1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014年11月8日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」) に寄せて (その9=最終回)

著者: 折原浩 おりはらひろし : 東京大学名誉教授
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 *本論文は折原浩(東京大学名誉教授)により2014年11月~2015年2月  にかけて書かれたものです。全体は大部(A4で51ページ)になるため、今回まで9回連載で掲載しました。「東大闘争とは何だったのか」「大学の自治とは」「学問の在り方とは」の問いかけから、福島原発事故における学者の在り方(責任)に至るまでの今日的問題を問うものです。是非お読み頂きたいと存じます。(編集部)

 

  • 22.「政治の神」と「学問の神」との相克 

全共闘運動の衰勢と政治的敗北が必至と見えた時点におけるそうした荷担には、「責任倫理」を忘れ、「心情倫理」に堕する所作ではないか、という批判が (ヴェーバーの「職業としての政治」から抜き取って) 差し向けられた。これには、(その一般的趣旨は分かったつもりでいた) 筆者として、まずは頭を抱えた。しかし、苦慮の末、「『政治の神』と『学問の神』とが非和解的に対立して、両立不可能となり、どちらかを選ぶしかない、この状況では、学者として学問の神に荷担し、たとえ『政治の神』の逆鱗に触れようとも、あくまで『真理価値』実現への『心意Gesinnung』を優先させ、ただその『随伴諸結果Nebenerfolge』にも最大限責任はとる」という論理で対抗できる、というよりも、そうするほかはない、と確信した。

それに即応して、「闘い」「実力行使」とはいっても、あくまで言語的・論理的対決を主要な土俵として想定し、それを誘い出すための消極的非暴力形態に自己限定するほかはなかった。たとえば、「授業再開拒否」にしても、機動隊再導入による秩序回復・「正常化」にたいする「態度価値」(V・E・フランクル) の表明であって、「勝利」への展望はほとんどなかった。ただ、「随伴結果」として予想される「業務命令-不服従-懲戒処分」にさいしては、人事院に不服を申し立て、その口頭審理という公開の土俵に当局者の召喚を求め、そこで東大闘争の事実経過と理非曲直を争い、あわよくば「再争点化」して「第二次東大闘争」への「起爆剤」にしようと考えたにすぎない。「闘い」とはいえ、初めから「負け」を予期し、せめて公開論争への残された唯一の機会として「逆手にとろう」という「捨て身」戦術の域を出なかった。

ただ当時、全共闘とくに助手共闘や院生共闘の一部は、(「安田砦攻防戦」では、機動隊の背後で、武闘を見守るしかないという「立ち位置」におかれ、そこから生じる)不快と苛立ちを、(比較的近くにいる、批判的少数派の)教員に向けて発散し、多分に「上擦った」他者追及にのめり込む傾きを帯びた。闘争の後退局面で露わとなり、ときに陰惨な「査問」の様相も帯びる、そうした「心情倫理」的傾向を、自分の若いころの「左翼」体験も引き合いに出しながら、正面から真摯に批判する同僚もいた(社会科学研究所の戸塚秀夫氏)。しかし、筆者は、その「責任倫理」論を (抽象的ながら) 正論と受け止めて感銘を覚えるとともに、筆者個人として、この状況では、政治家や政治的活動家の「責任倫理」ないし「責任倫理」一般ではなく学者の「責任倫理」に徹するほかはないと心に決めた。ただし、それまでの言語的関与の延長線上に、不服従の実力行使を加えて、助手共闘・院生共闘の要請に応えながらも、他方ではあくまで、言語闘争に固執し、むしろ非言語闘争も言語闘争に集約していくことにより、かれらの「心情倫理」と「実力主義」を黙示的には批判し、かれらがやがては言語闘争に立ち帰ってくれるようにと期待した。

闘いの具体的な中身としては、まず ① 文処分とくに事実関係の再検討と、それにもとづく白紙撤回をめざす、文学部闘争の継続があった。そこでは、独自に公開文書合戦を開始した。つぎに、② (安田講堂に立て籠もって逮捕され、起訴された学生・院生被告団の)「東大裁判」に、証人および傍聴人として出廷するとともに、「特別弁護人」(職業上の弁護士ではない法廷弁護人)に選任されて、東京地裁に喚問される大河内一男前総長、加藤総長代行ら証人 (当局者) にたいする主尋問にあたった (1969年秋から1973年春)。他方、③ 全国「教官共闘」会議の結成を展望しながら、(神戸、岡山など、いくつかの大学で処分された) 「造反教員」の人事院公開口頭審理に、代理人として加わった。④ 駒場では、西村秀夫・石田保昭・信貴辰貴・最首悟らの各氏と語らい、「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」を開設し、1969年秋から三年余にわたって実施した。これをとおして、(闘争圧殺による孤立・分散、後退局面におけるもろもろの困難、とくに「自己否定」の呪縛に苦しんでいた) 学生たちの再起を介助しながら、東大闘争の経過と意味について、後続世代に引き継ぐべく、「裁判闘争」と連携して、事実の確認と記録につとめた。やがて公害・差別・教育の三テーマにかかわる全国各地の市民・住民運動と連携して、視野を広げ、現場から闘争者を招いて討論を重ねた。それは、学生たちが、そこに積極的社会参加への結節点を見出して「自己否定」の呪縛から脱する契機を提供しようとするものであったし、翻っては、自分たちの思想上のルーツを見つめなおす機会ともなった。これら ②~④ については、別稿でいま少し詳細に総括しているし[54]、今後さらに敷衍することも考えている。ここでは、上述との関連で、その後における ① 文処分問題の経過を、結末までたどり、ひとまず「プロフェッショナリズム」論を「結ぶ」ことにしよう。[2月5日記、つづく]

 

  • 23. 文処分の「取り消し」と「築島先手仮説」の立証

先にも触れたとおり、文学部の全共闘系学生は、加藤執行部の「七学部集会」と「十項目確認書」(という当事者・広域決定権者の「囲い込み」) による収拾策には乗らず、ストを継続していた。その結果、1969年の夏休み明けには、東大の十学部中、文学部だけが授業再開にとり残される事態となっていた。文教授会は、こうした政治状況への危機感からか、争点の文処分を「なかったことにしようや」と「取り消す」意向を示し、これを評議会は、1969年9月30日に了承した。

ところが、「取り消し」の趣旨は、「授業再開と正常化に向け、教官-学生間の不信を取り除くため、このさいあえて処分を取り消し、『教育的処分』制度と『批判的に訣別』する決意を[それだけ鮮明に]示す[ため]」と説明され、なぜ「教官-学生間の不信」がかくも深まったのか、なぜ「教育的処分」制度と「批判的に訣別」するのか、その理由や根拠にはまったく言及せず、文処分そのものについては、相変わらず「当時の『教育的処分』制度に則って『適法』になされ、誤りではなかった」と正当化するばかりであった[55]。文学部学生・院生・助手や、西村秀夫氏や筆者など、「大学でものごとを律する権威は事実と理のみ」と確信する構成員が、一致して求めていたように、「10月4日事件」に遡って事実関係を再検討し、非があれば責任者の責任を問い、そうした批判的総括のうえに立って、制度改革にも取り組もうというのではない。文学部が孤立する政治状況への政治的危機感から、人々の視線を将来に逸らして問題の直視を避け、処分は「なかったこと」あるいは「終わったこと」にして、その決定と解除(既成事実化)への責任追及をかわそうとする「窮余の策」(敗戦を「終戦」といいくるめるような、この国の支配層による「危機管理」の常套手段) と見えた。

ところが、文学部内では、そういう表立った動きと公報の背後で、じつに重要な一歩が、静かに踏み出されていた。遅きに失したとはいえ、築島助教授の属する文学部国文学科の学科集会 (「国文科追及集会」) が、9月6日に本郷の学士会館分館で開かれ、そこに築島氏とN君が共に出席し、直接の対質がおこなわれたのである。二年ほど前の「10月4日事件」の直後、築島氏の駆け込み要請を受け、本来は文教授会が実施していなければならなかった (一方的な陳謝請求ではない、文字通りの) 事情聴取が、ここに初めて、(ストの継続を背景として)大学院生のイニシアティヴのもとに実現した。

そこで明らかにされた「T⇄N行為連関」は、主催者のひとり (当時大学院生、後に東大教養学部助教授-教授)  F君の報告 (10月1日付け「文処分の根本的疑問」) によれば、こうである。[2月6日記、つづく]

 T教官ともう一人とが三重にもなった学生の人垣をかきわけて外に出た。

 やっと外に出てふり返ると、中に同僚の先生方がいられるので引き返した。

 中にいる先生方をたすけ出そうとしてドアのところにいるうしろ向きの学生の背広のそで口をつかんでひっぱった。

 その学生がT教官の胸もとをつかみ、ネクタイをしめあげて『何をするんだよう』などと暴言をはいた。」

その文書はさらに、「追及集会の席上で、築島氏が……『事実』を語ろうとしたとき、となりにすわっていた秋山教官 [当時、国文学科主任教授] はしきりに築島氏の発言をやめさせようとし、 については (それは学生をひきずり出すといったかなり乱暴なものらしかった)、秋山教官は『それはマアマアと制止する行為だった、ネ、ネ、築島君』と同意をもとめるしぐさをした」と報告している。

この証言によるかぎり、やはり築島氏が先手を掛けていた。状況証拠から導かれた (「明証性」と「経験的妥当性」をそなえた認識命題) 仮説が、ここに、直接証拠によっても、事実として立証された。文学部教員は、処分者として不都合なこの事実を直視する「知的誠実性」をそなえていなかった。学生のストライキ継続を背景とする大学院生のイニシアティヴによって、N君との対質を余儀なくされて初めて、築島氏は、真実を明かそうとした。ところが、その場でも、主任教授の秋山氏は、教員の特徴をなす上記の類型的な仕種で、築島氏の供述を抑えにかかったのである。

それにしても、この報告内容が、当事者のみが知りうる、紛うかたない具体性をそなえているとしても、なおそれが、大学院生によってしたためられ、発表されているかぎり、やはり学生側に有利に歪められているのではないか、と疑う人がいるかもしれない。そこで、肝要な築島先手につき、最終的な詰めとして、文教授会側からの裏付けが必要とされよう。

10月9日、東大当局が、文学部の授業再開に向けての大掃除のため、本郷キャンパスに機動隊を導入した夜、藤堂明保、西村秀夫、農学部助手共闘の塩川喜信氏らと筆者は、正門左手横の工学部列品館前に、北原淳氏ら文学部助手有志は文学部の建物のなかに、踏みとどまった。筆者は、大音量の携帯用アンプを持ち込み、BGMを流しながら、「文処分の理由とされた学生の行為は、『退席阻止』ではなく、すでに退席・退室した築島教員の先手にたいする後手抗議で、当局は相変わらず事実誤認に固執している」と説き、加藤総長と堀米文学部長に「この場に出てきて、話し合いに応じてほしい」と呼びかけた。しかしかれらは、その場に姿を現さず、退去命令を発し、待機していた機動隊員が、不退去者全員を正門の外に押し出した。ただ筆者は、その数日前、不退去の理由として、文処分の事実誤認を論証した、「これだけはいっておきたい――東大文学部問題の真相」と題する論稿を、『朝日ジャーナル』誌の編集部に送り、当夜、不退去罪の現行犯で逮捕されたら、「造反教官逮捕」という「段階の」報道と同時に掲載してほしい、と依頼していた。その後、筆者は、この論稿に10月9日当夜の経過報告を加え、「『理性の府』の実態――文学部問題に見る東京大学の体質」と改題して、同誌10月26日号に発表した。

これにたいして、堀米文学部長は、同誌の次号(11月2日号)に「折原論文に事実の誤り」と題する「反論」を寄せた。ところが、それを読んで驚いた。「T 教官の行為は、N君がT 教官につづいて退出しようとした他の教官を阻止しようとした行為に対し、咄嗟にこれを制止すべく、背後からN君の左袖をおさえたものであ」ると、なんと文学部の責任者が初めて築島先手を活字にして公に認めたのである。

なるほど堀米氏は、T 教官の行為は、「自然に生じた制止行為」で「学生N君の行為を正当化できるような性質のものではない」と釈明している。しかし、人間築島氏が「制止」という動機をもってN君に先に手をかけた事実に変わりはない。堀米氏が、その先手は「学生N君の行為を正当化できないと、価値評価に短絡するのは、ひとまずは致し方ないとしても、当の介在事実を直視すれば、「学生N君の行為」がやはり「後手」であることは確かで、もはや「退席阻止一般には還元できなくなる。したがって、単純にそう断定してきた従来の事実認識が問題とされ、少なくとも再検討が必要となろう。堀米氏にも、加藤一郎氏と坂本義和氏にも、この点は「価値自由認めてもらわなければならない。そして、再検討の結果、事実認識が「(態様はどうあれ) 築島先手にたいするN君の(態様はそれ自体としては不適当としても)後手抗議に改められれば、「先手は不問に付して後手のみを採り上げ、「退席阻止」一般に抽象化して処分理由としてきたことについても、その「公正さ」が疑われ、少なくとも問題として議論されよう。すなわち、「先手」が (堀米氏の主張どおり)「自然に生じた制止行為」であったとしても、(堀米氏もはっきり認めたとおり)「背後からN君の左袖をおさえた」ことは確かで、そうとすれば、逆方向に動こうとして「背後から咄嗟に左袖をおさえられた」N君が、それだけ大きな手応えを感じ、ふりむきざま同じく咄嗟に後手を掛けること [自体]」は、同じく自然に生じた抗議行為」にちがいない。そこで、先手制止と後手抗議とが、ともに「咄嗟に生じた自然性」にかけては等価な行為として、この点では双方の責任が相殺されるとしても、市民常識によれば通例は後手行為者よりも先手行為者により厳しく問われる責任が、このばあいには正反対に、まったく問われず、もっぱら後手行為者に帰せられるのは、いったいなぜか。後手行為の態様が、先手行為のそれを上回って「悪質」で、後者の「有責性」を棄却してあまりある、とでもいうのか。それでは、つい一年前、「……教授会側委員がすでに開催中の教授会に出席するため退席しようとしたところ、一学生が退席する一教官のネクタイをつかみ罵詈雑言をあびせるという非礼な行為を行った」と明記したうえ、「教授会はこの行為の動機に悪意はないと判断し、……私的な陳謝を再三うながした」(1968年10月28日付け「文学部の学生処分について」、東大・弘報委員会『資料』第3号所収)と主張していたのは、いったい誰だったか。堀米氏は、「T-N行為連関」にかんする事実認識が変更された事実は認めながら、そうなれば双方の有責性の度合い (価値評価) について、再検討と変更が不可避となる事情には、目をつぶり、いまや確証された築島氏の先手行為も「学生N君の行為を正当化できる性質のものではない」と、当の築島先手を捨象して主張されてきた従来の所見を、そのまま繰り返すだけであった[56]。 [2月7日記、つづく]

この点にかかわる堀米投稿のいまひとつ重要な論点として、氏は、築島先手の事実が、文教授会では当初から確認されており、「いわゆる『カン詰団交』ののち、事件の再検討が行われた際 [にも]、再度確認された」と、さりげなく伝えている。この「再検討」とは、上記「法華クラブの密議」を指すと思われるが、築島助教授抜きで行われた「再確認」が、築島先手をどのように確認したのか、その結果が、どの程度、どのように文教授会に報告されたのか、たいへん疑わしい。上記のとおり、「12月1日半日公開文書」には、教授会側委員が築島助教授を先頭に「学生たちをかきわけて扉外に出ようとした [とき]、一学生が、すでに扉外に出ていた築島助教授のネクタイをつかみ、大声を発して罵詈雑言をあびせるという行為に出た」と記されるのみで、その間に介在した築島先手は、相変わらず隠されている。

ところで、1969年7月7日の文教授会で、堀米執行部が、築島先手の「新事実」を明らかにしたとき、新任の教員や留学先から帰った教員ばかりでなく、多くの教員が驚いて「初耳だ」という反応を示し、なかにはその点について執行部を追及し始める人も出たとのことである。執行部は、「根掘り葉掘り」問い質さなかったほうがいけない、と居直ったという。

加藤執行部と学部長会議も、この築島先手が「新事実」として明るみに出てくると、それを隠して、あるいは文教授会による隠蔽に気がつかずに、再検討を怠り、少なくとも事実誤認を温存したまま、安田講堂に機動隊を導入した責任を問われかねない、という危機感を抱いたにちがいない。そこで、「[9月の夏休み明けに予定されて議論されていた] N処分『取り消し』の『新措置』については、『新事実』を考慮に入れてはいないし、考慮する必要もない」と「申し合わせ」、各学部長経由で全教授会メンバー宛ての「通達」を発し、「新事実」露顕の影響をくい止めようとした。

筆者は、堀米投稿にたいする反論を同じ雑誌に寄稿し、この間の文教授会・学部長会議・評議会の議事録をすべて公開し、公明正大に事実と理非曲直を争おうと提唱したが、応答はなかった。おそらく、顧慮されもしなかったのであろう。「情報公開」を求める学外の市民運動には参与して、「民主化」の基礎条件として「情報公開」にかかわる専門的学知を活かそうとする啓蒙家はいても、自分の現場で、教授会・学部長会議・評議会の秘密会議制に疑問を抱き、議事録の公開を要求して「特別権力」の牽制・制御に乗り出そうとする教員はいない。[2月9日記、つづく]

 

小括

そういうわけで、築島先手の態様については、なお疑義を差し挟む余地が残されたとはいえ、文教授会が隠しに隠した築島先手の事実そのものは、確実に立証された。文教授会は、この事実の直視を避け、責任は回避した[57]が、処分は「取り消された」つまり「白紙撤回」された。この問題にかけては、全共闘の「七項目要求」が、ほぼ完全に貫徹されたのである。

権威にとりすがり、組織維持の利害関心に凝り固まって、頑なに非を認めようとはしない人々に、なんとしても(主観的にも)非を認めさせようと骨折っても、始まらない。「10月4日事件」から二年、おびただしい人身傷害と建物-器物損壊の犠牲を払っての決着ではあった。

「大山鳴動、ネズミ一匹」といえなくもない。しかし、文処分問題の取り扱いという一点に絞って、東大紛争の全経過を通観してみると、ある組織の現場を理非曲直に則って根底から民主化」することが、いかに困難か、が分かる。そうした現実を、「理性の府」と自認していた一「組織」が「理念型」的に示した、ともいえよう。

後日談になるが、1977年の夏、全共闘運動の志を継いだ文学部学生有志が、(「東大紛争」には無反省のまま、その後のなんとなく振るわない雰囲気を「創立百年祭」を祝うことで一掃し、併せて「百億円募金」をつのる、という企画に反対-抗議して)文学部長室に泊り込んでいたところ、現場から小火が発生してしまった。直後に学生は、「失火」の疑いで本富士警察署の取り調べを受けたが、署の実験によると、たばこや蚊とり線香の火では床面に火がつかず、『信濃毎日新聞』『西日本新聞』ほか、いくつかの地方紙には「原因不明」との所見が発表された。

ところが、文教授会執行部(学部長今道友信、評議員辻村明の両氏)は、当初には「原因の究明を待って処分する」と言明していたのに、急遽、「床面の発火地点と灰皿との間に、フトンがあり、これが『着火物』となって、床面に火がつき、火災にいたった」との独創的見解を発表して、学生処分を企てた。しかし、『学内広報』(第440号、p. 7) に発表された火災現場の見取り図でも、当のフトンは、発火点から約4~5メートルは離れた位置に、しかも、消化作業の、扉や窓からの放水では、飛ばされようのない方角にあった。文教授会は、1969年9月には、「『教育的処分』制度と『批判的に訣別』する決意」を高々と掲げたが、「特別権力」とは「訣別」せず、近代市民法の警察権の「上を行こう」としたのである。

なるほど、小火そのものは痛恨の不祥事で、筆者も、まずは学生の闘争規律の甘さないし弛緩を、原則論的に批判した。しかし、だからといって、市民としては刑法の「軽失火」を問われることもない事案について、文教授会が出火原因を捏造して処分することは、容認できない。1968~69年には、文処分の事実関係にかんする論証の発表が遅れ、機動隊再導入を許す不覚をとったので、こんどは迅速にことを運び、当時本郷で開かれた討論集会で、加藤一郎著からの引用も交えた資料を添えて所見を述べた。この集会には、旧助手共闘とその周辺の批判的少数者が数多く出席していて、文教授会による「特別権力」の恣意的発動には反対し、それぞれの学部教授会の説得に動いたと聞く。処分案は、こんどは評議会で採択されず、葬られた。文教授会は、「いつか来た道」の破局を寸前で免れた。[2月11日記、完]

 

[54] 上注2に引用した『東大闘争と原発事故』、pp. 64~72.

[55] 9月26日付け堀米文学部長書簡「紛争の解決に向けて文学部学生諸君に訴える」、『学内広報』No. 43 (9月29日発行), pp. 3~4.

[56] 加藤一郎総長も同断である。坂本義和氏にいたっては、東京地裁の木梨法廷 (1972年6月28日) で、「12月1日半日公開文書」の「……扉外に出ようとした。このとき、……すでに扉外に出ていた」という記述を示して、字間に隠され、いまや明るみに出た事実について問い質そうとしたところ、「言葉尻を捉えた揚げ足取り」と決めつけて逃げた。

[57] ただし、当初からN君処分に疑問を呈していた藤堂明保、佐藤進一の二教授が、一年後、「教授会が責任をとらないのなら、せめてわれわれが」と辞職された。

初出:「折原浩のホームページ」より許可を得て転載

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study799:161208〕