<読書ノート>樋口陽一『いま、憲法は「時代遅れ」か』を読んで

 本の帯に「もう一つの「憲法」入門――個人と国家にとって、この天災と人災の時代を生き抜くために、いま、何が必要か?」とある。仙台ご出身の樋口氏は、本書の校正刷に朱を入れて返そうとした矢先に3.11大震災に遭遇されたとまえがきにある。したがって、本書の中身自身は3.11以前に書かれていたものであるが、我々日本の市民が震災以後の時代をどう生きるべきかを考えるためにも、本書には大きな意義があると思う。

 著者の樋口陽一氏は改めて申し上げるまでもなく、国際的に最も著名な日本の憲法学者の一人である。その樋口氏が、これほど平易なわかりやすい語り口で、自身の立場も明確にしつつ、「市民」のための憲法入門書を書かれたことに、ある種の感慨を抱かざるを得ない。私が大学で憲法を学び始めたばかりの頃、樋口憲法学は、正直言って理解するのが困難で、杉原泰雄、奥平康弘、渡辺洋三、渡辺治、森英樹、浦部法穂といった他の憲法学者の文章と比べても難解に思われた。慎重な言い回しのため、樋口先生自身がどの立場に立っておられるのかわかりにくい、ということもあった。もちろん私の読解力不足も一因であったが…。当時は、「学者は色気を出すな」という師匠の清宮四郎先生の教えを守って、一般向けの新聞雑誌に登場されることも少なかった。それが変わり始めたのが1990年代の後半ごろからだったと思う。徐々に、一般向けの新聞や雑誌にも登場して憲法問題をわかりやすく語られるようになったが、ついにここまで平易な文章を書かれるようになったのか、という感慨である。

 本書は12の章から成り立っているが、第1章では、本書の目的が述べられている。安倍政権下で改憲論が高まっていた頃、樋口氏が弁護士会館で行った講演での聴衆の反応と、ある新聞社の幹部記者が樋口氏に寄せた感想という二つのエピソードが冒頭で紹介されるが、それらはいずれも、憲法の基本が意外なほど理解されていないということを示しており、樋口氏は改めて、「憲法学者は今まで何をしてきたのだろうか」と考えさせられた、と述べている。そこで、本書の第1の目的は、憲法学の基本の基本を改めて読者に伝えることにおき、第2の目的は、そのような憲法の基本的発想そのものの中に、突き詰めていくと実はあたりまえでない、反常識的な要素が含まれている、ということを提示することにある、と述べられている。

 確かにこの国では未だに憲法の基本がよく理解されていない、ということは、私もしばしば感じるが、それは、憲法の各種条文の意味が理解されていない、といったことではなく、近代憲法を生み出した近代啓蒙思想そのものが、この国では未だに一度も根付いていないという意味で、特にそう感じる。「お上」などという言葉が未だに平気でまかり通っているし、個人主義が利己主義と混同され、権利の主張がわがままと等値されるような貧しい言説状況がある。それゆえ、安易に近代を否定するような言説に遭遇すると、私は過度の反発を覚えてしまうのだが、もしかしたら自分でも気付かないうちに、樋口スピリットの影響を受けていたのかもしれない。樋口氏は、封建的身分制を解体して個人を析出し、国家の主権と個人の人権という二極構造を生み出した近代の意味に徹底的にこだわり続けようとする近代主義者である。もちろん、ポストモダニズム等の洗礼を経た今、ナイーブな近代主義者ではあり得ない。近代の人権や普遍主義といった思想の持つフィクション性、「作為としての憲法理念」を意識したうえで、なおそれを堅持しようという立場である。

 先程、「市民」と鍵括弧付きで書いたが、この言葉は近年の樋口憲法学におけるキーワードの一つであり、1789年のフランス革命で出された「人および市民の諸権利の宣言」に言う「市民」、すなわち、社会契約への参加者であり、レス・プブリカ=公共社会の担い手としての市民である。ところが、日本で「市民」という言葉が使われるとき、NPO法の条文に典型的に見られるように、非政治的な存在、という意味で使われることが多い。市民運動という場合でも、そこには政党とは関わらない、という含意を伴っていることが多いだろう。それに対して、樋口氏の言う「市民」すなわちシトワイヤンとは、国家=公共社会を作り上げる主体であり、公共社会の問題に対して責任を問い、責任を負う主体なのである。そうしたことが第5章では述べられている。

 本書はこのほか、裁判員制度や検察審査会の抱える問題点や、自己決定権と人間の尊厳との相克、政権交代さえあればいいのか、教育の自由と教育の公共性の関係、といったアクチュアルな問題も多数取り上げている。その際、樋口氏が読者に求めているのは、対立する論点・見解を安易に「総合」しようとしたり、いいとこどりをするのではなく、対立する論点の背景にある思想・哲学を考え抜いたうえで、「あれか、これか」の選択を迫る、という思考態度である。例えば、何をしてもいい自由と規範創造的自由のどちらを選ぶのか、「普通の国」になることと「普通の国」を超えることを目指すのか、といった選択である。そして、そのような思考習慣を身につけることを通じて、一人ひとりの読者がシトワイヤンとしての「市民」になること、それこそが本書の真の狙いだろう。

書誌情報:樋口陽一『いま、憲法は「時代遅れ」か――〈主権〉と〈人権〉のための弁明(アポロギア)』平凡社、2011年5月

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