1、土肥元校長が勝訴されたら?  2、『私を生きる』のフィクション部分!?

 「日の君」問題や民主主義の問題と連動すると思われる土肥元校長の裁判や『ドキュメンタリー』映画について、私の意見です。本文は、いくらなんでも長すぎます(A4 10枚)ので、以下、結論部分のみを御紹介します・・・

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1、土肥校長が勝訴されたら、
<結論>
 さて、件名の結論に入ります。私は、土肥元校長が、裁判で勝利なさり、それが確定することになれば、それは「日の丸・君が代」の強制に反対したり拒否をする人々、「学校に自由を!」という人々にとっては、有害なものになるのではないか、と考えます。
 土肥元校長の主張の中心点は、都教委によるオールC評価(勤務成績不良)は事実に反する、というものです。なぜなら、「(※都教委からの指示命令に対して)法令遵守は私のポリシー(※なので、全て、きちんと守った)。『職員会議に於いて教職員の意向を聞く挙手・採決の禁止どおり、三鷹高校では意向を聞く挙手・採決はやっていない』『卒業式では(※「日の君、立て・歌え! そうしないと処分だ!」という)職務命令は通達どおり出した。(※そして、不起立教員は処分するよう報告を書き、都教委に処分させた)』」(2009年11月5日の口頭弁論における土肥元校長の意見陳述 「土肥元校長の裁判を支援する会」ブログhttp://dohisaibansien.blogspot.com/2009/11/blog-post_07.html ※は増田の補注)
 
 自分は、都教委の言うとおりに都教委の指示命令に抗うことなく「法に準ずるものとして遵守」して学校運営をしてきたので「勤務成績」は優良となるはずであり、「勤務成績不良」という事実は存在しない・・・
 
 これは、悪名高い「君が代」伴奏拒否処分を正当とした最高裁判決、そして、「日の丸・君が代」不起立処分を正当化した(1月16日に「停職処分」は裁量権の乱用として取り消されるようですが)最高裁判決の論理そのものではないでしょうか? その根拠は「内心ではいくらでも『反対だ、そういう行為をしてはならない』と思っていてもよいのだから、内心・思想・信条の自由は守られている。したがって、公務員は全体の奉仕者として、心では『日の丸・君が代』に『反対だ』と思い、口でそれを表明していても、上司の職務命令に忠実に従ってその反対の行為(※起立・斉唱、ピアノ伴奏などの行動・実践)をなすべきなのだ」ということでした。
 
 私は、この最高裁判決を目にした時、「そんな無茶苦茶な・・・『民主主義に反し、間違っているから反対だ』と内心で思い、口で表明しながら、その反対の行為(反民主主義の行動・実践)を為すことなど、できるはずがない。内心と外形的行為とは切り離すことはできない。」と、呆れました。
 
 しかし、土肥元校長の言動を目にした時、「そうかっ!? いらっしゃったのだ・・・内心と正反対の行為を、誇りをもって、できる人がっ!? 都教委による職員会議挙手採決禁止や10・23通達は『民主主義に反し、間違っている、反対』と内心で思い、それを内心で思うだけでなく、声高に唱えながら、行為(行動・実践)においては、その『民主主義に反し、間違っている、反対だ』ということと正反対に、職員会議挙手採決禁止通知や『日の丸・君が代』強制10・23通達に抗うことなく従って、職員会議では挙手採決をせず、『日の丸・君が代』は強制し、不起立をした教員の思想・信条の自由を弾圧し、しかも、その行為(行動・実践)を『法令遵守している』と声高に誇らしく語れる人が・・・」と、呆気に取られました。
 
 つまり、土肥元校長が勝訴されるとすると、それは、彼が口では職員会議挙手採決禁止や10・23通達は「民主主義に反し、間違っているから反対だ」と声高に唱えても、その「反民主主義だ、間違っている、反対だ」という内心・思想・信条の表明とは正反対の反民主主義の行為(行動・実践)を、都教委の指示命令どおりに為したことが、裁判官(司法)によって評価された・・・「成績優秀」と・・・ということになるでしょう。
 
 これは裁判所(司法)が、「口では声高に反対を唱えても、外形的行為(行動・実践)においては抗うことなく、行政上位者の指示命令どおりに口と正反対のことを為す」ということを評価し、「土肥元校長を見習って、口で反対を唱えても、都教委(行政)=上の地位の者の指示命令は全て忠実に実行・実践すれば、不利益がないようにしてあげるからね!」と推奨する、ということになるのではないでしょうか?
 
 もしも、こういう勝訴判決が出されたとしたら、私は「日の丸・君が代」強制に反対し、「学校に自由を!」という主張の助けになるどころか、むしろ有害だろうと思うのです。
 
 付言しますと、敗訴なされば「反民主主義で間違っているから反対だと、声高に表明した場合は、行為(行動・実践)においては口での反対表明とは正反対に、抗うことなく行政上位者の指示命令に従ったとしても、『成績不良』に値する」ということになり、口まで封じられますから、これはまた、もっと困ることになりますねぇ・・・
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2、「ドキュメンタリー」映画『私を生きる』(土井敏那監督)のフィクション部分
 この映画のキャッチコピーは、「『教育の統制』の巨大な流れに独り毅然と抗い、“教育現場での自由と民主主義”を守るため、弾圧と闘いながら、“私”を貫く教師たち」『日本社会の“右傾化”“戦前への回帰”に抵抗し、“自分が自分であり続ける”ために、凛として闘う、3人の教師たち』です。

 しかし、上記した土肥元校長の『教育現場での』行動・実践、主張は、このキャッチコピーに反しているのではないでしょうか? 他のお二人、根津公子さん・佐藤美和子さんを描いた部分と違い、土肥元校長の部分はフィクション・ストーリーになっていませんか?

 都教委の指示命令に抗うことなく従い「都教委との共犯者であったこと」を誇り、「都教委の指示命令を法令として遵守することは私のポリシー」と正当化している人物を「『教育の統制』の巨大な流れに独り毅然と抗い、“教育現場での自由と民主主義”を守るため、弾圧と闘いながら、“私”を貫く教師」、都教委と「凛として闘う教師」として映し出すのは、ブラック・ジョークではないでしょうか?

 私は、この「ドキュメンタリー」映画の「完成前の最後の編集のために率直な意見を聞きたい」という土井敏那さんの意向を受けて開かれた明大での会議に出ました。そして、土肥元校長についての上記真実を伝え、「こういう描き方をすることは間違っているから、土肥部分はカットすべきだ」と率直に意見を述べました。

 その時、土井さんは、かなり、感情的に言われました。
 「そんなら、増田さんは、土肥さんにそれを確認したらいいじゃありませんか?」
 私は「はぁ~~?」でした・・・大いにズレているこの回答・・・まるで都教委の小官僚サンみたいじゃないですか?(笑) そこで、私は言いました。

 「私は、確認しているから、もう確認の必要はないんですよ。確認するのは、あなたの仕事でしょう? 土肥さんに、私が言ったことが事実かどうか、確認するのは、あなたの責任です。

 根津さん・佐藤さんは『民主主義に反し、間違っているから反対だ』と思うことは『できない』と表明し、その反対の心を真っ直ぐに実行・実践(行為)している人たちです。

 でも、土肥さんは、彼女らとは正反対ですよ。『民主主義に反し、間違っているから反対だ』と言ってることとは正反対に、『民主主義に反し、間違っている』と言っていることを実行・実践しているんです。しかも、『法を守るのは当然』と正当化し、それを誇っています。どうして、根津さん・佐藤さんと同列に描けるんですか?」

 しかし、土井敏那監督は聞く耳を持ちませんでした。なぜでしょうか?