<チェルノブイリの無名のヒーロー達>

今回は、ドイツで2011年に出版された本をご紹介したいと思っております。「君たちは変わりたまえ!エネルギー革命への宣言 (Verändert euch! Das Manifest zur Energiewende)」と題された本はドイツのAufbau出版社から出版されたもので、28人の寄稿者のエッセイで成り立っています。「フクシマ事故の後、世界は岐路に立たされている。私たちは、原子力依存を断ち切り、新たなエネルギー革命を進めていかねばならない。」 と謂う趣意でこの本は作成されました。28人の寄稿者はジャーナリスト、大学教授、新聞雑誌編集者、著述家、牧師などの方々です。

その中で、大変印象に残ったのがLandolf Scherzer氏著の「チェルノブイリに近づこうとした私の二つの試み」と題されたルポルタージュでした。ルポルタージュには、チェルノブイリ爆発事故後に事故処理、事故後始末の作業に携わった「リクビダートル」と呼ばれる80万人に及ぶ無名のヒーローたちの事が描かれてあります。

「リクビダートルの英雄的行為がなかったら、ヨーロッパの全人口の40%が避難していなければならなかったこと。また、ヨーロッパ全面積の半分近くの土地が農業目的のために使えなくなってしまっていたこと。」 を、私はこのルポルタージュを読んで初めて知りました。と共に、私はフクシマ事故現場で大変な被曝をされながら事故収束のために働かれていらっしゃる作業員の方々を思わずにはいられませんでした。事故収束のために少なくとも10年以上はかかるであろうと謂われているフクシマ原発事故、それまでに一体何人の方々が被爆の犠牲者となって作業を続けていかなければならないのでしょうか?そして一方では、原発再稼動を無理やり押し進めようとする日本 政府...。 正に狂っているとしか謂い様がありません。

最後に、このルポルタージュを翻訳する上で、著者のScherzer氏がご親切にもAufbau出版社と交渉して下さって、正式に出版社より翻訳してもよいとの許可を得ることが出来ましたことをお伝えしておきます。

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「君たちは変わりたまえ!エネルギー革命への宣言-Verändert euch! Das Manifest zur Energiewende」から

チェルノブイリに近づこうとした私の二つの試み

-*Landolf Scherzer著 (訳:グローガー理恵)
チェルノブイリは、ウクライナ語で「黒く苦いベルモット」という意味である。

1986年4月26日、チェルノブイリ原発で起こった核爆発(20世紀に起こった最も大きな科学技術事故)は、重さ3000トンの鋼鉄製の原子炉カバーを吹き飛ばした。放射性の燃料棒や制御棒が多量、空中に放り出され、並んで立っていた他の原子炉建屋の屋上や、周辺地域の道路、広場、耕地、野原に拡散された。チェルノブイリ爆発は、広島原爆の6000倍の放射能量を放出した。事故発生してから12時間後には既に、最初の被爆犠牲者たちが死亡していた。それからは、どの統計にも残されていない、ウクライナとベラルーシの何千人もの男性、女性、子供たちが、「目に見えない黒い死」の犠牲者となっていった。
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チェルノブイリ事故から20年経っていた。ベルリンでの朗読会が終った後に、背筋の真っ直ぐな姿勢の正しい女性が私に近づいて来た。そして、その女性は少しはにかんだ様子で「自分で作った本があるのですが、見て下さいませんか?」と、私に訊ねてきた。

それは、赤と白のチェック模様の学校用ノートだった。ノートを捲ると、一頁ごとにページ数が書かれてあって、全部で120頁あり、そのうちの56頁には、非の打ち所のない美しい手書き文字で文章が書かれてあった。ノートの表紙は、貼り付けられたヒナゲシの花々で縁取られていて、そこには「ガリナ・ヴォリナ作: あるケシの花の愛」と題してあった。

ウクライナ女性は、自作の本に載っている一番最初の文章を、私のために訳してくれた。

「今日、私の親友ナデシュダの夫、セルジャシャが亡くなった。セルジャシャは、11月には46歳になる筈だった。それは、ナデシュダの最初の夫が亡くなったときの年齢よりも25歳上だった。人々は愛情をこめて、ナデシュダの最初の夫を『パシュカ』と呼んでいた。ナデシュダのたった一人の子どもは、この世に生まれてくることなく死んだ。その子が亡くなった日は1987年の4月22日、ちょうどレーニンの117歳目の誕生日にあたった。」

文章の下には一枚の写真がある。: 色とりどりの服装をした男性、女性、子供たちが花と花で繋がれた花飾りを頭上にのせている。彼等の後ろには、黒色の布で覆われた側面板を下ろしたトラックが行く。トラックの荷台には蓋われていない棺が置かれてあって、棺には赤色のケシの花束が一束だけ、飾られてある。そして、一人の小柄な女性が居る。-「これがナデシュダです」とガリナが言う。- ナデシュダは身を屈めながら、トラックの後を独り行く。ナデシュダは、トラックの荷台にしっかりと摑まっていて、それは恰も彼女が、夫の死体が載ったトラックを前方へ押そうとしているようでもあるし、逆に、トラックを引き止めようとしているかのようにも見える。

私はガリナに訊ねた。:「ナデシュダのご主人は何が原因で亡くなったのですか?」

-「チェルノブイリで...」

「しかし、チェルノブイリは20年以上も経っている、もう過ぎた歴史ではないですか」と、私は言った。

「チェルノブイリは、決して過ぎ去った歴史にはなりません。チェルノブイリ爆発があったあの時、大気中に放散されたプルトニウム239。そのプルトニウム239の半減期は24,000年もあるのですから。

プルトニウムの塵はウクライナや白ロシアの野原、土地に散らばっています。牛は、野原や耕地に生えている放射能汚染された草を食べて、人々は、牛糞と一緒に 自分たちの庭へ危険なプルトニウムを持ち込み、じゃが芋や小麦粉に混じったプルトニウムを食べつくしてしまいます。ドニエプル川やキエフの湖には 放射性プルトニウム粒子が浮いています。そして、暑いウクライナの夏には、自動車が道路側溝や野原にあるプルトニウムの粉塵を舞い上げます。

1ミリグラムのプルトニウム239を吸込めば、死に至ることもあります。ウクライナの現在の放射線量は低くなってきています。しかし、もし人間がプルトニウムと共に、30年もしくは40年間も一緒に生きるのだとしたら、そうだとしたら...。

1986年の最大想定事故によって放出されたプルトニウム239は、今もウクライナやベラルーシの原野やキエフ周辺の湖に散らばっています。そして、紀元25986年になって初めて、プルトニウム239は半減することになります。紀元25986年に、人類が地球に未だ存在しているのか、それとも、既に滅びてしまっているのかなどという事、そんな事はもうどうでもよいことです。」-ガリナ
ナデシュダの最初の夫、パシュカは水利工事技師だった。事故が起こった恐ろしい夜、彼はチェルノブイリ原発の近くにある流れの澄んだ小さな川で釣りをしていた。一時ちょっと過ぎ、パシュカは爆発音を聞いた。それからパシュカは、チェルノブイリ原発の上に火柱が立ち上ったのを見た。

その晩、睡眠を妨げられた消防隊員たちは、ただの布製の消防隊服を身に付けて、原子炉火災を消火しようと試みた。翌朝になると、何千度という灼熱を放つ、口を開けてしまっている原子炉の上を、軍用ヘリコプターが旋回飛行していた。ヘリコプターの乗組員はアフガニスタン戦争を生き延びた軍人たちであった。彼らは砂と鉛を原子炉の中に、狙いを定めて正確に注入するために、地獄の深淵のような原子炉の底までを見下ろさなければならなかった。原子炉から300メートルの上空でも1000レントゲンの放射線が測定された。(400レントゲンの放射線被曝をした場合の死亡率は50%である。)チェルノブイリの一番最初の死亡犠牲者は、消防隊員、操作員、そしてヘリコプターのパイロットたちだった。

災害から2日後、政府と政党は情報公表禁止を解除した。放送局は報道した。:「チェルノブイリ原子力発電所で火災が発生したが、火災は既に制御下にあるという事である」と。

1200台のバスやトラックが(長さ20メートルの列をなして)、チェルノブイリ原発から10キロ離れたプリピャチ市の住民5万人を4時間以内に避難させた。住民には、絶対必要品のみを持参すべきであるとの指令がなされた。

「三日以内にはみんな家に戻れるから」と当局者は断言した。しかし、誰一人として家に戻れた者はいなかった。今も、プリピャチはゴーストタウンのままである。軍は、チェルノブイリ周辺30キ ロ地域を、誰も立ち入る事が許されない「立ち入り禁止区域」として封鎖した。封鎖された村々では、土堀機操縦者が穴を掘っていき、その中に木造家屋を落として、そこをまた土砂で埋め戻す作業をやっていった。その後、空っぽになった村の中を狩猟集団が歩き回り、高放射線被曝してしまった、人を探し求めて懐いてくる犬や猫を銃殺していった。

そして、兵士たちは放射能汚染された土を開削した。

それから、その土を土の中に埋めた。

チェルノブイリ原発の冷却水のバルブを閉じなければならなかったとき、ナデシュダの夫、パシュカは志願した。そして、パシュカは死の原子炉の下に潜っていった。パシュカは60万人から80万人いた、名もない「リクビダートル(事故処理班・事故後始末作業員)」の一人であった。リクビダートルはチェルノブイリ現場で、またチェルノブイリ周辺で、大気中の、地上の、そして水中の、致死の放射線と戦った人達であった。

リクビダートルは、もう原子核連鎖反応が止まらない原子炉を、鉄鋼とセメントで出来たコンクリート10,000トンを使った、放射能漏れしない石棺に埋め込めなければならなかった。しかし、その前に、近隣の原子炉屋上に放り出された何トンもある放射性の瓦礫、燃料棒、制御棒の破片や欠片を取って来て、それらを燃えている原子炉の中に放り込む作業が必要とされた。それから、原子炉を石棺の中に封じ込めることになる。

作業には、日本とドイツの特製ロボットとソビエトの月面車一台が使われることになった。消防隊員や兵士たちは、ロボットと月面車を持ち上げて原子炉の屋上に載せた。しかし、余りにも高い放射線量のためにロボットのエレクトロニクス・システムが機能しようとしなかった。そこで、リクビダートルチームの統率者は、リクビダートル志願者を人間ロボットとして屋上に送り出すことにしたのだった。リクビダートル志願者には、ソビエト全国から集められた白色の作業服、ビタミン豊富な食事、ボッカ、そして甲状腺がん予防のためのヨー素剤が与えられた。

リクビダートル・チームを指揮したのは、 カラカノ将軍であった。カラカノ将軍は、飛来した政府委員会用の部屋部屋の壁に大急ぎで取り付けられてあった鉛の被覆を、取り外すようにと命令した。それから、取り外した鉛の被覆を用いてリクビダートルのために、応急の放射線防護遮蔽を作り上げさせた。

サイレンが鳴る度に、9人のリクビダートルが遮蔽場からとび出て、シャベルと鋤を使い放射性破片や欠片を原子炉屋上から押しのけようと試みた。この作業は90秒以上を超してはならない。90秒たって、またサイレンが鳴り響くと、次の9人のリクビダートル・チームが屋上にとび出た。リクビダートルの人生におけるこの90秒間という時間の長さが、彼等に、賞状、報奨金、そして軍隊からの早期除隊許可を与えた。リクビダートルが為し遂げた90秒間の英雄的行為は、人間ロボットとしての死の放射線に対する戦いであった。

燃える原子炉を巨大な鉄筋コンクリート製の石棺に封じ込める作業が終了した後、一人の兵士がチェルノブイリ原子力発電所の最も高い煙突によじ登っていった。そして兵士は、そこにチェルノブイリを克服した印として赤色の勝利の旗を掲げた。

赤色の勝利の旗。それは1945年に、ソビエト兵士がベルリンの国会議事堂の建物に上り、ヒットラー・ファシズムへの勝利として掲げた赤色の勝利の旗のようであった。

60万から80万人に及ぶ男たちが、脅威をもって迫ってきた原子力大事故と立ち向かい、戦い、その戦闘に勝利したのだった。もし、彼等がこの戦闘に負けてしまっていたのだったとしたら、ヨーロッパ全人口の40%が避難しなければならなくなっていた。そして、ヨーロッパ全面積の半分近くの土地が、農業の為に利用することが出来なくなっていた。

第二次世界大戦中、ドイツ占領軍に対しての戦いで2000万のソビエト人が殺されたという事は知られている。 しかし、チェルノブイリ事故の後、その間に、いったい何十万人のリクビダートルが被曝の晩発影響で死亡していったのか、どの官公署も把握はしていない。

チェルノブイリ事故から9ヵ月後にナデシュダの最初の夫、水利工事技師のパシュカはモスクワにある特別病院に運ばれた。パシュカの皮膚が剥けてくるのだった。その後は、パシュカの茶色に変色した肉が骨からはがれていった。2ヶ月間、ナデシュダは病院で、パシュカの隣の床の上に寝た。パシュカは、一枚のポリ塩化ビニルのシートの下に横たわっていた。ナデシュダはパシュカを撫でることも、パシュカにキスすることも、パシュカに触れることも許されなかった。つい6ヶ月前にナデシュダとパシュカは結婚したばかりであった。最後には、パシュカの体が、骨なしの干からびたスポンジのように崩壊していった。パシュカの遺体は放射線防護のため鉛の棺に納められ、モスクワにある墓場に埋葬された。

その時、ナデシュダは(ナデシュダとは「希望」という意味である)妊娠4ヶ月だった。彼女は、あるモスクワの医者のところで、不法ではあったが、未だ生まれきていない子を中絶した。ナデシュダが医者に、自分が何処から来たのかということを告げると、医師は彼女から料金を取ろうとしなかった。

「もしかしたら」と、ガリナは言う。「ナデシュダが赤ちゃんを産まなかったのは、よかったのかもしれません。今日でも、チェルノブイリ災害から少し後に生まれてきた子供たちの中で、幾人かの喉仏に傷痕があるのが見えるのです。喉仏の傷痕は、癌手術を受けたという印なのです。」

ガリナは話を中断し暫くの間沈黙した後、「これは先ずウクライナが独立してからのことだと思うのですが、チェルノブイリ事故とかかわりなく、ウクライナの子どもの死亡率は、チェルノブイリ事故から直接被害を被っていない他のヨーロッパの国々よりも、決して高くはないということを、貴方はご存知ですか? ウクライナでは子どもが生まれると先ず統計にだけ登録されます。それから、新生児が生後4週間まで生き延びた事が確かめられてから、初めて両親は出生証明書を受け取るのです。
おそらく未だに、何万人の、もしかしたら何十万人もの子供たちがチェルノブイリ事故後の晩発性放射線障害で苦しんでいることでしょう」と語る。

もちろん、これらの数字に関してウクライナ政府も白ロシア政府も確認することはないだろう。

「世界には、チェルノブイリのような恐ろしい大惨事について全ての事実を認めるような政府も制度もありません。このような大惨事の場合における、歯に衣着せぬ正直さは政治的な死を意味します。即ち、それは統治権力を失うことを意味しますし、一方では、不正直さや災害を故意的に過小評価する事は、彼等にとっては、単なる一般庶民の死を意味するだけですから。」-ガリナ

「チェルノブイリを見たいのですが」と私は言う。
ガリナは首を振る。そして、「民警がチェルノブイリ30キロ圏封鎖区域を警備しています。貴方たちが立ち入る事は今でも禁止されているのです。」と言う。

しかし、たとえ自分がチェルノブイリの石棺を見ることが出来たとしても、私はチェルノブイリについて何も理解することは出来ないだろう。

「何故なら、『チェルノブイリ』を理解するためには、貴方自身が、そこに住んでいる人々の憔悴しきった魂を正視することが出来なければならないからです。」-ガリナ

-以上ー

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*Landolf Scherzer氏:1941年、東ドイツのドレスデンに生まれる。著述家、時事評論家。著名作は、ルポルタージュ「 Der Erste und Der Zweite」。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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