岩手の名物の一つに「わんこそば」というのがある。お椀に放り込まれたそばを次々に食べていき(というよりも呑みこんでいき)、どのくらい食べれるかを競うものであるらしい。残念ながら私はまだ挑戦したことがないし、実際の場面を見たこともない。
しかし、それに近いのではないかと思えるビールの飲み比べがドイツにある。
有名なケルンのケルシュ(Kölsch)ビールである。アルコール度数は5%位だそうだが、ミュンヘンあたりの大ジョッキーとは逆に、100ミリリットルの小さなグラスに入ったものをクランツというらしいが、ビールを注いだコップが何本も容れられる丸いお盆(ただし、コップが差し込めるように筒状に分けられている―ちょうど、屋台で何本かの熱燗を温める筒状のものに似ている)に入れて、客のところを回りながら次々に交換していく。客がgive upするまで、それが続く。
この「わんこビール」には挑戦したことがあるが、さてどれほど飲んだかは定かではない。恐らくドイツ人に比べれば、物の数ではないだろう。
私達の行きつけの居酒屋(Göttingen)でも、大抵の場合席に座った途端にビールが運ばれてくる。しかも飲み終わった途端に次が出て来る。よほど店が混み合っていない限り、こんなふうである。F君という25歳の、まるで相撲取りの様な体格のドイツの若者が面白半分に(?)持ってくるのだ。あまりアルコールに強くない連れ合いは、1リットルも飲めば(今年は、1.5リットルをクリアしている)、席で寝てしまう。かつて、あまりお客がなかった時には、座席を併せて横になって寝ていたものだ。店の人が「彼女はどこに行った」と聞いてくる時には、大抵答えは「シュラーフェンschlafen(眠っている)」と決まっていた。いまだにその話でからかわれている。
因みにここでの「わんこビール」は、0.5リットル入りのジョッキーである。
今世話になっている家の女主人は、若い頃ミュンヘンでウエイターをやった経験があるという。ここでは1リットル入りのビールをジョッキーやマグ(陶器の器)に注いだものを、片手づつ5本、計10本持って運んでいたそうだ。さすがにこれには参ったという。
いかに丸太のような腕のたくましいドイツ人女性も、両手首で10キロも20キロも運ぶ仕事には根をあげたようだ。
このたくましいアマゾネスの子孫たちに関する面白い話が伝わっている。中世の頃の話であろうか(?)、夜中にそっと忍んで来る愛人を自分の部屋に入れるために、ロープを付けたかごを上から降ろし、その中に入った愛しい男を2階か3階の自分の部屋まで引き上げて逢引したというから、恐ろしい力だ。もっとも、憎たらしい男は、途中で一晩中中づりの憂き目にあったそうだ。「げに恐ろしきは女人なり」である。
<旅行準備と犬のくしゃみ>
ライプチッヒにいる友人にメールを出したら、まるで待ち構えられていたかのようにすぐに電話がかかってきた。ちょうどその日はゲッティンゲンの居酒屋で友人と会う定期日で、バスに揺られている最中だった。
突如、壊れているかどうかも分からなかった私の携帯が鳴り始めた。当然、ドイツ人の誰かからの電話だと思い、「ハロー」と返事したら、向こうから日本語が聞こえてきた。これには驚いた。
こちらに滞在している間に一度お会いしたいと書いたのだが、ちょうどこの時期の週末にライプチッヒで「ワインフェスト」があるから、それに合わせて来てはいかがかと誘われた。もちろん、酒好きな私にとって異存のあろうはずはない。すぐに日程を決め、ホテルの予約をお願いした。続けてまた、バスの中で携帯が鳴り、全ての用意をしたので、出来ればその当日の午前中に着くようにと言われた。有り難いことだ。
こうして急きょ7月のドイツ国内旅行の日程が決まった。
待ち合わせた居酒屋は、超満員の状態。連れ合いと二人で、すぐに出て来る「わんこビール」を飲みながら待っていたら、また電話が鳴った。多分またライプチッヒからだろうと思いながら日本語で、「騒音で聞き取れないから、外に出るまで待ってほしい」と言いながら表に出て、改めて「もしもし」と言った。とたんにドイツ語で、「ハロー、10分ほど遅れそうだから電話したのだよ。申し訳ない」と言われた。
これにはまたびっくり。
やがて友人の彼女(ゲッティンゲン大学講師)がまずやって来て、その後で彼が笑いながらやってきた。「キヨシが、『もしもし、元気ですか』、突然日本語を喋るから驚いたよ」という。いや、申し訳ない、実は…、とその訳を話して皆で大笑いとなった。
定年退職した友人も遅れて来てくれたのだが、生憎この日は超満員だったため、席が無くて帰ってもらう羽目になった。その前の日、私が座席予約で、多分3人位だと言ったのが間違いのもとだった。
こういう気ぜわしい中で、「小旅行」とはいえ遠出であるので、何かと準備だけはしなければならない。特にドイツの天候は、このところ全く定まらない。暑かったり寒かったりの繰り返しだ。着るものも二種類用意しておかなければ、どうなるかわからない。
さて、一応の準備をしたところで夕食にしようとしていたら、突然、大きな声でのくしゃみが聞こえた。連れ合いはてっきり私がしたものと思い、私の方は逆のことを考えて、お互いに確認をとってみたが、違っている。まさかこのチビ犬(Mia)がこんな大きな声でくしゃみをするはずはなかろうと思っていたら、今度は連続でくしゃみをやり始め、止まらなくなっている。何とも痛ましい。しかし、どうすればいいのか、われわれにはさっぱり分からない。Miaの好きだという餌を手で直接やると、やっと食べたが、日頃好物のニンジンやピーマンには全く口を付けない。
一応飼い主(この家の女主人)には知らせる方がよいだろうと思い、メールを職場に送信した。ただ幸いなことに、30分ほどしたら、くしゃみが止まって、寝床でうずくまるように寝てしまった。一安心だ。
それにしても、小さな犬とはいえ、くしゃみの大きさは人間の大人と変わらないし、人間と同じように連続で20回位していた。身体が小さいだけに哀れになる。
<伝統とみそ汁の味>
ふと次のようなことが頭に浮かんできた。伝統とみそ汁(朝食)の味、両者ともにわれわれの体質に良く染み込んでいる。ドイツで多少長く暮らしていて、ドイツ食に飽きが来た時、なんだか無性にいつもの朝食(みそ汁)が食べたくなる。
良くみそ汁の味は母親の味で、各家庭に独特の味付があるといわれる。毎日食べる朝御飯は、ある意味では平凡な、ごくありふれたものである。それなのに、何故か飽きるということがない。
それに対して、ドイツでの朝食、最初の頃は物珍しさもあって、美味しいと思っていたのに、やはり飽きがくる。恐らくドイツ人も逆向きで同じなのだろう。朝食用のパンがBrot(パン)と呼ばれるのではなく、ある種の親しみを込めた愛称でBrötchen と呼ばれるのはそれ故である。
この事から考えるに、身に沁み込んで体質化したものは、仮にそれを取り除こうとしても生易しいことではない。というよりも不可能に近いと言いうるのではないだろうか。
日本には日本の、ドイツにはドイツの伝統というものが当然ある。日本人である私がドイツに来て、ドイツ風の生活環境(風習や食生活、またドイツ人との交流を通じての考え方の違い、など)に接触するとき、その違いに戸惑いながらも何とかそれを受け入れようとする。しかし、慣れるにつれてある種の違和感がもろに出て来るときがある。
体質化した伝統が、物の考え方、感じ方、味わい方の全てにわたって浸透していることに気付かされる。
卑近な例では、南部鉄でできた風鈴のかすかな音、あれを「風雅」と感じ取れる耳は、大方の日本人には当たり前(いや、今どきの若い人ではそうでもないだろう、という声も聞こえてきそうだが)かもしれないが、西洋人ではどうだろうか。
「わび・さび」とまで行けば、これは日本人にとってもかなり玄人の領域に入るため、おいそれとは語れない。しかし、そこまで行かなくても、日常的なちょっとした違いに意外に大きな隔たりを感じ取ることがある。
このような違いを前提にしながら、違いを超えた相互理解を得るにはどうすべきか。
違いのみを強調すれば、どうしても優劣による異種排除に限りなく接近せざるを得ない。かといって、現にある差異を無視して、「平等だ」「平等だ」と叫んだところで、何の意味も持ちえない。それは今の資本主義社会が取り入れている「権利的平等」という表面上の平等主義-その裏側で格差が猛烈に広がっている事実は覆いようがない。
人道主義的な平等を、と言ってみたところで同じだ。いずれも、厳然として存在する差異に目をつぶっている。
マルクスは、差異を社会的・経済的な領域に限定して問題視し、Kommunismus(共産主義)社会の実現をもって解決しようとした。
しかしなおそこには、フェミニ、民族、エコロジーなどの問題が残されているのではないかという新たな問題提起が今日的に生まれている。
区別(差異)性を前提にしながらの全的な統一、ヘーゲル的には宥和Versöhnungということをどう考え、そして実現する運動に結び付けていくか、ドイツという異国にいて、しかも多くの異民族が入り混じるヨーロッパの地では、どうしてもこの問題は避けて通れない最重要な問題の一つだと思う。
2019.7.6 記
KurparkでのGardenfestのスナップ写真
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔culture0824:190711〕