残すところ10日余り、身辺が急に気ぜわしくなってきた。来る時と帰る時の大きな荷物を準備するとき、いつも憂鬱な気分にとらわれる。お金があれば、こんな苦労をしなくても済むのになあと、ドイツ語の「非現実話法」を想い出す瞬間でもある。
もちろん、こんな願望的な話法は、ドイツ語に限ったことではなく、日本語は勿論のこと、あらゆる言語が持っているに違いないが、何故か、この瞬間にはドイツ語の話法を想い出すのである。
ハムレットのセリフではないが、「ああ、哀れヨリック!」。この後にてき面に続くのは、汝かくも苦労しながら、いまだにこの話法を身につけていないなんて…、という自嘲の言葉だ。
まあ、こんなことはともかくも、今回は少し趣向を変えて、ヴェアニゲローデ(Wernigerode)という静かな城下町の紹介と、そこで行われたオペラ「リゴレット」(Oper Rigoletto)について、多めの写真入りでご報告申し上げたい。
ヴェアニゲローデ(Wernigerode)
この町は、ザクセン・アンハルト(SachsenAnhalt)州にある。実に美しい佇まいの静かな町である。有名なBrocken(ブロックン)山への登山口に当たる。
Brockenはドイツ語では、ブロックンと発音しないと通じない。日本語式にブロッケンとやっても全く相手にしてもらえない。これは私が身をもって体験したことであるから確かだ。
Brockenはどうして有名かといえば、ゲーテの『ファウスト』にも「ヴァルプルギスの夜」という魔女たちが集まるシーンが登場しているが、古来この山に魔女が年に一度集まり、パーティをやるという言い伝えがある。1200m程度の山なのだが、ハルツという台地の中では一番高い山で、霧が多いことで知られている。
ゴスラー(Goslar)という古い都(こんな辺鄙で小さな町が都だったというのは、誠に不思議な感じがするが)へ行けば、土産物店には魔女の人形が沢山並べてある。ここもブロックンへの登山口の一つだからだ。
今回はゴスラーではなく、古城(Schloss Wernigerode)が丘の上に聳えるヴェアニゲローデという町にやってきた。
目的はヴェルディ作曲のオペラ「リゴレット」を鑑賞するためである。
実は、われわれが厄介になっている家のP女史が、大のヴェルディファンで、早々とこのオペラを申し込んでいた。そして彼女との団らんの際に、誘われた連れ合いが即決し、二人分払い込んだというわけだ。
P女史に聞いた話だと、お城の中の広間での公演ということだったので、何ともロマンチックな舞台仕立てだというので、連れ合いの方も飛びついたようである。
この町までは、われわれの家から車で約1時間から1時間半ぐらいの距離だった。
オペラが始まるのが午後7時半というのに、3時半ごろには現地についていたため、少し街中を見物しようということになった。
小高い丘の上にそびえる古城は、なるほど大変ロマンチックな雰囲気をもっている。城まで登らず、坂道の途中に車を止めたが、そのすぐ脇は大きな公園になっていて、外目にも素敵な感じがした。
下から見上げた城 Schloss Wernigerode
街中にまでブラブラと歩いて行ったが、途中の家々も立派なもので、今はホテルになっている大きな家も、おそらく以前は何か公的な施設などに使われていたと思われる。閑静な環境の中で実に優雅である。
この町は旧東ドイツに属していたこともあって、戦後の急激な再開発の波にもまれることもなかったのではないだろうか、古い家並や環境がそのまま残されているようだ。
途中で、何台ものBahn Wagen(列車の形に連結した小型の自動車)とすれ違った。なんだか遊園地で、大人がおもちゃの汽車に乗って無邪気に遊んでいるようだ。これは旧市街地を遊覧し、お城まで行くようになっているそうだ。
旧市街地もなかなか素敵だった。旧来の商店がずらりと軒を並べ、マルクト・プラッツ(市場の出る広場)の辺りには観光客が大勢いた。広場周辺の家々もなかなか見ごたえのある古い木組みの家ばかりだ。
町庁舎の建物も立派なものだ。この辺りの大きな建物も、大半はホテルになっている。
町庁舎
町を散歩しながら、時間もたっぷりあったので居酒屋風のレストランに入る。さすがに、今からオペラを観に行くというのにビールを飲むわけにはいかず、豚すね肉のグリル(ハクセHaxe)とコーヒーで我慢した。
居酒屋やレストランは数多くあるようだったが、値段は少々高めという感じだった。おそらく観光地のせいであろう。
ヴェルディ作曲:オペラ「リゴレット」(Oper Rigoletto)
会場のお城に着いたのは、それでも6時頃ではなかったろうか。まだ周辺は明るく、城の外の広場にはテントが張られ、飲み物などが売られていた。城の門を入り、そこに行く途中にもレストランがオープンしていた。お酒を飲んでいるらしい人たちも大勢見かけたが、今日は我慢しようと思っていた。全3時間の観劇中に眠ってしまったら笑い者だ、と。
会場入り口で受付をやり、指定席の番号札をもらう。しかし、7時過ぎまで入れないという。城内を壁に沿って一周する。
途中で「魔女の塔」という建物も見たが、扉は閉められたままだった。P女史に、昔は随分多くのドイツ人女性がここに閉じ込められたのだろうね、と聞いたら、「多分そうだろうね」という返事だったので、「ひょっとしたら貴女も昔ここに入っていたのではないの」と冗談を言って笑いあった。
その後、どうにも我慢できない彼女は、テントでグラス入りのゼクト(シャンパンの様に甘い発泡酒)を買い、われわれのところに持ってきた。
仕方なくそれを飲みながら、辺りを見物する。そして、丘の上から見るハルツの山々の景色、眼下の町の光景を楽しんでいたら、ふと、周囲にいる人たちが紙袋に毛布や皮ジャンバーなどを入れて持っているのに気がついた。何か変だぞ?
実際、今頃になって気がついても後の祭りなのであるが、時間が来て中には入って驚いた。場所は城内ではなくて、城の中庭だったのだ。四隅は城の厚い壁に囲まれている上、吹きっさらしである。
夕方7時半ごろのドイツの、しかもハルツという高原の、丘の上の城の中の、冷え込むことの早さ、寒さは強烈である。本当に凍えそうなほどだ。
会場は狭い中庭に、椅子を並べてバンドで結わえている。250人くらい入っているのであろうか、身動きもできない。途中で立ってトイレに行くこともできない。3人とも席は別々だ。私の方は、それでも長袖のシャツに、厚めの上着(ブレザー)を持参していたから良いものの、連れ合いの方は、薄物の下着のシャツに、薄いカーディガンしか持っていない。ズボンは夏物で薄い。
運が悪いことに小雨までパラついてきた。周囲のドイツ人たちは重装備で、厚い上着に襟巻、膝かけ…。オペラが始まってすぐ、これは持たない、とすぐ気がついた。身体は芯から冷えて来る。
幸い、このオペラは三幕物だ。多分、1時間位でひと幕は終了するだろうから、その時これ以後どうするかを考えよう。
オペラは、なかなか迫力満点で、リゴレット役の太った男性(Johannes Beck)、その娘ジルダ役(Katharina Meinikova)、またマントヴァ公爵(Victor Campos Leal)、など、さすがに本場物で、声量も質も申し分なしだった。但し、一幕終わった段階で、指揮者(MD Christian Fitzner)がわれわれ観客に一言「寒いね」と言って笑わせていた。
結局われわれ二人(P女史は幸運にも、お隣の男性がダウンコートを貸してくれたとか)は、最初の一幕だけで退散する羽目になった。つまり、女たらしのマントヴァ伯爵に誘惑された娘ジルダ(Gilda)が、殺し屋集団に間違って連れ去られるシーンまでだ。有名な「女心の歌」は残念ながら聞けなかった。
P女史の車の中で待つことにしたが、まだ時間がたっぷりあったので、再び徒歩で街中まで出掛け、今度はビールを飲んだ。ウエイトレスの女性がなかなか社交上手で、初めての客のわれわれにも、気軽く話しかけてくれたので、楽しい時間を過ごすことが出来た。
10時過ぎに、P女史は「寒い、寒い」を連発しながら車に駆け込んできた。その後、家に帰って皆で飲み直した時になっても、彼女は最後まで「寒い」を言い続けていた。
オペラの続き、特に「女心の歌」は、帰宅後にパヴァロッティで聞くことができた。
(2018.8.29記)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0690:180831〕