不安定な天候続きなので、外出、特に遠出の時は少々心配になる。しかし土曜日に使うための「ニーダーザクセンチケット」を早々と水曜日に買ったからには、中止には出来ない。
なぜ水曜日に買ったかといえば、ハーデクセンからゲッティンゲンまでの二人分のバス代(10ユーロ)が浮くからだ。しかもこのチケットを使えば、ニーダーザクセン州内に限り、二人で一日中列車(ただし各駅)に乗り放題で29ユーロである。「ボッヘンエンデチケット(週末割引乗車券)」よりはるかに安い。今回予定したのは、ヒルデスハイムとゴスラーだったのだが、実際には途中で予定が狂ってしまい、ウルツェン(Uelzen)とヒルデスハイムになってしまった。
<UelzenとHildesheimへの小旅行>
DB(ドイツ鉄道)が運営するバスなので、「ニーダーザクセンチケット」は当然使えるはずではあるが、一応念のため、これでこのバスに乗れますかと聞いて「ヤー」の返事をもらってから乗車した。時々、ドイツ人特有の官僚的(融通がきかない)応対をする人がいるからだ。
日本と同じで、ドイツでも各駅停車の電車は冷遇されていて、やたらにICE(新幹線)が多いのに比べて本数が極端に少ない。しかし、こちらの方が確実に座れるはずだ。
この日もゆっくり座っての旅になる(ゲッティンゲン始発だから)はずだった。ところが何故か、いきなり大勢が乗り込んできた。われわれは運良く広い場所(4人掛け)を確保できたのだが、途中駅からも次々に人が乗り込んでくる。
途中駅から乗り込んできた人たちの中の、若い女性の二人連れ(学生?)が、「ここ空いていますか」と聞いてきて座った。ドイツの若い女性、特に学生は化粧気が全くといってよいほどない。この点は日本の今どきの女学生との違いを強く感じる。
ハノーファーまでの道連れだったが、残念ながら会話はなかった。
実はハノーファーの手前の駅で乗り換えて最初にヒルデスハイムに行く予定だった。ところが、この電車が大幅遅れで、乗り換える相手の電車の時刻とうまく合わないのではないかという心配が出てきたため、途中で早々と行き先を変更し、ウルツェン行きとなった次第である。ここでウルツェンと呼んでいるが、本当はueはü(uウムラウトと同じ)で、ユと発音するはずである。しかし、何度聞いても「ウ」としか聞き取れないため、こう書いた。
ウルツェンにはもう何度か来ている。小さいが、割に落ち着いた町という印象がある。駅舎そのものが角形ではなく、円形を愛する、フンデルトヴァッサーによる芸術作品になっているのが第一の特徴である。フンデルトヴァッサーの作品は、マグデブルクにも奇妙な形の建物としてあり、以前に見たことがある。色彩にも一種独特なものを感じる。
ウルツェンでは、電車が遅れたためもあり、滞在時間は1時間程度しかなかった。
町の中心地がどの辺にあるかのおおよその見当は付いているため、今回は思い切って今までと違う道を通ってみた。
駅前からまっすぐの道を数百メートル歩く。周囲はSenioren Wohnung(老人用住宅)が多そうな、落ち着いたゆったりした環境だった。駅から町の中心までは徒歩で10数分程度。商店街通りは、土曜日のためか道路に多くの出店が出て、マーケットが開かれ、人出も多かった。
ハンザのハンブルク、リューネブルクに近いせいか、ここがかつてハンザ同盟都市に属していたことを示す建物があった。市庁舎はこの町らしく小造りで、並んで立つ教会の方がはるかに立派だった。
ウルツェンのハンザ館 ウルツェン駅舎
何度か訪れたことのある喫茶店を探し当てて入る。老人が一人新聞を読んでいた。30分ほど座り、コーヒーをすすってから、再び街中を散歩しつつ駅に向かう。
ここで乗り換えて、各駅停車でハンブルクまで行けるが、われわれは再度ハノーファーへ引き返し、そこから次の目的のヒルデスハイムへ向かうことにした。
ヒルデスハイムは人口十万人を超える割に大きな街で、世界文化遺産に登録されている有名な聖マリア大聖堂や聖ミカエル教会などがある(庭には樹齢千年といわれる薔薇の古木がある)が、私は特に市庁舎前の広場を囲んで立ち並ぶ古い建物の美しさに魅了される。
今回の訪問もその広場を訪れることが目的であった。以前に、この広場の一角の古い居酒屋でビールを飲みながら、広場に設営された舞台で演ずるジャズを楽しんだことがあったが、今回も同じような舞台が作られていた。
ゆっくり楽しみたいのは山々だったが、やはり時間に追われて(滞在時間は2時間の予定)、駆け足で周辺を散歩し、喫茶店で一休み。名残惜しい広場にひきかえし、その情景をもう一度目に焼きつけながら帰途についた。
市庁舎前広場(2景)
ゲッティンゲンについたのは午後8時頃。行きつけの居酒屋でビールと食事をとり、11時ごろにP女史の車で帰宅した(彼女が職場からの帰り道にわれわれを迎えにくることになっていた)。
実は、ウルツェンに行く電車でも、ハプニングがあった。車両がいっぱいなので、前の車両に移ろうとしたら連結部のドアが開かないのである。すぐ側に座っていた若いドイツ人が、「そこはkapputだよ」と教えてくれたので、停車した時に走って前の前の車両に移ったから座れたのだが、最初に乗った車両は超満員の状態だった。
後で判ったのだが、連結されている車両の一つが完全に使えないままで、ドアも閉め切ったままで、それを通って、別の車両に移ることもできなかったためだった。ドイツの鉄道もこの程度に杜撰なものだ。
<残り一カ月を切る>
行きつけのゲッティンゲンの居酒屋で知り合ったIさんというドイツ人(高等学校?の先生をしていたと聞いたが)からの紹介で、元大谷大学で哲学とドイツ文学を教えていたAさん(ドイツ人で、今は名誉教授)とその細君(Kさん、日本人)に連絡をとった。
有り難いことに、わざわざハーデクセンまでお越しいただき、例のBurg Schenkeでお目にかかることが出来た。昼食を取りながら2時間ほど雑談をしたが、なかなか感じのよいご夫婦だった。Aさんが30年間勤めた大学を定年退職した後、3年ほど前にドイツに帰ってきたとのことだ。奥さんは流ちょうなドイツ語を喋るのだが、この日はわれわれに合わせて、専ら日本語での会話が主だった。
後で気がついたのだが、いくら日本語が出来るからといっても、Aさんはかなりくたびれたのではないだろうか。先年亡くなられた伊藤成彦先生(ドイツ思想史、特にローザ・ルクセンブルクがご専門)が、ドイツに行ってドイツ語を喋るのは疲れると言われていたことを思い出した。やはり母国語で考え、話すことは楽だ。
この日の雑談で一番印象深いのは、翻訳の話だ。Aさんのお話では、かつて大学で「歎異抄」だったかのドイツ語への翻訳を依頼されたことがあり、それについての講釈を聴いたが、よく理解できなかったという。ヘーゲルやハイデガーのものを日本語に翻訳するのも、それと同じではないか、「バベルの塔を作ろうとして、神が人間に与えた罰(言語が多言語になったこと)」のようなものだ、と笑っていた。
その夕べ、P女史を誘って夕食を食べに近くのホテルレストランに行った。こういう話の後だった訳ではないが、清算するときに簡単な数の計算が出来ず、というよりは3と5というような簡単な数を取り違えて大恥をかいてしまった。やはり外国語は難しい。
マチエの『フランス大革命』をやっと読了したので、少し頭を休めたいと考えて、岡倉天心(覚三)著の『茶の本』(岩波文庫)を読んだ。実はこの本の翻訳を、随分前にドイツ人の友人から贈られていて、先ずは日本語でと考えて、古本屋でたまたま見つけた古ぼけて黄色く変色した文庫本をもって来ていたためだ。
ところがこれがすごくとっつきづらい本で、天心(だいたい漱石と同世代位)時代の漢学の素養の高さを思い知ることになった。彼はこれを英語で書き、ただちにドイツ語やフランス語の翻訳が出たというからすごいものだ。
この100ページ足らずの本に5日間ぐらいかかってしまった。老荘思想(道教)や禅を基に「茶の思想」が編み出されてきたという。頻繁に引用されているこれらの文献や説話などは、へーゲリアナーのはしくれを任ずる私には、大いに興味を引くものであった。
例えばこういう文章がある。
「永劫はこれただ瞬時-涅槃はつねに掌握のうち、不朽は永遠の変化に存すという道教の考え…真に肝要なるは完成することであって完成ではなかった。」
「定義は常に制限である。「一定」「不変」は単に成長停止を表す言葉にすぎない。」
また、荘子の有名な「胡蝶之夢」と同じ考え方も引用されている。
こんな難解なものをドイツ語はどう翻訳しているのであろうか、少し興味もわくが、果たして最後まで読み終えられるものかどうか、全く自信はない。
2019.8.15 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔culture0847:190815〕