1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」) に寄せて(その1)

著者: 折原浩 おりはらひろし : 東京大学名誉教授
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*本論文は折原浩(東京大学名誉教授)により2014年11月~2015年2月  にかけて書かれたものです。全体は大部(A4で51ページ)になるため、およそ10回に分けて連載することにしました。今日の問題にも通ずるものです。是非お読み頂きたいと存じます。(編集部)

[本稿は、昨2014年11月から、上記の副題を表題として、このHP 2014年欄に連載し始めたものです。ところがこの間、「マックス・ヴェーバー生誕150周年記念シンポジウム 」(旧臘7日)を挟み、年を越して書き継ぐうち、(当面「関心の焦点」となっている)「1960年代の精神史」とりわけ「1968~69年東大紛争」の経緯に立ち入り、「プロフェッショナルとは何か」「現場でどんな使命に生きるべきか」という岡崎君の問いに、現場経験から具体的に答えていく形となってきました。そこで今回、主題は内容に即して「1960年代精神史とプロフェッショナリズム」に改め、起稿時の表題は副題として保存し、適宜中見出しも付けて、内容を多少引き締めました。しばらくはこの延長線上で、執筆をつづけるつもりです。2015年1月22日]

[ひとまず脱稿しました。岡崎君の問題提起にたいする応答を内容的に要約して「結び」とすることも考えましたが、後続世代の「新たな接近」にひとつの批判材料を提出するに止めました。ここから何を汲み取り、何を捨てるか、自由に検討していただければ幸いです。2015年2月11日]

 

はじめに――現役学生からの問題提起

一昨 (2013) 年来、東大医学部の臨床研究に、データの改竄など、不正疑惑が三件発覚し、相次いで報道された。この件につき、昨年六月、東大医学部六年生の岡崎幸治君ら学生有志五人が、連名で総長・医学部長・病院長宛てに公開質問状を発したところ(6月24日付け『朝日新聞』朝刊「東大医学部生五人、総長に公開質問状」参照)、八月に、学生を対象とする「臨床研究について考える会」が開かれたという。副題の新聞記事は、その「考える会」にかんする簡潔な報告と、岡崎君の総括ならびに決意表明である。

「考える会」では、岡崎君が「説明会」とも呼び替えているとおり、「病院長が臨床研究の抱える問題を解説」し、不正疑惑のうち二件については「それぞれの内部調査委員長を務めた先生方が説明」したという。しかし、その「内容に新しい事実は」なく、残る一件は、当事者の前任校で起きたとの理由で、採り上げられなかった。岡崎君は、「満足のいく回答は得られなかった」が、「説明会」を開いたこと自体も含め、臨床研究の今後につき、「学生諸君と一緒に考えていきたい」との「学生に向き合う姿勢は感じられた」と評価している (アンダーラインによる強調はいずれも引用者、以下同様)。

「説明会」ではまた、「新たな倫理教育プログラム」の導入も示唆ないし提案されたようである。しかし、岡崎君には、不正を問われた当事者が「説明会」に出て説明責任を果たそうとはしないまま、「新しいシステムを持ち出すことで、『自分たちが今後どうすべきか』という当事者としての問題の明確化や相互批判を回避してい[る]ように感じられた」という([  ]内は、引用者が、趣旨は曲げないように、コンテクストに応じて変更ないし補足)。同君は、そのようにして「制度がいくら整っても、意識が欠如していれば元も子もない」と厳しい。

岡崎君にとって「問題の本質はプロフェッショナリズムの欠如」にある。では「プロフェッショナル」とは何かといえば、「自らの使命を神に公言 (プロフェス) する人」で、医師の使命は「『患者第一』の精神にのっとって人を救うこと」にあるという。

今回疑われている不正も、東大医学部教授の当事者たちが、「プロフェッショナル」の「精神」を失い、「常に見据えるはずの患者の利益を見失った結果」と推認されよう。岡崎君は、そこから一歩踏み込んで、それはなぜか、と問い、「目先のお金や業績に気を取られ」たためではないか、と疑念を漏らし、「プロフェッショナル」をして「プロフェッショナリズム」を失わせる社会的背景にも、目を向けている。

岡崎君によれば、「医師集団」は、今回の「説明会」でも、同僚間の庇い合いを優先させ、「広く社会からの信頼を損なったことに [は] 鈍感」で、「研究に貴重な税金が使われていることへの認識も甘い」。それにたいして同君は、いまこそ「医師集団」が、失われた「社会の信頼を回復するために」、「相互批判をいとわず、説明責任を果たす必要がある」と主張する。

同君自身、昨夏には、福島県南相馬市の病院を見学し、大病院から被災地に出向いて被爆の検査や診療に熱心に取り組んでいる先輩の姿に、真正なプロフェッショナリズムの発露を見出し、感銘を受けたという。同君も今年から医師になるが、「私が診るべきは『患者さん』であり、決して研究標本を扱うごとく、『病気』を見たくはない」と結んでいる。

さて、筆者は、いまから約半世紀前、1962~63年に(岡崎君とほぼ同年齢の一大学院生として)「大学管理法」問題に取り組み、1968~69年には、医学部に端を発した「東大紛争」の渦中で、(教養学部の一教員として)学生諸君の質問と追及にさらされた。当時も、やはり学生諸君から、「学問は何のためにあるか」「学者・研究者はいかに生きるべきか」「専門職は、どんな原則のもとに、どういう『職業倫理』にしたがって仕事すべきか」との、今回と同じような問題が提起され、教員が回答を迫られた。筆者もそのとき以来、同じ問題を抱え、みずから応答しようとつとめ、ときには発言もしてきた[1]

とりわけ、2011年3月11日の東日本大震災とそれにともなう福島第一原子力発電所の事故以来、斑目春樹氏はじめ東大工学部教授らの無責任な対応や発言を目の当たりにし、この間の経過を顧み、改めて反省を迫られた。筆者自身、「東大紛争」時にはすでに提起されていた問題を、その後解決できず、原発反対には唱和しながらも、大学現場の (工学部にかぎられない)「原子力ムラ」を温存させてきてしまった無力に、一当事者として責任を感ずる。それと同時に、そういう大学現場にいる学生諸君が、問題そのものはデータの改竄という学問研究の根幹に触れるところまできているのに、昨今の不正疑惑をどう受け止めているのか、往時の先輩のように目立って発言・行動はせず、沈黙しているのはなぜか、という疑問も拒みようがなく、学生諸君の動向に注目してきた。それが、ここにきて、岡崎君ら有志による公開質問状の発表と結果の報告に接し、若者の正義感と行動力はやはり失われていない、という万感の思いで受け止めた次第である。

岡崎君らの勇気ある態度表明には、筆者も往時であれば、すぐにでも訪ねて連帯を表明したいところである。しかし現在、老生にできることはいたって少ない。ただ、「1962~63年大管法」と「1968~69年東大紛争」の経過を振り返り、その渦中で、(文科系ではあるが)院生ないし若手教員として、学問と大学と「プロフェッショナリズム」について考えた内容をお伝えし、現在の学生-院生諸君への問題提起とも参考意見ともして、連帯の挨拶に代えたいと思う。[11月14日記、つづく]

 

  • 1.「東大紛争」の発端――医学部の学生処分とその背景

学生諸君もおそらくは知ってのとおり、「東大紛争」は医学部から始まった。その「医学部紛争」は、戦後長らく欠陥が指摘されていた「インターン制度」(卒後研修制度) をめぐる医学部学生-研修生と教授会-病院当局との対立に起因している。詳細は別稿[2]に譲るが、当初、医学生は、卒業後、大学病院ほか(主として国公立の)病院で、ひとつの診療科に配属され、低賃金で(「登録医制」への)医療制度再編の「穴埋め」に使われるのではないか、と懸念する一方、多くの診療科をまわって幅広い研修を重ね、(たとえば、地方の「無医村」に赴任しても、住民の多様な診療要求に対応できる)良き医師たらんと、まさに岡崎君のいう「プロフェッショナリズム」を体して、病院当局との間に「研修協約」を結び、自分たちとしても納得のいく研修を積もうとしていた。ところが、「研修」をもっぱら「教育」の一環として捉える医学部・病院当局が、この「協約」条項に難色を示し、学生・研修生側は、「協約」要求の正当性を確信して、ストライキに入った。「第一次研修協約闘争」(1967年)である。

ただ、このときには、医学部教授会内にも、問題が微妙で、六年間の大学教育を終えた卒業生の「研修協約」という(少なくとも相対的には控えめで、理にかなう)要求であっただけに、大筋としては正当と認め、共感する人々(かりに「ハト派」)も、吉川春寿学部長初め、かなりいたらしい。というのも、学生・研修生がストを打ったにもかかわらず、医学部教授会は、当時の「矢内原三原則」にしたがって(学生大会へのスト提案者、提案を受け付けた議長、スト決議の実行責任者を)機械的に処分しようとはせず、「全員戒告」という(正規の処分ではない)処置に止めた。

ところがこれを、大河内一男総長ら「東大本部」(「時計台当局」) が「矢内原三原則」を楯に取って咎め立てた。そのため、医学部教授会は、学部長・評議員を更迭し、こんどは厚生官僚出身の豊川行平氏、佐藤栄作首相の主治医・上田英雄氏を、学部長・病院長に選出した。そして、この「タカ派」執行部が、学生の面会・話し合い要求を拒み、「医師法一部改正案」の国会通過を待って、新制度を学生に説明しようという姿勢で臨んだのである。

これに反発した医学部学生・研修生は、翌1968年1月29日、再度ストを構えた (「第二次研修協約闘争」) が、豊川学部長も上田病院長も、面会要求を拒んで学内に姿を現さず、解決の目途が立たなかった。ところが、2月19日、上田病院長が、(おそらく紛争中とは知らずに訪れた)外国人学者を案内して(おそらく学士会館分館で)昼食を共にしようと、病院前を通りかかったところ、日時を改めて正式な面会を求める学生・研修生と、その場に駆けつけた上田内科・春見医局長との間に「摩擦」が起きた(「春見事件」)。

その直後、学生・研修生は、上田医局内でこの事件を「学生の暴力行為」として非難する宣伝がなされていると聞き、「摩擦」つまり双方の「行為連関」において、どちらがどんな暴力をふるったのか、医局で[3]春見氏と「押し問答」を重ねたらしい。これを、豊川執行部は、「医師となるべき者が医局で深夜まで騒ぎ、医局長を威嚇した『暴力行為』」と認定し、これを理由に17名の学生・研修生を、こんどは退学・無期停学・譴責という正式の処分に付した。豊川学部長が、調査 (警察権)・立案 (検察権)・採択指揮 (部局内の予審裁判権) を一手に掌握して医学部内をまとめ、学部長会議との間を二往復[4]しても20日という迅速さで、3月12日の処分発令にいたった。それまでは「教育的処分」の少なくとも慣行とされていた、本人からの事情聴取も、おこなわれなかった。そのため、たまたま久留米に出向いて事件現場には居合わせなかった、医学部学生自治会委員長の粒良邦彦君までが、処分されていた。

「医学部全学闘」と「青年医師連合」の学生・研修生は、この処分に抗議して、大学の儀式を公開論争の場に転じようとする「卒業式-、入学式闘争」を経て、6月15日には(当時大学本部のあった)時計台を占拠-封鎖した。すると、大河内総長は、すかさず二日後、機動隊を導入して封鎖を解除した[5]。その是非をめぐって議論が沸騰し、紛争が全学化したのである。

そういうわけで、「東大紛争」の経過を発端にまで遡ってみると、「第一次研修協約闘争」における医学部教授会の「ハト派」的対応にたいする大河内総長ら当局の問責が、ひとつの岐路をなしていたことが分かる。では、東大当局はなぜ、そういう強硬姿勢に出たのか。たんに「矢内原三原則」にこだわっただけなのか。

[1] たとえば、ある大学教授の、意図して人目を欺くデータ捏造と、これと闘って真実を明らかにした一科学者の記録(石岡繁雄・相田武男『氷壁・ナイロンザイル事件の真実』2006、あるむ)への論評を、本HPに収録。

[2] 拙著『東京大学――近代知性の病像』(1973、三一書房)、「医学部処分とその背景」(『学園闘争以後十余年―― 一現場からの大学-知識人論』1982、三一書房、pp. 17-22)、「授業拒否とその前後」(折原浩・熊本一規・三宅弘・清水靖久『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』2013、緑風出版、pp. 17-94)、参照。

[3] 学生は当初「ここは医局だから場所を替えよう」と提案したが、春見氏は青医連室に連れ込まれるのを虞れて拒否したという(1970年12月1日の東京地裁牧法廷における豊川証言、拙著『東京大学』pp. 127~28参照)。

[4] 一度目は、「事情聴取の欠落」を理由に、再考を求められ、医学部に差し戻された。

[5] 後で判明したことであるが、敗戦後初代総長の南原繁氏が、再三、大河内氏に電話し、機動隊導入を使嗾した、とのことである。

初出:「折原浩のホームページ」より許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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