第8回 葬送曲について
>往< 野沢敏治さんへ 石塚正英から
きょうは葬送曲について語りましょう。このジャンルですと、私は真っ先にベートーヴェン「英雄」第2楽章を思い浮かべます。高校時代にクラシック愛好会をやっていて、よく聞きました。それから同じベートーヴェンのピアノソナタ第8番「悲愴」第2楽章やピアノソナタ第14番「月光」第一楽章も葬送的に聞きました。ですが、ここでは、そのような作品解釈をするまえに、そもそも「葬送」とはなにか、死生観を通してこのテーマを考えてみたいのです。
なかなか死ねない死生観
私たちに大きく影響を及ぼしている死生観にインドの輪廻思想があります。その世界では、人間はなかなか死にません。次の世では動物になったりします。前世の行為(カルマ)に応じて輪廻が繰り返され、悟りを開く、解脱するまで永遠に続くのです。古代ギリシアには、1年の半分を地上で、残り半分を地下で暮らすという転生観があります。デーメーテールの娘ペルセポネがその代表です。古代ゲルマン(ヴァイキング思想)には、戦闘で倒れると別の世界にワープする死生観があります。死にゆく人からまだ借金を取り立ててない人は、別の世界で出逢った時のために証文を握らせる、とか。
これらの事例は、ようするに、人(の魂)は滅びないということを示しています。でも、一ときとして、同じ場にはいられないのです。ですから、ある世界を去るに者は別離の儀礼が必要となってくるのです。これらはいわば水平移動ですので、儀礼も水平的です。旧約聖書には天国がありません。神もヘビもアダムもイヴも、みな一緒に、風吹く地平に住んでいます。ですが、新約聖書には天国が記されています。これは垂直移動です。仏教の世界も垂直移動ですね。お釈迦さまとカンダタの物語、芥川龍之介「蜘蛛の糸」を想起すればよくわかります。この世界における葬送は垂直儀礼です。葬送儀礼には、この2類型がありますね。火葬や鳥葬は垂直儀礼で、土葬や水葬、風葬、そして食葬(カニバリズム)は水平儀礼です。
水平儀礼の葬送歌
さて、数年前、「千の風になって」が流行しました。まずはyou-tubeできいてみてください。http://www.youtube.com/watch?v=sH9JkASgHrk&feature=fvst
「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています 私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています」
この歌詞には問題があります。ご本人、なかなか死に切れないようです。はやく成仏してほしいものと、遺族は悩むことでしょう。葬式には2つの意味があります。一つは個人の死を悼み弔うこと。もう一つは死にゆく人に寄り添い介護し、そして看取りを済ませること、つまり心身労苦からの解放です。映画「おくりびと」にはその雰囲気がよく出ています。
むかし、人が死ぬとモガリを行なっていました。モガリとは「喪あがり」のことで、喪があけるまで遺体を一定期間葬所に安置し、その後改めて遺骨を弔う葬儀です。古代、モガリ葬は一般的だったのですが、仏教の浸透により火葬に移行していきました。その発端は大化2年の薄葬令ですが、影響ある境目は持統天皇の葬儀です。夫の天武天皇の葬儀から仏教職が強まり、持統天皇の葬儀から火葬が導入されました。
モガリ屋における風葬のようなモガリ葬の期間はどのくらいだったでしょうか。土葬でも、人の肉体がバクテリアによって完全に分解されるには相当な年月がかかります。ただし、儀礼としておこなったのですから適当な時期に洗骨したのでしょう。
あの「千の風になって」は、故人がこのモガリ屋にいらっしゃる時を想起して歌われたらとても意味深いです。モガリ葬は水平儀礼の様相を色濃く残しています。
葬送曲のいろいろ
さて、「千の風になって」のような水平儀礼に似合う歌詞は少ないです。故人を思い出す歌の多くは「天のお星さまになって」レベルの歌詞で占められています。文明社会では、たいがい地下には悪魔がいて、神様は天空にいるのです。みな、上へ上へ、といったゴシック的歌曲になります。声もカウンターテナーが似合うのです。例えば、17世紀に活躍したドイツの作曲家ハインリッヒ・シュッツ「葬送の音楽”Musikalische Exequien”」が」その典型です。きいてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=IwLWlyQ26IA
そうでありますから、葬送曲はおおむね次の2類型に分けられるのです。①この現場を去りゆく人への別離の悲しさを奏でる。②いと高き御身に抱きかかえられ至福を戴く輝きを奏でる。私が最初にあげましたベートーヴェン「エロイカ」などは①の一つですし、ハインリッヒ・シュッツ「葬送の音楽」などは②の一つです。でも、一つ変わった葬送曲をご紹介しましょう。ゲイリー・バートン演奏の「葬送」(作曲カーラ・ブレイ)です。「プレリュード」というサイトから引用します。
http://plaza.rakuten.co.jp/predudio/diary/200711180000/
「「葬送」とはカーラ・ブレイが作曲した意欲的な試みのジャズで、「死」と「葬送」をテーマにした音楽です。東洋のドラマティックな葬送からヒントを得て、ちょっと異様な雰囲気のジャズ音楽が生まれています。ここに流れている音楽は、あくまでもアメリカジャズが基調になっていますが、東洋的な、日本的な旋律が随所に現れてきて、東洋の「生と死」の輪廻のような思想が描かれているような感さえ受ける音楽です。ファンキーなモダンジャズとは一線を画した作風で、あたかも「ニュージャズ」といった雰囲気で、「葬送」を新しいサウンドで華麗に色彩豊かに表現しているドラマティックでカラフルな作品として、音楽が浮き彫りにされている名作の部類にはいる曲ではないでしょうか。」
私の母をおくった民謡「佐渡おけさ」
新潟県に生まれ育った母は民謡が大好きでした。少し生活にゆとりの出てきた40歳代から民謡教室に通ったようです。とりわけ「佐渡おけさ」が得意でした。もはや両親の住まない上越市の実家には、練習用に録音したテープ、地域の民謡大会で獲得したトロフィーや賞状がひっそりと置かれ、亡き母の往時を偲ばせています。1977年頃にはNHKの地方大会で入賞するなど、最高潮になりました。そのときのコンテストを録音したカセットテープは今も実家にあります。1996年に父を看取った母は、それから10年以上元気に過ごし、2008年に病を得て、さいたま市の我が家に越してきました。しかし、介護の末、母は逝きました。出棺のとき、私はエレクトーン奏者に「佐渡おけさ」を奏でてもらいました。「佐渡へ佐渡へと草木もなびくヨ 佐渡は居よいか住みよいか 来いと云ふたとて行かりよか佐渡へ 佐渡は四十九里波の上」
見事な水平歌ではありませんか! 昔は、月足らずで生まれてきた水子を、母親は川に流しました。イザナギ・イザナミ神話にその余韻が感じられます。「佐渡おけさ」は第一に亡き母が好んで歌ったものです。でも、この曲は水平歌でもあるのです。一周忌に臨んで、親戚一同皆して、あのNHK地域コンテスト準優勝「佐渡おけさ」のテープを再生して亡母を偲びました。
>復< 石塚正英さんへ 野沢敏治
最近、近い人を亡くすことが増え、淋しく思うようになりました。
戦後の子供のころは違いました。みなぼくと同じ思い出をもっているでしょう。隣の家の母親はクリスチャンだったので、亡くなった時は土葬でした。野ベの送りに伴って墓地についた時、すでに深い穴が掘られていました。その暗く冷たい底に御棺が綱で降ろされ、土がばさっ、ばさっと落とされる。あの身体はこれからどうなるのだろう。少年はそう思うだけでした。近所に仏式の葬式があると、隣組の人が準備をします。ぼくはその時に出されるおにぎりをもらうのが楽しみでした。でも葬式に出なければならない時があると、坊主の長い読経――どうして般若心経は日常語に訳されないのか、不思議です。こんなことでいいのか――に足がしびれ、早く終わらないかと耐えていました。そしてぼくはとんでもない悪童でしたね。お彼岸にみなお墓参りをします。ぼくは何人かの餓鬼を連れて線香の煙が立ったばかりのところを探し、まだ新鮮なままのお供物に手を出していました。
死者からの贈り物
それが次第に態度が変わります。経験の積み重ねでぼくのような者でも生死について考えるようになります。死者を納棺する時に、脚絆と杖を入れるのにちょっと驚きました。死者は三途の河を渡るまでにまだ旅をしなければならないとは! 末期のすい臓がんで医者の診断の通り、本当に短い間に眼を閉じてしまう者がいる。生きたい、もしかしたら何年か延ばせるかもしれないと免疫治療に望みをかける。それがいじらしい。ぼくには敬愛していた先生がいました。その先生が亡くなり、悲しんでいる暇もなく葬式の準備に追われている時でした。亡くなって2日後、先生の名前で大津で作られた和菓子が家に届いたのです。後で先生の息子さんから、亡くなる前日にこれこれの人に送るようにと言われ、すぐに手配をしたのだそうです。言いようのない気持になりました。「死者からの贈り物」です。……死者は生者とは別の存在になる、逝ってしまう。死者はその全存在をもって生者に語ります。無限の優しさと厳粛さをもって。
石塚さんは葬送の儀礼に水平と垂直があると整理しています。「千の風」は歌よりも詞がいいですね。ぼくはその歌詞から、死者はさまよっているのでなく、大きな物質連鎖の中に還ったのだと思いました。そして生者を見守っていると思いました。そのことで「BC級戦犯」の遺書が思いだされます。
魂の「英雄」
その前に一つ。葬送曲と言えばいろいろなものがあり、石塚さんのあげたベートーヴェンの第3交響曲の中の第2楽章もその一つですね。これが時に政治家の葬式の時に流されることがあります。この交響曲は誰かが「英雄」という名をつけたので、それにあやかるのでしょう。作曲者ははじめナポレオンに捧げるつもりでいたのですが、ナポレオンが皇帝になったことに怒って、献辞を消したことはよく知られています。「ナポレオンよ、お前もか」だったのです。その消し方が彼の気性を現わしていて、ペンで楽譜の紙が破れそうになっています(――なんともしつこい!)。 彼は事業の英雄でなく、「魂」の英雄を描いたのですから。
吉田隆子は戦中に「自分一人では臥起きもできないような病状」でいた時に、ラジオで音楽を聞いていました。時代は19世紀のロマン主義から20世紀の新即物主義の演奏様式に変わっている時でした。彼女は第3の葬送行進曲を耳にして「一つの長い音符が呻っている間、その中には、何と微妙な、そして多くの言葉をつぶやいて話しかけて来るものがある事だろう」と感想を書きます。ぼくはその彼女の耳を信じるようになりました。ぼくがぼんやりとそう思っていたことをはっきりと言ってくれたからです。オットー・クレンペラーからも教えられました。彼は1960年にウイーン芸術祭に呼ばれてベートーヴェンの全交響曲を指揮した時、第3の葬送行進曲でもくっきりとその表情を描き分けています。オーケストラの伝統的な配置を貫いて、第1ヴァイオリンを左に、第2ヴァイオリンを右におくので、両者の動きが良く分かります。木管もくっきり浮かび上がらせています。彼はカラヤン――実力はあるのに――等のような思わせぶりなどひとかけらもない、音にすぐ迫る指揮をするんです。「ぶっきらぼう」につやのある音を引き出すんです。こういう指揮者はいなくなりました。
『世紀の遺書』を開く
ぼくは以前に松戸市で人権について講演したことがあります。その最後で次のようなことを話しました。それを、ちょっと省略しますが、引用します。
「ここに50年前にBC級「戦犯」として処刑された1000名を超える人の遺書があります。ポツダム宣言によって、戦争が終わってから、多くの人が戦犯として裁かれました。A級は戦争の最高責任者として裁かれ、BC級は民間人の殺害や捕虜の虐待ということで裁かれました。この裁判は勝者が敗者を裁いたものであったんですが、これが理に合ったものかそうでないかの議論はここではしません。
ほとんどの遺書が自分は無実だと訴えています。自分は国家のために働き、上官の命によって事に当たったのであるから、罪はないと言っています。憲兵としての職責を果たしたまでのことだ、大命をそんたくしてやったことなのだ。この統帥権に背いて自分の意志を示すことは、そちらの方が犯罪なのである。われわれにとっての良心とは命令に絶対服従をすることで、事柄そのものが良いか悪いかを問うことではない、と」。
「ここからわれわれは何を学ぶべきか。何人かの人が指摘したように、そこには個人というものはないと言うこともできますが、ここから滲み出てくることは、戦争は人を個人とすることを許さなかったという呻きを伴う遺言者自身の認識ではないでしょうか。」
「こうして統帥権のもとにいた立場をわかってもらえず、あらぬ疑いを晴らすこともできず、大部分の人は無念の気持を抱きます。けれども荒ぶる魂となって裁いた者に復讐せねば止まないとまで書いた人はほんのわずかで、ほとんどの人は諦めて従容として刑場に赴いていったのです。
その諦めるまでの過程に、人間の生きざまを見せられ、それがこれらの遺書を読む人の心を揺さぶります。判決を受けてから刑務所に帰る。そして、なぜ自分は死ななければならないのか、みなその理由を見つけようと必死になります。心の眼でもって、こうなってしまった事態を読もうとします。自分と日本と世界を読もうとします。風邪をひいたからといって寝てはおれない。死ぬべき自分を意味づけるのに忙しいからです。そして得た答がこういうものでした。われわれは不幸なことだが、国家賠償の一員として選ばれて死んでいくのだ。自分は中国と日本の提携と世界平和の礎のための犠牲となるのだというものでした。
こう諦念するまでに、やはり何度もみな、生への執着にぶつかっています。覚悟ができていたはずなのに、故郷の家族からの手紙を読んで、今自分が亡くなったら、後の者は一体どうなるのだ、生きよう、生き抜いていかなければという気持が、どうしようもなく湧きおこってしまうのです。」――そう、あなた方が手をかけた人たちも生きたかったのです。死なねばならぬのであれば、その意味を知りたかったはずです。
「中にこういうのがありました。なぜこのような事態になってしまったのか。それは医学で言う純粋培養ということをわれわれは身につけなかったからだ。純粋培養というのは不純物を取り去って目的とする物だけを増殖させるという実験です。この方法を社会や人間を見る眼に応用していくことは、難しいことではあるが、わが日本はその方法に従うことができず、安易に感情的になって他の国を見てしまった。他国を見れば、一方的に彼らはうそつきだ、自分たちは優秀だと極端に陥ってしまった。純粋培養の方法をとらず、ものごとにはこういう側面もあるし、こうも見れるぞと複眼的に考えることができなかった。このことが大きい、と。こう自己批判して、私は刑場で露と消えるが、大好きな日本に帰って残されたみなさんを見守りますと、家族に書き残しています。」――魂は還る。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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