日本人向け証言集会16.8.2014 |
先の8月14日の国際記念日に、日本軍元「慰安婦」として強制売春の犠牲者となった李玉善さん(87歳)のベルリンブランデンブルグ門前広場での証言の写真と、それを中国とドイツのメディアが伝えたことは、これまで3度に渡って報告した通りです。
その後、この高齢の過酷体験者は力をふりしぼり、16日には日本人向けの証言集会、さらに17日には、ベルリン第一の大広場であるアレキサンダー広場で開催されている平和祭で多くのドイツ人市民に証言をました。
平和祭では、ここでもおなじみの、Bodypoetとして活躍するカズマさんのハルモニに捧げる力の込められたパーフォーマンスが先に行われました。
ガンジーのポートレイトがある平和祭の舞台です。少し遅くなりましたが、以下がこれらについての写真報告とします。
これまでの証言集会については、ベルリンの記者の長老である永井潤子さんが→「多くの心に響いた証言集会」とレポートされていますので、そちらも参考にしてください。
また、永井さんの報告にもあるように、日本大使館が李玉善さんとの面会を、非常に冷酷に拒否したため、20日には急遽、大使館前で抗議集会が行われました。その外務省の対応があまりにも酷いので、この現場でわたしをして激怒させました。
そこでこの件については項を改めて、外務省と大使館に対して徹底した筆誅を加えますのでしばらく時間を下さい。というのは今でもまだ、はらわたが煮えくり返るのがおさまっていないからです。根本的に歴史認識に欠陥のある安倍首相などは論外ですが、岸田外務大臣以下の中根ベルリン大使、また関係担当官は、まずはこの報告をしっかり読んで、首を洗って待って下さい。あなた方のやりかたは、日本国家の戦後の信頼を根底から裏切る、絶対に赦しがたい犯罪的な行為なのです。
さて、今回の本題です。
16日の日本人向けの証言集会は、日本語のできる若い韓国人や、ドイツ人の学者も参加し、多くの若い日本人が参加しました。40人を超えたため狭い会場は立ち見もでました。質疑応答も含め2時間半に及ぶ大変に充実した証言集会となりました。日本人記者も共同通信、産經新聞、朝日新聞の支局長も参加。滅多にない機会ですのでじっくり話しを聴いていました。それぞれの将来の報道に期待します。
司会は日本人の若い女性のおふたりです。通訳はナヌムの家に3年間滞在した経歴があり、完璧な韓国語ができる写真家の矢嶋宰さん。李ハルモニの左の女性はナヌムの家の長年の事務局長である金貞淑さん。
李ハルモニのお話しは、「私がここに来たのは、日本人が集まるというので、みなさんにお願いがあるからです」で始まりました。それから簡単に、良く知られた(ドイツ紙の報告にあるような)過酷な体験を簡単に話されたあと、「14歳で中国の延吉の慰安所に連れて行かれた時には、世の中のことがわからない子供でした。貧しくて学校にも行っていないので日本語ができないといわれ何度も殴られ、刀でおどかされたりして、本当に血の出る体験をしたのに、日本では私を嘘つきというひともいるのです。子供がすきで『慰安婦』になったと皆さんは思いますか。強制連行され売春を強制されたのです。だから私は『慰安婦』と呼ばれるのはいやです。強制されたからです。」
別の機会に彼女が、わたしに直接話されたところによれば、李ハルモニの日本語は慰安所で強制されて無理矢理に覚えさされたものです。この日の証言でも質問に答えて、「日本語のできない私たちを整列させて、刀で斬りつけようとした。次は私の番にならないかと脅えた。時には本当に斬られて半死状態で連れ去られた女性もいた。」
そのようにして覚えさされ、そのごすっかり忘れていた日本語を、2000年に中国から帰国して、ナヌムの家で暮らすようになってから何と、彼女は日本人訪問者のために小学校の教科書で「あいうえお」から自習して覚えたとのことです。子供のころ貧しくて、当時日本統治下の皇民化教育教育が行われていた国民小学校に行けなかった悔しさが、その遠い背景にはあるのかもしれないとも思ったものです。
加えて考えたことがります。かつてナチスの強制収容所では、ドイツ語ができることが、役に立つと優遇され、生死の分かれ目になったという生存者の証言は多数あります(有名な例では、ハンガリーのユダヤ人でノーベル文学賞受賞者→イムレ・ケルテースは彼の作品で、そのことについて多く書いています)。李ハルモニの場合は、性奴隷として生き残るために、強制されて敵の言語を覚え、解放されて過酷体験を伝える機会が巡ってきたので、70歳代半ばになって自主的に学び直しています。これは驚くべきことで、この人物の精神力の深さといえましょう。
証言は続きます。「私はいつ死んでもよい年齢になっているのに、日本政府はいまだにきっちりとした補償をしようとしません。私たち全員が死んでも歴史は残ります。残ったあなたがた若い人たちが解決しなければならないのです。」
「慰安所は屠殺場と呼んだ方が適切です。私は生き残りましたが、私たちは特攻隊への慰問袋のようなものだったのです。ビルマではチマチョゴリの女性たちが集団虐殺されたこともあるそうです。毎日40から50人もの兵士の相手をさせられるということは、死ねということです。普通の下級兵士はまだましだったが、将校や士官は酷かったのです。一度逃げてつかまった時には、ある憲兵が『逃げられないようにしてやる』と足の指を斬りつけられました。」とその足の傷を示されました。
「首を吊ったり、裏山で自殺した女性もいました。私の右腕には大きな刀傷があり、歯は酷く殴られたため総入歯、子宮を切除しなければならなかった ので子供は産めなくなりました。亡くなった人たちはどんなに悔しい思いをしたことでしょう。私の白髪は、実は若い時からのものです。私の体験を日本政府に話すのには 一晩では済みません。日本政府には死ぬ前にきっちりと謝罪をしてほしいのです。」李玉善ハルモニの証言の要旨はこのようなことでした。
質疑応答では、まずナヌムの家の歴史と機能についての質問で、事務局長の金貞淑さんから、詳しい説明があり、さらに李玉善さんが、どのような経過で韓国へ帰国され、ナヌムの家にたどり着いたか、そして、すでに死亡宣告されていた彼女がどのようにして韓国市民として「生き返った」かの経過も、質問に答える形で説明がありました。
また、慰安所での様子に関する具体的な質問には、ハルモニは「最初の慰安所には日本人の女性も一人いたが、特別扱いをされており、あとの11名はすべて朝鮮人女性であった。日本人は米の飯だったが、私たちは粟の雑穀だけ。」
翌日パーフォーマンスをするカズマさんの「親切な兵士はいましたか」との質問に答えて「朝鮮人の兵士もいました。日本語で話しをするので、はじめはわからないのですが、あとからそれがわかった。またある日本人の兵長は『トミコ一緒に日本へ行こう』と言ったこともある」との回答でした。
日本の敗戦時の体験も質問に答えて、非常に具体的に話されました。「日本が負けたことは知らされなかった。あるとき兵隊がやって来て『何してる逃げないと殺されるぞ』というので、7人の女性とともに山中に逃げた。私たちは棄てられたのです。しかし食糧が無いので,数日後、街の中に降りていってみんなバラバラになった。中国人のところでトウモロコシのパンをもらったりして命をつないだ。朝鮮人は日本の手先として殺される人もいたので恐ろしかった。ロシア兵の暴行もあったので危なかった。空腹で倒れたところが、ある朝鮮人男性の家の前で、彼に拾われて命が助かった。」
「つらい体験を証言する勇気はどこから出るのでしょうか」との質問には、力のこもった声で「特に日本人に話したいのですが、私は悪いことはしていないので、怖いことはないのです。また一度死んだ人間なので怖いものなどないのです。また、亡くなった被害者が多勢います。彼女らに代わってちゃんと謝罪を受けたいと強く希望しているのです。」との明瞭な返事でした。証言をする背後には膨大な死者がいるのです。
どのような謝罪を望むかとの質問には「天皇が来て謝るべきです。総理大臣もです。そもそも人間としての名誉を奪ったのは誰なのですか。公式な謝罪と正式な補償を望みます。韓国の社会も私たちが死ぬ前の公式謝罪を望んでいます」。
この返事に金貞淑さんから、謝罪のあり方に関しては、被害者の間でも色々な意見がることが述べられ、いずれにせよ「日本政府の公式な謝罪文書が最低必要である」こと、「村山首相以来の謝罪の手紙は、歴代総理大臣の、しかし個人としての文書であり、政府としてのものではないので受け入れられない」との見解がありました。
そこで「ドイツの2000年の強制労働補償法をどう評価するか」との、これは私からの質問には「良くやったと思う。国会決議などでの国家意思としての謝罪が必要です」との回答でした。
このように問われているのは国家責任なのです。それが伝わらない謝罪は、本物の謝罪ではないのです。ここに、先の戦争の国家と責任を問わずに済ましてきた戦後日本社会最大の歴史認識の欠陥が出てきます。この認識を持てない政府は自らの歴史の責任が自覚できない、すなわち無責任政府なのです。
お話が終わってからも、日本語ができる若い韓国人の青年らに話しかけられ、休めませんでした。この集会には若い日本人女性たちが多く参加しており、忘れられない体験をしたようです。
長い集会を終えると、すっかり秋めいたベルリンの街は夕立が通り過ぎ、疲れた様子のハルモニは車椅子で地下鉄に乗って、大好きなラーメンを食べにいきました。
ほんとうにご苦労様でした。
さて、翌日の17日の日曜日の平和祭りは、打って変わってベルリンの中心の大広場です。
李玉善さんの証言の前に、グレン・カズマさんのパーホーマンスがありました。
なにしろ、男性ですので、どうやら日本兵となってのものでした。
これは写真だけで、解説は不要でしょう。
先日の→バチカン放送が伝えたように、韓国を訪問したローマ法王フランシスコに贈られたのが、黄色い蝶のバッジでした。法王はそれを法衣に付けてミサを行いました。黄色い蝶は、長い苦しみと沈黙の繭を破って、証言を始めた元日本軍性奴隷の女性たちの、心の象徴なのです。李玉善さんの心も、このひとつです。彼女の言葉には、繭を破れずさなぎのまま亡くなった何十万の女性たちの無念が込められていることは、16日の証言にあったとおりです。
(*後半の写真及びその解説などは、編集の都合上削らさせていただきました。)
初出:梶村太一郎さんの「明日うらしま」2014.8.26より許可を得て転載
http://tkajimura.blogspot.jp/2014/08/blog-post_26.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座〉
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