グローガー理恵さんご夫妻とリューネブルクを散策
その日の午後3時にLüneburg駅のInformationの前で会う約束をした。小さな駅なのですぐにわかると考えていたが、いざ行ってみたら大抵の駅にある「案内所Information」は見当たらない。どうもここには無いようだ。でも、実に狭い空間なので、どうにかなるだろうと話していたら、入口から理恵さんの顔がのぞいた。
健康管理が行き届いているせいだろうか、一年ぶりでお会いするお二人とも、元気そうで少しスリムになっていた。
リューネブルクはリューネブルク原野(Lüneburger Heide)一面に咲くエリカで有名である。われわれも、理恵さんご夫妻に連れられて何度か足を運んで鑑賞したことがある。実際に広大な原野一面に咲く紅紫色のエリカは見事なものである。
しかし、今回はこの古い町の様子、雰囲気を堪能することになった。
リューネブルクは美しい町である。かつてここはハンザ同盟都市(Hansestadt)として栄えた町で、岩塩の採掘とリューベックからの輸出で富を築いたといわれている。いまでもその当時の「塩街道Salzstrasse」が残っている。
塩が取り結ぶ縁なのかどうか、四国徳島県の鳴門市と姉妹都市を結んでいる。
また、ヨハン・セバスティアン・バッハがまだ少年の頃、この地の聖ミヒャエル修道院の付属学校に通いながら、この修道院の少年合唱隊の一員(ボーイソプラノ)として歌っていたという。
当然、われわれもこの古い修道院までいった。中に古めかしいパイプオルガンが据えられていたが、この演奏であのバッハが歌を歌っていたとは…。彼は美しいソプラノの持ち主だったといわれる。修道院前の小さな広場は「J.S.バッハ広場」と名付けられていた。
聖ミヒャエル修道院
街中には古い建物、多くはレンガ作り、が数多く残されていた。中でも、この街の古い市庁舎は木造としてはドイツでも有数に古いものだという。こういうものが残っているのは、大戦中の爆撃を免れたためでもある。
昔のこの街の城壁、またハンザ時代の商工会議所、ヨハネス教会、地元ビールの醸造所、などなど、またかなり興味をひかれたのは不動産屋が入った民家風のレンガ作りの建物で、その建物は道に面した外壁の一部が(妊婦のお腹の様に)異様に飛び出していた。
実はうっかり、車の中にカメラを忘れてきたため、途中まで写真を撮り損ねた。やっと撮った写真は、上の修道院とこの奇妙な民家の壁(うまく撮れていない)だけである。
リューベックとWilly Brandt Haus(Museum)
この日は理恵さんご夫妻の家にお世話になった。私たちのような、東京の狭苦しいアパートで、騒音と埃に囲まれ、ストレスを大量にため込んで生活しているものにとっては、何ともうらやましい限りの環境である。緑豊かで、ゆったりとした静かな空間、ほとんど自然と一体化した生活スタイル、ものを考えるにも、頭を休めるにももってこいの快適な住環境である。
翌日はあいにくの雨模様。今年のドイツは実に雨が多い。
ここからリューベック(Lübeck)へは、アウトバーンでハンブルクを通過し、さらに北へと進み、Ostsee(東海、あるいはバルチック海とも呼ばれる)まで出る。ここは言わずと知れたハンザ同盟都市(Hansestadt)の旧盟主であった港町である。
その後、盟主の地位をハンブルクに奪われたとはいえ、この街の至る所に当時の繁栄を見ることができる。
作家トーマス・マンはこの町の出身で、今でも旧市街地にマンの生家がMuseumとして残っている。彼が書いた『ブッデンブローク家の人々』は、彼の一族の歴史をこの町の歴史的変遷に絡めて描き出している。また『トニオ・クレーゲル』では、彼が幼少期に通っていた地元の小学校(Grundschule)や、その周辺の港の様子が簡単にスケッチ描写されている。だが、ここではこれ以上観光ガイドはしないでおく。写真も以前のレポートの中で何度か掲載している。しかもこの日はあいにくの本格的な雨日和で、写真どころではなかった。
われわれの今回の目的は、やはりこの町出身の政治家ヴィリー・ブラント(Willy Brandt)の記念館を訪ねることである。それは旧市街地の、それほど目立たない一角にあった。
ヴィリー・ブラントという名前を聴いて何を思い浮かべるであろうか?元西ドイツの首相、ノーベル平和賞受賞者、あるいは、ワルシャワのユダヤ人ゲットー跡地で、犠牲者の碑の前でひざまずいた姿を想い出すであろうか。
今回ここヴィリー・ブラント・ハウスを訪ねて強く印象付けられたのは、彼が徹底して「闘う人」という姿勢を貫いていることである。例えば、彼の選挙用のポスターが、当時のライバル候補(CDUやFDP)と並んで貼られていたが、他の候補が「新しい一歩を踏み出そう」式の選挙民への消極的な呼びかけに終始しているのに対して、彼のポスターは「明日の確かな生活を欲する者は、今日戦う必要がある」というものだった。
彼は1913年の生まれであるから、20歳位の時にドイツにヒトラー政権が誕生したことになる。彼の生涯を詳しく述べる余裕はないが、略述すれば、奨学金を得てギムナージウムに通っている頃から学生運動に参加、最初はSPD左派に、途中でそれに飽き足りずにSAP(社会主義労働者党)に移り、SPDに奨学金を打ち切られ、大学進学をあきらめる。その後、SAPから派遣されてデンマークを経由してノルウェーのオスロに入り、そこで実質的な亡命生活を送りながら反ナチ運動に活躍。その間、スペイン内戦を機にスターリンの政治姿勢に批判的になり、SAPからも疎遠になる。1944年に亡命者で作るSPDに復帰し、戦後ドイツに帰国。西ベルリン市長、西ドイツ外相、西ドイツ首相を歴任…、となる。
彼の波乱万丈の生活は、レーニン時代の残影を残した「最後の革命家」とも思えるし、逆にレーニン時代と断絶した「最初の近代政治家」とも思える。
個人的には勿論疑問がないわけではない。SPDとSAPとの関係を彼がどう考えていたのか、また、今日のSPDのどうしようもないほどの保守体質化(CDUとのズブズブの連立)について、このようになる可能性が当時からあったのではないのか、SPD左派としては、どのような変革を考えていたのか、等々の疑問がある。
ヴィリー・ブラント・ハウスで約1時間程度、説明を受けたが、残念ながら私のドイツ語力では全く途切れ途切れにしか判らず、質問をするどころではなかった。
この美しいハンザ都市リューベックも、第二次大戦の際の爆撃でかなりの部分が破壊されている。その時の写真が残されて掲示されていた。また今回は行けなかったが、聖マリア教会には爆撃で地面に埋まったままの釣り鐘が残っている。
リューベックから更に海岸寄りに有名な海水浴場である「トラフェミュンデ」がある。そこにも行ってみた。大きな帆船が港に係累されていたが、残念ながらこの日は中を見物することはできなかった。
帰途、アラブ料理の店で夕食をご馳走になった。若い男の店員はシリアからの難民だという。家族はちりぢりに離散し、彼は一人でこの店でアルバイトをしながら難民向けのドイツ語学校に通っている。片言のドイツ語で、故郷のダマスカスの話をしてくれたが、話を聴くだけでも素晴らしい古都であったことが判る。町の周辺は樹木に囲まれ、湧き出る水は清らかで、そのまま飲めたそうだ。人類の貴重な文化遺産も、今や見る影もなく破壊され、いつ果てるともない戦乱の中で、住民の生命や生活と共に失われている。
彼はわずかばかりの稼ぎを自分の生活費と家族宛の仕送りに使っているという。まだドイツ人の友人もいないらしい。理恵さんの夫君が「僕がドイツ人の友人になるよ」と言って彼を慰めていた。
アラブ料理はなかなかのものだった。レンズ豆をすりつぶして、それをコロッケの様にしたもの(ただコロッケよりは表面が固かった)や、パセリの葉を細かく切って炒めたサラダなど、これらを「ナン」(?)というのかどうか判らないが、袋状になった薄い小麦粉のパンに入れて食べるのだという(なんだか「お稲荷さん」みたいだ)。
ところで、コロッケは、そもそもはアラブ料理にその源泉を持ち、それがフランス料理に伝わったのが、どういうわけか日本にも伝播したようである。以前にドイツの語学学校で同級生だったイラン人の若い娘が、交流会に持参したコロッケは、日本で食べるコロッケに酷似していた事を想い出した。
その夜も理恵さんご夫妻の家にお世話になった。翌日はご親切にも、ゲッティンゲンに近い(各駅停車の列車で約1時間)ハノーファー駅まで車でお送り頂いた。
圧倒的に理恵さんの通訳が多かったが、それでも私の下手なドイツ語に辛抱強くお付き合い頂き、いつもながらかなり有意義な時間を過ごさせていただいた。お二人に心から感謝したいと思う。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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