1960年代における滝沢克己「原点」論登場の背景と意義 (4月13日~)(その1)

著者: 折原浩 おりはらひろし : 東京大学名誉教授
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折原浩先生の許可を得て本論文を2回に分けて分載しました(編集部)

はじめに

本欄「記録と随想1.」では、「『職業としての学問』末尾の『デーモン』とは何か――マックス・ヴェーバーの人生と闘いを支えた究極の立脚点は何処にあったか」という問題設定

(次のちきゅう座の記事論文をご参照下さいhttps://chikyuza.net/archives/68160 -編集部)のもとに、1968年全国学園闘争の渦中における滝沢克己の普遍神学の登場に触れ、これと筆者との (その後における) 一種両義的関係に言及した。滝沢は、当時、学生・院生の発した「『人間として』とはどういうことか」、「『人間の原点』はどこにあるか」との問いに、「神-人の不可分・不可同・不可逆の原関係」「インマヌエルの原事実」「ただの人」論をもって正面から答えた。

筆者は、滝沢の登場を、(「1960年安保」「1962~63年大管法」の二闘争を引き継ぐ) 1968~69年学園闘争のただなかで、学生・院生が発した問いに唯一人正面から答える「根のある思想家」の出現、というふうに受け止めた。当時、全国の社会科学者は、学生・院生からの問いに答えないばかりか、まともに受け止めようともせず、機動隊導入による政治的決着に走っていた。しかも、そういう己の姿を「知的誠実性」をもって直視しようとせず、責任をもっぱら相手方に転化し、自己弁解に耽る、いわば総崩れの観を呈していたのである。

そうした滝沢「原点」論の登場と、その背景ならびに意義について、ここでは、筆者自身の経験に遡って捉え返し、多少敷衍してみたい。

 

  1. 筆者が、滝沢を「根のある思想家」というふうに直感したにつけては、教養課程の学生のころ(1954~56年)、ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(1932年執筆、1936年刊)を読み[1]、冒頭でつぎの一節に出会っていたことと、関係があるように思われる。

「水面にまで浮かび上がっている水草は、たえず流れのまにまに漂っている。その葉は、水面上で絡み合い、その交錯によって、上方で水草の安定を保っている。しかし、その根les racinesは、さらに安定しており、水草を底から支えている大地la terreに、深く、しっかりと根づいている。しかし、ここではまだ、そうした自我の根底 le fond de soi–même にまで穿ち入る努力については語るまい。そうした努力が可能だとしても、それは、例外的なものである。ふつうわれわれの自我が縋り付く支えは、その表層部に、外面化された他の諸人格が織りなしている緊密な網の目に自我が挿入されているその接合点にある。自我の堅固さは、この連帯に依存している。」(Les deux sources de la morale et de la religion, 1932, 76. éd, 1955, Paris, pp. 7-8)

当時、筆者は、学究志望の一社会学徒として、エミール・デュルケームやマックス・ヴェーバーといった古典に親しんでいたが、その関連で、ベルクソンのこの比喩の意味はよく分かるように思えた。哲学的命題を立てるにあたって関連のある諸科学をよく研究したというベルクソンは、デュルケームやレヴィ・ブリュールの社会学説にも通じていたにちがいなく、その世界を総体として「根のない水草」の「連帯」に譬え、「静的道徳-宗教」に律せられる「閉じた社会」として限定的に捉え、「底土に穿ち入る例外者」=「神秘家」の「動的宗教-道徳」による「開かれた社会」の方向に展望を開いている、というふうに読めたのである。

 

  1. さらに遡ると、そうした解釈の背景には、1935年生まれ世代の戦争-戦後体験があったように思う。この世代には、戦地や空襲で、家族・隣人・級友(「特別の具体的他者particular others」) を失う者も多かった。筆者のように、そうした痛切な体験は免れた者も、無傷ではありえず、内外の夥しい戦争犠牲者 (「一般化された他者generalized others」) から、「生き残りの責任」を問われているように感じながら育った。そうした感性には、(戦前の民権論者や社会主義者も含め)戦中に「軍国主義」「翼賛体制」の旗手として国民を啓蒙したオピニオン・リーダーズが、敗戦と同時に、主張内容と思想を180度転換し、論壇に返り咲く姿が、許し難いものと映った。「戦中、決死の抵抗とまではいかなくとも、少なくとも沈黙することはできたのではないか」という疑惑と不信が残り、翻って、思想の首尾一貫性にそれだけ拘ることにもなった。

 

  1. いずれにせよ、「かれらはなぜ、『転向』できたのか」という問いが、その後も念頭から離れず、その答えは、「かれらの『生き方Lebensführung』に、流れに抗する』がなかったから」という方向に求められた。当初は「無名の人」として「飾り気なく堅実に」生きていたのに、「世間」の注目を浴び、マス・コミからは「旗手」「有名人」「名士」あるいは「偶像」として持ち上げられ、遇されるようになると、その種の「地位」を維持すること自体が、いつしか自己目的に転化してしまう。そのうえで、時代風潮に変化が起こると、「地位」の喪失に内面的に耐えられず、誘惑に屈して、「時流に阿ねり」「権力に諂い」もする。とすると、そういう現象は、なるほど「戦前-戦中-敗戦直後」といった「激動期」には、それだけ鋭角的に現れたとしても、じつはそのかぎりではなく、その後の「相対的安定期」における夥しい「戦後転向」(たとえば清水幾太郎のそれも、「1968~69年東大紛争」における「名士」教員たちの「総崩れ」) も、本質的には同根-等価ではないか、と思われた。

 

  1. ベルクソンの比喩に戻ると、それは一見、「水面を漂って、どんな方向にでも流される根のない水草」と、「底土にしっかり根を下ろして動じない水草」とを、なにかカテゴリカルに二分しているようにも解せる。そこからは、後者は「例外的な『英雄』ないし『達人』」、前者は「群れをなし、互いに絡み合うことで安定を保っているが、原理・原則をもたない浮動的『大衆』」というふうに、人間を二群に分け、互いに実体化して、価値の差等を設ける見地にも通じよう。そうすると、双方の関係(「大衆」にたいする「英雄」ないし「達人」のかかわり方) についても、「『達人』は『大衆』を、『所詮は縁なき衆生』として『切り捨て』『突き放し』『好きなようにさせる』(放任) か、あるいは、全体としてあまりひどいことにはならないように『権力によって繋ぎ止め、抑えておく』(支配) か、どちらかしかない」という捉え方も出てこよう。別言すれば、「全人類の『みな』が対等の人間仲間Mitmenschen」という前提のうえで、「全人類の『みな』を『達人』の水準に『引き上げ』よう (あるいは、それは無理としても、できるかぎりそれに「近づけ」よう) 」という発想は、生まれようがない。

 

  1. この問題はじつは、ヴェーバー宗教社会学の視点とも、密接に関連していた[2]。「呪術」に発する「宗教」が、「救済宗教性Erlösungsreligiosität」の方向に発展し、「救済技法Heilsmethodik」が開発され、洗練され、高度化されてくると、そうした技法をみずから体得して「聖化Heiligung」ないし「再生Wiedergeburt」に到達できる(カリスマ的) 資質の持ち主 (「英雄 Helden」ないし「達人Virtuosen」) と、そうでない個人 (「大衆Masse」) との違いが経験的に歴然と現れる。そうなると、①「ゲマインデ」(この場合は「教団」。一定の制定秩序に媒介された宗教ゲマインシャフト) の内部で、「達人」と「大衆」との関係をどう調整するか、「達人」が「大衆」の日常生活にどう関与していくか、が問題とならざるをえない。そして、②この問題の解決は、宗教ごとに類型 (理念型) 的に異なり、それに応じて、その後のゲマインデ運営と信徒の「生き方」、これに媒介される社会・文化発展一般にも、相応の差異が生まれよう。他方、③当の問題の解決は、これはこれで、それぞれの宗教において追求される「救済財 Heilsgüter」(「富」「長寿」「権勢」「威信」「メシアの国」からはじまって「神性との合一」「救いの確かさcertitudo salutis」など)の性質いかんに応じて、類型的に異なってくるにちがいない。

 

  1. ヴェーバーは、こうした視点から「世界諸宗教」(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教) それぞれの類型的特性にかんする決疑論を展開した。ただ、ここでは、そうした展開を追う必要はあるまい。むしろ、この視点からベルクソンの比喩に逆照射を当てると、ベルクソンは、「根のある水草」(達人) と「根なし草」(大衆) とを、なにか初めから、あるいは原理的に、分けているのではない。かれはむしろ、人間はみな「水草」にすぎないけれども、ただ例外的に、「底土」を覚知し、その厳存を説き、その「促し」や「諫止」に忠実に生きようとする例外的個人もいる、というふうに捉えている。「水面にまで浮かび上がっている水草」も、「その根」(複数) と明記されているとおり、「根無し草」ではなく、やはりちゃんと「根」をもち、「大地にしっかり根をおろしている」というのである。

ちなみに、ヴェーバーも、この視点から見ると、ベルクソンの側にいたことは、「ゲオルゲ・クライス」の「カリスマ崇拝には反対し、「万人が『自己の審判者Richter』になることこそ、究極の理想」と力説したエピソードからも、窺われよう。

この差異は、一見、些細なことのようでもあるが、じつはきわめて重要と思われる。これを見落とすと、一方に「達人主義」(「エリート主義」) 、他方に「大衆主義」の「過熱」が生じ、双方が「同位対立」の関係に陥り、「傲慢」と「卑屈」とが互いに補強し合う悪循環も、生じかねまい。

 

  1. ところで、この区別に照らしてみると、敗戦後日本の思想状況では、圧倒的に「大衆主義」が優勢だった。マルクス主義者を筆頭に、民主主義者も近代主義者も、「大衆主義」に傾き、「大衆は『神』」とはいわないまでも、「大衆こそ『歴史の主人公』である」と唱え、「達人主義」を公然とは語れない雰囲気があった。「達人主義」はむしろ、敗戦後、「実存主義」の解説者に変身して論壇に復帰した旧「京都学派」によって主張され、この関係が、戦後民主主義者の反感を触発し、「大衆主義」への傾斜を助長・補強していた、ともいえよう。社会科学者一般には、ニーチェは嫌われていた。

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[1] 筆者は、高校時代に、第二外国語として、フランス語の初級文法は学んでいたが、デュルケームやベルクソンの著作は、辞書と首っ引きながら、すぐにも読めた。というよりも、おそれをなしていた原書とは、なんと明快で分かりやすいものか、と自信がついた。それに比べて、マックス・ヴェーバーの原文は、なんとも難解で、教養課程で始めた第二外国語のドイツ語では歯が立たなかった。

[2] 当時、英訳(E・フィショフ訳)の夥しい誤訳に気がつき、ようやく独文原典の読解を進めていた。

以下参考としてWikipediaより抜粋

滝沢 克己(たきざわ かつみ、1909年3月8日 – 1984年6月26日)は、哲学者キリスト教神学者
栃木県宇都宮市に生まれる。小・中学と1年飛び級。1931年九州帝国大学法文学部哲学科卒業、ボン大学にてカール・バルトに師事。山口高等商業学校教授、九州帝国大学助教授、1949年九州大学文学部哲学科教授、1969年文学部長。大学闘争では全共闘の学生を支持して大学を批判、1970年辞職[1]ハイデルベルク大学マインツ大学ほかで客員教授を務める。号は等石[2]

西田幾多郎カール・バルトの影響の下、インマヌエルの哲学と呼ばれる思想を展開した。インマヌエルとは「神われらと共に在す」の意味である。キリスト教徒であろうとあるまいと、あらゆる人は「神われらとともに在す」という事実に属している。滝沢はこれを第1義の接触という。第2義の接触は人がこの事実に目覚めるときに起きる。第2義の接触によって人は自覚を持って宗教的な生を生きることになる。

著作[編集]

  • 『西田哲学の根本問題』社会哲学叢書 刀江書院 1936 のちこぶし文庫
  • 『現代日本哲学』三笠書房 現代学芸全書 1940
  • 『カール・バルト研究 イエスキリストのペルソナの問題』刀江書院 1941
  • 『夏目漱石』三笠書房 1943
  • 『「現代」への哲学的思惟 マルクス哲学と経済学』三一書房 1969
  • 『現代の事としての宗教』法蔵館 1969
  • 『大学革命の原点を求めて』新教出版社 1969
  • 『人間の「原点」とは何か』三一書房 1970
  • 『カール・バルト研究』法蔵館 1972
  • 『キリスト教と日本の現情況』新教出版社 今日のキリスト教双書 1972
  • 『滝沢克己著作集』法蔵館
  • ドストエフスキー現代』三一書房 1972
  • 『私の大学闘争』三一書房 1972
  • 『日本人の精神構造 イザヤ・ベンダサンの批評にこたえて』講談社 1973
  • デカルトサルトル』創言社 1980
  • 『聖書のイエスと現代の人間 田川建三「イエスという男」の触発による』三一書房 1981
  • 『哲学は何のためにあるか』法蔵館 法蔵選書 1981
  • 『バルトとマルクス 新しき世界』三一書房 1981

 

初出:「折原浩のホームページ記録と随想3」2016.04.13より許可を得て転載

http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara/zuisou3.htm

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study808:170102〕