2017年8月以後のミャンマーの「物語」と日本

著者: 村主道美 むらぬしみちみ : 学習院大学 法学部政治学科教授
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I.物語の戦い
 全てを疑え、という原則に従おうとしても、全てを疑い続けていれば、思考を展開することができず、何の行動もとることができない。何等かの事実らしきものを仮定しなければ先に進めないが、そこで誤った事実認定をしたり、疑うべきときにそれを怠たると、その後の議論や行動の修正が大変難しくなる。情報が不鮮明なときに対応を始め、情報が増えるとともに、自分が過去にとった行動や方針を修正できるよう、可逆的対応をとる、ということは難しい。この一例が、2017年8月25日のミャンマーの情勢変化を経て強まる、日本のミャンマーの政府・軍に対する傾斜である。日本政府の認識は下記のようなものである。

 「ミャンマーの国造りを全面的に支援していくとの日本の方針に変更はないとした上で,ラカイン州北部の情勢につき,本年8月25日に発生した治安部隊等に対する武装勢力による襲撃行為を強く非難すると同時に,現地の人権・人道状況,住民殺害の疑惑,約40万人が避難民として流出していることに対し,深刻な懸念を表明しました。」(堀井巌外務大臣政務官のミャンマー訪問 2017年9月25日 外務省HP)

この日本側の判断のポイントは
 (1)ARSA(Arakan Rohingya Salvation Army)による襲撃によるミャンマー側の軍などの犠牲者に哀悼を表する
 (2)「住民殺害の疑惑」に対する深刻な懸念を表明する
 (3)その「住民」が誰なのか。流出した避難民とはどんな集団なのか。仏教徒まで含むのか、イスラム教徒をも含むのか、などを曖昧にする。ロヒンギャという言葉を用いない。

である。一見、これは当時としては公平な対応にも見える。ミャンマー政府に対しその犠牲者を悔やみ、その対岸にあるロヒンギャの人権にも配慮しているように見える。だが時間の経過とともに強まる疑問は、日本政府が哀悼を表した、ミャンマー政府側の主張した、治安部隊員たちが死亡したという証拠は結局出されていないこと、およびその後、8000―10000人程度のロヒンギャが死亡されたと推定され、その死体の写真なども多く報道されたにも拘らず、そして大虐殺とともに略奪・強姦・放火にあい、トラウマを抱え、肉親や友人を失ったロヒンギャが、食料も薬もないままバングラデシュへと逃げたことは肉眼で確認できた現実であるにも拘らず、日本政府は彼らに対して哀悼の意を表すことはなく、その情報が「疑惑」であるという立場を今に至るまで取り続けていることである。
 このミャンマーへの親和的な立場は、2019年1月の、訪問した阿部副大臣の言葉「日本政府は,ラカイン州問題をはじめ諸課題の解決に向け,ミャンマー政府と共に考え,その取組を最大限支援する方針である」(阿部外務副大臣のミャンマー訪問 外務省HP)からも確認できる。(下線は以下全て筆者による)

 この2017年8月24日深夜の時点で、次のような疑問は当然提起できる。
 攻撃を受けたとされる側については
(1)本当に、何等かの攻撃がARSAの側からあったのか。
(2)ミャンマーの治安部隊員が本当に死亡したのか。
(3)本当に、攻撃されたとされる箇所が、攻撃されたのか。
(4)ミャンマー側には著しく早い「テロ」との断定がある。これは早すぎるのではないか。何が起こったかを調べる前に、それを「テロ」と呼ぶことが決まっていたのではないか。例えば911同時多発テロと比較して考えるとき、911の場合には、旅客、ビルの中の勤労者など、一般人が命を落としたことが一目瞭然であるが、いわゆるARSAの攻撃においては、ミャンマー側が報告しているのは、ミャンマー側の軍、警察の死傷者であり、一般人ではない。テロという断定には、一種の慎重さが必要である。911はアメリカの中枢で起こったが、ラカインはミャンマーの辺境である。

攻撃をしたとされる側については、下記のような疑問が、2017年8月24日-25日の時点で、提起できておかしくなかった。
(1)タイミングの問題がある。ARSAがもし、本当にロヒンギャの権利を実現するための組織であるなら、この2017年8月24日夜は、もっとも武力攻撃を自制しなければならない夜である。なぜならばコフィ・アナン元国連事務総長を委員長とするラカイン州―ロヒンギャ問題についての委員会による、いわゆるアナン報告書の最終報告が、彼がミャンマーを訪れて正式に提出され公開されたのが8月24日であったからである。その半年前には、アナン報告書の中間報告が提出されており、その中では、国内避難民(IDP, Internally Displaced People) キャンプという名目になっているラカイン州内部にあるロヒンギャの事実上の強制収容所の閉鎖や、将来的にはロヒンギャへの国籍付与を考えるべきこと、などが勧告の中に入っている。これはそれまでのミャンマーにおける、ロヒンギャに対する敵対的心理からして、政府・軍にとり著しく、文字通りには受け入れにくい諸勧告で、ロヒンギャにとっては大きな勝利となるはずである。もちろんロヒンギャが世界的注目をも浴びる日であり、この日以後は、この勧告を実現したがらないミャンマーの政府・軍と、ロヒンギャおよび国際社会との間の緊張した駆け引きが予想され、ミャンマー側が国際社会から追い詰められるシナリオもありえた。だからこの時点において、ロヒンギャの権利を考える者、組織は、ミャンマーが勧告を実行するのを待ち、あるいはその実行を怠るのを世界が確認するのを待ち、新たに得た正当性を盾にミャンマーに対峙することこそ最も必要なことであった。
(2)ARSAの貧弱な武力の問題がある。ARSAは非常に粗末な武器しか持っていない。それを自家製の爆発物や竹槍などで補っている。それがなぜ、30か所の警察署を襲い、それに加え軍駐屯地まで襲うという自分の実力に全く不釣り合いなことをしたーあるいは、したとされるのだろうか。武力と人員において劣るなら、どうしてそれを、一か所の、相手の最も弱い部分に集中せずに、それとは逆の、負けることが確実な戦いを広範囲で展開しようとするのだろうか。
(3)攻撃後の形勢の推移の問題がある。例えば真珠湾攻撃、朝鮮戦争の開始、ベトナム戦争でのテト攻勢、911同時多発テロ、などを見れば典型的に現れているように、攻撃を開始する者は、少なくとも短期間、その先制により、不意を突かれた相手に対して軍事的に有利な状況を実現したり、成果を宣伝できる場合が多く、まさにそれゆえに相手に対して予告なく攻撃を突如開始するわけであるが、8月24日夜のARSAの攻撃とされるものには、この先制によって実現できた成果が全くない。

8月25日以後の10日以内に、次のような状況が明らかになる。
(1)ミャンマー軍は「反応」が著しく早く、大規模な「テロ掃討作戦」を8月25日に開始する。しかしその作戦をテロに対する闘いとして定義しておきながら、その中作戦中に、ロヒンギャの村からテロリストを摘発して彼らを摘発し、その内部情報を得ようとしたりする行動は、皆無である。あるのはただ、Tula Toli, Gu Da Pyin, Chut Pyinなどのような数百―数千名規模の、軍による村民に対する無差別殺人と、強姦、略奪、放火行為である。
(2)その「掃討作戦」は、多くの村で次のような共通項がある。
  ① 全ては、明るいうちから日没までの間に行われる。
  ② ラカイン州北部のロヒンギャの村に侵入してくるミャンマー軍は、何等かの方法で、村民を一定の場所に集中させ、そこで軍は男女を分ける。 
  ③ 村民を脅して一定の場所に集めるために、ロケット砲で家を焼いて恐怖を与えるなどということはあるが、原則として、放火する前、女性を強姦する前に、村民からの財産の略奪がある。奪った物品を道にまず積み上げ、次に軍用車で村から、恐らく近くの軍駐屯地へと運ぶ。
  ④ 男女を分けて集め、その抵抗が難しくなった時点で、男性への殺害が始まり、その直後あるいは同時並行的に、女性への強姦が始まる。強姦後に女性が殺傷されることも多い。子供も無残に殺される。
  ⑤ 殺人のみならず、女性の死体の胸を切り取るなど、死体損壊が頻繁に見られる。
  ⑥ しっかりとした分業が攻撃者集団に教え込まれている。射撃するのは兵士であり、それでもまだ息のある者を、刀などで絶命させるのは、兵士とともに動員されて来ているラカイン人仏教徒や、その他の少数民族集団の仕事である。これらの非軍人は、遠くから運ばれて来ている可能性がある。
  ⑦ ガソリン、酸、スコップなど、死体を処理するために必要な物品を、軍は事前に準備して村に持参し、動員した少数民族などに穴を掘らせ中に死体を入れ、ガソリンをかけて燃やしたり、酸をかけてその死体の個人の判別を不明にしたりする。つまり村に侵入するときにはすでに、軍には大量の死体を処理する意思と準備がある。
  ⑧ ロヒンギャの家は、略奪後、放火される。 ラカイン人仏教徒の集落がロヒンギャの家に隣接する場合でも、そこには放火されない。
(3)ミャンマー側の語る物語においては、8月24日深夜に始まった「テロ」に対する「掃討作戦」を行ったのであって、8月25日以後のミャンマーの行動は、反撃であって、自ら意図していた攻撃ではない。しかしこのミャンマーの説明と矛盾するのは、この「反撃」に投入された最も有力なミャンマー軍の武力である、最高司令官直属の第33、第99軽歩兵師団は、2017年の8月10日にラカイン州に派遣され、その異常なプレゼンスで現地のロヒンギャたちを不安にさせていた、また同時に、ヘリコプター、戦車、などのラカイン州移送も、この8月10日前後に行われていた、ということである。
(4)ミャンマーは、加害者としての責任に繋がることを全く認めない。放火については、ロヒンギャの家だけが燃えていること、ロヒンギャの集落に対して隣接するラカイン人仏教徒の家には放火されていないことは認めざるを得ない。しかしミャンマーは、軍は一件の放火もしておらず、放火は全て、ロヒンギャによるものであるとする。ミャンマー政府は一件の略奪、強姦、放火をも認めず、一般人に対する殺害を認めず、ただ後に10名のロヒンギャのテロリストを殺害してしまったことを認める。
(5)上記の、ロヒンギャ「テロリスト」殺害は、本来ミャンマー側が認める意思があったものではなく、ロイター通信記者の取材が進んでミャンマー側が認めざるをえなくなったもので、その記者2名は、逮捕され、現在に至る。

もっとも、状況が明らかになると言っても、これらは、被害者であるロヒンギャがそれを目撃しているということであって、それを国際社会が気づくまでには、多少の時間が必要となる。それは、ロヒンギャがバングラデシュに逃れてくるための何日間かである。

II.対抗仮説
 上記のことからして、8月25日から10日ほどの間に、直接ラカインの現場を見ていないどのような国の指導者であっても、考えうるのは、次のような仮説である。
 <8月24日夜のARSAによる攻撃がミャンマー政府にとり先制攻撃であり、それにミャンマーが反応したのではなく、ミャンマーは現実に行ったような攻撃を8月25日に開始するプランをすでに、予め、遅くとも8月10日には実施し始めており、8月24日夜の「ARSAによる30か所のテロ」とミャンマーが呼ぶものを、ミャンマーは少なくとも事前に知っていた、あるいはARSAにそのように行動させたものも、ミャンマーの計画の重要な一部である。>
 <このアナン報告書発表の8月24日というタイミングは非常に重要である。この日は、ロヒンギャに有利、ミャンマーに不利な勧告がアナン報告書によって提出されることが半年前からほぼ確実である日であり、実際、8月23日にはミャンマー側は最終版をアナン委員長から提示されているはずである。だからこの一連の推移の意味は、ミャンマーは、アナン報告書の完成を、その委員会に加わっているミャンマー人仏教徒たちを通じて中絶させるという選択ではなく、それを生ませた上で殺す、という選択をしたということである。その最も大切なはずの文書を1日で反故にするために予定される説明は、同時多発テロが起き、対テロ戦争の時代が来たのだから、これからのミャンマーはアナン報告書に拘泥していられない、というものである。>

 これには、前記の疑問に加え、その後に筆者が個人として聞いたり見たりした、次のようなポイントが関連する。
(1)ARSAが攻撃する8月24日夜の前に、攻撃を受ける警察の側は、人員を退去させている場合がある。つまり攻撃される側が、なぜか、自分らがこれから攻撃されることを知っており、自分らの側の人員の被害が出ないようにしている。その結果ARSAは、建物を攻撃しているのであり、人を攻撃しているのではない、という場合がある。
(2)ARSAの持っているわずかの銃などの貧弱な武器は、ミャンマー軍の武器と同一である。
(3)ミャンマー側が主張しているような、30個ほどの箇所がみな例外なく本当に攻撃を受けた、ということの証拠は発表されていない。
(4)軍によるロヒンギャ村への襲撃の被害がどの程度証拠として残るかについては、その村の豊かさが一定程度係っている。ある程度豊かであるということは、スマートフォンを持っている者が中にいるということで、彼らは、虐殺の中で、何等かの映像記録を取り、それをバングラデシュに持ち出すことに成功しているが、貧しい村ではそれができない。つまりミャンマー軍の目的の中に、テロ攻撃とは無関係であるはずの、略奪がかなり重要な位置を占めるとすれば、彼らは比較的豊かな村民のいる村を重視して襲うはずで、その豊かな村にはスマートフォンなどを持つ村民がおり、軍の襲撃の少なくとも一部が、被害者側によって録画されることになる。こうして、軍によるロヒンギャの村落襲撃の証拠が、一部ではあるが映像記録に残されたということは、軍の真の目的が何であったかということが、反映されているとも言える。
(5)中国がミャンマー軍に働きかけ、仮に軍がロヒンギャを虐殺する作戦によってアメリカがミャンマーに介入するようなことになったとしても、中国がその際は参加してミャンマー軍の側に着くので、躊躇すべきではないと中国はミャンマー軍に指令したと述べるロヒンギャに筆者は出会っている。だが筆者はこれを確認できていないし、できそうにない。中国が重要な案件、例えば鉱産資源の開発などについてミャンマー政府を相手とせず、直接にミャンマー軍と交渉し、約束を交わしている、という話は複数のロヒンギャから聞いている。
(6)ARSAの秘密主義により、それに参加したロヒンギャは、何らのイデオロギー教育も受けず、他の参加者や上官がどのような人物であるかをよく知らない。秘密を破ったことを理由に、ARSAはその参加者を殺すことがある。
(7)ミャンマー軍が、その2017年8月以後の攻撃において妙に執着するものは、ロヒンギャの衣装である。ロヒンギャの服屋が村で最初に襲撃にあい、総数500着程度の服が奪われたらしい。他方、ミャンマーによれば、ロヒンギャがヒンズーの村を襲い、殺害したことになっているが、そのときの被害を免れた者の証言では、襲撃者は全員がマスクで顔を隠している。つまり攻撃する者の中に、何等かの意図で、偽装に当初から関心を持った者、そして実際に何らかの偽装をする者がいたということになる。

 2018年9月の国連事実調査委員会の報告(以下 国連報告書)は、ARSAによる攻撃とされるものについて、下記のような証言を報告している。
(1)ARSAに参加したロヒンギャは、攻撃にあたり、標的である警察などを<攻撃しないように>という指示をその上官から受けている。
(2)ARSAの行ったことは、攻撃というより、槍をもったデモのようなものであった、というARSA参加者からの証言がある。
(3)ARSAの攻撃があったとされる村の近隣の村に8月25日以後すぐに軍が入り、略奪、放火、強姦、殺人をしている、というパターンがある。死体処理の労働力ともなる少数民族、ラカイン人、ガソリンなどが、軍が村に到着した時点ですでに準備されている。

(3)の点は、ARSAの襲撃箇所がラカイン州北部に拡散されているということが、ミャンマー軍によるその反撃としての襲撃を、ラカイン州北部のそのARSA襲撃箇所とされた場所の周辺を中心として、広範に拡大できるということを意味する。

 ミャンマーにおけるプロパガンダ活動にも2017年夏に変化が見られ、ロヒンギャの人権侵害について、facebookが被告人席に立たされる、ということは、現実味のある可能性となっている。2017年の夏以後ミャンマーで急増したhate speechはこのfacebookという場を通じて行われ、その多くは自らを隠蔽した軍関係者を発信源とするもので、ロヒンギャを犬などの動物に例え、その殺害や根絶を示唆する言葉が多数現れたが、facebookは、ビルマ語をチェックする能力が極めて不十分で、削除が追い付かず、それを放置する結果となったからである。このfacebookのhate speechは8月下旬以後劇的に増加するが、その増加の最初の小さな波の開始が、8月10日前後である。

 ミャンマー軍による人権侵害が、日本政府が「疑惑」としてオブラートに包むようなものではないことは、9月の時点で一目瞭然である。生き延びた被害者がバングラデシュに逃げ、証言しているからである。ミャンマーという国家の説明を、難民化した人々の証言よりも常に優先させなければならない理屈はない。
 下記の絵は、それを示すひとつの証拠となる。

 ①

 ②

 ③

 ④

 ⑤

 ⑥

 上記に示したものは、2017年末にCox’s Bazarのロヒンギャ難民キャンプを筆者が訪問した際に、ロヒンギャのための教育施設で、小学校中学年―高学年程度の年齢の子供ら20人ほどが、筆者の質問に従って描いた絵のうちの6枚である。出身地域の異なる子供の絵に、著しい共通性がある。
 筆者は、助手のロヒンギャを通じて、教室に集まっている子供たちに、あなたがなぜ今ここにいるのかを、絵で説明してください、と言い、30分待った。教室にいたのは助手、子供たち、および筆者だけである。クレヨンは12色のものを筆者が準備し、紙も配布した。この子供たちはみな、2017年8月末以後、故郷であるラカイン州北部を離れここに来た。

 この中で、緑色の服は、ミャンマー軍・警察の制服の色である。
 ロケット砲のようなもので家に放火している絵が多い。
 緑色の服を着ている人間は、銃を発射し、別の色を来ている人間は、剣を持っている場合がある。その中には女性らしい長い髪を結った人物もいる。
 中には銃を撃つ兵士の後ろに、僧衣を着て、槍を持っているように見える人物たちもいる。
 単に殺すだけではなく首、手、足などをさらに切断された死体が示されてある。

 これらについて、その後、再度キャンプを2018年に訪問した際、成人男性たちに上記の点について確認した。中でも、筆者にとって最初は信じられなかったことは、攻撃する側にラカイン人らしき一般人女性、そしてラカイン仏教徒らしき僧侶が描かれているように見える点であるが、成人男性たちは、それも事実であると答えた。

 何が起こったのかを、言葉でどう描写するか。そこには、一枚の絵には表せない、時間の流れと因果関係の要素がある。因果関係については、今日の事件が明日の事件の原因となる、という場合もあれば、明日に何が起こるかの予想あるいは明日何を起こすかの予定に従って今日の事件が起こった、という場合もある。
 国連報告書を含め世界の報道や調査報告は、ARSAの攻撃があり、その後ミャンマー軍が行動した、という形式をまだ捨てていない。だが国連報告書は、ミャンマー軍側の一貫した計画性を強く示唆する。つまり2012年のいわゆるcommunal 紛争についても、事前にラカイン人に軍から武器が配布され、自然発生的なものではなく、計画されたことを示す証言を集めている。そこで読者が気づくのは、広いラカイン州の離れた場所で同時に、あるいは連鎖的に、ラカイン人とロヒンギャが相互の反発感情の自然な高まりから衝突した、とミャンマー政府からは説明される2012年の物語は、2017年に、広いラカイン州北部で、30か所の別々の場所でARSAが攻撃した、それにミャンマー軍は対抗せねばならなかった、とされる物語と、その同時多発性あるいはその装いにおいて、そして責任の分散あるいは転嫁において、強い共通性があることである。つまり2012年を計画した者がいるとしたら、その者が2017年を計画した可能性があることである。
 日本は国連報告書の見方の進化とは逆行し、ARSAによる攻撃―ミャンマー軍の反撃という見方を変えないのみならず、ミャンマーの蛮行が証明されないかぎり、ミャンマーを、推定無罪のニュアンスを込めながら、疑惑の対象として扱い続け、そしてその疑惑は国連など外部が調査するのではなく、ミャンマーによって調査されるべきだという態度をとる。そして大虐殺の直後に、その加害集団に対して、日本の協力する姿勢は変わりないのだ、とミャンマーの政府と軍とを宥める。事実関係についての認識は、ロヒンギャという言葉を使うかどうか、ということとは無関係であるはずだが、日本政府は、ミャンマー政府の意向に一致し、ロヒンギャたちが用いているロヒンギャという名称を拒み、Bengali あるいはBengali Muslimという言葉が、ミャンマー政府と軍が固執して諸外国に使用を求める、ミャンマーにおいては特殊に侮蔑的なニュアンスを含む言葉であることを日本人には隠して、「ベンガル系イスラム教徒」という言葉を外務省のHPの中で用いる。

 時系列的には次のようになる。2017年8月上旬に、国軍最高司令官Min Aung Hlainが訪日して歓迎された。その直後にその直属の軽歩兵師団のラカイン派遣があるのだから、この訪日の時はすでにその後の8月末の計画は決定済みであるはずであり、蛮行の直前に友好を確認する役を果たす日本は利用されている、そして日本政府のミャンマーについてのインテリジェンスは著しく低い、と解釈できる。8月10日にその総司令官に直属の第33、第99軽歩兵師団がラカイン州に派遣され、8月24日にアナン報告書が公式に提示され、その晩にARSAの攻撃があり、25日に軍は掃討作戦を開始し、その後数日以内に、数百―数千の規模の大虐殺が数件起こり、バングラデシュにロヒンギャは劇的に逃避する。その後まもなく、日本は、日本の協力には変わりがないが、ラカイン州の人権上の疑惑に対して深刻な懸念がある、という表明をする形になる。

 日本以外の諸先進国は、いつ、どのように、この<疑惑>のハードルを克服しミャンマーに警告と批判をできるようになったのだろうか。日本と、例えばカナダとを比較すると、最初の時点では、ミャンマー側の犠牲者に哀悼を表し、人権上の懸念を表明するという点で、似ている、しかしその後カナダはテロ掃討作戦であるはずがない内容の作戦展開を、ミャンマーの言説に沿って捉えようとはしない。人権を侵害する状況を停止せよ、と要求する。これと対照的に日本は、ミャンマーとの一体性や協力を、頼まれもしないのに言明し、情報がさらに追加されるまで様子を見る、ということすらせず、諸国から批判の日に日に高まるミャンマーを、その隠された表情すら確認しようとしないままに、抱きしめたのである。

III.  日本のnarrativeの特徴

 その後の国際社会の中で、中国、ロシアなど、基本的にミャンマー政府よりである国家を除けば、先進諸国の中で、日本は特異な道を選んだと言える。それは、日本は、何が起こったか、というnarrativeにおいて、一貫してミャンマー政府・軍寄りであるからである。

 (1)ARSAが攻撃し、ミャンマー政府はそれに反応し、
 (2)ミャンマー政府・軍による人権侵害は「疑惑」である。
 (3)日本がミャンマーの国造りを支援する姿勢は変わらない。

カナダなどが2017年夏以後何度か指摘した、多様性を重視せよ、という観点が欠けおり、その代わりに国造り、という観点が入り込んでいることも日本の特徴である。これに加え、日本は、ロヒンギャという言葉を用いず、のみならず、最近の外務省HPでは、「ベンガル系イスラム教徒」とロヒンギャのことを呼んでいる。言うまでもなく、ロヒンギャという言葉を用いず、また人に用いることを禁じ、ロヒンギャは存在しない、彼らはベンガル地方から来たベンガリであるという主張がミャンマーのものであり、日本はその要求をほぼ満たす言葉遣いをしてみせている。

 日本のような外国にとり、同時進行的に、途上国の辺境地域の状況を知ることはほとんど不可能であることである。だが日本のこのラカイン州の認識の特徴は、

(1)主権者であるミャンマーの主張を、何らの検証なく、日本は受け入れる。その結果、政府がテロを装い、ARSAがそれに協力するとしたら、ミャンマーによる、一種の自作自演が非常に認められやすくなる. ミャンマーは自分がARSAから攻撃を受けたとし、ARSAはそのfacebookで自分がミャンマーを攻撃したことを認める。攻撃する側、される側双方が一致しているのだから、それは事実である、というのが日本政府の単純な思考法であるが、それから1年もたたないうちに、一般人のfacebookの外見を持つミャンマー語のhate speechに、実は多く、軍のものがあるという事実が分かってくる。
(2)被害者であるロヒンギャの証人としての証言を、日本は、あくまで「疑惑」の資料の中に入れる。その「疑惑」の基本的な理由も日本の「事実」認識の場合と同様に単純で、攻撃したとされるミャンマーがそれを認めないからである。諸外国は、ARSAの一定程度の自律性を否定まではせぬものの、それを理由とするミャンマー側の「反撃」に対しては、それが、相当以前から計画されているという国連の報告書に納得している。そしてこの計画性について、再び調査が行われて覆されるとは考えていない。
(3)事実が、ミャンマーの主張とは異なるかもしれないから、それを日本として調査したいという意思は、日本には、存在しない。副大臣、外務大臣が、ラカイン、Cox’s Bazarを訪問しても、そこから何かをロヒンギャから聞き取ろうとする姿勢はない。これに対して、カナダの場合はBob Raeを特使として派遣し、彼は独自の報告書を作成して政府に提出した。
(4)2017年3月、国連人権委員会の、ミャンマーに対する事実調査団の設置決議について、日本は賛成せず、棄権という立場を取る。
(5)相手が、主権者であるかどうか、という点は、日本政府がどのような姿勢をとるかということと深く関係する。いかに証拠が積み重なっていても、主権者ではない相手のことは「疑惑」である。もっとも、これは日本が人権侵害を受ける当事者である北朝鮮による拉致の問題の場合は別で、日本は、例えば、北朝鮮がかつて主張した拉致は存在しないという主張を受け付けなかったし、また拉致被害者がすでに死亡した証拠として北朝鮮が提出したものを、日本政府は検証しようとした。だがこれに比較できる姿勢を、日本政府は、ミャンマー問題について示していない。
(6)ミャンマー政府が他の面で信頼できる発言者であるならば話はまた少し別かもしれない。だがそこから出てくる言説には、その後のミャンマー政府や軍側の言説の信憑性を疑わせるものが多い。例えば、大統領顧問のオフィスから出された、「ロヒンギャの女性」がロヒンギャの家に火をつけている「証拠写真」は、その家の近くのヒンズー教徒を使った、やらせ写真であることが外国の記者によって暴かれた。軍による強姦の「疑惑」に対しては、軍がロヒンギャの女を強姦するはずがない、なぜならば彼らは汚いから、という下賤な言説がミャンマーの軍人から言い放たれる。Aung San Suu Kyiは、世界はラカイン州から逃げた者に注目しているが、逃げなかった者もいることを知ってほしい、なぜ彼らが逃げなかったかを考えてほしい、と2017年9月の演説で世界に訴えた。筆者はそのような、ラカイン州中部の逃げなかったロヒンギャの村の出入り口に、自動小銃を持った警官がいるのを2017年9月に目撃している。彼らは、逃げないのではなく、逃げられないのである。

Ⅳ. 日本の効果
 自白しない限り犯罪者を犯罪者とは扱わない、しかし誰かが犯罪者として、誰かがその被害者として自白するなら、即座にその両者の自白は事実として認定する、この奇妙でミャンマーに優しい日本の与える効果は、以下のようなものである。
(1)一定の正当性を、ミャンマーに与え続ける。Aung San Suu Kyiは、軍と話し合いを続けているのであって、それ自体がミャンマーの進歩である、その脆弱な体制を揺さぶってはならない、と外務省やミャンマーにある日本大使館は批判者を説得しようとする。
(2)日本人にも日本企業にも、ラカイン州の問題を楽観視させる、という現代版の愚民政策を成功させる。
(3)ここから生まれる日本のミャンマー政策は金大中の時代の韓国の北朝鮮への「太陽政策」以上の日本版太陽政策であるわけだが、太陽政策は、効果が生まれない場合、その政策が根本から間違っていても、まだ太陽の光が足りないからだ、と言い繕える、その効果の検証可能性のない政策である。 かつての韓国大統領金大中の「太陽政策」の欺瞞は、そもそも、「北風と太陽」は誤った比喩で作られた寓話であることを隠したことに始まる。太陽がコートを来た男に、1万ドルやるからコートを脱げ、10万ドルやるからコートを脱げ、と見返りを積んでいっても、男の希望は無限で、サラミを極く薄く切るように、極く少しずつジッパーを動かせばいいのである。北風が、あなたがコートを脱がないなら、あなたはコートとともに吹き飛ばされて死ぬだろうと告げ、少しずつ実行に入れば、そのポイントをどこかと予想することはできないが、死にたくない合理的な男には、どこかで自分が折れなければならないポイントが必ず来る。そして金大中やその後継者達の愚策が核武装する地獄の誕生に貢献するように、日本のミャンマーへの愚策は、新しいパレスチナ問題を生む。
(4)ASEANは元来、東南アジアの独裁国家集団同士で、互いの人権問題を非難し合わない、という互恵的意味を持っている。これに加えて、ASEANおよび多くのASEAN諸国のミャンマーに対する微温的態度は、中国のミャンマーへの植民地主義的支持、そして日本のミャンマーへの抜け駆け的求愛によって、維持され、ミャンマーの隣国集団としてこの国を変えるために包囲する動機は、ASEAN諸国からますます乏しくなる。
(5)Aung San Suu Kyiの問題先送り政策を日本は助けている。その最たるものは、いわゆる独立調査委員会の委員に日本人外交官が加わったことである。その大島元国連大使は、基本的に、ミャンマー軍の協力を鍵としながら、事実を調査するという言明をしている。しかし
 (ア)その1年前、アナン報告書の勧告について政府に助言する諮問委員会から、その委員であるアメリカの元国連大使 Bill Richardsonが、Aung San Suu Kyiとの口論の後、この委員会に失望した、これはごまかしを目的とした委員会であると公言して辞任したことを、日本人は十分に知っているだろうか。
 (イ)そのRichardsonの辞めた諮問委員会が、結局、軍のアドバイザーに意見を聞きながら、予想された通りミャンマー政府寄りの甘い結論を出したことを、日本人は知っているだろうか。
 (ウ)10名のロヒンギャの殺害について調査し、ある意味で事実認識に向けての突破口を開こうとしていたロイター記者の逮捕をAung San Suu Kyi自らが容認したことを、日本人は知っているだろうか。
 (エ)この独立調査委員会の仕事は、実に大変な仕事である。なぜなら人道に対する罪、genocideとして、ミャンマーをすでに批判している国連報告書が出ているからである。犯罪者とされる人々や組織に犯罪を本当に犯したか聞いてみたが否定した、あるいは証言を拒否した、といった程度の報告書が新しく作られたとしても、時間の浪費と、協力した委員とその国家の恥となるだけである。
 (オ)この委員会に次ぐ委員会によって1年ずつ時間を稼ぐミャンマーの策に日本が全面協力している間に、日本は、ミャンマーがラカイン州北部で行う、証拠隠滅と、記憶の希釈の作業に協力している。

 ミャンマーとしては、今後何ができるだろうか。
(1)すでにミャンマーは脱出したロヒンギャに対して著しいトラウマを植え付けた。彼らがバングラデシュに長期滞在する可能性をこれは示す。そしてその暴力行為を行ったミャンマーとその政府・軍の指導者たちが、処罰されることがない、世界が処罰や制裁を彼らに対して加えることができない、ロヒンギャが目撃し、体験した悲劇ですら、ミャンマーの「物語」から公式には消され続ける、ということによって増幅される。
(2)ミャンマーの社会は、上記のことから、内外のロヒンギャに対して自分たちが危害を加えても、今後、処罰されない、外国もそれを見て見ぬふりをする、という学習をする可能性が高い。これがロヒンギャの帰国にとり劣悪な条件のひとつとなるのは言うまでもない。すでに実際、なおラカイン州北部に残ろうとしたロヒンギャから、軍や警察ではなく、ラカイン人仏教徒が略奪する、というパターンの迫害がある。
(3)国境を越えたロヒンギャの帰還に対してミャンマーはNVC(National Verification Card)を帰国する本人が受け入れるという条件に固執している。これは、本来彼らがミャンマーで生まれ育ち、ミャンマーにいる権利があるということを認めず、彼らの過去、ミャンマー国民として認められていた歴史を消し去り、彼らが外国人として滞在するという形を認める、という受け入れ不可能な劣悪な条件での帰国を意味する。つまり「受領は倒るるところに土を掴め」の精神であり、仮に、ロヒンギャを完全に追い出してしまいたいミャンマーが、彼らがミャンマーに戻るのを国際社会から認めさせられても、その時には彼らを自他ともに認める外国人として戻すのであるから、将来彼らを再びミャンマーが放逐する法的な根拠が確立する、ということになる。その結果、例えばビルマ国民であったロヒンギャの間に生まれた子が国籍を認められてこなかったのみならず、今度はその国籍への正当な主張を放棄し、ミャンマー国民ではないと自認した上でのみミャンマーに帰還・滞在が、一時的に許されるということになる。その滞在する資格がいつどんな理由で剥奪されるかもしれず、一方的にミャンマーに有利な、過去と整合性を持たない要求であるとともに、ロヒンギャから更に尊厳を奪う行為である。
(4)ミャンマーは争点をずらすことができる。Cox’s Bazarの難民キャンプは、全く新しい現象ではない。そこには20年以上前から、逃げて住んでいるロヒンギャがいる。だがそれは9月からその年末までの間に、100万に膨れ上がった。それは日本にとっては、逆説的であるが、免罪符を買えるになりうる。日本は、Cox’s Bazarに対するhush moneyとしての金銭的支援で、ロヒンギャを殺し、追い出したミャンマー政府・軍への日本の変わらぬ支持の不当性を隠蔽できるからである。そして日本を含む諸国民の関心の大きな部分が、genocideではなく、キャンプの人々の生活に払われてしまう。多くの日本人は、100万人のキャンプを支援している日本の誠意を評価するのみで、ロヒンギャの問題がミャンマーという国家の中核にあることに、気づきにくいであろう。
(5)時間の経過とともに、IDPキャンプやバングラデシュのロヒンギャからは教育の機会が奪われ続け、全体としてロヒンギャが、民度の低い集団となる可能性がある。

 問題は多角的で、ミャンマー国内にもまだ手付かずで残っている。ラカイン州都Sittweには、10万人を超えるIDP(国内避難民)キャンプがあり、依然、その中に2012年に追い込まれるように収容されたロヒンギャに、人間らしい生活を与えていない。中のロヒンギャたちは、自分らはただ、いつ絶たれるかもしれない命を繋ぐだけの「動物のような生活」をしていると自嘲する。彼らは一様に、このキャンプには法などは存在しない、存在するのは、警察は何をやってもよい、という法だ、と主張し、警察が脅す、殴る、蹴る、盗む、犯す、殺すなど、それを証明する実例が日常ある。キャンプでは食料が配布されるが、そしてその配給には日本も大切な役割をはたしているが、中には、2012年において仏教徒に対して暴力的な抵抗をしたため、食料配給において差別的な取り扱いを受けている人々も存在する。学校は存在しているが大半は機能不全である。重病人は、金さえ払うことができればSittweの中央病院に入院することができるが、生きてキャンプに戻れるのは行った者の2割である。ここを外国の外交官や議員が訪問することはあるが、中のロヒンギャからの真実を聞き出すことは困難であるのは、通訳や、ラカイン州政府の同伴者を彼らは恐れるからであり、ロヒンギャがミャンマー国内から真実を語ることは、その発言者の生死に係ることだからである。 筆者は、2016年、Sittweのキャンプを訪ねた際、ロヒンギャの一人から、Ang San Suu Kyiへの自分からのメッセージをビデオレターにして彼女に送ってくれと頼まれ、まだ彼女に望みを託していたこの人物の顔などをモザイクで隠した動画を編集した上で、彼女に送付した。
 ラカイン州内には、その他、キャンプという形にはなっていないが、村民であるロヒンギャの移動の自由を封ぜられ、封鎖された村が多い。医療、教育へのアクセスがなく、2012年以後生まれた子供は、政府の書類に出生登録されることすらない。村の中にはコーランを学ぶ建物はあるが、学校はない。 、

V.  Genocideへの協力行為
 日本は、中国、韓国、他のアジア諸国に対する日韓併合・日中戦争―第二次大戦時代についての<謝罪、反省>問題の延々と蒸し返される中で、現在のアジアの中で、いかに日本が人間の尊厳を重視する国家となってその新しい戦闘性によって贖罪するか、という問題に、実は突きあたっているのに、それに気づいていない。これは過去と現在、加害者と被害者が捻じれた問題で、かつて人権において被害者の側に立つと主張できた多くのアジア諸国の権力者の側が、今は多くの場合、加害者の側に立っているという点、その加害者の側に立っているかつての被害者から、かつて加えた加害についての許しを日本が貰い続けなければならない点、に存在する。ホロコーストの被害者であるユダヤ人の国イスラエルがパレスチナ人を大量殺害してきたこと、そしてそのイスラエルの対パレスチナ政策からミャンマー軍が大いに学習していることから見れば分かるように、被害者集団あるいはその継承者が加害者に転ずるということは十分ありうることである。だがかつての被害者を現在の加害者として批判することが日本のかつての加害行為の贖罪、倫理的再生になるという発想には日本政府と日本人は到達することができなかった。その結果、現在、重大な人権侵害のアジアで最も少ない日本が、他のアジア諸国の巨悪と呼べる人権状況を批判できない、むしろそれを助長するという奇妙な状況が展開している。
 これに対して、ロヒンギャ問題について、現実を変えるには至ってはいないが、正当な批判的姿勢をとっているのは、イギリス、カナダなどの先進国である。彼らが日本と異なるのは、
 (1)日本と異なり、ミャンマー政府のnarrativeに拘束されず、その信憑性に疑いを明らかに差し挟み、そのnarrativeを自分たちなりに確認、検証しようとしていること
 (2)ロヒンギャをロヒンギャの希望に従い、そしてミャンマー政府の要請に反しながら、ロヒンギャという呼称を国家として用いていること
 (3)ミャンマーを文化的に同質な国家としては視ず、多様性を認める国家の建設を求めていること
 (4)カナダがその国会でロヒンギャ問題についてDebateするなど、内政干渉という批判を恐れていないこと
 (5)Aung San Suu Kyiへの名誉市民撤回など、自国の国民意識自体を覚醒し、ミャンマーの統治者および国民に警告する行動が取られていること

などである。本来、人道に対する罪とgenocideの係る領域において、その状況の改善が諸外国の義務なのであって、<国益>の出る幕はない。
 日本は、本来なら日本が避けるはずの、旧来の自由主義諸国や国連との価値観の著しい不一致を招いている。国連中心主義をとるはずの、その安保理常任理事国になりたいはずの日本は、国連報告書の真実性を認めないと公言しているミャンマーを支えている。日米安保を強化すると歌い続ける自民党は、日本が欧米と価値観を共有するとも強調してきたが、現在の日本政府は、欧米のミャンマーに対する批判と制裁を利用して抜け駆けをしようとしている。
 北朝鮮についての中日関係とこの傾向は好対照である。北朝鮮包囲網を形成しようとするときは、中国の非協力を嘆く側に日本はある。しかし欧米が形成しつつあるミャンマー包囲網については、日本は中国とともにそれを利用して権益を拡大する側に立つ。そしてこの矛盾について、国民的な議論はなく、その方針をいつ、誰が、どのように議論して決めたのか分からない外交政策に、日本全体が、沈黙と無知によって従っている。

VI.  要因
 この悪に優しい日本外交の理由を、どのように説明することができるだろうか。
(1)ひとつの合理的な説明は、批判と制裁により現在のミャンマーを変えることを日本は最初から諦めている、というものである。中国が一貫してミャンマー軍に現状を許容している限り、諸国の対ミャンマー制裁は、長期的には中国と北朝鮮のような関係、つまり小国を従わせることができないままに、その小国と隣接する中国に権益を独占される状態を生む、と予想し、それくらいならば欧米のミャンマーへの経済的関心が低下するのを利用して中国に日本が対抗する場を広げよう、それは、ミャンマー全体が中国のより強い影響下に入るよりは、ミャンマーにとってもましである、という、そもそも人道に基づく外交政策の可能性を信じない、姑息な計算が日本にある、と考えれば、一応説明がつく。そしてこれは今後、中国がさらに超大国となるにつれ、日本外交の中でさらに頻繁に多方面で見られる傾向となるかもしれない。
(2)最も単純な答えのひとつは、高齢化に伴う日本社会の倫理的衰退である。昔は左だった人も右だった人も、歳を取れば自分の体の痛みなどに執着する自己中心傾向を持つ老人に成り下がるように、高齢化社会日本の老婆心は年金を中心に回り、国外の人権には遠く及ばない。
(3)日本の国家的諜報能力の戦後の著しい低下も、現在その谷底に到達していると言えるだろう。友好国発の情報ですら、疑われて検証されなければならないことは、諜報においては当然のはずだが、日本はそれができない。独自の情報分析の意欲すら日本は失ってしまったと言えるだろう。
(4)日本人が、外交において戦後得たひとつの病は、開発への信仰である。現状を容認する日本人の中には、開発が日本にとり利益になるというだけではなく、それがミャンマーの社会的問題にとっても利益であるという意識がある。しかし開発は自己の利益のために他人の財産を奪う欲望を生じさせることもあるのだから、宗教が人を諦念に導く阿片であるとすれば、開発は人を攻撃へ導く阿片となりうる。
(5)日本を欧米と比較するとき、近代への道を、人間の尊厳を名目とした革命を経験することなしに進んだ日本社会と、それを市民革命、奴隷解放、公民権運動などで経験してきた欧米との間の差が表れているとも思われる。
(6)南アフリカのアパルトヘイトへの経済制裁とは異なり、ミャンマーの場合は、ラカイン問題は、軍がpower-sharingを認めたことにより国際的な経済制裁のいったん終わった後での再制裁の問題であるという点で、制裁の可逆性という問題が係ってきうる。世界の根本的な失敗は、既に民主化問題などとは無関係にミャンマーに進出していた中国との競争もあり、Thein Sein大統領の「改革」を過大評価した世界が、経済制裁をほぼ全面的に解除する方向へと向かったことである。しかも日本の場合は、インフラについての支援が多く、sunk costのある性格の援助を中止しにくい。
(7)敗戦後の政治文化的環境を考えてみると、
 (ア)日本人が戦後の憲法から受けた教育は、日本がじっとしていれば、あるいはせいぜい、他国の行う活動に日本が求められる貢献をすれば、世界は良い状態に保たれる、という考え方であって、諸悪に満ちた世界を、日本がどう変えることができるか、という発想は、日本国憲法下では、すでに一種の危険思想である。そしてその影響を享受してきた近隣諸国がある。
 (イ)日本中心の平和主義・不干渉主義は、日本が諸外国の絶望的な状況に対して、何もできないことを悔やみたくなく、責められたくもないという自愛的・逃避的な潜在心理から、日本が何かの行動に出なければならないほどその国の状態は悪くはないという、自己弁護を隠蔽した情勢楽観を生む。だが、在日朝鮮人・韓国人の北朝鮮への「帰国」運動、中国の大躍進―文革、カンボジアの赤色クメール時代、中国の天安門事件直後の親中姿勢、シルクロード観光地として以外関心の薄い中国西域、報道されないチベットの連続抗議焼身自殺、などのように、日本の行動が実際に多数の人間を悲劇に招いたり、多数の人間の悲劇について日本が寛容な政策、あるいは無関心を示した事例は、実際、以前から存在し、現在に至る。
 (ウ)アメリカとの同盟思想からも、海外を、開発以外の視点からデザインする意思は日本に生まれない。イラク戦争の場合はアメリカの誤情報あるいは偽情報を盲信し日本は多くの無辜のイラク国民の死と凶暴なイスラム国の出現に貢献したが、時折見られる日本の欧米との協調は、それを日本が求められるからであって、見栄と面目の日本文化と、アメリカ軍の支出を日本に分担させようとするアメリカ側の計算が共振するだけである。日米が「価値を共有」していると与党が虚勢を張っても、むしろ日本に下請けのメンタリティーが定着したというべきである。
(8)欧米がAung San Suu Kyiに対する一種の偶像を描き、それを裏切られたときの失望もまた大きかったのとは対照的に、日本は、彼女に過大な期待も持たなかったので、彼女の失政に対する失望もまた小さい、とも言えるのかもしれない。西洋世界とは異なり、彼女のみならず、彼女の父親の時代の日緬関係へのノスタルジアを込めながら、彼女を日本が見る度合いが日本には強かったからかもしれない。Aung San Suu Kyiは無能でも浅学でも酷薄でも権力盲者でもナルシシストでもなく、2008年憲法によってその行動を限界づけられている良心であるだけなのだ、という、思いやりのある弁明が日本には生き残っている。
(9)敗戦後、日本が無意識的あるいは意識的な自己検閲によって、この種の国境を越えた倫理的問題には触らないようにしてきた習慣から来るのかもしれない。これは体制側の人間だけに見られる特徴ではない。例えば韓国の独裁には批判的だが北朝鮮の巨悪には優しかった、いわゆる進歩的知識人の倒錯した人権感覚にこれは典型的に表れていたことである。外国の人権問題について触れると、日本の過去について応酬され、藪をつついて蛇を出す可能性がある。
(10)民意の関与の不在の中に外交の重要な決定が行われる。これは外交では内政以上にありうることだが、ミャンマーの場合にはそれが強い人道的意味を持つ。ロヒンギャという呼称の徹底した排斥、それに加えてベンガル系イスラム教徒という、ミャンマーの要望に沿った言語使用についての決定は、別段国会で議論されたわけでもなく、新聞がそれに注文をつけたわけでもない。そもそもそれが政府のどの程度のレベルでいつ決定された事項なのかもわからない。 日本国民は知らない間に、genocideへの協力国の国民となる。
(11)ロヒンギャの多くが、バングラデシュに出て、言論の自由を得たということの他に、もうひとつある2017年以後の、ロヒンギャにとって有利な要素は、問題の本質が、権力による計画的殺人であることが8月25日以後の連続大虐殺によって判明したのであり、国籍の問題は、重要事項であるとはいえ、二次的な問題であることが世界の前に明らかとなったことである。ロヒンギャの人権を確保するためのアナン報告の勧告が提示されたその翌日に、彼らを略奪・強姦・殺傷・放火によって、ミャンマーから放逐する計画が実行に移されたからである。問題の中心は、誰であろうと、いかなる理由であろうと、人間が、物理的にも、精神的にも、これほど非人間的に取り扱われていいのか、ということである。だが、ロヒンギャはミャンマー国籍がないとミャンマーは考える、だからミャンマーは彼らと衝突する、これは歴史的に厄介な問題である、という既に世界に拡散した迫害者側のロジックが、本質を隠蔽するための虚偽の争点として目を覆い、日本はそれを取り除けない。
(12)911を契機として、イスラムに対する偏見がさらに広がり、ミャンマーはそれを利用しているわけであるが、日本もそれを内在化しているかもしれない。<イスラムの脅威に晒される仏教徒>というイメージは日本人に同情を生むかもしれない。
(13)外務省を含め、官僚の退職後の社外取締役・顧問・相談役などとしての再就職先として名が出てくる企業は、ミャンマーに進出している大企業であることも多い。外務官僚が自分たち、あるいは官僚世界の利益のために外交を行う、という仮説は、日本のロヒンギャ問題が、ほとんど国会・内閣・世論・新聞の明確な、日本のミャンマー政策についての意思表示なしに取り扱われる、という点からみて、否定できない仮説である。ミャンマーに進出している日本の大企業の多くは、自民党への政治献金においても上位にランクされる企業である。個々の企業が外交に個別に影響しようとすればそれに対する抵抗も国家組織の中に生まれうるが、集団で企業がミャンマー進出に意欲を示し、その集団が自民党の支持者・献金者であるとき、そこに国家から企業への、以心伝心の完全に合法的な「忖度」が生ずるのは必然である。
(14)民主主義の幻想が日本にはある。もし民主化が少しは進んだという幻想のもとにミャンマーを見るなら、その国民の仏教徒の多くが、ロヒンギャの苦難に冷淡であり、ミャンマー政府・軍に近い意見を持つことが多いという事実から、ミャンマー人の多数が傍観している状況を、外国が咎める必要はないと日本人は考えるかもしれない。だが実はそれは、民主主義とgenocideの混同である。大衆が、少数者への迫害を是認することは、例えばナチス支配下におけるポーランドにおいて、あったことである。だがそれは、その迫害を倫理的に国際社会が肯定することにはなりえない。そして、平時以上に、民主化の過程にある時期であるからこそ、多数―少数の関係に民衆が過敏になり、他の集団に対する憎悪と偏見と攻撃性が高まると考えるべきなのに、比較的同質的な社会で、アメリカ軍の影響下に戦後の民主化を進めた日本には、ミャンマーにおけるような、多様性を持つ社会における民主化過程が生む人権侵害について、認識が浅い。

VII. 方針
 日本は、ミャンマーからの情報を一時的に採用したのはやむを得ぬところがあるにせよ、不必要な連帯を自分から、あるいはミャンマーからの表には出されぬ要請に従って表明し、情報が集積しても、敢えて訂正しなかった。その愚行の修正は困難だが、次のような点を考えることは有効である。

(1)ミャンマー軍の持つ、構造的脅迫の信憑性について考える。
 政府に不満を持つミャンマー軍が2008年憲法に従い、合法的なクーデターで再び全権を掌握する可能性が、ミャンマー国民、日本、世界にとっての懸念であり、脅威であるとすると、今後、クーデターで軍が全権を掌握したとして、国際社会と、ミャンマー社会とは、どの程度、その再来する完全な軍事独裁に、抵抗力を持てるだろうか、仮にそのような状態になったときに、ミャンマー軍は国際社会・国内社会からの反対を受け、持ちこたえることができるだろうか、という問題意識と計算が日本および諸外国には必要である。つまりそのクーデターがミャンマー軍にとりペイしないような行動を国際社会・ミャンマー社会がとるとミャンマー軍に予想させるような国際社会・ミャンマー社会の現在の行動が必要である。だがロヒンギャ迫害という、批判すべき事態の前で、ミャンマー政府・軍に対する一貫した低姿勢に日本が出たということは、軍がクーデターを行っても、日本は不満を持ちつつも微弱な抵抗しか示さず、日本が軍に対する強い制裁の輪に加わることはなく、不本意ながら状況を追認するだろう、という予想を与えうる。
 問題は軍がクーデターを実行できるかどうか、ではない。それは現在の憲法下でもちろんできる。問題は、その軍がクーデター後の世界に軍がより幸せになると軍自身が現在、そして将来、予想できるかどうか、である。ミャンマー軍がロヒンギャ1万人を殺しても、それでもAung San Suu Kyiは努力しており、彼女がラストチャンスであるからミャンマーを大切にしたいと思いやって、あるいはミャンマーに進出した日本企業のsunk costのことを思いやって、ミャンマーに渋々従う日本なら、軍の無血クーデターを遂行する軍を批判すまい、できまい、と軍が読むなら、日本は、ミャンマーの脆弱な民主主義を守るために優しくするのだ、という自身の宣伝に反して、ミャンマー軍のクーデターを実現しやすいように貢献していることになる。 逆に、現在の虐殺に対して強く制裁しようとする諸外国の方が、クーデター後のミャンマーをより苦しめ、軍を牽制する力となると予想できる。
 だがここでも大問題は、そのクーデター後のミャンマー軍の苦しさを全て引き取ってくれるほどの暖かい関係を、中国がクーデター後にミャンマー軍に簡単に提供できるかどうか、である。そのためには、諸外国が、そのような中国を苦しめる準備がなくてはならない。つまり今後のアジアは、小国への制裁に同意しない中国に対して誰が、どのように制裁できるか、という問題と一組の問題として、小国の問題を考えなければならない。

(2)Post-colonial stateとしてミャンマーを認識する。
 欧米の植民地主義は構造的に、植民地独立後の、民族自決が実現したはずのアジア・アフリカ国家に引き継がれている。この認識を持たねば、欧米のミャンマーへの批判は植民地主義とpaternalismの横柄で時代錯誤的な再来に聞こえ、批判を受けるミャンマー政府、軍などの弁明はそれに対する反植民地運動的で正当な抵抗であるかのように聞こえる。現に、ミャンマーのロヒンギャ政策の現状に肯定的な日本人の中には、かつてのビルマを残虐に支配した大英帝国が、ミャンマーの人権問題を論ずる資格があろうか、という浅薄な汎アジア主義的論法がある。だがそれなら、現在のミャンマー軍と政府はどの程度、植民地時代の意識・手法・統治構造を拒絶してきたか、という問いが必要で、むしろ植民地主義、分断支配を換骨奪胎し、それにナショナリズムの仮面をつけた継承者として彼らを観察する必要がある。そして自分に好都合なように少数民族を排除する国籍法や、軍人や僧侶が己や己の組織に対する社会的優遇や賄賂や喜捨を当然視する傲慢な文化や、大量の死体を埋める穴掘りのために少数民族をロヒンギャの殺害現場に連れてくる奴隷所有者意識や、多くの中国人がこの国に入国して事実上、ミャンマー国籍を買えてきたのに、何世代もミャンマーに住むロヒンギャが、外国人だと言われる矛盾や、自分に不都合なジャーナリズトを逮捕するために用いられる植民地時代の法などに見られる、恣意的に用いられる多重の基準を指摘すべきである。このpost-colonial stateにおける愛国主義と民族自決の名で国家が推進する差別と隷属と倫理の亡国的退廃は、日本以外のほぼ全てのアジア諸国において多少とも言えることであり、欧米の支配が終わっても、時にかつての被害者を加害者としながら、植民地主義は生き延びる。この視点の欠落は、それらの国々が日本に対して反省、謝罪、賠償、その他何等かの譲歩を求める時の日本側のひとつの心理的弱点である。
 <ビルマは仏教の国である>という一種の常識も、仏教徒であるこの国の主要民族にとって有利となる、一種の植民地主義的な残滓をも持つ仮説である、と考える必要があるだろう。2017年以後の欧米からのミャンマー批判の中には、多様性のある国家建設を求めるという、日本外交からは欠落した論点がある。
 これはさらに、自国がイギリスから独立したつもりであっても、実は植民地主義を引きずっているpost-colonial stateであるということに、ミャンマー国民は、いつ、どのように、気づくか、そして、まだその覚醒が不十分であるのだから、日本を含め、諸外国の政府あるいは社会が、どのようにしてミャンマー国民にそれを気づかせることができるか、という別の意味でpaternalisticな問題を生む。つまりアジアでより安定した、人間の尊厳を重視する民主政治を根付かせるためには、権力主導の、あるいは自然発生的なナショナリズムに燃え、自尊心を昂揚させるそれぞれのアジア諸国民の、その自尊心に埋め込まれた穢れと偽善に気づかせるような、外国からの働きかけが必要であるが、そのために諸外国は何ができるか、という空前の問題を孕んでいる。

(3)逆説的CSR(Corporate Social Responsibility)・SDGs(Sustainable Development Goals) について考える。
 日本がラカイン州やミャンマーに行おうとする投資は2017年の大虐殺の痕跡を消すという意味を持つために使われる可能性がある。そしてロヒンギャがキャンプや封鎖村落で、教育を受けることもなく、資産は略奪されたまま、無為の「動物的な生活」を失意のうちに送る間に、時は流れ、風景は変わる。筆者はラカイン州のキャンプ内で、またCox’s Bazarのキャンプで、大学教育を受けるべき時期に受けることができず、その無念を秘めてキャンプ生活をしている向学心ある青年たちに何人も会っている。もし彼らがいつの日か、正常なミャンマー社会に復帰できたとしたら、自分らを侮蔑し、除外することの上に実現した社会の繁栄を見るのかもしれない。
 特殊なCSRの問題がミャンマーには存在する。CSRの精神は、本来、その存在が、例えば海外に進出した日本企業が、その活動する社会において利益を与えるということであり、その進出が済んでから、その収益の一部を保健衛生などの公益のために用いる。だがミャンマーの場合には、誘致される企業の存在自体が政府・軍に対し、過去のロヒンギャへの人権侵害への黙認を意味し、ロヒンギャ迫害のより大きな自由を与える。つまり本来は、社会を犠牲にして自分と権力者だけで利益を分配しあうcrony企業ではなかった日本企業でも、ミャンマーにおいてはそのような意味を例外なく自動的に持ち、むしろその進出の有無をミャンマーの国内状況への改善の努力へとその企業自身または日本政府がリンクさせ、制限する方が、まだしもミャンマー側に、軌道修正の動機付けが可能で、迫害されている者の公益そして社会的正義となりうる、という逆説的な関係がある。
 現在、日本企業がミャンマーに進出し、CSR-SDGs(Corporate Social Responsibility-Sustainable Development Goals)の理念に従い社会貢献をしても、それは日本政府の盲目的なミャンマー弁護・支持のもとで、ロヒンギャを殺し、略奪し、強姦し、放火し、追放した社会に、あるいは彼らをIDPキャンプなどの閉鎖空間に監禁している社会に、批判をせず、処罰もなく、軌道修正もさせないままに日本企業が報酬を与え続けるということを意味する。仮にそのひとつひとつの社会的貢献がCSR-SDGsに沿い一部の、あるいはロヒンギャを除いたミャンマー社会全体に及んだとしても、それは決してその中に存在する、あるいはかつて存在していたロヒンギャに対しては及ばない。「全ての」人々の色々な幸福をその趣旨や目標には掲げながら、絶対にその効果が社会全体には及ばないことが最初から分かっているCSR- SDGsで自己の存在を理由づけることが、日本の持つべき途上国政策なのだろうか。

 日本が一種のgenocideの追認的協力国家であるという点は、森友・加計問題、統計偽装問題などとは比較にならぬ、最高の国政のスキャンダルであるはずだが、国会としての関心はゼロに近い。略奪・強姦・殺人・放火とその首謀者に異常なほど寛容であり、彼らと「共に考え」ることを公言しているという理由では日本政府は倒れず、危機に陥らず、どんな国でも普通にある会計処理の不備や官僚の失態を突いて日本の野党は日本の政府を攻める、という喜劇的遠近法に従い、日本の政治は的外れの徒労を繰り返す。官僚の忖度については過敏で、日本政府のミャンマー政府・軍に対する忖度には感覚麻痺である。それは食事には敏感で、世界には鈍い、人生末期の人間と共通する倒錯である。
 この外務省とそれに対する修正力を失った超高齢化社会・日本は、どこまで落ちていくのだろうか。 筆者の友人と筆者は2018年秋、ロヒンギャ問題に関心を持つ人々の国際的ネットワークであるFree Rohingya Coalitionの中心的活動家の一人であるビルマ人、Zarni博士を招いて東京で講演会や記者会見を数か所で開催し、学生や一般の聴衆は熱心に参加し、一部の記者は強い関心を示してくれたが、国会については、講演・意見交換会を国会議員会館内で開催し、衆参議員全員に上記の子供らの絵を入れた案内を配布したものの、他の会合と重なる時間帯であったわけでもないのに、実際の来場者のうちの国会議員は、社民党1名、立憲民主党2名のみであった。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

〔study1022:190303〕