22日小田原講座「韓国併合100年と日韓市民共同宣言」

 先日、お知らせしましたが、韓国強制併合から100年目の

8月22日(日) 14:00~ 小田原国際交流ラウンジ

          http://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/i-national/i-exchange/lounge.html

において、小田原近現代史講座・特別編「韓国併合100年と日韓市民共同宣言」をやります。この会場では「韓国強制併合100年」の写真展をやっていますが、

内容は

 ・1875年の江華島事件から1910年までの日本と朝鮮半島の歴史を年表で振り返る

 ・韓国併合条約を読む

 ・菅首相談話と村山首相談話を読む

 ・菅首相談話に対する産経新聞の社説や韓国紙の反響を読む

 ・豊島公会堂で開かれている「日韓市民共同宣言大会」に連帯して「日韓市民宣言」を読む

等です。

 東京豊島まではお出かけになれない小田原近辺の方は、どうぞ、おいでください! 以下は、前回の『坂の上の雲』批判(2)に対する感想・意見です。

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<小田原近現代史講座・特別編『坂の上の雲』批判(2)の感想・意見>

*やはり、しっかり歴史の勉強をせずに『歴史小説』を読むのは恐い、と思いました。『小説』だから脚色は多少あるにしても『坂の上の雲』など、事実関係まで間違っているところがあるとは・・・ 

 先日、NHKの『安重根と伊藤博文』という番組を見ましたが、今日の授業を受ける前だったので、上手く乗せられて見ていました。「伊藤博文は、案外、公平な人だったのか・・・」と・・・知人から「歴史にはいろいろな角度からの見方がある」といわれましたが、弱者の立場、視点を基準にして考える姿勢が基本だと思います。

*事実は何だったのか? 事実を知り、その事実からものを考えていく・・・子どものころ学校という場で、大人になって社会という場で、自分は、そういうことができていただろうか?

 聞いたこと、見たこと、読んだことが、果たして事実に基づくものかどうか、見分ける力が、果たして自分にあるだろうか?

 自分で考え、自分の意見を持つ力があるだろうか?

 2年近く、増田先生のお話をうかがいながら、つくづく持った私の疑問だ。これからは、歴史に限らず、目の前にある目に見えること、耳に入る聞こえてくること、それからだけでなく、その向こうにある真実を見つめ、考え、行動できるようにしていきたい。

*時代もののドラマや映画を見ていると時代考証がかなりデタラメなことがありますよね? 「もの」の観点から見ると「この時代には、この物はまだ無いよね?」というふうに・・・ドラマの筋書きとして史実だけはきちんと押さえている、ということもありません。私は「やっぱり、ノンフィクションに見せかけたフィクションだ」と思って、いつも見ております。

 増田先生の授業は、『坂の上の雲』批判もそうですが、いつも克明な資料を提示してくれて、小気味良いほどビシビシと、その『偽り』『歴史偽造』を指摘してくださるので気持ちが良いです。

多くは『偽り』が『真実』として、人々の中に根付いているように思います。そして、それはきっと、「多くの人にとって、都合の良い、信じていたい真実」なんでしょうね?

 「坂の上の雲」がいう「時代によって変わる正義」ではないものを見ていかなくてはいけないですね、それも、少しユルユルした感じで・・・生真面目な善人は「時代の正義」に振り回されるような気がしますので・・・

*今もそうだが、国民の声が届かない政治が続き、国民=一般市民の存在、生活(立場)を感じる政治、政府ができているとは思わない。『坂の上の雲』の世界もそうだが、明治時代から、日本は特定の権力者によって時代が作られてきたことを感じた。それが今も続いているのでは?

 グローバル時代といいながら、日本はこれからどうなるのだろう? 偽りを続けて、このまま日本はどこまで進んでいけるのか? お返しはいつか必ず来ると思う。何か少し恐くて不安である。

*「『坂の上の雲』を考える」の2回の講座は、「歴史の事実とは?」ということだったと思います。私自身まだよく分かりませんが、以下のように考えています。

 現在は長い歴史の積み重ねによって成ったものだと思います。私たちが歴史を学ぶのは、過去を知ることによって現在を知り、現在をよりよく生きるとともに未来を開いて行くためだと思います。

 過去を知る方法としては、その当時の資料によるほかはありませんが、その資料は一面的でなく、得られるかぎり多方面にわたり、また精密・精確でなければなりません。

 しかしながらまた、どのような立場にたって歴史を見るか、ということも重要で、それによって歴史のとらえかた・評価のしかたも異なってくるとは思いますが、基本的な方法としては、演繹的な方法でなく帰納的な方法が必要かと思います。

 精確な歴史を見出すには、事実を精密に調べてそこから帰納することによって歴史の客観性が得られるのではないかと思います。

 ここで司馬遼太郎の『坂の上の雲』などがいわゆる「国民的人気」を得ているのは一体どういう訳なのだろうか、と考えると、これまでの日本の社会や学校での歴史教育がそれを受け入れる下地になっているのではないだろうかと思います。  

 これまでの支配的な歴史観は、司馬と同様支配者側から見た歴史で、「国民」はそれに慣らされてきたのではないだろうかと思います。それは英雄的な偉人たちが国をつくり社会を作ってきたという歴史観で、そこには大多数のひとびと・民衆が十羽ひとからげの「大衆」として描かれ、ひとりひとりが血のかよった生きた人間として描かれていないのではないかと思います。

 ですから、どんなにたくさんのひとびとが戦争で殺されようと、血も涙も表されず、抽象的な数量としてのみ表現されてきたのではないだろうかと思うのです。

 その意味で、私たちが歴史の学習をするのは、歴史を私たちのものにし、私たちの歴史をつくっていくこと・・・私たちが歴史をつくっていくことでもあると考えます。

*最初で最後の感想文となりそうで、大変、失礼の段、御寛恕ください。

 さて、小生は千載一遇の機会を得て歴史研究者たる増田先生にお会い出来、大変、幸せで御座いました。特に小生の出生から今日の78歳迄の道中には数多の事件の連続でありましたが、中でも世紀末の歴史認識のうち、昭和天皇裕仁に関する部分は全く歴史認識が異なり、今後もっと研究を深め再認識すべき事項と思料しますが、先生のゼミを受けて以来、茫然自失の体で居ります。もっと真から裕仁の人間を研究分析してみなくては、と考えて居ります。

 毎年5月25日(小生の誕生日であり、東京大空襲を身近に受けた日)から8月15日(敗戦の日、東京陸軍幼年学校身体検査の一週間前)迄は、一年で一番物思う事の多い期間ですが、これから体力の続く限り、平和な日が長く続くよう、行動を起こし続けて参り度く存じます。

 最後に先生の御健康と御活躍を祈念して感想文と御挨拶とさせて頂きます。

                                     合掌

増田から

 私も、小田原で「パコ・ネット」のとても素敵な女性たちはじめ、とてもチャーミングな紳士(笑)の方々にお会いできて、とても幸せでございます! 

 それから、私は『歴史研究者』というほどではありません。真面目な『歴史研究者』の方々の真実の研究に依拠しまして、歴史の真実を知った私は、まだそれを知る機会の無かった方たちに伝えることが責務だと思っているのです。悪しき「歴史偽造主義者」たちに乗っ取られてしまった東京都教育委員会によって断ち切られてしまいましたが、中学校教員を33年間やっていました職業柄!? が抜けないのですね・・・

 生徒たちは、都教委のワル権力者たちによって奪われてしまいましたが、授業をする機会を皆様から与えられたばかりか、ビンビンと反応してくださる素晴らしい受講者に恵まれ、本当に幸せです! ありがとうございます!