21世紀ノーベル文学賞作品を読む(1―中)  高行健の『ある男の聖書』(集英社刊、飯塚容:訳)――祖国を捨て政治亡命者となった男の逃亡の記

 それまで彼は本当に、党に反対することなど考えもしなかった。誰に反対する必要もなく、ただ自分が夢を見続けられることだけを願っていた。だが彼はその夜、驚いて目を覚まし、自分が険悪な状況に追い込まれていることを知った。大地を覆って吹き荒れる政治の嵐の中で、自分の身を保つためには、俗人に紛れ込むしかない。
 誰もが言う通りのことを言い、大多数の人と同じ反応をする。歩調を合わせ、大多数の中に紛れ込み、党が言えと決めたことを言う。どんな疑念も消し去り、ただスローガンに従うのだ。彼はまた、連名で壁新聞を書かなければならなかった。党中央の高級幹部の演説を支持し、過ちを認めることで、反党分子というレッテルを免れなければならなかった。

 従順な者は生き残り、叛逆する者は滅亡する。早朝、廊下はまた新しい壁新聞で一杯だった。昨日と今日で是非が逆転する。政治の風向きの変化に従って、人々はカメレオンのように色を変えた。彼を驚かせたのは、政治工作幹部が張り出したばかりの壁新聞だった。
 裏切り者の劉。お前は党組織の原則に背いた。お前は党の機密を売り渡した。お前は一貫して巧妙に立ち回り、地主の出身であることを隠し、革命の陣営に紛れ込んだ! そうだ、劉は裏切り者だ。なぜなら、お前は今もなお反動分子の父親をかばい、自宅に匿い、プロレタリア独裁に反抗している! お前は裏切り者だ。それは、お前の階級的本質に根差している。政治運動の機に乗じて、正邪を混同し、大衆を欺き、しゃしゃり出て、矛先を党中央に向けた。お前の魂胆は空恐ろしい!

 革命的な檄文は、人に脅威を与えるものだ。彼の直属の上司である老劉は、こうして階級的異分子とされ、孤立してしまった。壁新聞を取り囲む人の群れから抜け出し事務室に戻った老劉は、奥の部長室の扉を閉めた。再び扉から出て来た時には、もうパイプを口にしておらず、誰もこの前任の部長に声をかけようとしなかった。
 徹夜の闘争が終わり、窓の外が白んできた。彼は便所へ行って顔を洗った。冷たい水で、頭が少しはっきりした。窓から遠くを眺めると、黒っぽい瓦屋根の波が目に入った。人々は未だ眠りから覚めていないだろう。白塔寺(北京市内にあるラマ教の寺院)の丸い屋根だけが朝焼けに染まり、際立っていた。彼は、自分が潜在的な敵であることを初めて意識した。生き延びるためには、仮面を着けるしかなかった。
 
 深夜、職場の批判大会が終わってから、彼は宿舎に戻った。同室の同僚老譚は既に紅衛兵によって会議室に連行され、隔離処分を受けて以来、帰って来ない。彼はドアに鍵をかけた後、カーテンの端をめくって、近隣の家の灯火が全て消えていることを確認した。
 ストーブに火を付けた。横にバケツを置き、彼は原稿の束、そして大学時代から書き継いできた数十冊の日記帳とノートを焼却した。小さなストーブなので。数頁ずつ破り取って火に入れなければならない。紙が燃えて白い灰になると。それをコップでバケツに移し、こねて団子にした。燃え残りの黒い紙が外に出ることは、絶対に許されなかった。

 子供の頃に両親と撮った古い写真が、日記帳の中から出てきた。父親は背広姿にネクタイを締め、母親はチャイナドレスを着ていた。写真はもう色あせていた。両親は笑顔で寄り添っていた。間に挟まれた痩せた子供は、腕が細く、眼を丸く瞠(みは)っている。彼は躊躇なく、それをストーブにくべた。両親は白と黒の灰燼となり、痩せた子供も焼けていった。
 身なりからして、両親は恐らく資本家、あるいは外国商社の買弁と見做されただろう。彼は、処分できるものは全て処分した。できる限り、過去の全てを断ち切り、記憶を抹殺した。当時を回想すること自体が、大変な重荷だった。

 それらの原稿と日記を焼却するより前に、彼は老婦人が一群の紅衛兵に殴り殺されるところを目撃した。真っ昼間、繁華な西単のグラウンドの脇だった。昼休みの食事どきで、通りには人がごった返していた。彼が自転車で通りかかると、十人ほどの若い男女がいた。古い軍服を着て、赤い腕章を付け、いずれも十五、六歳の中高生だろう。
 彼らは地べたに這いつくばっている老婦人を軍用ベルトで引っぱ叩いていた。老婦人の首には、「反動地主の妻」と書かれた板が針金で吊るしてある。老婦人はもう動くことができず、叫び声だけを上げていた。通行人はみな一定の距離を置いて、事態を静観している。進み出て、止めようとする者はいなかった。
 
 制帽を被り、白い手袋をはめた警官が通りかかったが、どうやら見て見ぬふりを決め込んだようだ。紅衛兵の少女の一人は、短い髪を後ろで二つにまとめ、眼鏡をかけて、いかにもきりっとした顔立ちだった。やはりベルトを手にしている。ベルトのバックルが、バシッという音と共に白髪頭を打った。
 老婦人は両手で頭を抱え、地べたをのたうち回った。指の間から血が流れ出したが、声を出すことはできないようだった。「赤色テロ万歳!」。紅衛兵のピケ隊が真新しい「永久ブランド」の自転車に乗り、スローガンを叫びながら、隊列を組んで長安街を進んできた。

 彼もピケ隊の検問に捕まったことがある。夜十時頃のことだった。彼は自転車で、武装警官が警戒に当たっている釣魚台迎賓館の前を通りかかった。前方の明るい水銀灯の下には、サイドカー付きのオートバイが数台並んでいた。軍服を着て、「首都紅衛兵連合行動委員会」の赤い腕章を付けた若者たちが行く手を遮った。
 「下りろ!」。彼は急ブレーキをかけ、危うく自転車から転げ落ちそうになった。――身分は? 「職員です」 ――仕事は? 彼は職場の名前を告げた。――身分証明書は? 幸い携帯していたので、取り出して提示した。
 また一人、若い男が自転車を下りるよう命じられた。頭は角刈り、それは当時、自らを蔑む「犬ころ」(文革初期に家庭の出身が良くない者を指して使われた罵語)の標だった。
 「夜はおとなしく,家でじっとしてろ!」。彼は放免された。自転車に乗ったとたん、背後で角刈りの若者の声が聞こえた。返答に詰まり、殴られて悲鳴を上げている。彼は振り向く勇気がなかった。

 連日、深夜から明け方まで、彼はストーブの火に向かい、眼を赤くした。昼間はまた気力を奮い起こし、いつ訪れるとも知れない危機に備えなければならない。最後のノートを焼却し、痕跡が残らないようにその灰をこね、残飯と混ぜ合わせた時、彼はもうくたくたで、眼を開けていられない状態だった。
 彼は自宅に未だ、トラブルの原因になりかねない古い写真が残っていることを覚えていた。それは彼の母が若い頃、キリスト教青年会の抗戦救国劇団に居た当時の軍服を着た集合写真だった。軍服は抗日戦士を慰問に行った折に、俳優たちが褒賞としてもらったものだろう。軍帽には国民党の帽章が付いていた。母は既に世を去っているとはいえ、この写真がもし家宅捜索で見つかれば必ず問題になる。手紙で父に問い合わせるのもまずかった。

 焼却した原稿の中には小説もあった。かつて有名な老作家に見てもらい、できれば推薦の言葉を、少なくとも肯定的意見を得ようとしたのだが、老人は表情を変えず、後輩への激励も口にしなかった。それどころか顔を曇らせ、厳しい声で彼を戒めたのだ。
 「文章というものは、よくよく考えてから発表するものだ! やたらに投稿などするな。それがいかに危険か、お前はわかっとらん」
 彼はとっさに、その言葉の意味がわからなかった。その年の六月、文革が発動された。ある日の夕方、彼はこの政治運動に関する情報を得ようと、老作家を訪ねた。彼が入るとすぐに老人は扉を閉め、小声で言った。「誰かに見られなかったか?」
 老作家は革命を担った経験があるので、言葉に力がこもり、めりはりがあって、論旨明快だった。だが、この時ばかりは急に元気を失い、わなわなと震え、声を詰まらせた。「私は反動分子にされてしまった。もうここへは来るな。面倒に巻き込まれてはいけない。お前は党内闘争の経験がないから――」
 老作家は酷く慌てた様子で、扉の隙間から外を覗いて言った。「またにしよう。お前は延安の整風運動(1942~45年、中国共産党が党員の思想や活動の在り方を点検~是正するため、延安で展開した政治運動)を知らない!」「早く帰りなさい。さあ早く!」

 この間、一分にも満たなかった。遠いものと思われた党内闘争が、思いがけず目の前に迫っていた。十年後、老作家が牢獄から出されたと聞いた時、彼もちょうど農村から北京に戻ったところ(下風運動:国民を地方に送り出す思想的な政策)だった。面会に行くと、老人は片足を失い、痩せ細って骨と皮だけになっていた。毛足の長い黒猫を抱いて寝椅子に座り、手許にはステッキが置かれていた。
 「猫の生き方の方が人間よりましだ」
 老人は口を歪め、笑いともつかぬ笑いを浮かべた。数本だけ残った前歯を見せて、猫を撫でている。深く窪んだ眼窩の奥で、丸く瞠った猫のような目が異様な光を放っていた。老人は獄中での苦難を一言も語らなかったが、死の直前になって、彼が病院に見舞いに行った時、ようやく真情を吐露した。生涯最大の遺恨は入党したことだ、と老人は言った。

初出;「リベラル21」2024.08.23より許可を得て転載
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