に押し入ってオーストラリアに連れていけと要求したらどうなることか? 

そんなことをしたら彼らは遠く離れたどの拘置所に送られるのか? 刑期はどれくらいの長さになるのか? あるいは、死ぬことになるかもしれない故郷に送還されるのか?

よもや、かれらが数日間だけ収監されたあとに「オーストラリアのどの州を新しい故郷と呼びたいですか?」なんていう質問はされないだろう。

1975年9月、私の祖父・アビリオ=エンリケスは、まさにこの質問をオーストラリア・ダーウィンの入国管理局係員から受けた44人の東チモール人の一人なのである。祖父はポルトガル領チモール、つまり東チモールからオーストラリア空軍機の唯一ハイジャックされた飛行機に乗って来たのであった。

(省略)

この特筆すべき旅と、オーストラリアに逃れた彼らが享受したありそうもない救済について、今日までほとんど報道されてこなかった。

 ハイジャック事件があった翌日、3ページをさいた『ガーディアン』紙を含めてこの事件は世界中に報道された。しかし東チモール情勢が悪化するにつれ、このニュースはすぐに姿を消していった。オーストラリアのパイロットたちは秘密を守るように誓約させられた。

 私の祖父の記憶は何年間も私の心のなかで渦巻いていた。興味をそそらせ、心を動かされたのは私の祖父がオーストラリアの滞在を許されたことである。

私の祖父とその仲間たちがハイジャック機でオーストラリアにやってきたあと、生活保護と家を与えられ、仕事を見つけ、家族を養い、市民権を得たという事実は、現代政治を取材する仕事をもつ者にとってほとんど理解できないことである。

 そこで私は、私の祖父たちを安全な場所に乗せてくれたオーストラリア空軍機の乗組員を見つけ出して、感謝の意を伝え、オーストラリア軍と移民の歴史のなかでもとりわけ特異な物語を再現することにした。

= = = = =

なかなか味わいのある文章なので、序文であるにもかかわらず、ついつい、あまり省略しないで訳してしまいました。途中で省略した箇所ですが、筆者の祖父がメルボルンで電車線路の仕事に就いたこと、避難民のなかにオーストラリア駐在の東チモール大使となり、現ブルネイ駐在の東チモール大使を務めているアベル=グテレスが含まれていたことなどが記述されています。

以下、4年前の『ガーディアン』の記事に沿って1975年9月4日に起こったオーストラリア空軍機乗っ取り事件をまとめてみます。

バウカウを拠点としていたUDT

1975年9月初旬までにフレテリンは首都デリでUDTを制圧しました。UDTはバウカウを拠点としている勢力でした。当時オーストラリアのホイットラム政権(労働党)はポルトガル領チモールの紛争に巻き込まれることを警戒していましたが、国際赤十字の事務所設立のために空軍機の使用を承認していました。その空軍機のなかにCaribou A4-140機(以下、カリブー機)と呼ばれる飛行機があり、その乗組員は、27歳のパイロットであるゴードン=ブラウン、24歳の飛行士官キールマン=フレンチ、貨物担当のビル=クラウチの3名でした。カリブー機は赤十字の記章を付け、3人の乗組員は武器を携帯しないように指示され、9月4日、任務のため東チモールのバウカウに飛びました。かれらの任務とは、3人の修道女をダーウィンに連れてくることでした。また乗組員3人の他に、空軍隊長で諜報員でもあるハーディング氏と、赤十字活動のスイス人責任者であるパスキエ氏の2名も同行しました。当時のバウカウは、「フレテリンの軍が西から接近してくるという恐怖に包まれていた」のでした。

すでにオーストラリアに逃れた難民は、チモール島の他の地域で起こった虐殺について話していました。遺体が首都デリの通りに散らばっていたと主張する人もいました。赤十字は最終的に2000~3000人がこの内戦で死亡したと推計しています。

UDTの軍隊は、基本的には村々から集められ訓練されていない住民で構成されているのですが、このときすでに疲弊し、バウカウ空港に陣取り、フレテリンが迫撃砲で町を攻撃してくるものと予想していました。

UDTの支持者でバウカウ空港の気象局で働いていた、筆者(ルーク=エンリケス=ゴメス)の祖父・アビリオ=エンリケスは、9月4日午後にオーストラリアの空軍機がやって来ることを知っていました。エンリケスはランドローバーをだし、バウカウの病院の看護師であり著名なUDTメンバーであるドゥアルテ=フレイタス氏を含む友人たちのところへ行き、「生きたいなら一緒に来い」といいました。当時「私はすべてを捨てました」と、その後オーストラリアのビクトリア州で医療に何十年も従事したフレイタス氏はいいます。

カリブー機は午後2時までにバウカウに飛び、そこで急いで修道女たちを乗せてダーウィンに帰還する予定でした。

同機がバウカウ空港に着陸すると、その乗組員は管制塔から白旗がはためいていることに気づきました。一群の兵士と民間人が滑走路に集まっているのを見て、乗組員のブラウン氏は「呆然としました」。

……ここまでがオーストラリア空軍機がバウカウの空港に着陸するまでの大筋の話です。若干の解説をさせてもらいます。バウカウへ西から接近してくるフレテリンの軍とは、もちろん8月20日に創設されたばかりのFALINTIL(ファリンテル、東チモール民族解放軍)のことです。

フレテリンによって制圧されたUDTとその支持者にとってフレテリンは恐怖の対象であったようです。いや、一般のバウカウ住民にとってもそうだったのかもしれません。わたしが最初の下宿先として滞在した家のパルミラ母さんの家族によれば(拙著『東チモール、未完の肖像』[社会評論社、2010年]でパルミラ母さんが登場)パルミラ母さんも50年前はバウカウの住民でした。何とか逃げなければという思いにかられバウカウの空港に他の住民とともに押し寄せたのだそうです。飛行機は飛んでいたが、乗組員に「戻って来るから、そのときに…」といわれ乗せてもらえなかったのだそうです。

50年前のポルトガル領チモールにおいて最大の勢力を有するフレテリンでしたが、ポルトガル領チモール全般にわたって人心を掌握するには程遠い存在であったということは指摘しておかなければならないことです。

さて次に、オーストラリア空軍のカリブー機がバウカウ空港で乗っ取られる経緯を記事に沿ってまとめてみましょう。

必死のUDT

不本意ながらハイジャックされたオーストラリア空軍機

カリブー機がバウカウ空港に着陸すると同機の乗組員らは、別のオーストラリア人が数時間前にバウカウにチャーター機で来ていたことを知り驚きました。ダービー氏、ホワイトホール氏、バンクロフト氏の民間人3人でした。首都デリに設立されたオーストラリアの援助団体でホワイトホール氏とその医師団は負傷した東チモール人を治療する活動をしていました。ダービー氏はシドニー出身の元自由党候補者でした。この人たちがバウカウに来たのは「心臓に穴が開いた少女」を探して、ダーウィンに連れて帰るためでした。なおこの少女は見つからなかったが、数週間後にオーストラリアに避難したと報じられました。

カリブー機より数時間前にバウカウに来たオーストラリア人は、武装したUDT兵士たちに迎えられ、投降したいと申し出されました。ダービー氏は、空港職員の助けを借りでオーストラリア当局にバウカウの人たちを避難させるために飛行機を送るように要請しましたが、丁寧な返答を得ても、約束はありませんでした。ダービー氏は、「修道女とUDT指導者らを連れ出せば、内戦が終わる。それは誰によっても良いことと思った」といいます。しかし赤十字の任務でバウカウに着陸したカリブー機の乗組員にとってダービー氏の行動は喜ばしいことではありません。赤十字は非政治的立場を厳格に保っているからです。

しかし不安にかられた東チモールの人びとがカリブー機に集まってきます。銃をオーストラリア人に振り回す者もいれば、アビリオ=エンリケス(記事の筆者の祖父)は、自分たちが避難できなければ、パイロットらを殺し、自分たちも死ぬ、とパイロットを脅したのを憶えています。

そしてここに一人、オーストラリア人が最も警戒した人物がいました。大きな体格で大きくふさふさした口髭をはやした「警官ギル」と呼ばれるポルトガル植民地支配下での警官でした。ギルは手榴弾をポケットから取り出したり、銃の引き金に指をかけたり、ポルトガル語で罵詈雑言をいい、叫んだり、荒っぽい身振りでオーストラリア人を脅しました。「彼は口から泡を吹いていた」、「彼らは脱出したがっていた。われわれが行くところに行きたがっていた」とカリブー機の乗組員の一人・フレンチ氏は(記事の筆者に)いいます。言葉の壁はあったものの、オーストラリア人には理解されたのです。

アビリオ=エンリケスは「銃を向けつづけろ。しかし撃つなよ」とギルに忠告しましたが、その忠告は聞かれたかどうかは別問題でした。ギルは飛行機の後方側の入り口にぼんと腰をおろしました。「彼は完全に切れていた」とフレンチ氏は振り返ります。避難民を乗せないと飛行機は離陸できそうもありません。

カリブー機の乗組員の一人ブラウン氏は30分ごとにオーストラリアに連絡し、避難民を乗せてもよいか指示を待ちましたが、返答はありませんでした。しかし、避難民を受け入れるなという指示が返ってこなければ、避難民を受け入れたとしても命令に叛いたことにはならない、「それでいこう」とブラウン氏は考えました。

時間が経過するにつれ、バウカウ空港に照明がないという問題も迫ってきました。約2時間が経過してギルもオーストラリア人も忍耐がなくなりました。ギルはパイロットたちに搭乗するように促し、東チモール人たちにもそう促しました。「われわれは不本意ながらハイジャックされたのです」。「しかしわれわれは彼らに同情しました」とブラウン氏は語ります。

オーストラリア空軍のカリブー機に乗った44人の東チモール人の内訳は、男性19人、女性11人、子どもが14人でした。武装していた者たちは搭乗するまえに滑走路に武器を置きました。

……以上、記事に沿ってオーストラリア空軍機がハイジャックされるまでの経緯をざっとまとめてみました。

寛大だったオーストラリア

この記事はさらに続き、32人乗りのカリブー機が積載超過で飛んだこと、初めて飛行機に乗った東チモール人の様子、燃料はあと10分でなくなる分しか残っていなかった状態で同機がダーウィンの空港に着陸する様子、拘留施設では難民たちは緩やかな拘禁状態であったこと、難民には必要物資が配給され、女性が化粧品会社・エイボンの当時の流行であった桃色の口紅をもらったこと、ホイットラム政権の対応等々が描かれ、そしてカリブー機の乗組員と同機で逃れた東チモール人の数人のその後がごく簡単に書かれています。

驚くべきは、オーストラリアの寛大な措置です。カリブー機がダーウィンに着陸した翌日には一人を除く東チモール避難民にビザを発給することが決まり、最終的には全員にビザが発給されたというのですから。この「一人」とは、「完全に切れていた」ギルのことでしょう。「ギルはハイジャック関与で起訴されましたが、すぐに取り下げられ、2003年に亡くなるまでダーウィンで暮らしました」(同記事より)。

心の癒しのために歴史を見よう

4年前の『ガーディアン』の記事を読んでわたしは次のような感想を持ちました。

50年前の1975年8月~9月、ノルウェーの貨物船に乗った約2000人の東チモール人と、オーストラリア空軍機に無理やり乗って内戦の難から逃げることができた44人の東チモール人はその後、インドネシア軍による東チモールの侵略・占領という事態を心の重荷として背負いながらオーストラリアで生活したに違いありません。アメリカから武器支援を受け、日本などからの経済支援を受けるインドネシアによる軍事占領は、できたてホヤホヤで政治経験が浅い政党間による武力抗争がとるに足りない出来事と思わせるほどの民族殲滅的な大惨劇を引き起こしました。一方、このことがポルトガル領チモールの住民が東チモール人という国民意識を形成していくことにつながり、国民国家の独立へと事態が進展したことはわたしたちが目撃していることです。

東チモール人指導者たちは歴史について活発に意見を闘わせることに消極的であるようにわたしにはみえます。例えば1975年当時の内戦について論じることは、もしかしてフレテリンやUDTの当事者は好まないかもしれませんが、だからといって歴史に蓋をすれば、それは東チモール人の目をふさぐことになり前進の妨げになります。過去を忘れて前に進もう、なんてことは無理な相談です。避難民の苦悩が始まってから50年という節目をいま迎えている東チモールは、これを契機にして自由闊達な歴史論争をしながら、インドネシア軍による侵略開始日「12月7日」から50年目の日を迎えてほしいとわたしはおもいます。東チモール人の心の癒しはあまりにも不完全です。心を癒して、前に進むため、避難民の苦難の始まりを含めて、東チモール人が歴史をじっくりと見つめ、検証して、議論をしてほしいと切に願います。

青山森人の東チモールだより  easttimordayori.seesaa.net

第543号(2025年9月8日)より

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
〔opinion14421250909〕