前稿(10月1日掲載)では、本書の内容まで踏み込んでの紹介ができなかった。本稿では本書の魅力の一端を示すため、いくつかのテーマを取り上げながら本書の内容を紹介したい。
東京裁判前史-沖縄戦と原爆投下
沖縄戦においては、日本軍が民間人を巻き込んだ死闘を繰り広げ、アメリカ軍も甚大な損害を受けた。アメリカ側には、本土上陸作戦を実行した場合の耐え難い規模の損失を予想させた。アメリカ政府は天皇制の存置を認めた降伏勧告という選択も考えたし、また原爆の使用を決断したのも本土上陸作戦を避けたいという動機も大きかった。逆に言えば、沖縄の日本軍が速やかに降伏して早期に沖縄戦が終了していれば、原爆投下を含めてその後の展開は変わっていたはずだ。
天皇制の存続
戦争終結以前にアメリカ政府は、天皇の戦争責任を追及しない方針を決めていたといわれる。その理由は主に以下の三点である。
第一に、日本文化研究の報告などに基づいて、天皇制を存続させることが日本人の占領軍に対する反感を逸らし、占領政策を効果的に進めるうえで利用価値が高いと判断したこと。第二に、第一次大戦後、連合国がドイツ皇帝の戦争責任を追及しようとして亡命に追い込み、共和制になったことが結果的に、ドイツ国民の間に激しい政治的分裂と対立を招き、ヒトラーを出現させたという反省があったこと。第三に、イギリスのアトリー政権は立憲君主制における王室の「実用性」を評価しており、アメリカ政府の方針に同意したこと。
東京裁判が始まると、アメリカとイギリスの間の了解事項に関与していない諸国の間で天皇の戦争責任を問うべきだとする議論が再び持ち出されるが、その都度、GHQによってその声は消されることになった。
こうしてみると、GHQ主導で制定された日本国憲法の天皇を「国民統合の象徴」とする文言は占領軍の置き土産とも見えてくる。つまりアメリカは、天皇を存続させることによって国民の間に深刻な分裂が生ずることを抑制し、占領統治を容易にすることができた。そのような天皇の「効能」を新憲法にも盛り込んだのではないか。
自民党の改憲案には、「天皇を元首とする」という論争の的となる個所があるが、「国民統合の象徴」の文言は残されている。護憲派も改憲派もこの文言の含意するところを改めて検討するべきではないか。
新憲法によって否定された明治憲法の天皇像は、明治新政権を手探りで樹立しようとしていた人たちの海外の政体に関する知識などの寄せ集めであった。実際に作り出された近代天皇とは、軍服を着て乗馬し閲兵するなど、イメージとしてはヨーロッパの皇帝に似せ、しかし発する文書は教育勅語を典型として儒学をベースにしたものという不思議な混合体だった。
いまだに教育勅語の復活を唱える政治家などもいるが、ノスタルジーに浸る無益な人たちである。天皇を主権者とした明治憲法下、日本は対外戦争を繰り返した挙句、破滅的な敗戦を迎えた。戦後、アメリカ政府の意向もあり、天皇裕仁は学問を好む天皇として装いを新たにし、平成、令和とその流れが続いている。しかし今後も天皇の地位を継続させるとして、どのようなものにするべきか、根本から再考すべき段階に来ているのではないか。
近代において政治利用されてきた姿をいったん清算し、近代以前の天皇の歴史やヨーロッパの王室のあり方なども参考にして、皇室の方々の人権を尊重した天皇制のあり方を考えるべきだろう。
アメリカ主導の裁判ではなかった
一部の論者の間では、東京裁判とは勝者アメリカによる日本への不当な復讐劇であったとする議論が見られるが、実際にはGHQやアメリカ政府の思惑とは大きく異なった法廷となり、何回も空中分解の一歩手前まで行くほどの混乱の中で結審している。その理由は多岐にわたるが、その中のいくつかを取り上げる。
第一に、裁判長ウェッブの能力・性格の欠陥、とくに協調性のなさがあった。マッカーサーは検事長をアメリカから出したので裁判長はオーストラリア人を任命したが、判事たちを纏めるには最も不適格な人物だった。ウェッブを除く10名の判事たちはウェッブへの反感で一致するという始末だった。彼は市ヶ谷でも宿舎のホテルでも他の判事たちとテーブルを共にしなかったほど孤立していた。イギリス判事は、判決文の準備を始める段階でも、ウェッブを「独裁的で無礼で常軌を逸した」人物だと、本国外務省に苦言を呈していた。
第二に、アメリカから出したキーナン首席検事もいろいろと問題を抱えていた。マッカーサーの目にも「小うるさくて見栄っ張りで芯のない男」と映っていた。実際に他国の検事たちとの協調関係には困難があった。しかし判事団と検事団の混乱に対してマッカーサーは積極的に動くことはなかった。裁判に対する彼のほとんど唯一の関心は真珠湾攻撃に対する責任者の処罰だったからだ。
第三に、結果として東京裁判は、イギリスとニュージーランド、カナダの大英連邦諸国判事、検事たちの主導によって進められることとなった。彼らはイギリスの慣習法の伝統を共有し、文化的親近性を持っていたことが背景にあった。彼らに加えて中国、フィリピン、アメリカさらにはソ連の判事も同調していき、多数派を形成した。このことがマッカーサーの意図した裁判の目的から逸脱していく大きな原因となった。
第四に、インド判事のパルが典型であったが、最初から裁判に協力するつもりのない者がいた。パルは過酷なインド支配を続けたイギリスに対して深く強烈な憎悪の感情を抱いており、公判を通じて一貫して協力する気はなく、一人宿舎のホテルの部屋にこもってヨーロッパ諸国による植民地支配に対する批判に基づく、戦犯容疑者たちの無罪判決を書き続けていた。
冷戦の始まりと東京裁判
ニュールンベルク裁判が46年10月に終結したのに対し、東京裁判は48年11月まで引き延ばされてしまった。その間、米ソ間の冷戦が進行しつつあった。アメリカは中国が国民党によって戦後復興し、しいては中国を中心とした東アジア世界の安定した秩序が形成されることを期待していた。しかし人民解放軍による国民党軍の放逐が進み、期待は裏切られることになった。アメリカ政府は、中国共産党の背後にはソ連がいて、中国の状況は共産主義による世界侵略の一環と受け止めた。
ソ連封じ込め政策の立案者であったアメリカの外交官ジョージ・ケナンは48年3月に来日し、マッカーサーと3度にわたって会談をもち、東京裁判も一度傍聴している。ケナンはナチス指導者たちを即決裁判で銃殺することにより速やかに戦後処理を終え、ソ連と対峙する体制整備が必要と考えていた。彼の眼には、だらだらと続き、方向性を見失っていた東京裁判は、「連合国の大義を傷つけている」と見えた。帰国後の報告書では、民主化や財閥解体よりも日本を共産主義の膨張から自由世界を守るための防波堤とするための軍備と経済力の回復を急ぐべきと提案している。
このような状況のなかで、A級戦犯7名の処刑後、アメリカ政府として「利用できそうな」政治家たちが直ちに一斉に釈放された。岸信介もその一人である。彼がその後間もなく首相になった仕組みこそが、正確な意味での「戦後レジーム」というべきであろう。祖父の岸を敬愛していた安倍晋三元首相は、「戦後レジームからの脱却」なるスローガンを唱えながら、対米追従一辺倒の防衛政策を進めた。滑稽なことに彼自身が戦後レジームの嫡出子だったのである。
初出:「リベラル21」2024.10.10より許可を得て転載
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