2019.ドイツ便り(12)

著者: 合澤 清 あいざわ きよし : ちきゅう座会員
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朝の散歩でいつも会うドイツ人の元気な小母さんが、珍しく厚着をしていた。ハーデクセン地域の天気予報では、この日の朝は8℃となっている。もちろん、こちらも下着を二枚着て、その上に厚手のブレザーを羽織っているがまだ寒い。
「寒いですね」と声をかけたら、「今年の夏も終わりね。Dieser Sommer ist vorbei.」と返事が返ってきた。ドイツの夏は短い。そしてわれわれの滞在も終盤に近い。猛暑(残暑)と台風の国に帰ることへの実感がいやでもわいてこざるを得ない。
つい先日、ゲッティンゲンの街中を3時間位ぶらついた。その時見かけた本屋の動画モニターにこんな文字が映し出された。「Donald Trump liest nicht gerne.」(ドナルド・トランプは読書が好きじゃない)。もちろん、本人の顔と並んでである。本を読まなければトランプの様になるぞ、という意味だろうが、こんな辛辣なコマーシャルを打つ勇気ある日本企業(あるいは商店)はあるだろうか?「アメリカ追随」と言われる日、欧の差の大きさに改めて驚かされた。
町はずれに大きめの公園(シラー・ヴィーゼ)があり、その一角に子供たちの遊び場がある。1,2才程度の小児から5歳位かと思える子供たちが、大きな丸太を組み合わせて作ったジャングルジムやロープのつり橋、滑り台、登り階段、ブランコ、あるいは砂場などで活発に遊びまわっている。1歳位の子が、母親にお尻を支えられながらだが、急階段を這い上がる。2歳ぐらいの女の子が、5歳位の姉にくっついてロープのつり橋を渡る。まだオムツの取れない金髪の女の子が、砂場で、プラスチックの手桶からお湯をかけるように、自分の頭に何度も砂をかけて遊んでいる。大抵は、親は知らぬ顔で見ているだけだ。
ドイツ人がたくましくなるわけだ。大学生になっても、社会人になっても親がくっついてくる日本はつくづく過保護社会だと思う。若者が自律できずに保守化する一因か?

<Goslarゴスラー>
ドイツ滞在の日数が少なくなるにつれて、あそこに行かなければ、いや、こっちにも行きたい、などと限りなく欲望がわいてくる。本当はバスなども利用して行きたいところもあるのだが、やはり帰りの時間などを考えると電車が一番便利である。
ニーダーザクセン州にあるゴスラーという古都は、何でも10世紀ごろに銀鉱が発見・開発されてから急速に発達したといわれる。なにしろハルツと呼ばれる台地の中に位置しているため、最近こそ車で自由に行きかうこともできるし、電車もブラウンシュヴァイクまでつながって便利になっているが、それ以前では二両連結の小さな電車(これは今でも走っている)が主であったようだ。
去年の夏は、友人のC女史が車でこの鉱山跡(ランメルスベルク)に案内してくれた。今では世界文化遺産になっているこの坑道内の印象などは既に報告させていただいたのでこれ以上は触れない。
今回は、連れ合いの希望で、街中を散策してみようということになった。
この小さいが名の通った町には、確かドイツに来始めた最初の頃から何度か来ているはずだ。ゲッティンゲンからだと電車で約1時間半程度で来れる(途中駅の「クライエンゼン」で二両編成の電車に乗り換え)のもいい。
少なくとも二度はこの町のホテルに宿泊していて、その都度街中を歩いているはずだが、まだ何か物足りない感じがする。今回、それを補えればよいがと思いながら出発した。
この日は朝まで雨、それからくもり空のどんよりした天気だった。ゲッティンゲン始発の電車が、いきなり30分ほど遅れて出発。何でも州警察の指示だそうだが詳しいことは判らない。当然、クライエンゼンには乗り換え電車の姿はない。ここで再び40分ほど待たされた。予定時間大幅遅れで、やっとゴスラー駅に降り立った。天気はいつの間にか晴れになっていた。
    
ゴスラー駅舎             路地裏

久しぶりに降り立ったこの古ぼけた駅舎も、なんとなく懐かしい。いつもは目の前の大きなバスターミナルのある道路を左手に歩いて市街地に入るのだが、今回は趣向を変えて右手からいってみることにした。小さな町だし、おおよその見当はつく。
美術館の様な立派な建物の「職業訓練所Ausbildung」の前を通り、広い道に出たところで左手に曲がる。そのまま道沿いに歩いていると、道路の反対側の塀に人の顔と説明を書いた銅板(Schild)がはめ込まれている。早速行ってみた。何でも、薬草学の専門家だった人の記念で、ここの建物もそれに関係したものらしかったが、ここはパス。
それでもこの辺りの建物は、いわゆる「ファッハヴェルクハウス木組の家」が多くて、なかなか見ごたえがある。ゴスラーにはこういう建物がかなりの数残されているようだ。そのほとんどは、18世紀ごろまでに建てられたものだという。第二次大戦の空爆をまぬかれたのであろうか?
道を途中で右手に曲がり、石畳のなだらかな坂道をゆっくり登っていく。こういう古都では特に路地裏が魅力的だと思う。古い家並が沢山残っているし、人通りもほとんどない(観光客がぞろぞろいるところは閉口する)。そのまま路地裏ばかりを通り抜けていると、目の前に古い教会(フランケンベルガー教会)があった。ちょうど日本の古刹のように、門をくぐって中に入ると坂道が50メートルほど続き、上の方に本堂が、その右手に会堂(果たしてこういういい方で正しいのやら、宗教に無縁な私にはさっぱり分からないのだが)があり、坂道の途中は両側に草花が植えられていた。会堂からは、かすかにコーラスが聞こえてきた。
      
フランケンベルガー教会              皇帝の居城

門の横に、ここは4月から10月までは入れないと書かれていたので、この日は幸運だった。
教会沿いの道から少しそれて歩いていると、カイザー・プラッツ(皇帝広場)なる表示に出会った。小さなカペレ(礼拝堂)の横道をさらに上に上る。ちょっとした山道だ。左手には小川がみえる。上まで行くと大きな建物の裏庭に出た。そこをぐるっと回り、建物の表側に出て初めて、ああここは皇帝の居城(Pfalz)だったのだと知る。
前に来た時は、この居城前の広場で、「ノミの市Flohmarkt」が行われていたことを思い出した。
広場のはずれの案内図を見ていたら、この町はドイツの大企業の一つジーメンス、そのジーメンス家の発祥の地だということが判る。その古い家も残っているらしい。興味本位に一応訪ねてみることにした。
途中の繁華街を横目で見ながら、地図もなく、ただ先ほど見た案内図の記憶を頼りに歩く。あれこれ苦戦しながら、なんだか大きくて立派な家を見つけたので、ひょっとしてそうではないかと思い、表側に回ってみた。古びた扉に打ち付けられた鉄板にsimensと書かれている。なるほど、彼らの先祖は既に金持だったという訳か。実に見事な木組みの家だ。この家は、今でもジーメンスの所有だという。先祖はビール醸造をしていたという話もあり、このままビヤホールにすればよさそうに思うが…、まあ無理だろう。
その後は、観光客で混み合っているマルクト教会の横を通り、市庁舎広場を横切ってブラブラと駅まで歩いた。結局この日は一休みもせず、歩き通したことになる。
 
ジーメンス旧家            表札

<DBはどうなっているのか?>
駅で、クライエンゼン行きの電車を待つため、プラットホームへ、所がそこで待つ間もなく電子表示で、次の電車は運行中止になりましたとの表示が出た。ドイツ人のおじさんが、親切にも、バスでの振り替え輸送だと教えてくれた。
まあ、これも一興かと思い、バス停の方に行く。日本だと、振り替え輸送の場合のバスはすぐに来るか、既に待っている場合がほとんどだ。しかし、ここでは一向に来ない。
30~40分ほど待ってやっと来たのだが、停まったのは、待っている場所から離れたところだった。腰の悪そうな老人が、われわれから10分ぐらい遅れてやっとそこまで来た。
バスは、山間の道路を走り抜け、途中駅に停まりながら電車の倍以上の時間をかけてやっとクライエンゼン駅についた。
DBの遅れはまだ続く。われわれの方はそれでも5分遅れ程度で済んだが、逆方向のハノーファー行きは、ここでも運行中止だとか。若いドイツ女性に、どうすればよいのか、と聞かれたのだが、私には答えようがなかった。この日の朝遭遇した州警察の指示がまだ影響しているのかもしれない。
われわれは再びゲッティンゲンの行きつけの居酒屋に行き、ビールでのどを潤してから8時頃のバスで帰宅した。
電車の遅れ以外はなかなか充実した楽しい旅行であった。もう一度は出掛けたいものだと思うが、時間が取れるかどうか。
2019.8.19 記

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/

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