お里が知れている新制度
10月26日、田中明彦JICA(国際協力機構)理事長が東チモールを訪問し、シャナナ=グズマン首相ら政府要人と面会し、両国は協力関係を確認しました。田中理事長は、技能実習制度と特定技能制度の見直しを検討する政府の有識者会議の座長でもあります。その有識者会議が技能実習制度の廃止を決めて、新しい制度を検討している間、9月17日、東チモールから7名(女性4名、男性3名)の技能実習生が日本に旅発ちました(前号の東チモールだより)。そしてこの10月、田中理事長の東チモール訪問です。
東チモール訪問はJICA理事長としてであり政府の有識者会議座長としてではないとしても、これら二つの出来事を眺めれば、JICAも有識者会議も政府の機関であるからして、日本政府は技能実習制度の根本的な問題と日本が抱える構造的な経済問題に真剣に向き合おうとしているのか?極めてうかがわしいといえます。そして技能実習制度に代わる新しい制度についても、すでにお里が知れたも同然です。
戦争を東チモールで考えると……
2022年2月、ロシアがウクライナに侵攻して戦争が始まった時、東チモールでもかなりの巷の話題になりました。それ以上に、この10月7日、ガザからのハマスによるイスラエルへの攻撃にたいするイスラエル軍による過剰な報復攻撃は東チモールでも非常に関心の高い話題となっています。
東チモールは、1975年12月~1999年9月、残虐な侵略軍を相手に戦争を強いられました。現在起こっている上記二つの戦争にたいする東チモール人の意見・批判は、〝経験者は語る〟、かれら自身の生々しい実体験に基づくだけに机上の論理を越えた重みをわたしは感じます。
東チモールは外国による侵略・占領にたいして抵抗した側です。しかしながら、ロシアから侵略をうけたウクライナを、そしてイスラエルから過剰な報復攻撃を受けるパレスチナを、ただ応援するかというと必ずしもそうではないのです。かつて侵略をうけた東チモール人は、侵略をうけた側がとる軍事行動にたいして戦略・戦術上の技術問題として批評をするのです。
ウクライナ戦争にかんしては、欧米諸国がウクライナのゼレンスキー大統領による武器支援の求めに応じる姿勢を東チモール人(わたしの周りにいる人)は評価しません。二つの理由があります。インドネシア軍に不法な軍事占領下にあって弾圧される東チモールを国際社会はさんざん黙認した一方、1990年イラクがクウェートを侵攻したことを発端にした湾岸戦争で、油まみれになる鳥の写真が国際世論の大きな関心を呼びました(情報操作があったにせよ)。このとき東チモール人は「自分たちは鳥以下なのか」と国際社会の偽善性を骨身に染みて感じたのです。したがって今回ウクライナに武器支援する欧米社会にたいても偽善性という臭いをかいでいるのです。もう一つ理由は、武器をウクライナに大量供給してもロシアとの戦争に決着がつかず双方に犠牲者が増える一方であるからです。解決はあくまでも政治的な話し合いで成されるものであることを東チモール人は理屈ではなく肌感覚で知っているのです。
パレスチナ問題にかんしても、東チモールはパレスチナへの連帯を表明している国ですが(一方で農業研修生として50人の東チモール人がイスラエルに滞在している)、ハマスによる突然のイスラエル攻撃については、日常的に抑圧されている側からの攻撃には同情するとしても、イスラエル軍による報復攻撃は目に見えているだけに犠牲者と憎悪を増幅させる行動として問題解決にならないとわたしの友人は賛成しないのです。
もちろんイスラエル軍によるガザへの空爆は東チモール人にとって容認されるわけはなく、軍事力でパレスチナ人を圧倒しても、泣き叫ぶパレスチナの子どもたちがイスラエル軍への憎しみを心に抱いて大人になったら将来どうなるか……とインドネシア軍に家族を殺され抵抗運動に身を捧げた東チモール人はいいます。多くの東チモール人はガザの理不尽な状況を自分の体験とだぶらせて見ているはずです。
かつて東チモールも……
とにもかくにも、二つの戦争についてわたしの周りにいる東チモール人は戦闘の中止を望んでいます。世界中、戦争に心を痛めている人ならば、人道的休戦でも即時停戦でもなんでもいいから戦闘の中止を求めていることでしょう。
かつての東チモールは、圧倒的な軍事力を有するインンドネシア軍を相手にし、しかも国際社会からはまったく関心を寄せられないという悲惨な状況にありました。この状況を打破するため、世界の注目を集めるためならテロに訴えることも辞さず、という組織のような動きが東チモール抵抗組織のなかにはなかったのでしょうか。わたしはこのことを東チモール人指導者に質問したことがあります。1990年代初頭のことです。その指導者は、「そういう動きはあった」、と答えました。
東チモールは「爆弾テロ」と国際社会に称される攻撃に訴える手段をよく採りませんでしたね、とわたしがその指導者にいうと、そういう手段に訴えている組織から「一度やったら引き返すことができないから、やるな」とわれわれは忠告をうけたのだ、とその指導者はいいました。その組織とは何か?はわかりませんが、引き返すことができない道に足を踏み入れてしまった組織が他の組織にその道を歩むなと忠告したというのは非常に興味深いことです。
また1990年代半ば、インドネシア軍の占領下にあった東チモールにおいてもインドネシアの選挙が実施されているときを狙って、インドネシア軍にたいして手製の爆弾で攻撃をしかけるという計画がありました。東チモールとはいえ都市部で爆弾攻撃をすると一般市民を犠牲にする可能性があるだけに、この計画にかんして東チモール抵抗組織内部で意見がたたかわされました。詳しい経緯をわたしは知るよしもありませんが、一般市民を犠牲にするような爆弾を使った攻撃はありませんでした。
大義を守るため、あまりにも大きい犠牲
ともかく東チモールの抵抗運動は、古典的植民地主義であるポルトガル植民地支配からの独立をインドネシア軍(欧米の軍事支援と日本の経済支援が背後にある)に妨害されても民族解放運動として歴史的な大義を守り抜きました。そのための犠牲はあまりにも多大でした。
占領側としてインドネシア軍は、東チモールの抵抗組織とくにその軍事部門であるFALINTIL(東チモール民族解放軍)を「テロ集団」と認識したかもしれませんが、その認識は国際社会に共有されませんでした。しかし侵略軍は1999年9月、8月に実施された住民投票の結果として東チモールの独立が決まったのにもかかわらず大規模な破壊活動を開始し、東チモール抵抗組織をテロ集団と仕立て上げるための最後の挑発をしたのです。このときもし解放軍が住民を守るために正当防衛の行動をとったら、それは見方によれば、情報操作や報道のされ方によって、テロ組織による行動とみなされる余地が生まれたかもしれなかったのです。したがって東チモール民族解放運動の歴史的大義を守り抜くために、侵略軍の破壊活動にたいして住民を守る行動をとれなかったのです。これは東チモール解放軍の最大の試練でした。1999年9月、侵略軍による破壊活動による東チモール人の犠牲者は2000~3000人といわれていますが、あきらかに相当に控えめな数字です。
ともかく1999年9月、東チモールはインドネシア軍の大規模破壊活動に反撃することなく、国際軍の支援を受けることになりました。東チモールは、それまでインドネシアの侵略を黙認・支援してきた国際社会を一転して東チモール支援国に変えたわけです。人口の三分の一が犠牲になるという想像を絶する苦渋に耐えて東チモールは現在の自由と平和を手にしたのです。
東チモール人の自由と平和を獲得した体験が、先述した二つの戦争を止めさせるために活かされれば、犠牲になった東チモール人の魂も少しは浮かばれるのではないでしょうか。侵略側への非難は簡単ですが、侵略に抵抗する側の戦略・戦術に冷静な分析批判をすることができる東チモールは、二つの戦争、とくにパレスチナ・イスラエル戦争を止めさせるための調停役として一肌脱げるのと思います。平和がほしかったら世界は東チモールに聴くのが得策です。
青山森人の東チモールだより 第500号(2023年10月28日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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