2/28 第287回 現代史研究会―「ナ ショナリズムについて考える」(塩川伸明)レジュメ

287回 現代史研究会

日時:2月28日 (土)1:00~5:00

場所: 明治大学・研究棟第9会議室 (2階)

(JR「御茶 ノ水」駅から徒歩4分、リ バティタワー裏)

テー マ:「ナ ショナリズムについて考える」

講師: 塩 川伸明(東京 大学名誉教授)

参考文 献:塩川伸明『民族とネイションーナショナリズムという難問』(岩波新書2008年 刊)、『ナショナリズムの受け止め方―言語・エスニシティ・ネイション』(三元社3月上旬 刊行予定)

  • 『「20世 紀史」を考える』(勁草書房, 2004年)
  • 『多 民族国家ソ連の興亡(1) 民族と言語』(岩波書店, 2004年)
  • 『多 民族国家ソ連の興亡(2) 国家の構築と解体』(岩波書店, 2007年)
  • 『多 民族国家ソ連の興亡(3) ロシアの連邦制と民族問題』(岩波書店, 2007年)
  • 『冷 戦終焉20年――何 が、どのようにして終わったのか』(勁草書房, 2010年)
  • 『民 族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷 戦後の国際政治』(有志舎, 2011年)

参加 費・資料代 500円

現代史 研究会顧問:岩田昌征、内田弘、生方卓、岡本磐男、塩川喜信、田中正司、(廣松渉、栗木安延、岩田弘)

 

ナショナリズムについて考える

現代史研究会

2015年2月28日 明治大学

塩川伸明

 

Ⅰ 現代的状況――現実政治の文脈と理論状況のズレ

 

1 現実政治面:危険なナショナリズムの高揚およびその各国間での応酬

 

2 理論史的状況:少なからぬ理論家の間で、ナショナリズム再評価論があらわれている(必ずしも「保守反動」というわけでない論者たちを含む)

「われわれの上の世代、特に、現在の六十代前半から五十代にかけての世代には一般的に、「ナショナリティ」や「国家」、「国民」といった観念を直観的に忌避する傾向が見られる。戦後教育では「ナショナリティ」や「国家」、「国民」は悪いものだと強く教えられてきたからかもしれない」。「ナショナリズムは常にイデオロギー的な批判の対象とされてきた」(施光恒・黒宮一太編『ナショナリズムの政治学――規範理論への誘い』ナカニシヤ出版、2009)。

「日本の人文思想の世界に少しでも触れたことのある人にとって、ナショナリズム批判というのはひじょうに見慣れた光景だ。どうやったらここまでみんなの意見が一致するのかと驚いてしまうぐらい、誰もが「ナショナリズムは悪だ」という前提で議論を組み立てている」。「日本の人文思想界では、ナショナリズム批判がほとんど当然の答えであるかのように、猫も杓子もナショナリズムを批判する」(萱野稔人『新・現代思想講義――ナショナリズムは悪なのか』NHK出版、2011)。

「ナショナリズムとは結局のところ個人の自由や人権やリベラル・デモクラシーと本質的に相容れないイデオロギーと運動であり、つねに戦争と圧政と残忍さを生み出す元凶に他ならず、したがってそれは絶対的な「悪」であり、文明の進化とともにいずれ「乗り越えられる」べき小児病でしかない……という負のイメージに彩られてきた」。(富沢克編『「リベラル・ナショナリズム」の再検討――国際比較の観点から見た新しい秩序像』ミネルヴァ書房、2012)。

「ナショナリズムといえば、従来は否定的な側面ばかりが強調されてきた」。「ナショナリズムは長いあいだ忌避の対象であった」(白川俊介『ナショナリズムの力――多文化共生世界の構想』勁草書房、2013)。

「ナショナリズムをひたすら解体・否定すべき対象としてとらえる時期はとうに過ぎ去った」(先崎彰容『ナショナリズムの復権』ちくま新書、2013)。

 

Ⅱ 「民族」という言葉――ネイションとエスニシティ

 

1  概念の相互関係

日本語の「民族」は、ヨーロッパ諸語では「ネイション」と「エスニシティ」の双方に対応する。もっとも、「ネイション」は国民と訳すこともできる。

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2 「エスニシティ」および「ネイション」の定義

エスニシティは、言語、宗教、(想定された)共通の祖先と共有された体験などによって結ばれた集団。

ネイションはむしろ政治的単位(とりわけ国家)と関連する。ある国の構成員の総体が国民をなす。

エスニシティとネイションは別々の概念ではあるが、かといって、完全に無縁というわけでもない。両者を連続的に捉えるか、明確に異なったものと捉えるかという問題についても、二通りの考えがある。

エスニシティが成長して、政治意識を持ったネイションになるとか、近代国家が国民統合を通してネイションの中にエスニックな均質性をつくりだしていくという面を重視するなら、エスニシティとネイションは連続的ということになる。ヨーロッパをはじめ、いわゆる旧大陸ではこういう発想が強い。日本語の「民族」が両様の意味をもつのは、こういう発想の系譜を引いている。

 

3  エスニシティとネイションを峻別する発想

アメリカでは両概念の峻別論が優勢だが、それは移民の国という特殊性に由来する。旧大陸から多様なエスニシティが流入してきたが、それらの人々はエスニックな差異を超えて単一のネイションに統合されるという発想。アメリカ英語でネイションという言葉にエスニックな意味はない(ヨーロッパとの違い)。

アメリカ的用語法は必ずしも「世界標準」ではない。アメリカ的発想では、一つの国家には一つのネイションしかありえないが、同じ英語圏でもイギリスやカナダはそうでない。

 

Ⅲ よいナショナリズムと悪いナショナリズム?

 

1 「ナショナリズム」の評価――肯定論と否定論の乱立

大雑把な流れとして、戦後しばらくの間は、ナショナリズムにも良いものと悪いものとがあるという区別論が常識的だったが、冷戦終焉あたりを機に、ナショナリズムは悪いものだという発想が広まった。最近では、そのことへの揺り戻しも一部に出てきた。こうした評価の揺れがあるのは、ナショナリズム自体のもつ両義性による。

 

2 「よいナショナリズム」と「悪いナショナリズム」の区別論

「弱小民族(被抑圧民族)」のナショナリズムは進歩的だが「大民族(抑圧民族)」のナショナリズムは反動的だという見方。レーニン以来の伝統。

「被抑圧民族」と「抑圧民族」をいつもうまく区別できるか。ある時期まで「弱小民族(被抑圧民族)」と見なされていた民族が、自ら意識しないうちに、いつのまにか「大民族(抑圧民族)」に転化するという例は歴史上に数多い。

「少数派の中の更なる少数派」という厄介な問題。

 

3 《シヴィック・ナショナリズムvsエスニック・ナショナリズム》という図式

通説によれば、エスニック・ナショナリズムが優位な「東」の諸国では異分子に対する排他的な政策や強引な同化政策がとられるのに対し、シヴィック・ナショナリズムの優勢な「西」の諸国においては、ネイションへの帰属を承認するすべての人がエスニシティに関わりなく同等の権利を認められる。つまり、前者は非合理主義・権威主義・排外主義などと結びつきやすく、後者は合理主義・自由主義・民主主義などと結びつきやすい、とされる。

この区分論へのいくつかの疑問。

「東」と「西」を分けることができるか。

シヴィック・ナショナリズムは本当にエスニックな共通性を排除しているか。

 

4 リベラル・ナショナリズム論

ナショナリズムに批判的な論者は「ナショナリズムはリベラリズムに反するからいけない」と論じるのに対し、「いや、そうではない。ナショナリズムはリベラリズムと両立するのだ」という観点からのナショナリズム擁護論。近年の思想界における一つの流行。

リベラリズム・コミュニタリアニズム論争とも関連。

Y・タミール『リベラルなナショナリズムとは』夏目書房、2006

D・ミラー『ナショナリティについて』風行社、2007

W・キムリッカ『土着語の政治』法政大学出版局、2012

マイケル・ウォルツァー『寛容について』みすず書房、2003

M・ヴィローリ『パトリオティズムとナショナリズム』日本経済評論社、2007など。

 

Ⅳ グローバル化時代におけるナショナリズム――抵抗の拠点か反動か?

 

1 グローバリズム化時代のナショナリズム

グローバリズムへの反撥としてのナショナリズム。TPP交渉問題もその一例。

かつて「ブルジョア・ナショナリズム」vs「プロレタリア・インターナショナリズム」という対抗図式が重視された時期があった。しかし、昨今では、「ブルジョア・インターナショナリズム(もしくはグローバリズム)」vs「プロレタリア・ナショナリズム」ともいうべき構図があるように見える。

 

2 福祉・国民国家・公共性

福祉国家の維持のためには、社会的連帯感――それも、国民国家単位での連帯感――を不可欠の前提となるのではないかという論点。

「公共性」を維持するために、何らかの意味での愛国主義あるいはナショナリズムが必要ではないかという議論。

疑問点として、福祉というものを国民国家の枠内でだけ考えることが可能か。また、国際的な税の引き下げ競争をどう考えるか。

残る問い。「リベラルなナショナリズム」はどこで「排他的なナショナリズム」と袂を分かつのか。

 

Ⅴ 民族紛争――穏和なものと激烈で悲惨なものの間

 

1 紛争のエスカレートと収束

民族紛争には、比較的ささやかで無邪気なレヴェルのものから、極度に強烈で大規模な暴力を伴うものまである。すべての民族紛争を後者のイメージで捉えるのは不正確だが、前者がいつの間にか後者に転化してしまうこともある。

比較的低いレヴェルにとどまっていた個別的な対立・紛争などが、激しいレヴェルにまで高まるというエスカレーションはどういうメカニズムによるのか。

「民衆はもともと平和的に共存しているのだが、邪悪な政治家が紛争をかきたてるのだ」と言い切ってよいか。

 

2 ウクライナ危機の例

このホットな問題それ自体に立ち入るつもりはない*[1]。ただ、ウクライナ内部の東西分岐にせよ、ロシアとウクライナの関係にせよ、以前から様々な対抗の契機があったとはいえ、それは必ずしも爆発性のものではなく、2014年2月以降の事態は、それまでの流れからの一種の飛躍をなしている。

①ロシアとウクライナの歴史的近接性。言語の近さ、宗教はほぼ同じ(微妙な問題があるが)。地続きであり、相互往来も盛んで、通婚も非常に多い。

「ソ連が解体した時にバルト三国だけでなくウクライナやベラルーシも独立したのは、ちょうど大英帝国の末期に海外植民地だけでなくスコットランドやウェールズも独立したようなものだ」という説明(ドミニク・リーヴェン)。ウクライナはスコットランドにあたり、ベラルーシはウェールズにあたる。

 ②ウクライナの中の東西分岐の重要性は大勢の人が指摘するとおりだが、両極的対立ではなく、なだらかなグラデーション。従って、一時的な例外は別として、ウクライナ政治はあまり極端にはならないのが普通。

 ③2014年危機の謎*[2]。一挙の暴力化はこれまでの平和的紛争からの大きな飛躍。

最近の変化の背後にある要因についての若干の推測。

東アジア情勢にとっての教訓。

 

【参考文献】

塩川伸明『民族とネイション――ナショナリズムという難問』(岩波新書、2008年)

同 『民族浄化・人道的介入・新しい冷戦――冷戦後の国際政治』有志舎、2011

同 『ナショナリズムの受け止め方――言語・エスニシティ・ネイション』(三元社より3月初頭刊行予定)

 


*[1]私はここ数年、現状分析から手を引いて、歴史研究に専念しているため、具体的な現状について特に詳しい情報をもっているわけではない。それでも、やむを得ず何カ所かで発言する機会があったが、そこでは、現状それ自体よりも、その前提としてどういう点を押さえておかねばならないかに力点をおいた。塩川伸明・渋谷謙次郎「ウクライナ問題、ここを理解しないと絶対に見えてこないこと」『週刊読書人』2014年6月6日号、塩川伸明・沼野充義「ウクライナ危機の深層を読む」『現代思想』2014年7月号、〔講演記録〕「ウクライナ情勢から見た『地域と国家』」『地域・アソシエーション』第124号(2014年12月)。

*[2]手堅い研究はまだ乏しいが、いくつかないわけではない。服部倫卓、松里公孝、小森田秋夫、佐原鉄哉など。イリーナ・パプコフのエッセイ(『スラブ・ユーラシア研究センターニュース』140号(2015年2月)も興味深い。塩原俊彦『ウクライナ・ゲート――「ネオコン」の情報操作と野望』社会評論社(2014)は、若干の疑問はあるものの、とにかくユニークな問題提起。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study633:150224]

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