小屋の撤去、住民の立ち退き
インドンネシア軍占領下にあった時代の東チモールでは侵略軍の監視の目が光っていてわたしのような外国人は外をのんびり歩いて町並みをゆっくり眺めることはできませんでした。東チモールから侵略軍が撤退したのは1999年10月、そのころから自由になった東チモールの町をわたしのような外国人でも大手を振って普通に歩くことができるようになりました。
したがってインドンネシア軍占領下時代、首都デリ(Dili, ディリ)の町並みを脳裏に焼きつけるほどわたしは観察できませんでした。しかしながら〝戦後の混乱期〟がはじまったといえる1999年前後の町並みの違いはわかります。その違いは何かというと、人の往来が多い道路沿いに仮設粗造された小屋がひしめく風景が〝戦後の混乱期〟から出現したことです。
自由を獲得した東チモールの庶民は、まるで日陰から日向へ出てくるように人通りの多い道路の脇に小屋を建てそこで物を売って生活しはじめました。インドンネシア軍占領時代からすでに存在した旧来の市場では空間が狭く、そこで商売したい人たち全員をうけいれることはできません。市場で商売できない人びとが路上に繰り出すことになったのです。
道路脇に小屋を建ててそこで商売するという経済活動は自由になったからこそであり、インドンネシア軍占領時代では基本的には許されませんでした。庶民が〝戦後のどさくさ〟に紛れて本来ならば〝不法な〟場所に仮設小屋を建てて物を売って生活費を稼ぎ生活をするというのはある程度仕方ないことであり、むしろ庶民のたくましさを感じさせました。
さて東チモールは今年の「5月20日」で独立(独立回復)して22年になります。「22年」という数字からしてもはや時代は〝戦後の混乱期〟〝戦後のどさくさ〟という時期ではなくなったといってよいでしょう。都市計画や土地にかんする法律もまだ暗中模索の段階かもしれませんが、しだいに整備はされています。国の土地に不法滞在する人びとをいつまでもそのまま放置することは政府としてはできません。
道路脇や川縁など国の所有する土地や建物に不法占拠して暮らしてきた人びとをいかにして立ち退いてもらうかは歴代の東チモール政府にとって頭痛の種になってきたに違いありません。政府から勧告をうけても裁判所から命令が出ても庶民の腰が重くなかなか立ち退いてくれません。警察が小屋や建物に入り荷物を外に運び出すという力ずくの手段が用いられたことがしばしばありましたが、あくまでも「しばしば」のことでした。歴代の政府は話し合いを重視し庶民が自主的に立ち退いてくれるのを根気よく待っていたようにわたしには思われます。
ところが現シャナナ政権は去年の9月から今年の3月にかけて通告を出してきたとして、今年の4月から大鉈(おおなた)を振るいはじめたのです。まずは4月8日、旧コモロ市場にひしめく粗造の小屋92体を重機で解体しました。そして4月16日、ハビビ橋からクルフンにかけての95軒の小屋・屋台小屋を解体,つづいて17日アイタラクラランという地区で23軒の小屋を、さらに19日ビダウ=サンタ=アナという地区で40軒をそれぞれ解体しました。店小屋・屋台小屋、あるいはどうみても普通の家としか見えない小屋が重機で解体されるというTVニュースから流れる光景は、まさに立ち退き強制大執行という大鉈が振るわれているという印象を与えます。
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ハビビ橋のすぐ近く。2023年5月20日、ⒸAoyama Morito.
看板下に見える店小屋が……。
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ハビビ橋のすぐ近くの看板下に見える店小屋がなくなった。
2024年5月10日、ⒸAoyama Morito.
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大統領が懸念を表明
上記一連の大執行の光景をみてさすがのジョゼ=ラモス=オルタ大統領も心を痛めたのか、不法に土地を占拠して物売りをすることは良くないが政府は対話をして立ち退き条件を提示すべきだといい、政府に注文を付けました(『タトリ』、2024年4月18日)。
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クルフン地区の十字路。
2023年12月27日、ⒸAoyama Morito.
看板横にある店小屋が……。
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ミニバスの陰になってちょっと見えにくいが、
クルフン地区の十字路の看板横にある店小屋がなくなった。
2024年月10日、ⒸAoyama Morito.
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教会も懸念を表明
カトリック教会からも大鉈にたいして批判の声が出ました。ガブリエル神父という神父は、住民を強制的に立ち退かせる政府のやり方は法的手続きからはずれているといいます。さらにこの神父は、政府による立ち退きの通知に今年9月8~11日に東チモールを訪問することになったローマ教皇の名前を使っていることにたいし、住民にたいする「とんでもないごまかしだ」と非難をします。東チモール カトリック教会のベルジリオ枢機卿は、住民が立ち退きの通知をうけているのは政府の発展計画のためであり、ローマ教皇の訪問をうけてのことではないと述べ、住民立ち退きとローマ教皇訪問は無関係であることを強調しています(『タトリ』、2024年4月19日)。
ローマ教皇がやってくるというのなら立ち退きに協力しなければならない……なんていう意識が住民に自発的に芽生えることを政府は期待したのかもしれません。昔、皇族が青森に来るというので青森駅周辺の美化整備のため道路沿いに連ねていたリンゴ売り場や飲み屋が一掃されたことをわたしは思い出しました。
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ハビビ橋からクルフン地区にかけての道路沿いは
川縁でもあり、川が氾濫したら危険な場所でもある。
かつてここには店々が連立していた。
2024年5月10日、ⒸAoyama Morito.
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同じく、ハビビ橋からクルフン地区にかけての道路沿い。
ここに長年にわたり市場が形成され、
大勢の買い物客で賑わっていた。
2024年5月10日、ⒸAoyama Morito.
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やはり、ハビビ橋からクルフン地区にかけての道路沿い。
いまや瓦礫となった黄緑色の壁の食堂は繁盛していた。
この前を通るといい匂いがしたものだ。
写真中央やや右奥の橋を渡るとすぐ国立病院がある。
2024年5月10日、ⒸAoyama Morito.
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タウル前首相、シャナナを痛烈に皮肉る
タウル=マタン=ルアク前首相は、「わたしは、現政府の行政機関から立ち退きをいわれている住民に連帯の意思を示したい。わたしは立ち退き現場をTVニュースのスタッフと一緒に立ち会った。立ち退きをする住民は悲しく思っているが立ち退きに反対している人はいないことを嬉しく思う。子どもたちやお年寄りたちも政府に協力しようとしている。しかしこの人たちは生活に与える影響を最小限にするための援助を政府に求めている」と述べました(『タトリ』、2024年4月22日)。
その一方でタウル前首相は、ベコラのベクシ村落に住んでいた七世帯の住民に土地からの立ち退きを命じる裁判所の判決が出たことにシャナナ=グズマン首相はその判決は間違っているとして反発し、去年の11月、退去のために外に出された住民の家財道具を自ら担いで元に戻すという司法判断に抗議する行動をした(東チモールだより 第506号)ことなど、住民の立ち退きに抗議したシャナナの事例をもちだし、わたしはそのことを憶えている、とシャナナ首相を痛烈に皮肉りました。
ベクシ村の七世帯の住民の立ち退きに身体を張って抗議したシャナナ首相は、いま桁違いの多数の世帯を強制的に立ち退かせ小屋・家を重機で解体しているのです。シャナナのこの二つの行動の極端な違いは一体何なのでしょうか。ベクシ村落の件は、裁判所の判断が間違っているというイメージを世論に訴えて、「司法の改革」の雰囲気を醸成しようとする狙いがシャナナにあったとわたしは考えています。
ちなみにタウル首相が政府を率いたとき、芸術集団が滞在する建物を旧ベテラーノ(解放闘争の旧戦士)の組織に使ってもらうために、当局はこの芸術集団の芸術作品を外に放り出し、政府が激しい非難を浴びたこともありました。
不法に家や小屋を建てて商売しそこで暮らしている住民のなかには、雨季の大雨で氾濫する川に吞まれるという危険にさらされている人たちもいます。住民の命を守るためにも立ち退いてもらう必要があることも確かです。危険な川沿いに住みつづける人たちはTVニュースで「お金も行く所もない」と訴えます。国は住民にたいし立ち退いてもらうための支援を住民に提示しながら説得していくことが何よりも必要です。法律違反なのだから立ち退きなさいという問答無用の荒っぽい手法は、かつて人びとの自由と尊厳のために闘ったシャナナ=グズマンやタウル=マタン=ルアクにはふさわしくはありません。
青山森人の東チモールだより 第514号(2024年5月12日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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