髑髏のある風景―中村彝の自画像について

著者: 髭 郁彦 ひげ いくひこ : 言語哲学

大正期を代表する洋画家の一人である中村彝は1887 (明治22) 年に茨城県仙波村で生まれた (この村は現在水戸市となっている)。彼の最もよく知られている絵は、1920 (大正9) 年に描かれた盲目のロシア人作家・エスペランティスト、ワシリー・エロシェンコの肖像であろう (エロシェンコの出身地は現在ウクライナの一部となっている)。ボリュームのある金色の髪。瞳には光がないために神秘的とも形容できる目。表情を読むことはとても難しいが、真っ白なシャツを着て、斜め前を向いたエロシェンコ。そのエキゾティックな姿は、大正時代の日本人にとって、実に魅力的なものであったに違いない。

今年は中村彝の生誕130年にあたる。それを記念して中村屋サロン美術館で3月18日から6月4日まで小規模な展覧会が開かれている。彝を中心とした美術家グループの作品も飾られているため、彝の絵の展示数はそれほど多くはないが、「麦藁帽子の自画像」、「少女」、「友の像」といった作品を鑑賞することができる。この展覧会の彝の絵を見ながら、自画像という問題について考えてみたいと思った。何故なら、人物画は即自的な対象が描かれているのではなく主体を持つ存在者がその存在性を顕示しているものであるが、その中でもとくに自画像は、描く主体と描かれる対象とが同一であるという特異性を有しており、主体と客体との関係性や間主体性という哲学的に重要な探究課題を提起するものだからである。彝はこうした複雑で容易には解き明かせない難問を孕んでいる作品を何枚も描いた。それゆえ、彼の自画像の変遷を追うことによって今述べた問題にスポットライトをあてることができると思ったのである。

本論に入る前に、ここで用いる分析視点について語っておく必要性がある。ここでは以下に示す三つの視点から検討を行うつもりである。第一の視点は、人物画を通して見つめられる主体性の問題、つまりは、人物画の中でもとくに自画像の中で示される「私」のイメージとそのイメージを構築する「私とは何か」という問への答えを明らかにしようとする視点である。中村彝の描いた自画像の比較という二番目の視点からのアプローチにおいては、彝の自画像の変遷を追うことによって、彼の絵画的手法の発展を分析すると共に自己を見つめるポジションの変化という問題に関しても考えていくつもりである。三番目の考察視点においては、死を前にした彝の「頭蓋骨を持てる自画像」と名付けられた絵 (この作品は彼の没年である1924年に完成している) と写真家のメイプルソープが死の前年 (1988年) に撮ったセルフ・ポートレイトとを比較しながら、客体としての自己と主体の重層性について論じていきたい。

 

人物画に表現された主体性

美術評論家で画商だった洲之内徹の息子で前岩手県立美術館の館長の原田光は『中村彝:新潮日本美術文庫37』の中で、「誰が彝を論じても、彝論の進行役は第一に結核である」と述べているが、結核が彝の人生及び絵画制作にとって極めて大きな役割を担ったことは確固とした事実である。明治から昭和の初期にかけて、多くの芸術家がこの病のために命を落とした。思い出せる限りでも、画家の村山槐多佐伯祐三、竹下夢二、詩人の八木重吉、高村光太郎、小説家の梶井基次郎、堀辰雄、作曲家の瀧廉太郎といった芸術家の名前を挙げることができる。この時代、結核患者は病を通して自らの生と死とを凝視せざるを得なかった。生から死への変遷。病に侵され衰弱していく自らの姿を見つめながら、多くの患者たちは「私とは何か」という問を繰り返し自らに発した。彝はその一人であった。

生と死との大きな隔たりを知るために、「少女」などの作品のモデルとなった、新宿中村屋の創設者である相馬愛蔵と黒光との娘で、彝が激しい恋心を抱いた俊子の肖像画と彝の残した多くの自画像、とくに彼の後半生に描かれた像とを比較してみよう。健康的でみずみずしく豊満な肉体と、時間と共に弱体化していく病に蝕まれた憐れむべき身体とのあまりの違いに驚かされるのではないだろうか。作品に描かれた俊子の肉体は生の強い輝きを放っている印象を受けるが、彝の多くの自画像は暗く重い鎖を背負った存在者の悲劇性を感じさせる。同時代を生きた人間であるにも係わらず二人の生きる姿は対極にあるもののように描かれている。そこには彝の生に対する問が、生を営む個々の主体の持つ宿命的とも言い得る差異が刻印されているのではないだろうか。

中村彝の作品には、もちろん静物画や風景画も数多く現存している。だが、彼の風景画には強く惹きつけられるような魅力はない。確かに、彼の静物画には西洋の偉大な画家の作風を真似ただけではない独自性が存在するが、彝の真のオリジナリティーが表現されている作品は人物画である。彼の人物画には先ほども触れたように、モデルとなった人物の主体性の問題が色濃く反映されており、それが彼の絵画的手法の変化と共に深化されていったと解釈できるからである。人物画の中でも、この小論では彝の自画像に注目していきたい。自画像は見る側と見られる側、描く側と描かれる側、主体と客体とが同一になり得るという一般性からの逸脱があり、その多元化された関係ゆえに主体の問題を探究するための特別な装置となり得るものだからである。彝の自画像の変遷を追うことによって、この問題に真正面から切り込んでいくことができると考えられるのである。

 

変遷する自己像

人物画という視点から彝の絵画的変遷を追った場合、彼の作品群を大きく三つに区分することができるように思われる。第一のものは主にレンブラントの影響を受けた暗い光線の下に対象が描かれており、人物の表情が重苦しく、沈鬱に見える作品である。第二のものはルノワールなどの印象派の影響の下に描かれた明るく彩られた画面の中に、肉感的で柔らかな表情がある人物が描かれた作品である。第三のものは未来派や立体派などの影響を受けつつも、新たなオリジナリティーを持ったタッチを確立していこうとする意図の下に制作された作品である。第一のものの代表例としては、1909年作の「自画像」や1910年作の「帽子を被る自画像」などを挙げることができる。第二のものの代表例は1911年作の「麦藁帽子の自画像」、1914年作の「少女」、1920年作の「エロシェンコ氏の像」などである。第三のものとしては「頭蓋骨を持てる自画像」と1924年作の「老母像」などを挙げることができる。

それぞれの区分の自画像に描かれている自己のイメージについて考察してみよう。第一の区分の作品における主体は苦渋の色を帯びた像として捉えられるだろう。この区分の中に分類可能な作品は前述したようにレンブラントの影響を受けた薄暗い光度が画面全体を覆っている特徴を持っているが、その陰影の中には当時不治の病であった結核の影を感じることができないだろうか。描かれる対象である「私」は重く辛い定めによって縛られている。それを画家である「私」が眺め、消し去ることができない宿命に抗いながら生きようとする自らの姿を世界の中に懸命に記そうとしている。そんな印象を受ける作品群である。このタッチを用いることによって彝は苦悩する自己を凝視しようとしているかのようである。内面に閉じ籠り、自らの精神世界を守ることによって「私」を主張しようとする像がそこにはある。

第二の区分の絵は第一の区分のものとは対照的に、画面全体が明るい色調で彩られている。この区分の中に分類可能な人物画としては、自画像よりも彝が何枚も描いた相馬俊子の肖像画を挙げ、考察する方が適切かもしれない。だがここでは彝の自画像の変遷を追うために「麦藁帽子の自画像」をこの区分の代表作と考え、分析対象とし、検討していく。この絵は画面全体が明るい色調で彩られ、光の中に溶解していくように、帽子、顔、首、シャツと背景との間の輪郭が厳格に確定されずに相互浸透している。光の強さと輪郭の曖昧さが軽やかな空間を提示し、自己の存在性が外部に向かって解放されていくような印象を受ける。第一の区分の作品が内部へ内部へと沈静しようとする姿が強調されているのに対して、第二の区分の作品は外部へ外部へと表出しようとするかのような我の力強い跳躍願望が語られているように感じられる。

第三の区分の絵は内と外といった二分割法を超越して新たな世界創造へと向かう姿が描かれようとした時期の作品である。「頭蓋骨を持てる自画像」を例に取ってみよう。この作品は先ほども指摘したように技法的には未来派や立体派などの影響を受けつつも、構図的にはエル・グレコの影響もある。原田光はこの絵に対して、「絵としてどうか。まとまりがない。そのほころびから、むしろ、絵をこえていってしまいそうな孤独無心の精神がのぞけていて、感動する」と語っている。構成的に見た調和のなさとは対照的な、病で痩せ細ってはいるが澄んだ眼差しを持った我と我が持つ骸骨。この自画像は混沌とした全体的構図に対して、その澄んだ眼差しと髑髏とのコントラストとが異次元的とも捉えられる自己イメージを表している。それは多彩な技術以上に第一の区分の作品と第二の区分の作品とを止揚する自己像のように感じられる。だが、この問題は次のセクションで改めて詳しく検討していくことにする。

 

死を前にした「私」

メイプルソープは多くのセルフ・ポートレイトを撮った写真家であるが、彼が死の前年に撮ったセルフ・ポートレイトは、髑髏の柄の付いた杖を右手に持ち、身体のシルエットが黒いセーターによって消され、不気味に浮かび上がった彼の顔が写し出された作品である。多木浩二は『写真の誘惑』の中でこの写真について、「かつての彼の顔は、そこでは崩壊していた。立派な顔だちとはいえないが、はっきりした眼鼻だちをした軽薄なまでに物怖じしない若者という印象があったメープルソープの顔は、いまや蒼白、そしてまだ (あるいはひときわ) 意志的ではあるが、もう生きているとはいえないほどに歴然と破壊された顔であった」と語っている。破壊された顔と言うことができるかどうかは大いに疑問ではあるが、もしもこの写真がエイズに侵され死ぬ一年前のメイプルソープを写したものであることを知らなかったとしても、何か不吉なものを感じてしまうであろう。

この写真と前のセクションの最後で考察した彝の自画像には、写真と絵画という違い、可能な限りオブジェを排した構図と背景に描かれた沢山のオブジェを持つ構図という違いなどの差異性を大きく超えた共通点がある。ここでは以下の三つの共通点を提示しながら、この二つの作品を比較することよって二人が表現した主体性に関する問題提起について考えてみたい。第一の共通点は頭蓋骨 (髑髏) の提示であり、第二の点はやつれた身体であり、第三の点は日常性を超越した眼差しである。

最初の共通点は象徴性の問題と関係する。頭蓋骨には死のイメージがある。それだけならば単純で月並みな事象であるが、中村彝が書いた次の詩句を思い出す必要がある。

何故か髑髏は

何時見ても

横目で物を睨んでゐる、

何時見ても

道行く盲者が空ばかり

たえずにらんで居る様に。

何時見ても

髑髏は何故か笑つてゐる、

何時見ても

歩む盲者がわけもなく

絶えず笑つてゐる様に。

ここに書かれている髑髏は死の象徴ではなく、死さえも笑い飛ばす生と死を超え出たものの象徴である。こうした髑髏に対する解釈はメイプルソープの写真にある彼が持った杖の柄に付けられた髑髏についても述べ得る。この髑髏も生と死の二分割法を哄笑しているように見えないだろうか。自己の存在を生というものだけに還元しようとする卑小な考えを大声で笑い飛ばす髑髏の力。その力を彝もメイプルソープも信じていた。つまりは、髑髏の存在に託した主体の超越性、それを二人の芸術家は強く願ったと思われるのだ。

第二の共通点である両者の病気に侵された身体の表出に関しては、二人の身体が共に生の世界における違和感を提示していると同時に、消滅する前の存在の鈍い煌めきを放っているような印象を受ける点を強調すべきであろう。生きた人間の身体が語られる場合、生の喜びに満ちた豊饒さがあるにせよ生の苦悩があるにせよ、そこには生きる力の持つダイナミズムが表わされている。自己というものが意志を持ち、何かに向かって動き出そうとするものであることが示されているのだ。こうしたダイナミズムは二人のセルフ・ポートレイトには存在してはいない。だが、弱々しい生命力と死の臭いが漂っているにしろ、奇妙な生の、あるいは、死の色調が描写されはいないだろうか。生者と死者とを繋げる中項のような像がそこにはある。

第三の眼差しの問題は二つの作品の共通点でもあり、大きな相違点ともなる問題である。彝の自画像の眼差しは、すべてを達観し悟りを開いた者の目のように美しく澄んでいる。それに対してメイプルソープの眼差しは視点がはっきりせず中空にあり、澱んでいる。それでも二人の眼差しが日常的な生の視線から逸脱しているという共通点があることは否まれない事実である。病に侵された身体像がこの二つのセルフ・ポートレイトの中で大きな位置を占めていることは確かであるが、はっきりと死に向かっている途上にあっても、二人の眼差しには消え去る前の生の光が宿っているのではないだろうか。希望はない、力強さもない、美もない。しかしそれでも失われずにいる瞳の中の光には主体の持つ不思議な威厳が存在している。それが主体性という問題を解き明かす一つの鍵となるように思われるのだ。しかし、このことについてはまとめの部分で詳しく検討しよう。

 

中村彝の自画像の変遷を追いながら、主体という探究課題を考察してきたが、前のセクションの最後の箇所で指摘した問題を中心としながら、この小論のまとめを行っていこう。哲学者で精神分析医であるジャック・ラカンはわれわれが知らず知らずに従っているイデオロギー的システムを大文字の他者と呼んだ。主体が確固とした自我を常に持つという理念上の神話も大文字の他者の働きによって成り立つものである。ブルジョワ性を担った「私」、学者性を担った「私」、労働者である「私」といった社会的な地位によって示される「私」だけではなく、同性愛者の「私」、サディストの「私」、フェティシストの「私」というように刻印された異常性も大文字の他者の持つ権力構造と深く関係している。主体というものを一元化し、定式化しようとする暴力性がそこに存在しているからである。

しかし、中村彝の自画像の変遷を追っていくと、この大文字の他者によって構築される主体を巡る大文字の物語がいかに虚構的なものであるかが理解できる。「私」というものを意味づける視点は多様であり、「私」は固定化することなど不可能なものであり、様々な方向へと変化していくものである。そうした変化を記録し、動態としての我を描き続けた彝の自画像を見つめていくと、そこには個別的であり、動き続けるものでありながらも、ある方向へと収斂していこうとする我の物語の歴史が見えてくるのではないだろうか。

その歴史的な動きの最後に描かれた「頭蓋骨を持てる自画像」。そこには前のセクションで考察したように、メイプルソープの死の一年前に撮ったセルフ・ポートレイトと同じく、主体の持つ不思議な威厳が存在している。すなわち、そこには主体である我が最後の輝きを生きようとし、崇高さへ向けて旅立とうとする黄金の矢となる手前の瞬間が表されている。それは厳粛な瞬間が写し取られたものであり、対象であることも主体であることも超え出て、存在の根源へと上昇しようとする、あるいは、下降しようとする姿が示されていると言えるのではないだろうか。

パトリシア・モリズローは『メイプルソープ』(田中樹里訳) の中で、死を前にしたメイプルソープが、「(…) 頭蓋骨を使って、肉体が衰えていく恐るべき過程をこうまで強烈に表現したことは、かつてなかった」と述べ、さらに、「一九八八年のセルフ・ポートレイトは、このテーマを、より個人的に昇華している。この作品はメイプルソープの最高傑作のひとつに数えられ、最も彼の本質をよく表したものといえる」と述べている。頭蓋骨と死にいく人間との対比は中村彝の「頭蓋骨を持てる自画像」の中に登場するテーマでもある。この絵の中にもメイプルソープのセルフ・ポートレイト同様に生と死の二分割法を昇華しようとする力が見られる。大文字の他者による強制的な規則性を超え出た主体の姿が明示されている。髑髏は死を待つ人間と隣り合うことによって、死の持つ不気味さとは別な次元があることを表し、衰弱し消え入りそうな身体を持ちながらも威厳の失われない存在性があることを語るものとなっている。髑髏のある風景はそれゆえに、滅びいく主体の悲劇ではなく、主体の新たな世界への旅立ちを高らかに歌う賛歌である。

鈴木秀枝の『中村彝』のエピグラフには、彝の書いた「より深きものの前に一切が何と言ふ空虚な夢に見える事だろう。要するに人生は眞實に向かふ無限の夢に過ぎない」という言葉が引用されている。人生が夢であるならば、そこで繰り広げられる「私」の主体性も夢の一部であり、「私」というものの真理は大文字の他者の支配を超越したところに存在する。自画像を描き続けた彝はそのことをはっきりと感じていたのではないだろうか。

髑髏を作品に導入することによって、主体という問題は新たな方向に展開される。生と死の厳格な境界線は壊され、生と死との軽やかな戯れが踊りだす。その舞踊に合わせて主体の隠された裏面が照らし出される。生と死とが逆転され、逆立ちになった主体が髑髏に投影され、哄笑するのだ。それをツァラトゥストラ的な転換と述べることもできるだろうし、タナトスの爆発と述べることも可能であろう。どのように形容したとしても生と死との物語は書き換えられるのだ。中村彝の自画像の変遷、それは大文字の他者の神話を打ち壊そうとし、再生する主体の物語を創出する礎となるものであった。そして、無限の夢に向けて解き放たれようとする我の最後の姿は、髑髏のある風景の中で、存在の新たな意味を伝えようとする語り部の姿として今も輝いている。

 

初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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