韓国通信NO760
鳥よ 鳥よ 青鳥よ
緑豆の畠に下り立つな
緑豆の花がホロホロ散れば
青餔売り婆さん泣いて行く (金素雲訳)
緑豆(ノクト)は日清戦争前年1894年に起きた甲午農民戦争(東学農民戦争)の指導者全琫準(チョン・ボンジュン)のこと。彼は小柄だったので緑豆将軍といわれた。鳥はそれをついばむ日本侵略軍の譬え。「鳥よ、鳥よ」で始まる郷愁と悲しみに溢れたメロディと詩、全琫準の容姿に心を奪われた。
酷税に耐えかねた全羅道の農民たちの反乱が日本軍の介入によって全面対決に発展、日清戦争の前哨戦となった。
農民軍のスケールの大きさと意識の高さは目を見張るほどで、日韓の近代史理解には欠かせない。近代装備の日本軍の前に壊滅した悲劇は現在でも民衆のなかに広く語り継がれている。田中正造が称賛した東学農民戦争は日本と朝鮮に共通する権力者に対する民衆抗争とも位置づけられる。
<写真/逮捕後護送中の全琫準>
東学の創始者崔済愚(チェ・ジェウ)が処刑された大邱から始まる旅は、東学が占拠した全州を中心に東学農民戦争の発祥地井邑(チョンフッブ)から木浦に至る旅である。「韓国通信」は「 全琫準を追いかけて」9回シリーズでレポートした。
全羅道各地の東学農民が参加した戦争は朝鮮政府軍を窮地に陥れたが、軍備に優る日本軍に圧倒され、農民側の犠牲者は3万人から5万人ともいわれる。一方の日本軍の犠牲者は1人という皆殺しという信じがたい虐殺が繰り広げられた。
旅は、後日、さらに内蔵山から晋州、智異山を経由して、尹伊桑、朴景利ゆかりの統営、釜山からソウルへ続く旅行へ続いた。
帰路、仁川空港に向かうバスの車中。徴用工問題の韓国大法院による確定判決が報じられていた。(韓国通信「続・続からくにの記」より) 日本の侵略が終わっていないことを実感。
参考図書として中塚明、井上勝生、朴孟洙共著『東学農民戦争と日本』(高文研、2013年)と高橋邦輔『全羅の野火「東学農民戦争」探訪』(社会評論社2018)を挙げておく。
<挿入画/全州城農民軍入場記念碑/散歩する市民が案内してくれた>
鬱陵島(ウルルンド)から竹島(獨島=ドクト)へ
2006年6月、かれこれ20年近く前。鬱陵島からフェリーに乗ってドクト(獨島)、日本名竹島を旅した。
日本の援助で作られた浦項製鉄所(現POSCO)のある浦項(ポハン)行きの高速バスターターミナルに韓国の親友李庭訓君とスティーブンの二人が見送りに来てくれた。23時の出発まで、ビールを飲みながら「日米韓国際会議」。李君は韓国の領土を譲らず、スティーブンと僕はどうでもいいという立場だ。首脳会議は「領土問題を利用して対立を煽る政治家が悪い」という結論で一致した。
<写真/浦項行きバスの前で左からスティーブン、李、筆者>
翌朝未明に浦項に到着後、鬱陵島行きフェリーで島に到着後、島内散策。
島内めぐりの観光バスの中で、唯一の日本人である私は旅の目的を話す羽目になった。黙っていたのに日本人と見破られた!
「ドクトを韓国の人がどれほど愛しているか知りたくて」という車内マイクでの説明に拍手が起きホッとした。
夜食は海岸に面した食堂で新鮮なイカをつまみにしてマッコルリを楽しんだ。翌日のドクト行きフェリーの乗船時に外国人を対象とする特別審査を受け、旅行目的を聞かれた。
竹島の領有権問題をめぐり日韓関係が険悪になっていた。前年に島根県議会が「竹島の日」条例を可決した中でのドクト行きだった。物好きと言われると思われると返す言葉はない。北朝鮮に出かけたのと同じで、ただ現地に出かけてこの目で確かめ自分の頭で考えてみたかっただけ。
後日、外務省から日本人が日本の領土にパスポートで竹島に渡航するのは好ましくないという見解が示され、これまでの渡航者数を発表して注意を促した。外務省のお役人は日本の領土と主張するだけで現地に行ったことはないらしい。彼らにも言い分はあるだろうが何と狭い了見か。
韓国通信は、平和な鬱陵島のスケッチとドクト(竹島)をレポートしたが、私のテーマは小さな島の領有権をめぐり何故、日韓が争うのか現地で考えることだった。
後年、北方四島をわが国固有の領土と主張しながら、ロシアのプーチン大統領と二島だけの返還交渉をした国粋主義者の例を出すまでもなく、固有の領土という主張には胡散くさいものがある。領土の概念が確立したのは近代国家成立以降のこと。地球は人類のものと考える私には国境も領有権もあまり興味がない。
ドクトからの復路、船上を自由に飛び廻る群がる無数のカモメの姿に感動した。領土問題で一番デリケートなドクトには国境はなかった。
<何故 韓国語を学ぶのか>
長く韓国語を勉強しているのに実力はまだまだ。韓国語ではそれを「まだ遠かった」と過去形で表現するのも興味深い。「行き行きて 倒れ伏すとも…」の心境である。私にはこれからも学びと自分探しの旅は続く。
韓国語を教えてくれた先生は14人にのぼる。先生たちから言葉だけなく文化や人生観まで教わった気がする。受験英語では学ぶことに苦痛しか感じなかった私に外国語を学ぶ楽しさを教えてくれた。
最近、斎藤真理子著『隣の国の人々と出会う 韓国語と日本語のあいだ』(創元社2024.8)を読み、彼女の韓国との出合いと韓国語に情熱を傾ける姿に感動した。それに刺激されて、韓国語を学びながら旅を続けた自分を振り返り、今回3回にわけて文章にまとめみた。
ところで、私のパソコンには2004年に始まった「韓国通信」が前号759号までが保存されているほか、韓国にかかわる多くの資料、翻訳が残されている。
留学時代に教材として読み、感動した短編「ソナギ(夕立)※1」、「尹伊桑※2の日本講演の記録」、小倉志郎著「原発を並べて自衛戦争は出来ない」、金英の論文「日本のパートタイム労働」(翰林日本学11)、「原爆慰霊式における長崎市長のメッセージ」等の日韓、韓日の翻訳の他、歌詞「君のための行進曲」「人生の贈り物」の翻訳が含まれる。
韓国語の勉強とともに数々の映画やドラマ、素晴らしい音楽との出合いもあった。
洪 蘭坡「鳳仙花」、金敏基「朝露」、バティ・キム「離別」、趙 容弼の「釜山港へ帰れ」などの曲。5.18光州事件の「君のための行進曲」は作曲家の安藤久義さんに編曲してもらい、晴れのピアノ発表会で演奏したことも忘れられない。いずれも私の愛唱歌になった。ヤン・ヒウンの「人生の贈り物」は友人がシャンソンのリサイタルで必ず歌ってくれた大好きな歌だ。
私が翻訳したのは翻訳したいものだけ。ただ伝えたいと願ったからだ。自動翻訳にかけると翻訳ができる時代になったが、機械的な翻訳にはない心遣い、息遣いを伝えたいと心がけてきた。心と文化を理解した通訳と翻訳の重要さはますます増えている。
上写真/※1<童話ソナギ(夕立)絵本より/朝鮮戦争後の都会から越してきた少女と地元の少年の物語。山に出かけ、突然にわか雨が…。韓国人なら誰でも知っている名作として知られる>
※2 尹伊桑(ユン・イサン) 世界的な作曲家。ドイツで韓国KCIAによって拉致された。来日時の日本語による講演記録を翻訳して統営にある尹伊桑記念館に資料として提供した。
対馬が日韓の歴史に果たした役割と徳恵翁主(高宗の娘)の生涯に関心を持ち対馬から釜山への旅、済州島の旅など…、冷や汗かきながらの旅と話には限りがないのでこの辺で…。
韓国の危機と日本の危機
連日、わが国の新聞とテレビは韓国の非常事態報道に余念がない。話題の中心はもっぱら日韓関係の行方である。
だが韓国社会の関心事は民主主義そのもの。大統領の責任追及と即時退陣要求はそのためのものである。12月9日付けハンギョレ新聞は100万人の市民が弾劾を求めて国会前に集まったと伝え、社説の見出しを「危機の韓国民主主義、市民が希望」と大見出しで飾った。
世界が注目する韓国の行方。だがこの問題の決着は国民自らがつけるはずだ。国は国民のもの(憲法第2条)という当たり前のことが市民に徹底した国、韓国である。
私たち日本人が心配することはない。「日本人は日本のことを心配したほうがいい」(金芝河)。他人のことを心配するより、韓国人から政府に反対する「声の出し方」でも教えてもらったらいい。わが国の大半のメディアは韓国情勢の分析に熱を入れるが、日本の危機には関心はないように見える。危機感がないのは危機だ。
新聞に「希望だ」と言われた市民に私たちもなりたい。
初出:「リベラル21」2024.12.13より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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