21世紀ノーベル文学賞作品を読む(3―上) ケルテース・イムレ(2002年度受賞)の『運命ではなく』(国書刊行会刊、岩崎悦子:訳)――社会的圧力に抗し、生きる可能性を追求

 ケルテース・イムレ(1929~2016)はハンガリーに生まれ、十四歳(1944年)の時にユダヤ人としてアウシュヴィッツ強制収容所に送られた。その体験を基にした上掲の著書『運命ではなく』を1975年に刊行し、反響を得る。以下にその核心部分を紹介しよう。ノーベル賞受賞理由は「人間が社会的圧力に益々服従している時代にあって、個人として生き、考え続ける可能性を追求した」。

 一番最初の頃の僕は、囚人生活を送っていても、未だ自分の事を言わばお客さんのようだと感じていた。僕たちみんなは、結局は、人間の本性、つまり自分を欺く習慣に従っていたのだと思う。中庭や陽射しの強い場所はどこか殺風景に見えたし、サッカー場や野菜や芝生、花々の面影など、どこにも見つけることができなかった。
 全く飾りのない、見た目は大きな納屋を思い起こさせる、木造の建物がそこに建っていた。明らかに僕たちの住まいだ。僕たちが中に入るのは、夜に寝る時だと知らされた。建物の前や後ろに無数の同じような納屋らしき列、そして左手の方にも全く同じような列が、前後、左右に規則的な距離と間隔を空けて続いていた。
 
 放射状に延びた舗装道路が納屋の間の道と交差する筈の処で、玩具のような、壊れそうな、とても綺麗な赤と白の遮断機が道を塞いでいた。一方、右手には、もうおなじみの有刺鉄線の付いた鉄条網の柵があり、それには電流が通っていた。触ると死んでしまうと言う人たちもいた。杭の前にある柔らかな砂の細い小道に足を踏み入れると、監視塔から警報や警告の言葉一つなく発砲されるという話だった。

 「すぐに温かいスープがもらえる!」という報せがあり、みんなの顔が輝き、感謝の言葉が聞こえた。スープは残念なことに、食べられる代物ではなかった。年寄りのずんぐりした、この前の大戦に将校として加わったという人は言った。「野菜を煮込んだ料理を乾燥させたもの」で、「栄養素とビタミンが沢山含まれ、慣れなければいけない」。彼は最後の一口まで平らげたが、僕は何人かの仲間に倣い、自分の分を床にこぼした。
 食器を戻しに行くと、交換に、分厚く切ったパンとマーガリンをもらった。僕はパンはすぐに食べた。外側も中側も、黒い四角いパンで、中に藁や、歯に当たってジャリッと音がする粒が入っていた。でも、長い道中でもうお腹がペコペコだったのだ。

 その頃になると、僕は以前にも増して、匂いに注意を向けないわけにはいかなくなった。どう表現していいか判らない。やや甘く、いくらか粘っこく、その中にほんの僅かもうお馴染みの化学薬品の匂いも混じっていた。匂いの元が、ずっと遠くにある煙突であるとすぐに判った。それは工場の煙突のように見え、しかも革工場であると先輩が教えてくれた。
 実は、その煙突は本当は革工場のではなく、火葬場の煙突であることが、段々と明らかになった。ずんぐりした、開口口が広い四角の煙突で、天辺をまるで急に切り取ったみたいだった。遠くに一つ、さらにもう一つ、そして輝く空の一番端にもまた同じような煙突があるのに気づき、その度に、驚きを新たにした。そのうち二つが僕たちの近くのと同じような煙をちょうど吐き出していた。もっと遠くの、葉の成長が止まった森のような一帯の背後から立ち上る煙もきっとそうなのだと疑う人もいた。だとしたら、死ぬ人がこんなに多いんだから、それと同じくらい伝染病も多いんだろうかという疑問が湧き起こった。

 便所のバラックにも行ってきた。ずうっと長い教壇のような台が三つあり、それぞれに二つ、つまり全部で六つの穴の列が開いていた。その穴に、その時々の欲求に応じて、しゃがむか、立ったまま命中させなければならなかった。いずれにせよ、ぐずぐずしている暇はなかった。すぐに腕に黒い腕章をし、手に重そうな棍棒を持った一人の怒った囚人が現れ、とにかく途中だろうと離れなければならなかったからだ。
 もう一つの光景も僕の記憶に残っている。別の方角で、白い上着に、脇に赤い線の入った白いズボン、絵に見る中世の画家みたいに、芸術家ふうの黒い帽子をかぶり、かぎ状に曲がった太い棒を手にした貴族のような男が、右を見たり左を見たりしながら道を歩いていた。その立派ななりをした人も、僕たち同様、単なる囚人に過ぎないと教えてもらったけど、僕にはなかなか信じられなかった。

 誓ってもいい。その道で僕は知らない人とは誰とも口を利かなかった。にもかかわらず、僕には、その頃から、本当にそれ以前より正確な知識を数え上げられるようになったのだ。あそこの正面で、将にこの瞬間、僕たちの列車で一緒だった旅の仲間たちが焼かれていた。自動車に乗るように勧められた人々、更に歳をとっていることや、その他の理由で、医師によって労働に不適応だと見做された人々、子供とその母親や、大きな標が目につく未来の母親たちが。駅からその人たちも浴室に行った。ただ、そこのシャワーから、その人たちには水でなく、ガスが注がれたのだ。入浴している間、聞くところでは、最後までその人たちはとても優しくされ、心遣いや愛情に包まれ、子供たちはボール遊びをし、歌を歌っていたそうだ。
 その人たちが窒息させられる施設は、とても美しい芝生や森、花壇に囲まれて建っている。だからこそ余計に、そうしたことが、僕にとっては全てがまるで冗談のような言ってみれば学生のいたずらのようなものに思われた。

 それに加えて、よく考えてみると、例えば、僕もまたとても巧妙に、洋服かけや、洋服かけの上の番号などというトリックだけでこんな姿にさせられていた。あるいは、例えば、所持品を隠し持っている人々に使われたレントゲンという言葉は全く脅かしの言葉に過ぎなかった。
 もちろん、別の角度から見れば、全てはやっぱり全くの冗談ではなかったことを僕は認める。だって、僕はその成果――この言葉を使っていいと思う――について、自分の目と、とりわけ段々むかむかしてくる胃によっても納得することが出来たのだから。でも、それは僕の感じたことであって、基本的にはここで起こっている事は全く違う形では起こり得なかっただろう――少なくとも僕はそう想像した。

初出:「リベラル21」2024.10.12より許可を得て転載
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