このところAbschiedparty(お別れ会)と、帰国準備の片付けに追われっぱなしで、読書の時間すら取れないでいる。
「会うは別れの始まり」で、こればかりは致し方ないのだが、さて毎度のことながら荷物整理には頭が痛い。Rさんから大量のワインなど頂いたのだが、こんな重いものをもって帰る気になかなかなれないで困っている。そうかといって、われわれの帰国待ちではなく、「ワイン待ち」の仲間がいることも確かなので、手ぶらで帰るわけにもいかない。
年をとるにつれ、体力の衰えと共に、気力も情熱も減退してくる。「帰るのやめようか、それとも荷物を全部放り出して帰ろうか」などと真剣に悩んでしまう。
国際便で送ればいいじゃないか、などとは事情を知らないものの無責任な言葉だ。国際便の値段を知れば、そんなに高ければ日本で同じものを買う方がよいと思うくらい高いのだ。
もうかなり前になるが、ワインを一ケースほど田舎の両親に送ったことがあった。送り代はワインの料金のざっと3倍、しかも日本で税金を取られたらしい。ばかばかしくて、そんな高いワインは飲めない。
それやこれやで、ドイツからの報告も書かないつもりでいたのだが、最後に一つだけ報告しておきたいことが起きた。
その日、再びCさんに連れられて、彼女の車でハルツ(Harz)の方へと向かった。天気は快晴。半袖のTシャツで十分だ。
ゴスラー(Goslar)の銀鉱山を見学
地下600メートルまで、坑道を鉱山電車(トロッコ)で降りて行った。外は真夏の太陽がまだぎらぎらしているというのに、ここはかなりの寒さだ。時々冷たい水滴が落ちて来る。
周辺のドイツ人は厚手のヤッケ(Jacke上着)を着こんでいる。ガイドを務める初老のドイツ人は、如何にもこの鉱山で労働したことがあるというような感じのがっしりした体格の男だった。
ここはRammelsbergと呼ばれる、主に銀を採掘していた鉱山(今は閉山)で、ゴスラーの郊外にある。ゴスラーという小さな、辺鄙な町に皇帝(Kaiser)の宮殿があり、実際に住んでいたのは、この銀鉱があったためだとも言われている。960年ごろから1988年まで、実際に銀を掘りながら操業していたという。今はユネスコの世界文化遺産である。
ゴスラーはニーダーザクセン州内の町で、ブロックン山のふもとに位置している。ゲッティンゲン駅から各駅停車の電車に乗って約1時間程度で着く。近いこともあって、これまでも何回か訪れたことがある。
街中には古い木骨の家(Fachwerkhaus)が多く、町のはずれにはマウアー(町壁Mauer)や見張り塔の様なものもある。レジデンツ(宮殿)の前の広場では、時折「ノミの市」が開かれる。
今回われわれが訪れた鉱山へは、市街からバスが定期的に出ている。
鉱山は、周囲をうっそうとしたハルツの森で囲まれていて、今はひっそりとした静けさの中にあった。車で近づくにつれて、下の写真の様な工場の建屋と、その上に大きな長屋の様な鉱員及びその家族が住んだであろう宿舎が山の頂にまで連なっていた。
下の写真の中の黄色い箱のように見える物は、鉱山労働者を地下の現場へと運ぶ箱型トロッコだ。大柄のドイツ人労働者がこのワンボックスにおそらく10人近く詰め込まれて、構内線路で地下600メートルまで運ばれていたのである。
線路のポイント部では、恐ろしく揺れる。中は狭く、天井は低く、備え付けの木製のベンチに背をかがめて腰掛けていると、まるで地下牢へと送られる囚人の様な気持になる。もちろん中には電灯などは付いていない。途中で灯りがあるところもあるが、真っ暗の箇所が多い。
坑道の入り口
坑内の見学は一回ごとに、2~30人ずつのグループに分けられて案内される。
先ず驚いたのは、意外に坑内が広いということだった。しかも、今回の見学の場所は極めて限定的でしかないが、われわれが降り立った場所から、はるか奥の方まで坑道が続いていたことである。
当然、トロッコ用の線路も敷設されている。また、坑内の空気を入れ替えるための大きな配管があり、作業用の機械を使うための電線も張り巡らされている。
天井には雨漏り防止のための鋼板(?)が貼られていて、坑内のところどころに休憩所も設けられている。
しかし、落盤事故などが起きて、停電になれば、文字通り真の暗闇になる。その不安感は言葉に言い尽くせなかったであろう。
両側の岩壁には、掘削の跡が生々しく残る。この鉱山が始められたころは、鑿とハンマーでの作業だったようだ。またトロッコなどなくて、腰に縄を巻いた人々が人力で、重い荷台を引きずって穴倉から外に運び出していたという。これらの様子は、ここの工場の一部を展示場に改装した建屋で、壁に掛けられた写真や絵などで知ることができる。
おそらく、その当時は多くの奴隷がこういう仕事に従事させられていたのであろう。
鑿とハンマーの時代から、ツルハシの時代へ、さらに掘削機(削岩機)、そして自動掘削機へと移っていった。部分的には、発破(火薬)も使われている。
ガイドの話では、ここでの作業に欠かせないのはマスクで、これをしなければたちまち肺気腫になって、大変な苦しみの中で死ぬことになるという。
とにかくここでの印象は、人間という生き物はすごいものだ、よくまあこれだけの巨大な洞窟を掘り起こしたものだ。巨大な岩盤に向かって、最初の一撃は鑿とハンマーでのものだったのだろうが、それから約1000年をかけて、これだけの事績を残したわけである。偉大なものだ、と素直に頭が下がる。
どれだけ多くの人の犠牲の上にこの事業が成立したのか、ということも改めて考えさせられる。
こんなすごい光景を目の当たりにすると、自分の卑小さが身につまされる。
この博物館(Museum)の中のレストランは、あえて当時のままの鉱山労働者食堂をそのまま残していた。壁には、重労働を終えて、汚れた服装のままビールのジョッキーを傾けている労働者の写真が拡大されて貼られていた。
付設の工場も見学できるようになっているが、こちらは時間がなかったため、大急ぎで駆け抜けるだけに終わった。構内クレーン、また大型のモーター、古い旋盤装置の様な格好の機械などが何台も設置されていた。
Magazin(マガジン)と名付けられた保管庫(先ほども触れた建屋)には、往時の工具や記録写真、また記録フィルムなどが保管されていて、フィルムは絶えず大型のテレビ画面に映し出されていた。
ナチス政権下で、兵隊として動員されている時の写真なども掲示されていた。
なんとなく、思いは九州の筑豊炭鉱と重なってくる。高橋和巳が『邪宗門』の後半でほんの少し終戦後の様子を書いていた。60年初めに、産業界の石油エネルギーへの転換の中で、無残な首切り合理化を強いられた労働者の無念さを想い出す。
いつも犠牲になるのは底辺である。ドイツも日本も同じだ。
(2018.9.8記)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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