革命前夜2014~生涯プランとしての共産主義論は如何にして可能か?

3-0序説

 

現在、社会機構的に科学がもちろん、万能であるわけでもなく共産主義社会として完成された機構の中を生きているわけではない。

不完全な社会矛盾の中、不合理を生きているのだからまずは共産主義社会の完成した図を語るよりも革命過程を粗描しなくてはならない。

 

戦国時代に生まれ育とうとも中東戦火に生まれようとも人が生まれそして死んでいったそれぞれの「自己完結性」は古代史に生まれようとも中世史に生まれようとも、そして、現代20世紀、21世紀に生まれようとも変わりはしないはずです。

 

カントのように「これでよい」と言って死んでいけるのか、ゲーテの様に「もっと光を!」と言って死んでいくのか、

無念の死を遂げるのか無残な死を遂げるのか?

その根本を決めるものは何なのでしょうか?

みなさんの座右の銘なるものは何なのでしょうか?

 

まず、汝自身を知れと言います。

 

自己への問いを理解していないならそれは「近代知」の地平に到達していないと言わざるをえません。

 

「より良く生きたい」「人の為に役に立つ生き方をしたい」その様に考えて、キューバでは医者となったり、看護師となったり、なりたいとする人が多いのではないでしょうか?

良い目的を支援する社会は理想とされる社会でしょう。

日本においてもNPOやボランティアに従事する人、したいとする人、看護師、介護士福祉の仕事がしたいとする人が多いのではないかと思います。

しかし安月給であり生活が成り立たなかったり、高額な教育費に阻まれ歪んだ状況となっているのが現状でしょう。

それを是正していかなくてはなりませんが、方法論がいつも問われています。

いずれ具体的な方法論も語っていきたいと思っていますが、それ以前の前提をまず補足していなくてはならないでしょう。

 

生き方に幅があって良いのです。

自由主義、自由な選択肢の中で短い人生をどの様に方向づけようが、「お金持ちになりたい」「人より贅沢したい」「資本主義社会の社長になりたい」でもそれは自由と言うものでしょう。

しかし、前者に比べて、後者の欲望の声、エゴイズムの声は大きな声では言えないものがあるのも確かですし、僕自身としても、「人の為に役立つ生き方をしたい」と言う内なる良心の声を持っている人々にしか対話の可能性を感じないですし、それが万人に対して実現可能な社会=「疎外=格差」のない社会=真に喜んで万人が働ける、働き甲斐のある社会にするためにはどうしたら良いのか?

 

単純には、この問いを仕上げる社会こそが、「共産主義社会」であり、

『なぜ私たちは、喜んで資本主義の奴隷になるのか』的社会のアンチテーゼとしての社会実現の共闘する基盤としての対話基盤であり、その理解こそを、「近代知の地平」と呼んでいるものであった事をもう一度、確認しながら論を先に進めなくてはならないでしょう。

 

 

ではもう一度訊ねるとして、まずは、ちきゅう座読者のみなさんのそれぞれの「生涯の座右の銘」となっているものは何なのでしょうか?

それは、自身の生涯の長さの中におさまるものなのでしょうか?

 

それとも客観的に昭和の中の社会主義運動は挫折の歴史でありファシズムと帝国主義の歴史であり、ソビエト瓦解の歴史であったように、諦められているものとなっているのでしょうか?

否、維持持続するだけのものとなっているのでしょうか?

 

死んでも死にきれないものを抱えているとしたなら、今こそ「共産主義の亡霊」となり、また、既に、無念の死を遂げていった亡霊の意思を継ぐ者としての「近代知の地平」=「社会協働の地平」を築いていかなくてはならないはずです。

 

何故、今回の題字が、「生涯プランとしての共産主義論は如何にして可能か?」とされているのかと言うと「個人」としての「共産主義者生成論」を視野に入れるために他なりません。

 

大前提となる共通項を幾度も確かめながらしか今は先に進めないでしょう。

 

今回は、第3章の序説だけで考える時間を置きたいと思います。

以下、今後の目次のみ掲載して終わります。(補足説明は次回にします)

 

3-1遅すぎた革命と生涯プランとしての個々の実践課題の明記~もしくは現象過程

 

本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(60)

https://chikyuza.net/archives/46323

「失われた20年という期間が、どのような意味を持っていたのか?」=「遅すぎた革命」の転換、問題設定が書き出されています。

これを引き続いて考えていきます。

 

3-2マルクス政治学は如何にして可能か?

 

そもそも「近代」「民主主義」「政治学」とは何か?

 

「マルクスは良き経済学者、ないしは良き哲学者であったかもしれないが(実際そうであった)、政治家としてはお粗末であったという言をしばしば耳にする。」(『21世紀のマルクス主義の模索』ダニエル・ベンサイト著・湯川順夫訳つげ書房新社P11)

 

マルクス経済学とはよく聞きますが、マルクス政治学として体系的に語られているものをあまり聴いていません。

民主主義未満問題から更に、現代議会主義の欺瞞にまで言及していかねばなりませんね。

 

付録:時事雑感

 

昨今、ニュースを席巻、騒がれている佐世保市の女子高生殺人事件ですが、現代資本主義社会的病理、『罪と罰』の様な殺人事件でもなく、上記語られる後者的体現をそのまま地でいったような「人間不信」事件でしょう。

 

現在までの報道をそのまま信じて語るなら「恨みによる犯行ではなく、医学的解剖への興味」「父は尊敬している」

「優等生であり成績は良い故に不登校的である」

それは、かつてのオウム事件にもつながる「人間不信」事件。

オウム事件の実行者も高学歴であり、それ故に、閉鎖された観念論の中で組み立てられていると言えるのではないでしょうか?

 

『悪の教典』と言う京大出身の作家の作品の論理が、ある意味、可能性として乗り越え不可能な社会である事、『悪の教典』そのままの事件とも言えるわけです。

 

オウム事件を起こした者も「解剖学」そのものも医学の発展に意味があるとしたなら「より良く生きたい」「人の為に役に立つ生き方をしたい」が彼らにとっても動機だったのかもしれません。

しかし、それが、やはり、観念的であり閉鎖的思考であり、唯物論的でも科学的でも実証的でも社会的でもないものである事の説明を具体的に考えていかねばならないのですが、「思い込み」を乗り越えた「客観性」に支えられた「唯物性の地平」とは本来、何によって可能であるのか?

しばし、逆転的に、科学的社会主義も「宗教」的とか「教義」的と称されるものを自ら批判的に、再唯物論的地平を確保する協働対話を是非、今日の教育の退廃現場や前近代的状況(近代知未満)に対しても協働対話がつながっていって「資本主義的人間不信」社会を乗り越える提案が活発に広がっていく事を期待しています。

 

NHK「ニュース7」は政府に不都合な話題を「さらり」とかわすのか? ~最近の番組ウオッチ経験の一コマ~

https://chikyuza.net/archives/46267

①「『知る権利の保障を』国連の委員会が日本に勧告」(7月25日 4時14分)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140725/k10013275761000.html

日本はまだまだ差別的で未開社会的ですね。

三里塚―新たな農地収奪  文書提出命令(高裁)はテコの支点となるか

https://chikyuza.net/archives/46354

 

成田闘争とは一般的にどの様な意味を持つのか?その哲学面を広報しなくてはならないように感じています。

うまく伝えきれていない運動側の未熟さもあるのですが、それを取り扱おうとした漫画作品もあるようです。

更に、良質な作品を拡大して広報していく必要を感じています。

 

ぼくの村の話

http://www.comicpark.net/cm/comc/detail-bnew.asp?content_id=COMC_AKC00135

 

日本人は何をめざしてきたのか <知の巨人たち> 第1回 「原子力 科学者は発言する ~湯川秀樹と武谷三男~」

https://chikyuza.net/archives/46315

 

第2回 鶴見俊輔と「思想の科学」

第3回 丸山眞男

第4回 司馬遼太郎

「何故あの馬鹿げた戦争をしたのか」=『天皇と東大』

 

かなり面白いシリーズでした。こまごまと語りたいものもありながらあまり悠長に浪漫的になっている時間もなく忙しく通り過ぎなくてはならないのが残念なのですが、昭和史問題は、いずれ、時間があるときに着手していきたい課題でもあります。

 

 

僕のブログにて画像貼り付け版作成しています。どうぞ。

http://revolutio.exblog.jp/20966713/