食の話と自家撞着

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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社会問題を中心とした硬派の投稿サイトで、「美味しい日本の味、手軽で便利、わが家の食を豊かに……」をうたった料理教室の案内を見つけた。お堅いサイトに載ってるくらいだから、健康食品か何かを売らんがための催しでもないだろう。新しい食の発見があるかもしれないと期待してでかけた。

肉と魚と野菜のバランスを考えた食生活に心がけてはいるが、集合住宅の狭い台所でお頭付きの料理は面倒なのだろう、魚はどうしても切り身が多くなる。築地で開催される料理教室だから、「美味しい日本の味」に魚抜きは考えられない。日常生活では想像もしたことのない魚料理に出会えるかも知れない。

 

食に関係する仕事をしたことのない一消費者にすぎないが、食の安全やそれを保証する環境保全には関心がある。ただ、当日は「美味しい日本の味」に惹かれて築地に行っただけで、食の安全にも、食糧自給にも、水産資源の現状や乱獲も海洋汚染も、関心は家においてきた。料理教室でその類のご高説をお聞きすることになるとは、誰も想像しない。

 

集合時間の十時半に、ご講演もどきの話が始まった。「美味しい日本の味」より、食に関する、それも魚からみた社会問題のような話が一時間以上続いた。食の問題のセミナーならまだしも、美味しい魚料理を期待して参加したはずなのに、まるで一般を装った新興宗教の集まりかなにかに迷い込んでしまったかのようだった。

 

言ってしまえば十分、十五分で済むことが、昔の労組の委員長の話のようにだらだらと続いた。こうなってしまうと、緊張を保てない。思考の保護回路が働いて、音としては聞えても思考回路には入らない。

社会的な視点の話をながなが聞いて、食欲が出る人がいるとも思えないのだが、周りの何人かが相槌をうちながら聞いているのに驚いた。後で聞いてみれば、同じ社会活動に参加している知り合い同士だった。

理路整然とした話でも、一時間も聞かされれば疲れる。熱意だけならまだしも、そこに自家撞着まででてくると、もういけない。「美味しい日本の味」などどこかにいってしまって、食欲どころの話ではなくなった。

 

お聞きしたことと頂戴したパンフレットに書かれていることで、これはフツーに考えて、辻褄が合わないのではないかということをリストアップしておく。録音したわけでも細かくメモをとったわけでもない。記憶の限りなので、多少の違いがあると思うが、大筋で間違ってはいない。

 

主張1A):日本は海洋資源に恵まれた島国なのだし、魚は健康にいいのだから、もっと魚を食べた方がいい。

主張1B):乱獲と環境汚染のせいで水産資源が減少している。環境と水産資源を保護しなければならない。

疑問1) : 主張1B)が正しいのであれば、主張1A)は、漁獲制限を厳しくしろ――魚をもっと食べろではなく、魚を食べすぎるなではないのか?

「魚は健康にいい」というのはいいが、地理的や文化的なことから魚を食べずに肉食の多い人たちは、健康によくないものを食べているということになるのか?その人たちに「肉食は健康によくない」と言えるものなのか?

 

主張2):DHA(ドコサヘキサエン酸)とEPA(エイコサペンタエン酸)は魚介類にしか含まれない特別な栄養で、

DHAは悪玉コレステロールを減らし、脳神経細胞のネットワークを広げ、頭の回転をよくする。

EPAは悪玉コレステロールを減らす働きや、生活習慣病の予防、血液をサラサラにする働きがある。

疑問2):魚介類にしか含まれないのはいいが、モンゴルなど中央アジアやアフリカの乾燥地帯に住んでいる人びとは、歴史的にも現在も魚介類を食べることは(すく)ないだろうし、どうなるんだろう。その人たちには悪玉コレステロールが多くて、頭の回転が良くなくて、血液がドロドロ(巷の怪しい健康食品の能書き?)なのか?

 

主張3):2006年に食肉の消費が魚の消費を上回り、それ以降魚の消費が減って食肉が増えている。保育園や学校給食でも肉が多く魚が極端に減っている。

疑問3):畜産業は調理しやすい、栄養とコストの面で魚より優位にたつ食材を提供する努力を継続してきたのではないか?

食肉は常に切り身か加工食品として提供される。お頭つきの魚のように、牛や豚の死体がそのまま台所(厨房)に供給されることはない。

 

主張4):日本の漁業と養殖業は衰退の一歩をたどっている。就労者も減少し、老齢化も進んでいる。

疑問4):その通りで、疑問も反論もない。もし食肉(畜産業)に対比するかたちで魚(水産業)を考えるのであれば、産業として質の違いを前提としなければならないだろう。

食肉は狩猟によって捕獲されているのではなく生産されている。漁業の多くは生産(養殖)ではなく漁獲されている。どちらが量的にも質的にも安定した供給が可能なのか?どちらが産業として安定し得るのか?問うまでもない。

 

主張5):魚の自給率が昭和のころは100%を超えたこともあったが平成になってからは60%前後で推移している。ここから魚だけではなく、農業も含めた食糧自給の話になって、食の安全から日本の食の安全保障にまで話が展開する。地産地消を進めてという話になると、あたかも自給自足経済の賞賛に至る議論に発展する。

疑問5):経済的、社会的以上に日本列島がおかれた自然条件から、農業でも漁業でも食の自給は現実論としてあり得ない。自給自足社会を求めて江戸時代に戻すのか?

原油や天然ガスをはじめとした基礎的な物資が、国内で生産できる量だけでは現代社会が機能しない。輸入資源なしでは、水も肥料も手に入らない。生産したものを市場に届ける鉄道もトラックも走らない。保冷倉庫もない。

海外からの資源を使って、日本で栽培し収穫したということで、それを日本産として食の安全保障?海外からの資源に依存しているということでは、米は原油が姿を変えただけだという言い方すらあるのをご存じだろう。自給を主張することによって財政支援を確保し、利権屋政治に堕する可能性がある。自覚と自制が求められる。

自給を目指すのは、なぜ食糧だけなのか、衣料品や日用雑貨なども含めた製造業はどうする?どれもこれも自給を目指すということは、保護貿易を主張するとの同じことなる。

第二次世界大戦のきっかけが、たとえ一部にせよ、植民地を含めた主要先進国の経済ブロック化――保護貿易にあったこと、それによって大恐慌に輪をかけて世界経済が縮小した歴史的事実を分かって言っているのか?

 

巷の社会問題に開明的な人たちが、食の安全、食糧自給の話になったとたん、なぜこれほどまでに視野狭窄に陥るのか?日常生活の実感に基づいた社会観がそのまま社会の在りようにはつながらないいい例だろう。

善意が善意で終わるどころか、利権政治屋とその実働部隊として禄を食む官僚組織のプロパガンダに乗せられているだけのような気さえする。

 

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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