第2回 沈黙は金なり、いいえ音なり
>往< 野沢敏治さんへ、石塚正英から
一般に音のしない状態を無音といいますが、人がいるのになにも声が聞こえない状態を沈黙といいます。ところで、イギリスのカーライルが記したとされる「沈黙は金なり」はどういう意味でしょう。芭蕉の「物言えば唇寒し秋の風」とは少々ちがいますね。カーライルの原文では“Speech is silver, silence is golden.”というのだそうです。いやはや、音とか声とかは、なにも聞こえてこないほうがいいようです。
木陰で聞こえる音は葉or風? 風鈴の音はガラスor風?
初夏の木陰で新緑の木々、葉たちが奏でる音、甍の屋根にかおる薫風にこたえて鯉のぼりの泳ぐ音を聞いていると、自然の懐に抱かれる心地よさを感じます。それはあきらかに自然音です。では、風鈴の音はどうでしょうか。風鈴そのものは人工物ですが、それをゆらす風は自然現象です。さて、この音色は自然でしょうか人工でしょうか。動力が自然だからといって自然音とは限らないです。理屈の上では、風鈴の音色はあくまでも人工音です。擬音では「チリンチリン」、「リンリン」「キンコンカンコン」などとさまざまに表現されますが、しかし文化感性としては、風鈴の音色は風の声なのです。
音はそれを発するハードを必要とします。風の場合、風鈴とか梢とかです。いえいえ、ハードとして空気が必要です。屋根より高い鯉のぼり♫の泳ぐ音のハードは薫風です。おなら音の場合は、空気チューブの役割をする直腸や振動して音源となる肛門をハードとして必要とします。お風呂につかって発すると肛門と湯船とダブルで鳴り響きます。
ところで、静かであってなんにも聞こえないのに音で表現されるケースがあります。深深と雪が降る、といった具合です。私は雪国の生まれ育ちですので、真夜中に音もなく降り続ける牡丹雪をたしかに聞いて過ごしました。「シンシン」といってます。電柱の裸電球にほんのり映し出されたシンシンたちはあはれなり。それが、ほかに何の音もしないでシーンとしている丑三つ時だったりするさまなど、いとおかし。シンシンもシーンも、ともに音などしないのですがシンシン、シーンと聞こえるのです、興味シンシン。
アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』に収められた「不条理な人間」でこう言っております。「演劇では沈黙は聞こえるものでなければならぬ」。沈黙を表現するのに沈黙ではいられない、ということですね。そういえば、松尾芭蕉は詠みました。「古池や蛙飛びこむ水の音」。あたりの静けさは池にカワズが飛び込む音でいっそう実感がわくのです。沈黙の音は、たとえば水琴窟の仕掛けがよく表現しています。昔、茶室に入る前に手を清めた蹲踞(つくばい)に併設されていたこの装置では、よほど静かでないと音をキャッチできません。沈黙は金なり、水琴なり、でしょうね。
ただ、遠藤周作の『沈黙』だけは、駄洒落や冗談抜きで語らねばなりません。音には直接関係なく、むしろ声に関係するのですが、私は、この作品を知って、神の沈黙ということを考えました。新約の前、旧約のヤーヴェさんはモーゼさんほかさまざまな人間に語ります。怒って語り勧めて語ります。でも、はじめに言葉ありきなのですから、神は語ることをもってお仕事を始められたようです。沈黙ではありません。でも、神は人間には稲妻などで語るのだから、人間には沈黙しているのでしょうな。
ノイズを好意的に意識する鐘の音・糸の音
風鈴から梵鐘の話しに移ります。梵鐘は、どちらかといえば、韓国のは澄んだ音がし日本のはサワリのような雑音が混じります。その違いは金属の質や設置する位置(高低)などによるものらしいです。ただ、澄んでいるのがいいか、雑音が混じったようなのがいいか、人それぞれ、民族それぞれでしょうね。私は、梵鐘はゴーンというより、ゴワァ~ンというのがいいです。もっとも、楽器に括られるカリヨンは、やはり澄んでいないといけませんね。いろんなカリヨンで音階を作り出すのですからね。
前回、三味線を抱えた瞽女の門付けについてお話ししましたが、その三味線も雑音を奏でます。3本の糸のうち一の糸だけは竿の先につける上駒に支えられず、サワリ山にあたるようにしてあるのです。ようするに竿の先=サワリ山にダイレクトに触り、そこでほかの2本の糸と異質の音が出るのです。三味線の先駆というか前身の琵琶にもサワリの仕組みはあります。ただ、それは宮中で奏でられる雅楽琵琶にはありません。盲目の法師が法事や祭礼に際して奏でた琵琶にあるのです。兵藤裕己さんは著書『琵琶法師―<異界>を語る人びと』(岩波新書、2009年)の中で次のように説明しています。「サワリのない純音(楽音)で演奏される雅楽琵琶にたいして、サワリによって意図的にノイズ(倍音)をひびかせる琵琶法師の琵琶は、形状は似ていても、ほとんど別種の楽器といってよい。」私はサワリのあるほうが差し障りなく受け入れられます、ハイ。
2010年、サッカー・ワールドカップ南アフリカ大会スタジアムで地響きのように轟きわたった南アフリカ民族楽器のブブゼラは、ジダンのフランスを筆頭に、ヨーロッパのチームにはプレーを阻害する音に聞こえたようでした。ブブゼラは、もともとは牛の角笛だったらしいのですが、それを改良というか改造してプラスチック製のラッパにしたてたものです。民族楽器ですから、アフリカの選手や応援サポーターには特別異常な反応は出ていなかったようです。それどころか、多くは応援に力がこもって効果的なのでした。
ところが、この音にさらされたことのない人にすれば、雑音・不快音そのものに感じられたのでしょう。例えばコンサートホールで音楽を聴く場合、それが本人の慣れ親しむ音で構成されていれば楽音になりえましょう。西洋音楽に親しむ人々は平均律やオクターブ音に心地よさを感じ、それを外れる音には違和感を覚える場合があるのです。けれども、地響きブブゼラのような半端な音、聴き覚えのない音が耳に飛び込んでくると、それらはときに雑音に響くのです。しかも聴き覚えがない分、聴こうと無意識に身構えてしまうのです。昨年のブブゼラ騒動はそのあたりで起きた出来事だと考えられます。関心のある方は以下の拙著をお読みください。石塚正英「芸術作品に対する感性文化的評価―美術館の黴オブジェとスタジアムの地響き楽器」(東京電機大学総合文化研究、第8号、2010.12)
>復< 石塚正英さんへ、野沢敏治から
音が出る時はハードが必要であって、風鈴の場合は風鈴だけでなく空気も、軽くてやわらかいのに、ハードである。これは石塚さんの言うとおり、自然科学的な事実ですね。
沈黙にこめられた経験の重み
聞こえない音なのに、雪はシンシンと降る。ぼくも信州の雪国育ちですから、その感覚はよく分かります。前の晩に雪が降り積もって、次の日の晴れ渡った時に広い雪原の中にいると、シィ――ンという音が耳に鳴ります。無音は有音でもある。製鉄所の人の話によると、鉄をまだ熱い板のままで冷やしていると、夜見回っている時に、かすかに鳴く音が聞こえるんだそうです。音は聞こえないのに聞こえる。同時に、音は見えないのに見えることもあります。1950年代の末、G.ショルティが録音監督J.カルショーのもとでウィーン・フィルを振ってワグナーの『ラインの黄金』をレコードにしました。その冒頭、ライン川の深い水底から波が起こり始め、それが重低音でスピーカーから、ゆ~らりと出てくるんです。たまげました。ドヴュッシーでは光と水の戯れがキラキラと本当に見えます。
沈黙は雄弁になる。このことにぼくらは日頃あまり注意していない。それで思いだすのですが、リヒャルト・シュトラウスにオペラ『薔薇の騎士』があります。エリザベート・シュワルツコップが元帥夫人を演じたヴィデオを見ました。筋はなんということもないのですが、最後の場面で夫人が自分の年齢や位置を考え、若い者には若い者同士の結合に任せようと自ら身を引きます。その時に観客に後ろ姿を見せつつ退場するのですが、背中が彼女の想いを語るんです、台詞なしで。
日中戦争(シナ事変)や太平洋戦争(大東亜戦争)はもう60年以上も前のことになりました。戦中に人はさまざまな態度をとります。いったん起きたことだから勝たなくてはならないとか、あくまで反戦を主張して囚われるとか、直接の抵抗はせず大政翼賛会に入って改良を試みるとか。敗戦後、知識人の中にはなぜ戦を止めることができなかったかと悔い、それぞれに語りました。また戦後かなりたってから、軍事目的で作られた研究所で仕事をしていた人が反省の本を出すことがありました。でも口を閉ざして黙っている人もいました。それに対してぼくは十分には理解できませんでした。最近になってです。その語らないところに言葉にしがたい経験があると思えるようになりました。
そう言えば、音楽だってそうだ。曲にはおたまじゃくしが書いてないところがある。だからといって音がないのではない。西洋音楽はたいてい音がいっぱい詰まっていて、日本画によくあるような余白はないが、それでも休みはあります。この休止符は無音ではないですよね。シューベルトの最晩年のピアノ・ソナタの中には凄い音でドロドロと鳴って、すぐに休止するのがあります。それもかなり長く。どうなってしまったのかと息を飲んでしまいます。シューベルトはそこで本当に立ち止まってしまうんです。彼はそこに何を見たのか。彼がもう半年でいい、生きていたらどんな異界の美に踏み入ったか、つい想像してしまいます。音と休止符との関係は興味が尽きません。
雑音の楽興
雑音については石塚さんと同じく前から考えることがありました。バッハの平均率は音の並べ方が人工的であったので、当時は多少違和感をもって受け止められたようです。それも慣れればなんともなくなる。(それでも、われわれ西洋の7音音階に慣らされてきた者でも、先祖からの伝統であった5音音階で受けとめる面があるかも知れません。)日本でも1950-60年代に20世紀の現代音楽がずいぶん関心の的になることがありました。私もそれなりに追いました。そして今では、ストラビンスキーの野蛮さやプロコフイエフの都会的な打撃音にも慣らされ、耳障りでなくなっています。それにあれほどみんなが熱心に論じていたバルトークも、シェーンベルクも、それからシュトックハウゼンやブーレーズも、もう話題にすることはなくなっています。武満徹も昔の人になっているのだろうか。そのようにこれからもわれわれの耳は変化していくのでしょう。それでもこの変化には内的な理由と必然の歩みがあったのかと疑うのはぼくだけでないように思う。日本では乗り越えるべき壁も壊すべき伝統も確固としていないままに流れていくように見えます。そんなことを考える必要はない、与えられた今に生きればいいのだと言う人もいるでしょうが。
ある人が対談しているテープを聞いたことがあります。まじめ内容なんですが、突然、「イシヤキーイモ」の売り声が外から入るんです。おやおや、にやりとしてしまいました。録音機はわれわれの文化的な耳のように取捨選択や調整をすることができず。物理的にそのまま取り入れてしまう。演奏会では雑音を出してはいけないが、こんなことがありました。ピアニストのリヒテルが主宰するツール音楽祭でのことです。誰かの演奏中にすごいいびき声が聞こえる。演奏者はおかんむりで楽屋で文句を言う。その気持、分かります。聴衆もこの不謹慎な者を探す。それが休憩の時にアナウンスがあって、いびきの主は会場に住んでいるフクロウの一家であると判明したが、彼らはここの先住者なので追い出すわけにいかない、と。それで会場は笑ってしまい、演奏者は晴れ晴れとした顔でステージに出て聴衆から大変な拍手を浴びたということです(河島みどり『リヒテルと私』より)。いいね。
雑音をすべて排除して純粋音のみにしようとする社会は恐ろしい。
忘れている調べ
それにしても街では音が、音楽がありすぎます。国鉄がJRになってからだと思いますが、ホームのチャイムと案内放送がしつこく親切ですね。ある田舎の駅のホームで、列車が入る時間でもないのに、安全の注意を促す放送がホームに埋められたスピーカーから流れっぱなしだったので、いらいらして「うるさい」とツイッターしてしまいました。大学の生協食堂ではMGが勝手に上から降ってきます。これなどアメリカあたりから来たのでしょうか。「閑かさや 岩にしみいる 蝉の声」。この先祖からの感性はどこに行ったのか。
ある日の夕方、本八幡駅を降りたら、人が行きかう中で、ソプラノがアコーデオンの伴奏で歌っているのが聞こえました。それは「うたごえ」の歌でした。清々しい。どこか懐かしい。何かを忘れていたような気がする。素人がのど自慢大会で出て唄う民謡は声が伸びのびしていて気持よい。小学唱歌だっていい歌があります。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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