第5回 コマーシャルソングにのせられて
>往< 野沢敏治さんへ、石塚正英から
野沢さん、きょうはコマソン、つまりコマーシャルソングを語り合いましょう。日本初のコマーシャルソングは、1951年に民間放送が開始し、CBC中部日本放送、NJB新日本放送が疱瘡した「僕はアマチュアカメラマン」であるとのことです。でも私はその当時のことは幼すぎて知りません。ですので、コマソン紀元談義は措きましょう。それより、このジャンルには「女王」がいるのです。私の知っている女王は、のこ・いのこさんです。今は60歳をすぎましたが、彼女は高校生の頃からフォークソングを歌って頭角を現わしていたらしいです。その後「ひらけ!ポンキッキ」で数々の曲を世に送り、さらにその後「オノデンボーヤ」「エバラ焼肉のたれ」「カップスター」などでコマソン800曲以上の女王に輝くようになるのです。私も同じような年代ですのでフォークソングはたくさん歌いましたが、頭角は伸びませんでした。泥酔して殿様キングスや春日八郎を歌ったときに誰かが録音したテープが今も残っておりますが、聞けたものではありません。それからまぁ、フォークソングって、フォークダンスみたいに素人がみなで楽しむものですから、頭角もヘチマもありゃしませんがね。ただし、1970年前後に新宿西口広場(新宿警察署は「通路」と主張して若者達を排除したがりましたが・・・)で一世を風靡した反戦フォークは別かもしれません。
小林亜星のテレビCM曲
さて、コマソンで私の想い出にのこるものは「日立の樹」のテレビCM初登場です。野沢さんは北海道におすまいのころでしょうかね。私は東京の朝日新聞社社屋(まだ有楽町にありました)で発送関連の仕事をしていた頃です。日立のホームページによると、これは、1973年に最初のバージョンが放映されて以来、現在は9代目になるようです。同HPにはまた、「第1代から現在放映中の第9代まで、歴代の「日立の樹」テレビCMを、その年を象徴する出来事とともにご紹介します」とあります。伊藤アキラ作詞・小林亜星作曲・編曲ですが、どちらもいい感じです。「この木なんの木気になる木 名前も知らない木ですから 名前も知らない木になるでしょう」 人をからかっているんでは? と思いたくもなりますが、これに曲がつくと人を寛がせているんだな、ということが分かります。木も合計5代を経ているようです。HPに歴代樹の写真がそろっていますよ。http://www.hitachinoki.net/profile/history.html
小林亜星のコマソンで、私はもうひとつ想い出に残るものがあります。それはタイヤメーカー・ブリジストンが1966年に放送開始した『どこまでもいこう』です。小林亜星作詞作曲ですからまるきり亜星音楽です。「どこまでも行こう 道はきびしくとも 口笛を吹きながら 走って行こう」「どこまでも行こう道は険しくとも 幸せが待っている あの空の向こうに どこまでも行こう 道は苦しくとも 君の面影胸に 風を受けて行こう」 1960年代って、よっぽど辛い時代だったんだな、とまぁ、知らない世代には何のことかピンと来ないでしょう。世の中は高度成長期の真只中でしたので、たしかに何でこのような呻吟する人生をコマソンに採用したのか、歌詞だけからは、そう思われるかもしれません。でも映像を見ると、心温まりますよ。
始まるとトイレに行きたくなるCM
テレビ番組の途中にさしはさまれるCMは、邪魔者でもあります。その30秒間に、ある人はトイレに行くでしょうし、またある人は別のチャネルに切り替えるでしょう。そのようなCMはたいがい離れがたい映像ストーリーに乏しいです。あるいはそのような音響=音楽メロディーに乏しいです。最近は消滅しましたが、商品名を連呼する型、それから商品をアップしまくる型、つまり売りたい商品を前面に押し出してくる型は、トイレ・タイムを告げる合図なのです。まだ尿意をもよおしていなくても、今のうちに言っておこう、と思い立つ。それに対して、番組の途中に差し挟まれようが心惹かれるCMもあります。私の個人的好みですので気にせずお願いしますが、サントリー角瓶のCMはグーッ(ちょっと古い感動詞)でした。歌うは石川さゆり、グラスを傾けるは小雪ちゃん、のバージョンです。「ウイスキーはお好きでしょ も少ししゃべりましょ♪」とてもいい感じなのですが、私にとってはちょっと残念なことがありました。小雪さんが妊娠されまして、お酒のCMには相応しくないと降板されたのです。それで、サントリーのホームページに入っても、もうあのCMは見ること聞くことが出来ないんです。そのあとを継いだ菅野美穂さんのバージョンはまだ腑に落ちてきません。http://www.suntory.co.jp/whisky/kakubin/cm/
この人はだんぜん沖電気のプリンターCMガールです。「経理の吉田さん、ずーっと好きです。現場に愛を!」http://www.youtube.com/watch?v=1IS2ZSx-LYI
イメージソングやタイアップソング
「ウイスキーはお好きでしょ」みたいな音楽をイメージソングあるいはタイアップソングといいます。それのみで作品です。音楽業界と企業が連携・タイアップして双方でヒット商品を生み出すのです。加藤秀俊氏はつとに「コマーシャルの社会史」(『別冊國語學・知の最前線コピーの宇宙』発行元 : 學燈社、1984)で次のように指摘しています。「社会を動かし一定の方向に導いていくものとしての「キー・シンボル」は、戦争といったような緊急事態の中ではとりわけ簡潔化され、その力を増大させる傾向を持つ。」「どうやらCMこそは戦後の混乱期が収束した時代に現れた、新たな「キー・シンボル」の集合体なのではないか、と思われるのだ。」戦時中は戦意高揚を目的に軍歌や戦時歌謡が流行し、高度成長期には大量消費を促す商品名連呼型・欲望掻き立てCMがつくられだしたのでしょう。そして今日では多機能多品種を求める個性派ユーザー向けにイメージソングがCMに登場してきたのです。化粧品メーカー「資生堂」が作成したDVD「資生堂のCMvol.2 1978-1999」などはCMの変遷を知るのに好都合と思われます。わたしゃ、番組なんてそっちのけで、そこで流れたCMだけを聞きたくてYou-Tubeを利用したこともあります。そんなCMの一つが「ウイスキーはお好きでしょ」でした。野沢さん、いかがでしょうか?
>復< 石塚正英さんへ 野沢敏治から
ごろ合わせの面白さ
ぼくはコマーシャル・ソングを楽しんで歌ったことはなく、体系的に追いかけたこともありません。でも面白さはわかるし、頭にピーンときて考えを進める材料になります。
コマソン(――一般に倣って省略しますが、作者には失礼かもしれません)がワッと出てきたのは1950年代後半から始まった高度成長期でした。皆がテレビの前に釘づけになり、「1億総白痴化」と言われた時です。今は携帯が人の心を奪っています。コマソンは子供によく受けました。子供に「良い歌」をと考える教育者からすると、それはいかがわしいものでしょう。ぼくはコマソンを歌いこなす能力はなかったけれど、小中学時代によく耳にしていました。そのためどうしても思い出話になってしまいますが、御勘弁ください。コマソンは言葉のごろ合わせや擬音、リズム感に富んでいたので、子供にはぴったりきました。武田薬品のパン・パン・パンビ・パンビタン、トン・トン・トマト・マッカッカのかごめ、など。
ぼくは別の方面で言葉遊びが得意で、中学時代にはよく友達とふざけていました。西洋の作曲家には済まないことですが、位置について「ハイドン」とか、おっとっと水が「モーツアルト」、今日の「ベートーヴェン」のおかずはなーに? 滑って転んで「シューベルト」、一番鶏が「メンデルスゾ――ン」、といった具合に。調子に乗ってしまうのでこれでやめますが、これらは特許権ものです。
違いの分からない男
コマソンの初めはメーカーや商品の名前を連呼するものが多く、アサヒビールのものはその典型でした。印象に残るものは全体に軽快でちょっとした仕掛けがあり、情景を浮かばせるものでした。牛の鳴き声から始まる牛乳石鹸がそう。「つんつんつばめ」の唄は文部省唱歌調で藤沢という地名が出るだけで藤沢薬品を連想させるものはなかったと思います。商品の宣伝をまったくしていないのは積水科学の「てんと虫の唄」です。洗剤の「テル」のコマソンは楠トシエが歌うのですが、これは何と言ったらいいのか、くるくる急速回転するその歌詞の終わりがすべて「テル」なんです。以上はキングから出たCD「コマソン黄金時代」で聴くことができます。「明るいナショナル」の歌は当時のコマソンの代表の1つですが( YouTubeでの指定ができないので各自で検索してください )、 山住正己が『日本の子供の歌』(1962年)の中で取りあげています。へー、そうなのかと思いました。他方、コマソンはずいぶん失礼な奴だと思うこと、多々ありました。番組のいいところで視聴者になんの挨拶もお伺いもなく突然押し入って来るんですからね。興ざめです。それでも面白いものはありました。いろいろ言っても、どこかでコマーシャルに乗せられているんです。
「どこまでもいこう」の1966年は私が名古屋大学で平田清明先生の学部ゼミに入った時です。平田が『思想』に「マルクスにおける経済学と歴史認識」を発表した記念の年です。
ウィスキーの宣伝で思い出しました。石原裕次郎と宇野重吉がコンビで出てきて、宝酒蔵の松竹梅を宣伝しました。お寺で裕次郎が和尚姿の宇野と禅問答をする例のものです。裕次郎が「男とは」と問い、宇野が「子供よ」と答える。分かったような分からないような問答が2,3続いた最後に「喜びとは」と問い、「酒よ」と答える。そして「喜びの酒 松竹梅」と来る! 彼らはたしかウィスキーの宣伝にも出ました。瓶が横にトックン、トックンと揺れて、「違いの分かる男」ならばこれを飲むというものだったと思います。宇野が出てきたのは意外でしたね。内田義彦がすぐに反応したのを覚えています。内田は新劇が好きで、戦中の久保栄の『火山灰地』にいれ込み、戦後の木下順二劇の自他共に認める最良の理解者であるとともに、ポップ・カルチャにもアンテナがある人でした。宇野とは長い交流があり、いい対談をしていたんですが、そのコマソンを見て、とうとうあいつも「違いの分からない男」になってしまったと揶揄していました。
コマソンの短さと瞬間の芸術
コマソンは短い時間で視聴者の耳を捕らえようとします。それは30秒前後からせいぜい1分くらいまで、15秒なんていうのもあります。作者はそこに賭けるわけです。ぼくはそこにピーンときました。瞬間の芸術、消える芸術のことです。
文学は紙に(最近はデジタル媒体に)文字で残します。美術は絵で残します。それと違って、音楽は演奏したその時に生まれ、消えます。芝居も身体で演じたその時から消えていきます。もっとも、技術の発展は録音や録画を可能にしたので、いつでも取りだして再生できす。音楽などは初めから後世に残すために演奏会なしで録音することがあります。だいぶ前ですが、演奏会は死んだと言って録音スタジオに閉じこもるピアニストがいました。それでも、音楽はまだまだ聴衆を前にして(あるいは聴衆に丸く囲まれて)演奏し、聴衆と一瞬ごとに交感し合うことが命です。それがないと、演奏会はぬけがらです。
では他の活動はどうなのか。研究はいくらでも書き直しや調べなおしがきく。担保がある。そうしないと研究はできないのですが、そういうものでもここを先途と決断する瞬間の生命活動はないだろうか。
瞬間の生命活動を受け入れない政治
その一瞬一瞬に生きることを抑えつけるものがあります。政治です。音楽は作曲も再現者も聴衆もやはり時代の中で生活しているのですから、どこかで社会や政治とつながりますが、それを直接芸術に要求することがかつてありました。今でも形を変えてあります。石塚さんが言っている「キ―・シンボル」の問題に関連します。
ショスタコヴィッチはかつて「人民の敵」と宣告されました。1938年に粛清の嵐が吹いていたころです。ヴァイオリニストのD.オイストラフはその時代を回想しています。自分が住んでいるアパートの住人がいなくなっていく。次は誰か、自分か。夜中に靴音が聞こえる。恐怖に凍える。この夜の訪問者はどちらの家のドアをノックするか。自分のところか、向いか。それは向かいであった。…こんな時なので、皆はショスタコヴィッチはどうなることかと固唾を飲んでいました。そして出てきたのがあの第5交響曲。それは大変な拍手をもって迎えられました。当局はこれは思想性があり大衆にもわかる音楽だと合格点を与えた。後にそんな解釈が日本でもなされることがありました。ぼくもそうかも知れないと思ったことがありました。しかし、それはトンチンカンでした。聴衆が大変に熱狂したのは、こんな酷い情況でもショスタコヴィッチは書くことができた、負けなかった、死ななかった、そのことに対してだったのです。ぼくは音楽が生命活動であることに不感症だったのです。
音楽は社会から切り離せないとしても音楽なのですから、結局はスコアに忠実でなければなりません。ショスタコヴィッチは誰の指揮で聴いたらよいか、これは今でもぼくのテーマです。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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