昭和初年代は、クーデタ、要人の暗殺などの大事件が、次々と起こる動乱の時代だった。その底流に中国の民族革命と日本の農民危機を背景とする農民の過激化があった。それを、アジア革命へと結びつけようとする北一輝、さらには、社稷の再興―「自治」を掲げる日本的アナーキスト権藤成卿らの動きが激しさを増していった。5・15事件、2・26事件の底流に存する思想の流れと現実の政財界の動きの両者をとらえつつ、なぜ、これらが敗北に至ったかを具体的に追及する。
人は、この二つの事件を下からのファシズムと呼び、当時の軍部や権力を上からのファシズムと称する。「狡兎死して走狗煮らる」と丸山真男は言うのである。果たして、これらの事件はファシズムの「「走狗」に過ぎないのか?古賀はこれらの叛乱を日本における階級闘争として捉えようとする。
この追及は単なる歴史叙述ではない。ロシア革命と張り合った北や権藤の思いは、ソヴィエト崩壊から中国の覇権主義の台頭という中にあって、世界の新たな展望を考えるうえでも参考になるものを含んでいるものなのかもしれない。
奮ってご参加ください。
レジュメ:北一輝―危機の時代と二つの叛乱 古賀 暹
漸く、私の2・26事件論がまとまってきたように感じています。東洋的ラジカリズムの敗北と日本ファッシズムということになります。 北一輝の思想と権藤成卿の思想を東洋的ラジカリズムととらえ、それを軸として考えるという方法です。この二つの思想を基にして、つまり、思想史的方法ですが、そこに、経済的要因(農民の窮乏化)や様々な人間関係や登場人物を配置してみると、意外と、うまく、全体がまとまるような気がします。以下、前置きはこれくらいにして2・26事件について書きます。箇条書きにしてみました。
- 北一輝の思想、満州は日本の管理下に置き、民族解放闘争との接点を持ち、中国本土の民族的闘争を支援するということです。(これは、森格との共闘でもあります。森格は中国の近代化には、中国プラスXの助力が必要。そのXはソ連邦でも良いし日本でも良いと。そのXが北の革命思想だったわけです。「スターリンのロシア」対「北一輝の日本」です。)(註1)
- 権藤成卿(註2)という男は、北よりも16歳も年長で、康有為や梁啓超とも親しい漢学者で、農本主義者と呼ばれていますが、孔孟の教えを受けた前世代の教養人です。怪力乱神を語らずという孔子の儒教的合理主義者。彼は、興国史観の裏返しで、農民自治が日本の伝統であったと説きます。天皇はその農民自治の守護者であったと言いますが、孟子の教えを受けついでいるので「放伐」思想もうかがえます。
- わたくしは、5・15については、北が反対をし、抑制しようと努めた故に、軽視していましたが、被告の思想を読むにつれ、北の満州、中国論と権藤の農民自治論が底流にあることを知りました。藤井斉(註3)以下の5・15派および2・26派の、ほぼ、半数以上が、「改造法案」と「自治民範」(権藤成卿)を感銘受けた書として記しています。
- 革新将校たちの制止にもかかわらず、5・15事件への士官学校生徒11名の呼応。事件参加者への助命嘆願は100万通にも達します。荒木はそれを受けて左右の政治犯に対する恩赦を言い出したほどです。(北の視点からみると、海軍士官たちによる5・15事件への陸軍士官学校生徒の参加要請は、荒木陸相の排撃策動ですが、結果としては、排撃策謀は失敗)
- 背景にあるのは、農民の窮乏化です。当時、全農民の負債額は60億円に当たると推定されています。これは、昭和11年度の総税収13億円の5倍に達します。なお、北は、農民の窮乏化に対してはあまり触れてはいません。大正7年に改造法案が執筆されたのですから。農民の負債の徳政令を求める動きがありました。森格は犬養暗殺後、こうした農民を意識して新党を作ろうともしています。(註4)
- 一方、橋本欣五郎の3月事件、満州事変支援、10月事件によって、軍中枢部は解体状況。満州派、橋本派、宇垣派、南派、参謀本部上層部派、皇道派(荒木―真崎)、、、青年将校派など。荒木は粛軍の決意(荒木人事)
- 2・26事件がなぜ起こったのか。表面的事情は11月事件(磯部、村中、片岡のクーデタ説)。辻政信教官が用いた陰謀。真崎教育総監の罷免(林陸軍大臣、閑院宮参謀総長)、相沢中佐の永田鉄山少将(陸軍省軍務局長)の惨殺。皇道派、統制派の闘いの延長ということになっています。しかし、こうした陸軍内の問題と同時期に起こっていたのが天皇機関説問題に注目すべきです。この反機関説運動によって、農民運動が大きくゆがめられ、なおかつ、2・26事件への青年将校の動きに、思わぬ弾みがつけれてきます。
- 天皇機関説問題から国体明徴運動を発火せしめたのは、現役の軍部ではなくて、在郷軍人会でした。(註5)発火点は菊地武夫、江藤源九郎、蓑田胸喜、上杉愼吉らの天皇主義者。真崎甚三郎はこの運動に乗せられたようです。結果的には、農村の不満を5・15や2・26の国家改造にもっていかないようにする役割を果たすことになりました。また、平沼にとっては、枢密院議長の座を一木喜徳郎から奪うことが目的だったようです(間接的には西園寺の影響力の縮小)。
- 相沢公判に鵜沢総明が弁護を引き受けたのはなぜか?鵜沢は2・26当日、西園寺宅を訪問する予定でした。西園寺に朝飯会(永田鉄山、木戸幸一、原田熊男、後藤文夫など)を青年将校たちの視座から見た場合にどうかを告げるためでもあったとしています(鵜沢総明供述書 註6)。
- 2・26事件の直接の契機は第一師団の満州派遣。師団を選ぶのは参謀本部か陸軍省か。多分、陸軍省と思われます。陸軍省と参謀本部の対立か。2・26事件以後も陸軍省は、支那事変の拡大を志向、それに対して参謀本部は早期和平論。
- 「第一師団が満州へ移駐した後に、必ず陸軍は中国と事を起こすことは、既に同志将校にはわかっていた。北支那への侵略の張本人は永田鉄山少将であることは、我々は誰も知っていた。だから永田局長が満州に来た時、磯部浅一が後を追って暗殺しようしたのだ」(菅波三郎談)(須山幸雄『二,二六青春群像』昭和五九年 芙蓉書房) 註 この菅波発言は衝撃的。真否や如何に。私は、著者須山の前著に菅波が執筆していることから推して、真実性ありと思う
12、北一輝は昭和一〇年六月三〇日の日付で「日米合同対支財団の提議」という小パンフを配布しています。「支那は日本一国のみの力を以て保全し又は開発し得べきものに非ず」としたうえで、「日本の対支国是と一致したる強国と同盟的提携を欠くべからざる必要」があるという。そして、この米国との同盟による対支投資ならば、中国の反政府的勢力排日的勢力と雖も「一切の疑惑猜疑なく一に只謳歌万歳を叫ぶのみに存候」と述べています。
13、このパンフが政界、財界、官僚などに対して配布され、それ相応の波紋を投げかけただろうということは、先に北が配布した「日仏同盟論」のパンフへの反響(原田熊雄の「西園寺公と政局」)から見ても明らかなことです。しかしながら、二・二六事件以後の寺内寿一の粛清のため、反響は消されたようですが、池田成彬は二・二六事件の尋問調書のなかで、北に中国への渡航費一万五千円を渡したと述べています(現在の金に直すと1000万くらいか)。(註7)
まだまだ記さねばならない点が、多いのですが、結論というか仮説というかをまとめてみます。
昭和初年代の動乱の根底にあるものは、農民を主体とする叛乱と対支戦反対の反戦的運動の二つであるといえます。日本共産党が、3・15,4・16の弾圧で消滅に追い込まれた後に、「反体制」勢力の主流になったのは「軍部」(在郷軍人会)でした。この軍部内には大きく分けて対中国戦争の拡大を志向する勢力とそれに反対する勢力が存在しました。それらは、農民の窮乏からそれぞれのエネルギーを吸い上げていたわけです。
また、宮廷内部では、西園寺と天皇側近の朝飯会の対立、さらには、平沼騏一郎の野望があり、資本の側も三井、住友系と三菱が率いる新興財閥の暗闘がありました。そうした中で、平沼派の策謀した天皇主義、つまりは、機関説反対運動が在郷軍人会を自己の傘下に収めることでイデオロギー的には勝利したようにもみえます。が、実質的には「軍部」の戦争派が、なし崩し的に、実質的ヘゲモニーを奪われていったというのが事の成り行きだと思います。
したがって、北―権藤の敗北が決定的な意味を持ちます。この敗北は下からのファッシズムの敗北ではなくて、あの段階における農民闘争―反戦闘争の敗北です。この流れをくむものとして、石原莞爾(参謀本部多田駿)派の日中和解工作(註8)がありますが、それらの動きは大勢を覆すことは出来ませんでした。
私に言わせれば、「近代の超克」ということが、事件後に叫ばれますが、それはこの敗北の美化や合理化から生まれた戦争奉仕のインテリ的形態ということになります。日本の天皇制ファッシズム論は、2・26以降の第二次大戦世代のもので、決定的な敗北の後の世代のものであるような気がします。
*註はこのレジュメでは省略しています。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9329:200107〕
第149回 河合塾経済研究会(協力:現代史研究会)
講師:古賀暹(元『情況』編集長)
演題:北一輝-危機の時代と二つの叛乱
日時:2020年1月25日(土曜日)午後1時から5時
場所:河合塾池袋校西校舎4A教室(〒171-0021豊島区西池袋1-3-12)
主催:河合塾文化教育研究所経済研究会 公文宏和 hi-kumo@lapis.plala.or.jp
協力:現代史研究会