2010年ドイツ便り(その14)
今回のドイツ遊覧旅行記のこれが最後の報告です。
《ハン・ミュンデン》
27日の正午(12時)にコルドラさんがアパートの横の駐車場に来て下さることになっている。毎日帰宅が午前様のせいで女房はかなり疲れ気味、8時半ぐらいまで眠っていた。この日は昨夜の未明から雨。明け方はかなり強い雨が降っていた。9時ごろ、彼女は近くのスーパーに買い物に出かけ、僕はみそ汁の温め返しや原稿書きなどをしていた。突然携帯が鳴る。ユルゲンかコルドラさんからだろうと思いながら出た。「ハロー」と言ったら、電話の向こうで聞きなれない女性の声が「ハロ、ハロ」と言う(ごめんなさい。予想もしない声はしばしばこういうように聞こえるのです。妹からの電話の時もそうなのですから)。あれ、誰だろう?と思ったら「東京のMちゃんです」と名乗ってくれたので、あまりの突然に二度びっくり。9月11日の現代史研究会(山本耕一さんのジジェク論)の教室が取れたこと、ちきゅう座への掲載の件、などについての話ついでに僕らを冷やかそう(?)との魂胆の電話だった。彼女やN.Wさんにはこのところメールの仲介役などで大変お世話になっている。改めてお礼を言いたい。
約束の12時頃にコルドラさんと会ってハン・ミュンデンに行った。ここの名前は童話などの愛読者にとっては有名であろう。かのアイゼンバルト、よく鉄髭博士などと訳されているし、僕も実はそう思っていたのだが、それは誤訳であり、彼には髭などはえていない。これは彼の名前だそうだ。その所領がこのハン・ミュンデンである。アイゼンバルトは医者であり、貴族でもあった。ゲッティンゲンのレストラン「黒熊亭」の表に彼の由来を書いたレリーフが張られている。彼はここで遺書をしたためたそうだ。彼はほら吹きで、「ほら男爵」のモデルの一人とも言われているが、実際には大変優れた領主で、医者であり、もの知りであったという。
そしてこのハン・ミュンデンには彼の像が民家の表側などにいまだに残っているし、市庁舎(ラート・ハウス)の仕掛け時計は定期的に彼の像が出てくるものであるから、彼がいまだに愛されていることが分かる。
この小さな町にはいまだに多くの古い建物、ほとんどが木骨家屋(ファッハベルクハオス)が残っている。もちろん爆撃をまぬがれたからだ。またその環境も抜群に良い。周囲を山と川(川は2つの支流が一つに交わり、ヴェーザー川を形成している)に囲まれた静かな佇まいである。この日はあいにくの雨で散歩には向いていなかったが、それでも2時間ほどは街の中や川の合流地点などを散歩した。今回はコルドラさんの車での移動だったが、電車でもゲッティンゲンから約30~40分ぐらいの距離だったように思う。
観光で行くのもよいが、一人静かにものを考えるのには最適な場所のように思う。
28日はアパートで片付けをしようと思っていたのだが、ジャーマンレイルパスが一回分余ったので、これを消化するためにツェレ(Celle)というやはり古いハンザの町(塩の道)に出かけた。ここはかつてのリューネブルクの所領の一つだがきれいなお城や庭園などもあり、また古い家屋も多く残っていて、なかなか瀟洒な町である。
ただここ数日はドイツは雨ばかりで、寒かったり、また急に暑くなったりの不順な天気が続いていて、この日も同じく雨にたたられた一日となった。途中喫茶店で雨宿りをしながら約3時間の散歩を楽しんだ。
《「シュチュルテン」での友人たちとの最後の日》
7時にゲッティンゲンに帰り、ネット・カフェから東京に原稿を送る。「シュチュルテン」には8時少し前に入る。ウエイトレスの小母さんが席をとっていてくれることになっていて、確かに予約席の表示も出ていたのだが、僕らが行った時には既に満席状態で、一番奥の一番広い場所だけが空いていた。小母さんはそこに行けと言う。一寸恐縮しながら他の席が空いていないので仕方なくそこに座る。1~2杯ビールを飲んだところでラルフが来た。シルビアも10時頃には店に顔を出す。彼女にまたウオツカの壜をもらう。これで3本目だ。この頃からほとんど飲み放題の状態になる。飲み終わるとすぐにジョッキーが廻ってくる。最後は馴染みの客などに、また来年も来るんだろ、と言われながらへべれけに酔っぱらう。「終わりよければすべてよし」。楽しい旅行であった。
2010.08.29記
追記:8月30日の午前中にこの原稿をネット・カフェから送ろうと思っていたのですが、結局荷物の整理などに追われてネット・カフェまでの往復1時間の時間が取れず持ち帰りました。少しその後の記事を入れて掲載させていただこうと思います。不作法の段は平にお許しください。
《ハノーファー、コペンハーゲンにて》
30日の午後3時に親切にもコルドラさんが車で僕のアパートまで来てくれた。彼女からは前もって、当日ハノーファー空港前のホテルまで送るからといわれていた。遠いからとお断りしたのであるが、片道1時間程度だから遠くはないといわれ、結局お願いすることにした。この日は雨で、外気は14度、寒い。重い荷物を駅まで運び、そこからICEとSバーンを乗り継いでホテルまで行くことを考えると車での移動は本当に楽である。この日、アウトバーンの対向車線は6キロぐらいの渋滞だったが、幸い僕らの方はスムースに進んだ。ハノーファー空港手前で工事渋滞があり、2キロほどもたついただけで済んだ。
宿は空港のすぐ目の前(徒歩3分程度)に取っていたので、翌朝が早くてもまず大丈夫のはずだ。コルドラさんにお礼を兼ねて夕食をご馳走したいからと、一緒にハノーファーの中心地までいった。これが意外に遠いのに驚いたが、考えてみれば成田はもとより、羽田でも都心からはかなり離れているのだから、当たり前である。
旧市街地(ここも爆撃をまぬがれたそうで、かなり多くの古い建物が残っている)に出て、古い居酒屋(1階)兼レストラン(2階)の店に入る。僕ら二人はもちろんビールを飲んだが、コルドラさんは車なのでコーラと食事を頼んでいた。ドイツ最後のビールは「アインベッカー」だった。ただし、昨夜飲み過ぎたことと、食事として頼んだハクセ(豚のもも肉を焙ったもの)があまりに大きすぎて、残念ながらビールを一杯だけしか飲めなかった。
感想としては、ハノーファーはメッセの都市(フランクフルトなどと同じ)のせいか、物価(食事やビールの値段など)がゲッティンゲンよりもかなり高いと思う。「シュチュルテン」とでは比較にならないほど高い。
食後旧市街地を少しぶらつく。雨も小やみになっていたが、それでも寒い。哲学者で外交官だったライプニッツが住んでいたという「ライプニッツ・ハウス」などを外から見ながら歩いた。ハノーファーはニーダーザクセン州の州都であり、かなり大きな街だ。今回はレストランから車までのほんのちょっとの距離を歩いただけだ。
空港前ホテルは、その地の利からしてそうなのかもしれないが、宿泊だけで110ユーロ、朝食を頼めば一人18ユーロと高い。僕らはフライト出発時間が朝9時45分だったため、一応2時間前までの受け付けを想定して7時45分までに搭乗手続きを済ませようと考えていたから、当然朝食(朝の5時半から10時まで)も頼んでいた。
ところが、いつもは歳のせいで早起きするはずの僕が、目を覚ましたら7時10分過ぎであった。あわてて着替えて、そのまま行けば7時45分までの搭乗手続きに間に合いそうだが、それでは約40ユーロの朝食は無駄になる。苦肉の策で、レセプションに行って、いったん手続きを済ませてからもう一度食事に戻っていいかどうか交渉することにした。多分変なドイツ語で交渉していただろうと思うのだが、それでも通じたようで、こう言われた。
「9時45分なら9時頃行けば間に合うから、食事もできるのではないか」と。
この答えは大変にありがたかった。かくして8時半ごろまではゆっくりすることができたからだ。(ただし、これはハノーファーだからできるのであって、フランクフルトなどでは絶対に無理だと思って下さい)。
空港内のチェックはハノーファーでも厳重だった。僕がうっかりベルト着用のまま入ろうとしたら、ブザーが鳴り、入念なボディーチェック(靴まで)をされた。
コペンハーゲンまでは飛行機でおよそ1時間。小さなおもちゃのような飛行機で、定員は50人程度だろうか、ほとんどが欧米人で、もちろんドイツ語など全く分からないアメリカ人(英語を使っていたようなので?)も乗っていた。
コペンハーゲン空港では5時間待機させられた。この間空港内のショッピング・モールを素見し、レストラン「コペンハーゲン」というところでビールと軽食を取った。ビールの味はまあまあというところ、軽食は高くてお粗末。これはどこの空港でも同じだ。
面白いのはウエィトレスが、注文するときにはドイツ語で注文しても一向に受け付けてくれず、すべて英語で確認されたのが、勘定の段になるとちゃんとドイツ語で済んだことだ。
コペンハーゲンではリュックのチェックはされず、パスポートのみの簡単なチェックですべてが終わった。搭乗ゲート前はもはや日本だ。これで僕らの今夏の旅行はおしまいになった。
帰国した直後は、体が温かさを求めているようにも覚えたが、1時間もしないうちに炎暑地獄にいるのを感じてきた。この数日間はクーラーをつけて眠っていても暑苦しくて夜中に目が覚める。多分時差ボケのせいもあるのだろうが、日本の夏は確かに厳しすぎる。かつてある友人が「寒さが差別を連れてくる」といっていたが、暑さも同様だと思う。800人以上もの人が熱中症で亡くなったと報道されていた。菅首相は「少しぐらいの出費は我慢してもすみよい世の中を作ることが先決だ」と言う。少しの出費すらできない人たちが大勢いることを忘れたのだろうか、と疑問を感じた。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion113:100902〕
2010年ドイツ便り(その13)
《ヴュルツブルク、バンベルク、イエナへの旅》
昨年はドイツ西部のボンやケルン、それからベルリンと北部のビンゲンやロシュトック、リューベックなどを旅したため、いつも行くバンベルクやイエナには行かなかった。今年はもう一度そちらを旅してみようと思い、日曜日の朝早くに出かけた。ICEでヴュルツブルクまで行き、そこで降りて町をぶらぶらした。ここはユルゲンの故郷である。彼が前もっていくつかの居酒屋の名前を書いてくれたのだが、結局ここは途中下車して昼食を食べただけで終わってしまった。僕の目的がバンベルクの「ラオホ・ビール」にあったからだ。ただ、あまりに早く行ってもまだ明るいうちから飲むのも気が引けるので、途中でまだ一度も降りたことのない「シュバインフルト」という駅で降りることにした。この日はかなり暑い日差しの晴天で、駅に降りたのは好いがさてさてどちらの方向に行くべきなのか、それすら不確かである。市街地を書いた地図が貼っていたのを見つけ、大方の検討をつけて炎天下をそちらに向けて歩き出した。
周囲の景色が一向にアルトシュタット(旧市街)らしくならないので、少し焦りを感じ始めた頃、二人づれの若い女性が向こうからやって来るのに出会った。彼女たちに道を聞いてみて、市街地の中心はここをまっすぐに行ったところだと教えてもらう。それから10数分ほど歩いてやっと中心地らしき場所に出た。それでもまだ旧市街地という感じはしない。とりあえず暑さをしのぐため、そこらの喫茶店、といっても店舗はなくて、往来に日傘を立てかけ椅子と机を並べた程度のものだが、に腰かけて一休みする。ウエイトレスに再度、街の中心はこの辺かどうかを確認してから再び歩き始めた。町角をちょっと曲がったら、かなり広い広場に出た。そして探していた旧市街地の趣の市庁舎や教会などが目の前にあった。
この町は多分ゲッティンゲンなどよりもずっと大きな町なのであろう。広場の広さもゲッティンゲンのマルクト・プラッツなどは比較にならないほどだ。日曜日でインフォメーションは閉まっていたが、市街地案内の地図は無料で陳列されていた。ただし、今回の旅の目的はあくまでバンベルクにあるので、広場でくつろいで周辺を眺めた以外は特にどこかを訪ねるでもなく、駅の方に引き返した。後日、ユルゲンに聞いた話では、ここはそれほど美しい町ではなく、この近くではカール・シュタットという町が美しいらしい。
バンベルクについたのは7時頃だった。一軒目のホテルで、今日は大きなフェストがあるのでどこのホテルも満員のはずだから、もう少し遠くにホテルを探したほうがよいと言われたのだが、事のついでだと、すぐ近くの別のホテルを当たってみた。幸運にも部屋が空いていてすんなり決めることができた。こんなことは珍しい、グリュックリッヒ!
早速旧市街地に出かけてみた。宿から徒歩で10~15分ぐらいのところだ。旧市街地は既に沢山の人たちで埋まっていた。町角には多くの出店が出て、バイエルンの民族衣装を着た若い娘たちも大勢見かけた。ヘーゲル・ハウスのあたりだけがぽつんと人通りもないままに残されていた。しかし、ヘーゲルは決して人嫌いではなく、トランプに興じたり、気さくに奥さん方の家庭相談などにも応じ、ときにはダンスもやったという。もっともダンスではやたらにぴょんぴょん飛び上がる癖があったらしいが。
それは余談で、僕の方は早速目指す居酒屋の方に飛んでいった。居酒屋の前は黒山の人だかりで、なんだか金色の張りぼてのような山車(?)が向こうに見えた。入れるかどうか心配だったが、中は意外なほどすいていた。目指す「ラオホ・ビール」とバイエルン独特の料理にありついて大満足で、70歳近くに見える老嬢(ウエイトレス)の小母さんとときどき話をしながら(ヘーゲルのことを話したのだが、おそらく小母さんは「クレープス・ハウス」は知っていても、ヘーゲルのことは知らなかっただろうと思う)、職人が新しいビヤ樽を開けて、ジョッキーにビールを注ぐ手際の良さや、一杯ごとに何かコイン状のもの(ドイツ語ではミュンツェ)を一方の箱から他方の箱に移していく、昔からの伝統的なやり方などを拝見させてもらった。この僕らが飲んでいた酒場の建物が建てられたのが1310年というから驚く(天井の梁にそう刻印されてはっきり残っている)。
翌日はイエナに行くことにした。ここからイエナへはそう遠くないので、ジャーマンレイルパスを使うのはもったいないと思い、普通乗車券を買うことにした。この日はあいにくの雨模様、イエナパラディス駅を降りた時も小ぶりの雨が降っていた。ここでの宿探しは失敗。目指す宿は満員で、紹介された宿はかなり高かった。それでも早めに宿に落ち着いたこと、風呂に入りのんびりした気分で町を散策できたことが収穫であったろうと思う。
20世紀の初めごろ、カンディンスキーやピカソやルノアールなどのフランス画壇の錚々たるメンバーが避暑に訪れていたというイエナの一角にあるパリ風の小路や、大学の脇の一寸風情のある小道、旧市庁舎やその近くの裏道などを歩き回り、ヘーゲルがナポレオンを見たという「アイヒェン・プラッツ」(今は残念ながら大半が駐車場になっている)の隅のベンチに腰掛けながら、少しばかり思いを当時に馳せてみたりした。
ただし、バンベルクの宿で窓を開けたまま布団をかけずに寝ていたため少し風邪気味になり、鼻水が出てこの日の体調は良くなかった。
6時半ごろになって、もういい頃だと思って目指す「赤鹿亭」に入っていった。ここは創業1509年、既に500年の歴史を持つ。ビールも食事も安くて旨い。僕にとっては穴場中の穴場なのだが、なぜか混んでいたためしがない。
この飲み屋だけの話ではもちろんないのだが、イエナは旧東ドイツ圏であり、ここの住民は、統一以後の急速な資本主義化の波に翻弄されている(半ば文明化したことを喜びながら、その波に無反省にもてあそばれている)のではないかと僕は危惧する。急激な変化がこの地を襲っているように思う。旧東の都市がこのように変化することを「うまくいっている例」と評価する向きもあるが、それは単に目の前の利益を追いかけているに過ぎないのではないのだろうか。もう少し長期的な展望に立てば、この変化は危険すぎるように思う。町はほんの3,4年ほど前にできた都会風のショッピング・モールを中心に動いている(動かされている)ように思える。人々はわれがちに流行を追いかけ始めている。古い伝統的な家並が急速に消えて、新しい近代建築がどんどん建てられている。あながち自分の歳のせいばかりとも思えないが、さびれて静かだった頃が懐かしい。
翌24日は、風邪気味で少し微熱があったが、せっかくなのでレーゲンスブルクという中世の街並みがかなり残っているといわれる町に行ってみようということになった。ICEでニュールンベルクへ出て、そこから各駅停車のローカル線に乗ったまでは良かったのだが、終点(かの有名なバイロイトだった)まで行って、車掌に聞いて初めて途中から電車が二つに分かれたことに気づかされ、もはやレーゲンスブルクに行く気力も失せて、来年以後の課題にしようということにしてゲッティンゲンまで戻ってきた。
「シュチュルテン」でシルビアにその話をしたら「オー、キヨシ!」と言ったきり笑い転げていた。体調不良の時はドイツ語(外国語一般)は理解困難になるのだ、と僕は強く思って自分を慰めている。
《T教授の来訪と「シュチュルテン」での団欒》
ヴュルツブルクに向かうICEの中で、突然僕の携帯電話が鳴り始めた。ライプチッヒのT教授からの連絡だった。26日にゲッティンゲンに行くからという内容だ。
小旅行からゲッティンゲンに帰ったその日に「シュチュルテン」に行き、26日に僕の友人の教授が来るからと伝えた。この日も店は満員で、後から来たお客は座る場所がなくて帰っていく始末だった。バイト学生のやさしいユリア嬢が、それでは私がその日は座席をリザヴィーレンしていてあげると言う。こういう親切さは本当にうれしいものだ。
25日にユルゲンと今夏最後の懇談会をした。彼はわざわざ女房にチョコレートの詰め合わせを買ってきてくれた。いつものことながら彼には今年も大変お世話になった。来年はシルビアと相談して新しいアパートを探しておくからと言ってくれた。いつも別れは大変つらい。しかも彼とは年々親密度が増している。相互の理解度が深まるのに応じて親密度も確実に増す。毎年思うのだが、帰国したらドイツ語に精を出そうと、しかしたちまち挫折するのも例年のことだが、それでも今年もそう思ってはいる。
26日はあいにくの小雨模様で、しかも珍しく蒸し暑い天気だった。この日までにアパートのナッハミーター(Nachmieter)の話もシルビアから来たのだが、結局連絡がなくて立ち消えになった。もちろん、9月分の家賃は契約書通りに支払った。供託金は後日、ユルゲンの口座に振り込まれることにした。
この日は午後から小雨をついて外出し、街をぶらぶらしてから「シュチュルテン」によってみた。シルビアに今日友人の教授が来るから夕方に一緒にまたここに来る、と伝えて、日本から持ってきたままでまだ使っていなかったカレーライスのルーを渡した。箱の裏側の日本語を見ながら彼女に水は1400ccで約20分煮込むことなどを教えていたら、彼女いわく、「ここに書いているじゃないの」「何?これは日本語だよ、読めるのか?」ということで大笑いになった。
T教授の乗るICEは予定通り4時頃にゲッティンゲン駅についた。プラットフォームで彼を出迎えて、早速ホテルに向かったのだが、予定していたホテルがこの日は満員で、仕方なく次のホテルを探しに街の方に向かう。「シュチュルテン」に近いホテルが幸い空いていて、部屋は確保できた。それから6時過ぎまでゲッティンゲンの街を案内しようということになり、3人でぶらぶらと歩き始めた。旧市内は狭い街なので2時間もあれば大抵は見て回れる。ホテルに来る道筋で、もう既に大学やその付属図書館やこの町のシンボルのヤコブ・キルヒェ(ヤコブ教会)は見てきたので、続いては大学の講堂(アオラ)、学生寮がある一角、そしてやはり町のシンボルである旧市庁舎へと歩く。市庁舎の二階のホールがまだ開いていたので、中に入って壁画をしばし眺め、それから、1600年ぐらいに建てられたレストラン「黒熊亭」の前を通り、旧城壁(マウアー)跡に立つ大数学者ガウスの像を見に行く。
T先生はその博覧強記で名高い。説明するつもりが逆にいろいろ教えられながら、楽しい散歩を満喫する。最後に旧市庁舎前広場に帰り、その片隅に立つリヒテンベルクの銅像を見てから少し早めだが「シュチュルテン」に向かう。この建物はおよそ1500年に建てられたものである(表の梁にそう書かれている)。
ユリアと、シルビアに彼を紹介し、予定の席に座って早速「ヴァール・シュタイナー」を飲み始める。彼にここの料理は大変美味いのだが、量が多いことを伝えたうえで、「ステーキの皿いっぱい盛り合わせ」(12ユーロ)に挑戦してみませんかと勧めた。彼が列車の都合で昼食をとっていなかったからだ。出てきた料理を見て彼もびっくりし、思わずため息をついていた。ユリアが笑いながら「キヨシが勧めたんでしょ」という。10年前なら完食しただろうがと言いながら、それでも半分以上は食べていた(分厚いビーフステーキを半分と豚のヒレをそっくり残していたように思う)。
多分「ちきゅう座」の仲間内には生唾を飲んでいる方々がいるのではなかろうか?そういう方にはぜひ挑戦してもらいたい。
途中からラルフを呼んでの懇談会になった。さすがにTさんは達者にドイツ語を話し(当然僕とはレベルが違う)、初対面のラルフとすっかり意気投合していた。僕の方は知り合いの地元のドイツ人夫婦を相手に、みそ汁と魚料理の健康上の効用について、ひとくさりした。かくして楽しい時間があっという間に過ぎて行った。
彼をホテルまでお送りして帰宅。このところ寝るのはいつも12時過ぎだ。彼は翌日は2時の列車でライプチッヒに帰る予定になっているため、残念ながら今回はこのままのお別れになってしまった。僕らの翌日の予定は、12時にコルドラさんと会うことになっている。
2010.08.28早朝に記
追記:27日のコルドラさんとのハン・ミュンデンへの小旅行の模様や、28日の夜に予定されている僕らと「シュチュルテン」の仲間とのお別れ会の様子などは、もし時間的なゆとりがあれば書かせて戴く。報告できないときはご容赦ください。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion108:100829〕
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2010年ドイツ便り(その12)
《テュ―ビンゲン紀行》
このところゲッティンゲンは曇りや雨の日が多くて、少々寒い日が続いている。外出時にはブレザーの上着が離せない。16日にハノーファーの空港に女房を迎えに行き、深夜すぎにアパートにたどり着く。どこか開いている店があれば、せっかくドイツに来た最初の日なのでビールなと飲ませたいと思ったのだが、どこの店も閉まっている。アパートの近くの小さな店がまだ灯をともしていたので、そこに上がりこみかなり強引にビールを飲ませてもらう(残念ながら瓶ビールであったのだが)。
翌日は、長旅で彼女の方は疲れているだろうからと、ゲッティンゲンでゆっくり過ごした。もちろん、夜は「シュチュルテン」でシルビアやラルフとの再会を喜び合い、アルバイトの女子大生ユリアを紹介し、とにかく彼女にしては久しぶりのドイツ・ビールとドイツのごちそうを堪能したに違いない。
翌18日、突然思いたってテュ―ビンゲンに行くことにした。外はどんより曇っていて、外気は寒い。二人とも上着を着込んで駅まで歩いていく。テュ―ビンゲンまではICEでゲッティンゲンからフランクフルト経由でシュテュットガルトに行き、そこで乗り換えて、各駅停車でテュ―ビンゲン駅までの約4時間の旅だ。ICEの中はかなり寒かった。午後4時頃、目的地に到着。まだインフォメーションが開いていたので、とりあえずホテルを紹介してもらい、そこに落ち着く。ホテルに行く途中の有名なネッカー川に架かる橋(精神を病んだヘルダーリンが晩年を過ごした塔が見える)の上から、旧市街地への坂道は、大勢の観光客でにぎわっていた。これは以前には考えられないことだ。以前は静かな町というイメージだったからだ。
旧市街はほんとに狭い範囲のものであり、僕らは既に何度も来ているので、とにかくこの夜の飲み屋探しを兼ねてぶらつくことにした。ここはドイツでは珍しく、赤ワインが主流の土地である。ワインを飲ませてくれそうな居酒屋もたくさんある。この町の象徴というよりは、この町そのものがこれを中心につくられたといわれるシュティフト教会は、あいにく修理中で全体がすっぽり工事用やぐらやシートで覆われていた。この教会の真ん前の本屋は、ヘルマン・ヘッセが大学受験資格試験(Abitur)に落第して、ここでアルバイトをしていたことで有名だ(確か『車輪の下』だったかに書かれていたと思う)。
以前に来た時に、ワイン屋の女将さんに紹介されて入ったことのあるレストランもやってはいたが、今回は旧市庁舎の地下の「ラーツケラー」に入ってみることにした。
「旧市庁舎(ラート・ハウス)」は、かつての時代には教会と共に町の中心であったため、どこの町の庁舎もかなり立派なものである。その地下(ケラー)のレストランは、他の邦(領邦)からの使者をもてなすためにも使われたため、大抵は豪華で格調高い装飾や内装が施されているものだ。料理ももてなし方もそれなりの作法をいまだに守っているところが多かったように思う。
ところがここに入ってみて驚いたのは、そういう厳かな雰囲気が全くない点だ。客層も家族連れがほとんどで、実にリラックスしていた。サラダは一回限りだが皿に盛り放題、料理の値段も全くの大衆料金、ただビールだけがPrivat(私家版とでもいうのか?)なもので、多分地元のどこかで醸造されているのではないかと思われる無名のものだったが、それでも味は良かった。また普通は出てくることのない店主(初老の男性)が時々各テーブルを回って、Alles gut?(すべてのサービスが行きとどいていますか)と聞いて回っていたのが印象的だった。
翌朝はホテルの朝食を済ませた後、坂上のお城に行ってみた。ここにも9時頃というのに既に観光客の団体さん(ドイツ人か?)が大勢来ていた。小さな城だが、ここからの眺めはなかなか良い。テュ―ビンゲンの旧市街が一望できる。しかしここテュ―ビンゲンにも近代化の波(近代的ビルが多くなってきたことと、スーパーマーケットのような店が増えてきたなど)が押し寄せているのを感じ、何となく違和感を持った。
お城の坂道を降りてすぐのところ、ネッカー川沿いにヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングなどが通った神学校(シュティフト教会を建てた領主によってつくられた大学の神学部)がある。あまりにも小さな規模のものなので、その令名から推し量ってあっけにとられるほどだ。個人宅だってこの程度のものはざらにある。ともかく中庭に入ってみた。周囲の建物は4階建てぐらいのもので、多分この建物のどこかの部屋に学生時代のヘーゲルも住んでいたのであろう。教室と寄宿舎が合わさったもののようだ。
この日はこれでおしまいにして、急いでゲッティンゲンまで帰ってきた。というのは毎週木曜日の夕方にユルゲンと会うことになっているからだ。
ユルゲンとは最近はもっぱら「シュチュルテン」にばかり行くようになった。彼に言わせると、ここの料理は「パーフェクト」だそうだ。この日は家内との久しぶりの再会を喜んでくれたのと、この小旅行の報告などでたのしい団欒になった。シルビアも途中から参加してくれた。
面白いのは、新しくバイトで来るようになった学生(ドイツ人の男子学生で社会学専攻)が結構日本語を知っていたことだ。彼にどこで覚えたか聞いてみると、テレビの漫画だそうだから驚く。因みに、「クレヨンしんちゃん」はドイツのテレビでも放映されている。
《リューネブルクへの日帰り旅行》
リューネブルクといってもあまりなじみのない名前かもしれないが、北ドイツの大都市ハンブルクの近くにあり、もちろんかつてのハンザ同盟の主要都市で、「塩の道」として栄えた町である。僕らもかなり以前に北ドイツのキールあたりからリューベックやハンブルクを経めぐって、この町にも来たことがあったのだが、塩の入った袋をお土産に買って帰った以外、これという印象がなかった。
今回はコルドラさんからのお誘いで、彼女の運転する車で行くことになった。僕のうろ覚えではハノーファーからそう遠くないだろうと考えていたのだが、それは大間違いで、何と距離的にはベルリンよりも遠く、片道で4時間以上かかるというものだった。彼女には往復の運転で、大変な肉体的負担をかけたことと思う。全く恐縮の限りだ。
ドイツ独特の田園地帯や林の木立の中を駆け抜けて目的地近くまでやってきた。彼女が窓の外を指して、これが典型的な「ハイデ・フェルト(Heidefeld)」だと教えてくれた。つまり「エリカ原野」である。あるいは「リューネベルク原野」ともいわれている。紫色の小さな花が咲いていた。
リューネベルクの町は僕が前に来て思っていたよりもはるかに大きくて、古い建物が残っていた。先の大戦では部分的には破壊されたそうだが、それでもかなりの部分が残ったそうだ。 „Stadtring“(街循環とでも呼ぶべきか?)と書かれた標識にそって少し歩いたら川淵に出た。なんとなくバンベルクの旧市街に似た、趣のある風情である。川の淵に縁台(京都の鴨川沿いにあるようなものだが、こちらはもちろん椅子とテーブルである)が並んで、観光客が大勢憩っている。僕らもその一角で休むことにした。
目の前の川の向こう岸に木組みのクレーンを屋根に備え付けた小屋が建っていた。多分、かつてのハンザ時代にここでの荷揚げに使われた名残であろう。それ以外にもかつての倉庫の跡と思しき大きな煉瓦造りの建物がやはり川沿いに多くみられた。そういえば、この地の建物は赤い煉瓦造りが主流で、木骨家屋(ファッハベルク・ハウス)はあまり見当たらない。また「魚市場(フィッシュ・マルクト)」という名前のマルクトも見かけた。
夕刻に「ビール博物館」の横に敷設されたビアガルテンでビールを飲み、最後に「バッサー・トゥルム(水の塔)」の屋上に上り、この町の眺望を楽しんだ。旧市街地は独特の赤いレンガ色で覆われ、西洋の街の夕景色を十分に堪能した気分にさせられた。外は、この「バッサー・トゥルム」のフェストらしく、かなりの人が集まり、出店が出て、舞台がかかり、生演奏が行われていた。僕らは時間の制約があったため、残念ながらそこを引き上げざるを得なかった。
帰宅は11時半を回っていた。コルドラさんはそれからまた小一時間かけてご自分の家に帰っていった。天気にも恵まれていたせいもあり、この町へは再度行ってみたいと思わせられた。
2週間きりの休暇で来ている女房殿は、翌週はもはや最後の週になる。疲れたなどと言っておれない。明日の日曜日から再び小旅行に出かけようと話をして寝についた。
2010.08.25記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion103:100826〕
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2010年ドイツ便り(その11)
《最近のお話―つづき》
ゲッティンゲンからハノーファーまでは新幹線(ICE)で約20分、各駅停車では約く1時間ぐらいの距離である。今回はスカンジナビア航空(SAS)を使ったのでいつものフランクフルト空港ではなく、ハノーファー空港を使うことになった次第であることは第一回目の「便り」で書いた。
ところで、コペンハーゲンでの乗り換え時間(成田からコペンハーゲン、それから乗り換えてコペンハーゲンからハノーファーとなる)が、僕の場合、少しはドイツ語も使えるということで、最短の1時間にした。ところが女房殿の場合はこれでは少し不安かなと思い、ここでの乗り換え時間を遅らせて約4時間後の便にした。これだとハノーファー到着が午後の9時15分になる予定だ。日本では当然こんな時間には新幹線は通常の営業時間で走っている。ところがドイツではもう走っていないのだ。これには驚いてしまった。仕方ないので、各駅停車の時刻表を調べてみた。何と、こちらの方も11時近くのものしかないことが分かった。ゲッティンゲン着が12時を回る公算が出てきた。ユルゲンに聞いたら、空港からハノーファーまでの時刻もきちんと確認しておいた方が良いという。Sバーン(市内を走る電車)がないかもしれないからだ。日本が特殊なのか、それともドイツがあまりにも「商売気」がないのか?
ユルゲンは自分の車で迎えに行ってやろうというが、休みの日ではないのにそれではあまりにも厚かましすぎるので、とりあえずホテルをとるからと言ってお断りした。車だと、片道2時間ぐらいだという。僕の経験では、コペンハーゲンでの乗り換え時間は1時間で充分で、これでも余るほどだ。今後は気をつけたい。
8月12日にユルゲンが休暇(2週間の夏休み)から帰ってきて、久しぶりの再会。アルプスはどうだったか尋ねてみた。天候にも恵まれて(1日だけ雨が降ったそうだが)、こんなに焼けたよ、と言って腕まくりして見せてくれたが、やはり白人はそれでも僕よりは白かった。そのうち写真も見せてくれることだろう。
早速「シュチュルテン」に行き「プロースト(乾杯)!」をする。僕が「プロースト」と言っているのに、ユルゲンもラルフも「カンパイ」と言う。変な感じだ。この店のビール(ヴァール・シュタイナー)の生産地は、ドイツの西の方に在る「ヴァール・シュタイン」という町だそうだ。アインベックとこのヴァール・シュタイナーにはさまれたお陰で、肝心のゲッティンガー・ビールはさっぱり売れないのだとユルゲンは笑っていた。
ところで、皆さん方は僕が毎日「シュチュルテン」に入り浸ってビールばかり飲んでいることと思っているでしょうが、訝るなかれ、実際にはそうではない。隔日に通って夕食を主にしているだけだ。本当はお酒が好きではないのかもしれない(??)。そういえば、今週の „DIE ZEIT“は、このまま肉食ばかりを続けていいのか?というようなテーマの議論がステーキの写真入りで一面に出ていたように思う。僕はまだ買ってはいない。
それに関連するのだが、さすがにひと月半ぐらいもドイツ料理ばかりで、刺身などの日本食を食べていないと、夢にまで出てくるようになってしまう。しかも、出てくるだけで、いざ食べようとする途端に目が覚めるのだから悔しい。かといってそんなに郷愁に駆られているわけでもない。まだワインはそれほど飲んでいないからだ。
この日はパソコン持参で、バッハとジャズを聴きながら飲んだ(スピーカーがないので音は小さいが)。ユルゲンが、バッハはワインが合うと言う。気が付いたら11時半を回っていた。僕一人の時は看板過ぎ(12時過ぎ)までいることが多いのだが、彼は翌日仕事だからあまり遅くまで付き合わせるのは気が引ける。
少し勉強のことも書かないと、疑われっぱなしになりそうだ。実はドイツ語の勉強のためと、日本文化を少しは教えたいと思って、「黒髪」(確か『今昔物語』か『雨月物語』にあったと思うのだが、判然としないのでこの際は前者のものと決めて、そう紹介した)をドイツ語にしてみた。もちろんうろ覚えの記憶に頼ってのものだから、粗筋だっていい加減なものだ。それをユルゲンに訂正してもらって、どうやらドイツ人にも読めるようにしてもらった。ユルゲンは二人の共作だと自慢していた。
最初、彼らにはどこが判りづらかったかと言うと、男が出稼ぎから帰ってきたときに女房が出迎えるが、実際にはそれは死霊であるということ。この点はユルゲンすら解らなかったようで、女房はどうしたの、どこに行ったの?と聞いてきた。僕があれは死霊(Geistといって説明した)なんだ、だから翌朝、周囲の状況が一変していただろ、と言ったら初めて納得してくれて、多分その部分のドイツ語を書き換えてくれたようだ。書き換えたものをシルビアとラルフとユリア(この日は彼女がアルバイトで来ていた)にも見せて、帰国後にコピーして送るからと約束した。ユルゲンの訂正が入ったおかげで、ラルフに女は死霊(Geist)なんだが分かったか、と聞いたら、もちろんだよと言っていた。
ユリアとはほんのちょっとした立ち話で、サイードの『オリエンタリズム』とノァーム・チョムスキーのパレスチナ問題について書いたものが面白いよ、と言ったら早速読んでみようと言っていた。サイードはパレスチナ出身のアメリカ人で、チョムスキーはユダヤ系アメリカ人だということはもちろん付け加えておいた。
このところのドイツの天気は一進一退で、雨と晴天がくるくる入れ替わっている。でも、もう最初の頃の暑さはない。気温もラジオの天気情報によるとせいぜい26度くらいだと言う。部屋の中にいる限りは、空気が乾いているので汗はかかないし、昼寝にはうってつけだ。軽く1時間半ぐらいは眠ってしまう。それでも夜も眠れるから不思議だ。(勉強するのにも適していると書いておこう)。
追記:ユルゲンは親切な男で、その後に電話で、9時15分ハノーファー着でもSバーンもあるし、ゲッティンゲンまでの電車も動いているから、ホテルに泊まらなくても大丈夫だと知らせてきてくれた。翌日すぐに調べてくれたようだ。
《雑駁なよもやま話》
全てが雑駁なよもやま話のくせに、新たに何をいまさら、と言われるかもしれないが、どうもいよいよ「山の神のご登場」(16日ハノーファー着予定)間近となると、何かと落ち着かなくなる。この際、先日書いてユルゲンに訂正してもらったドイツ語の「黒髪」でもここに掲載しようかとも思ったが、それではあまりにご迷惑のかけ過ぎなのでやめた。
『シュピーゲル』の例のアフガン戦争調書によると、どうもアメリカとドイツ、双方の軍事的な考え方には大きな齟齬があるように思われる。アメリカはアフガンのゲリラ(アルカイダやタリバンなど)を殲滅したいようだ。この種の指令がドイツ軍にまで伝えられたが、ドイツは結局拒否したそうだ。日本軍が派遣されていたらどうだったろうか?僕は考えて、ぞっとした。もし日本がアメリカのお先棒を担いで、殲滅戦に参加するようでは、多分日本の未来はないだろうと思うからだ。
アメリカの空爆によって、地理的な変動までも起きているというから、すごい量の爆弾が投下されているものと思える。
2009年5月29日の夜、米特殊部隊によって、タリバンの「影の司令官」が殺害された。ところがそれ以来、タリバン側の猛攻撃が始まって、戦乱は拡大の一途だという。北部地区(ドイツ軍の守備範囲)に限っても、ゲリラ活動への警戒警報は、2004年の1回、2005年の199回、2006年の339回、2007年の203回、2008年の255回に比べて2009年は、なんと569回もある。戦闘行為に至っては、12000回ぐらいになっている(2007年がそれまでの最高で、約6000回弱)。
ドイツではオバマのことをポピュリスト(大衆迎合主義者)とよんで、幻滅感が漂い始めている。
もちろん、ドイツがすべて正義だなどとは思っていない。13日のラジオのニュースでは、ハノーファーでネオ・ナチが再び騒動を起こして(ハノーファー近辺の村で集会をやろうとしたため)、警官との乱闘になったことが伝えられているし、いまだにビスマルク(1871年のドイツ統一時の「鉄血宰相」、参謀のモルトケと組んで、フランスとの和睦交渉をわざと無視して宣戦布告し、フランス領を割譲させたことで有名)への憧れが強いのは、相変わらずの強いドイツを渇望している人たちがいることを語っているように思えるからだ。
ここで話が急転回する。先日古本屋へ行ってみたら、ヘーゲルの代表作を全6巻にして売っていた。FELIX・MEINER社のもので、かなりの豪華本、しかも新しかった。定価は全部で90ユーロ。『論理学』の初版(1813年版)まで入っていた。買いたかったのだが・・・、女房に怒られそうなのでやめた。
ここ2年間ぐらいは、ドイツにいる間に『精神現象学』の有名なVorrede(序論)を自分なりに訳してみようと思って苦心してきた。必死になって取り組んでみてもせいぜい1日に1ページしか進まない。ほとんど我慢比べのようなことばかりやっていた。今まで44ページほど(suhrkampの原書では序論は、64ページもあるのだが)を自分流に訳してみた。全く自信はない。しかし、今年はそれを思い切って中断した。というのは、こんなことは日本でもできる(やる気さえあれば)からで、せっかくドイツに来ているのだからもう少し現代ドイツに関するものでも読もうと思ったからだ。第一、ヘーゲルの文章、特にこの『現象学』の序文はドイツ人でも皆目読めないといった代物なので、彼らに質問もできない。
ところが先日C君と会って話をしていた折に、彼が友人のドイツ人から聞いたことによると、カントの文章は本当の悪文だそうだが、ヘーゲルのは格調のある名文になるそうだ。ウム、…と唸るしかないが、どうもそうらしい。
ただし、僕も2ヶ月間ヘーゲルから全く離れるわけにはいかないので、レクラム文庫にあった『法哲学』を買ってきた。それの序文を読み始めたのだが、こちらもなかなかの難物だ。カントの不可知論批判からイエナ大学の元同僚教授フリースの悪口を言っているところなどは、少し楽しめるが、それでも難しい。ヘーゲルがここで引用しているフリースのアジテーションの一部を改めて読んでみて、これは説教壇から坊主がたれる説教みたいだな、と感じた。あるいはロマン主義の甘い感傷か?「友情や情熱の心情さえあれば事足りる」という彼の主張に対してのヘーゲルの切り返しは、やはりその部分にヘーゲルが引用している『聖書』の一部分、僕にはうまく訳せないが、なんでも、「神は人が眠っている間に恵みを与える」というようなことらしいのだが、それに絡めながら、人はみな手を与えられ、絵筆を持てるかもしれないが、だからと言って彼らが即画家であるわけではない、というものだ。実に常識的ながら天晴なものと思う。
「友情や情熱の心情」などという「お粥Brei」みたいなものに何千年もの間の理性の営為の結果をいっしょくたにしてかき混ぜて、それでわかったようなつもりになるな、というものであろう。口当たりの良い美辞麗句に騙されて日常の努力を軽視するな、ということか。確かダンテにあったと思うのだが、まさに「地獄への道は花で飾られている」のだ。
追記:昨夜「シュチュルテン」の男子学生のアルバイト(彼の名前はミランという)と話していて、君の名前はミラン・クンデラ(ドイツ読みでは、ミラン・クンダー)と同じだね、と言ったら喜んでくれて、彼の彼女がミラン・クンダーを研究していると言って紹介してくれた。彼女はドイツ文学の専攻者で、ゲーテの時代のものも読んでいるとのこと。早速、ヘーゲルの文体などについて聞いてみた。単語(Vokabelと言っていた)そのものもかなり違っているし、文法も少し異なると教えてくれた。ゲーテの本も読みづらいそうだ。
2010.08.15記
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