2013ドイツ旅日誌(その5)

1.バンベルク、イエナ、エアフルトを駆け足で旅行

そろそろ我々のドイツ滞在も終盤に近付いてきた。毎年訪れているBamberg、Jena、Erfurtを駆け足で回ってきた。Bambergは、趣のある石橋を渡って入る旧市街地(Altestadt)も確かにすばらしいし、行きつけのBrauerei兼居酒屋なども中世の歴史を感じさせてくれる(何しろ1300年頃に建てられたホールで、伝統的なRauchbierを飲めるのだから)が、僕はどちらかというとこの小さな町を囲んで流れる運河の雰囲気が好きだ。こんもりした木立に囲まれて滔々と流れる運河の水流は、その畔に佇むだけで気持ちが洗われ、流れを見ていると大変落ち着くのである。つくづく人間にとって、静寂ということの必要性を感じさせられる。静寂なくしては思考も育まれないのではないだろうか。東京の喧騒を思うと悲しくなる。

バンベルクの清流 Jenaには、定宿といっても良いホテルを決めているし、行きつけのレストラン(居酒屋)も決まっている。その居酒屋(Roter Hirsch)で「Köstritzer Schwarzbier」という黒ビールを飲んだ。実はこれまでも何度か飲んではいたし、去年はこのビールの醸造所を訪ねてJenaとGeraの中間にある場所に行こうとしたこともあった。結局はGeraに下車して、街を散策しただけに終わったのであるが(というのは、そこからバスでしか行けなかったし、仮にバスで行ったとしても、宿がなければその先どうすればよいのか分からなかったからだ)。 ところが今年は、このビールを特別な思いで飲むことになった。グローナー理恵さんから、このビールは、かつて文豪ゲーテが愛飲していたビールだということを教えられたからである。なるほど、このビールはドイツでも有数に歴史のあるビールで、更に今日に至るまで、原料、製造法から味まで全く変えていないと聞いたことがあった。確かに、甘からず、にがからず、非常に調和の取れた味である。多分、Jena時代のヘーゲル先生もこれを飲んだであろう、と勝手に想像しながら今回も思い切り堪能した。

Erfurtはいつものことながら、途中下車の形で、中央駅から電車道を徒歩で中心部へと向かう。電車の線路が途中で分かれるところで、左の方へ曲がり、ビスマルクの全身像が建物の廂のところに建てられている場所を通り、すぐの小さな公園のベンチに腰掛ける。これもここ毎年の恒例である。目の前に、華麗な「プロイセンハウス」(Kanzlei役所)を見ながら、しばらく休んでから、そのすぐ近くの「Kafeeland」というここ数年行きつけの喫茶店に入る。小さな喫茶店ながら、本格的な美味しいコーヒーを淹れてくれる。そこを出て、路地に入り、多分運河であろうと思われる小川にかかった橋を渡り(ここの情景が僕は大好きなのだが)、少し行くとErfurtのDomに出る。広場を挟んで聳えるこのドームの偉容さには毎回圧倒される。そこから立派な家が立ち並び、市庁舎のあるFischmarktに出て、近くのKraemerbrueckeという手仕事職人たちの小さな家が、小さな橋の両側にぎっしり建て込んで、およそ橋を渡っているとは思えない場所を通り過ぎ、裏通りを選んで歩きながら、再び中央駅に戻った。Erfurtは大きな町である。また実に多くの素晴らしい建物、素晴らしい通りに出会える。

2.Muehlhausenを初めて訪れる

本来の予定では、僕らの国内旅行はこれで打ち切りということだった。Erfurtから各駅停車に乗って、途中駅で適当に遊びながらGoettingenまで帰ろうかと話しながら、のんびりしていた。ところが、途中通り過ぎた駅の名前が突然僕の目に焼き付いてきた。「ミュールハウゼンMuehlhausen」。何だって、Thomas Muentzerが最後の闘いをして捉えられた町がこんなところにあったのか!ゲッティンゲンからわずか1時間の近さなのに、なぜ今まで気がつかなかったのだろうか…。自分の不明に腹が立った、と同時にすぐにでも引き返してみたいと思った。

少しもたつきながらも引き返し、およそ3時間をかけてこの町を見物することにした。まず、駅前の通りの名前がふるっていた。まっすぐ町の中心に向かう道路は「カール・マルクス通り」その右手に「フリードリヒ・エンゲルス通り」、左手は「アウグスト・ベーベル通り」となっていた。それ以外にも、「カール・リープクネヒト通り」や「ハウプトマン通り」などの名前を見かけたし、当然ながら「トーマス・ミュンツァー通り」もある。

1525年、ここで捕えられ、女房もろとも斬首されたミュンツァー、その後の宗教改革の歴史、新、旧キリスト教の対立の歴史、などを考えるとき、おそらく彼にまつわるものは全て破壊・焼却され、残されてはいないだろう、というのが僕の予想だった。

「マルクス通り」を市街地の方へと歩いている途中で、最初に出会った教会横の学校の名前が「トーマス・ミュンツァー学校」という。多分、旧東ドイツ時代に、エンゲルスが褒め称えた(彼の著の『ドイツ農民戦争』の中で)ことでミュンツァーの名誉回復が図られた結果なのであろうか…。

旧市街地には、見事なほどよく残された中世の市街地を囲む城壁(Mauer)沿いに、新たに作られた車用の大通りを突き切る形で渡り、それほど大きくはない商店街を歩いて行くのだが、途中の右手にKilianikircheという中程度の大きさの教会がある。その前をあわや行き過ぎるところで、一体の胸像が建てられているのに気がついた。誰だろうと思って近づいて見て驚いた。Pfeifferその人の胸像である。彼は、農民軍の副司令官として、Muentzerと共に最後まで勇敢に闘い、数々の軍功を立て、王侯軍を撃破すること数度に及ぶも、武運尽きてここに捕えられ、苛烈な拷問の末、八つ裂きの刑に処せられたといわれる。頬はこけ、後ろ手に縛られてはいるが、眼光あくまで鋭く、まっすぐ前を見据えている。この 偉大な農民革命家に畏敬の念を感じながら、写真を撮った。

プファイファー

そこから数百メートル前方にかなり豪壮な教会の尖塔が見える。僕の見立てでは、やはりミュンツァーたちの武装蜂起の鎮圧の後、王侯領主たちや、僧侶たちは、彼らの足跡を完全に消すために、教会建設に力を入れたのではないか、というのであったが、ともかくも行ってみた。

Marienkircheという、かなり大きな(この町ではもちろん一番立派な)教会であった。写真だけ撮って他に回ろうかと思いながら、正面入り口付近を見て回る。何と、そこにミュンツァーの名前が、それも祈念碑として刻まれていたのである。この教会は、いわば「ミュンツァー教会」といっても良い教会であった。早速中を見学させてもらうことにした。 ウィンドウに入れられた陳列物と、いくつかの彫刻が主なものだったが、彫刻(多分近年に作られたものであろうが)には、首を切られたミュンツァーや、殺されて横たわる彼の妻の像、また、首切り台の上に縛られたままで横向きに据えられたミュンツァーの像などがあった。陳列物の中には、ミュンツァーの地味な黒い帽子とルターの派手な帽子が並べられていたり、ミュンツァーが実際に戦場で使ったといわれる刀などが飾られていた。

トーマス・ミュンツァー

受付の女性に、ミュンツァーの記念碑の所在と、お墓の所在を尋ねた。彼女の話では、お墓は全くない。彼の遺骸は焼かれて、墓を立てることは厳禁されたとのこと。Denkmal(記念碑)は、ここからすぐの城壁の出入り口の外に建てられているとのことだった。お礼を言って、そちらに向かった。Denkmalは、民衆に向かって説教をしているような立ち姿だった。新しく作られた石像であろう。

その後、市庁舎の方へ廻り、近くの「ドイツ農民戦争博物館deutsche Bauernkrieg Museum」の外観を眺めながら、その日は帰途に就いた。

3.ミュールハウゼン再訪

8月18日(日)に、ミュールハウゼンを再訪することにした。どうしても気になるからである。この日は、エンゲルス通りから城壁沿いに歩く。天気の具合がなんだか不安である。なるべく一度訪れたところは省略しながら、大通りを渡り旧市街地へ入る。市街地へ入ってからまっすぐ市庁舎の方へ向かう。目指すは、その近くのDivi Biasii Kircheと、前回は入れなかった「ドイツ農民戦争博物館」である。

この教会(Divi Biasii Kirche)は、外観の色が妙に白っぽくて、遠目にも少し気になる教会である。行ってみたら、入口の近くに若い男の銅像が建っていた。なんだか今様の歌い手みたいだな、と思いながら近づいて、刻印された名前を読む。「J.S.Bach」と彫られていた。この町には色々驚かされることが多い。なんでこんなところにバッハの像があるんだろうか?バッハといえば、ライプニッツのトーマス教会の専属オルガン奏者で、作曲家だったのではないのか。生まれ故郷は、同じThueringen州のアイゼナハ(ここにはバッハ・ハウスが記念館として在る)だが、それにしてもこの教会とはどういう因縁があるというのだろうか?

早速中を覗いて見ることにした。入口にバッハの演奏歴などを記したものが掲げられていた。それによると、彼は1707~8年にかけてここの教会で専属演奏家を務めているのである。ライプニッツからここに来ていたのだ。さすがにそういう因縁からであろう、この教会では、毎年かなりの頻度でバッハの演奏会を行っているようである。僕のような「音痴」でも、バッハの音楽だけは違和感なく聞ける。一度演奏会に来てみたいものだ。

外は雨が降っていた。もう一つの目標だった「deutsche Bauernkrieg Museum」に行くことにする。この会場は、昔は修道院(Kloster)だったところを改装したものだ。外観はそれでもかなり見栄えがする。入場料は3ユーロ。かなり広いホールにぐるっと陳列物が並んでいる。もちろん、当時の農民の生活、使われていた道具、更には「農民戦争」に関する資料などが主だった陳列物である。僕の興味を引いたのは、ルターとミュンツァーの教義に対する解釈の相違を示した資料であった。ルターは、聖書そのものが真理を示すものであり、教会に代わって、聖書をあがめるべきと説く。ミュンツァーは云う。聖書に書かれた文字は、いわば死んだ言葉である。これらの言葉に精神を吹き込むことで、それは生きたものとなる、と。

ホールの一番奥の方に、ウィンドウケースに入った最後の合戦の模様を描いたミニチュアがあった。小高い丘の上の砦、周囲を藁を運ぶリアカーや、家の戸板などをバリケードにして立てこもる農民たち、その周囲を大砲や銃や弓や槍、などの武器を持ち、鎧兜で完全武装した王侯領主軍、その数は農民軍の数倍、いや数十倍か、…。

果敢に出撃して、これら兵士軍と一戦交える勇敢な農民兵、一部のバリケードは既に大砲によって無残に破壊されてしまっている。テープレコーダーで、大砲の破裂音や両軍の喊声や農民を叱咤激励する声(多分ミュンツァーを模したもの)が流れる。 農民の無念や、ミュンツァー、プファイファーの怨念が伝わってくる思いだ。

deutsche Bauernkrieg Museum

4.今回のドイツ滞在の印象

ドイツは今秋(9月)、総選挙を控えている。僕らが住むRosdorfでも、ある朝突然、街道の周辺の街灯のポールにPiraten(海賊党)のステッカーが貼られているのを見て驚いた。その後、各政党のステッカーが次々に貼られ始め、今では多分全党派が出そろっているのではないだろうか。但し、ステッカーの貼り方は、日本ほど汚らしく、目ざわりで、邪魔くさくはない。これは選挙期間中の街頭宣伝でも同じだ。日本ではボリュームいっぱいに上げたスピーカーで、ひたすら騒音をまき散らすのが選挙活動だと誤解している。ひたすら自分の名前を連呼することにどれだけの意味があるのだろうか。

今回のドイツ総選挙では、巷の噂、また新聞報道によれば、どうもメルケルの政権与党が圧勝しそうである。なぜそうなのかの分析にはいろんな説がありそうだが、注意すべきはメルケルの本音と、電力会社の意向が、「原発再稼働」にあるらしいということである。しかし、それでもドイツでは「原発再稼働は難しいだろう」と、言われる。何故なら、風力発電やソーラーシステム発電などが、この数年で大幅に伸びているからで、電力会社が強引なやり方をとれば、たちまち更なる反発と、こういう小電力への依存傾向に拍車がかかるからだといわれる。そして、ドイツの電力会社が輸出する電力は、大部分褐炭によってつくりだされている電気だと聞く。日本と違って、「原発廃止」による大幅電気料金アップ問題も、ここではそう容易いことではない。電力会社と異なる、これら小発電による電力供給が地道に力をつけてきているからだ。

失業問題は深刻である。特にポーランドなどと国境を接する旧東ドイツ地域では、「貧しいドイツ、豊かなポーランド」といわれるように、再開発の遅れ、若年労働力の流出、それにともなっての老人家庭の急増と福祉問題、職業専門学校卒業者の就労待機期間の無制限の延長など、様々な問題が噴出している。一方で、公務員年金保障が厚遇されていることへの不満も聞かれる。確かに、この地域にもある「消防署員・年金生活者施設」などの立派さは、なるほどすごいと思う。

ただ、メルケルの与党への追い風となっているのは、Volkswagen社などの自動車業界の好調な輸出、EU加盟他国の凋落に比べて、まだはるかにドイツ産業は強さを保持しているように思える点、などに拠っているのではないだろうか。 序でに紹介させていただくと、CDUの選挙宣伝文句は、「よい仕事、新しいアイデア、強いドイツの維持」というものだった。

しかし、国内での矛盾は日本と同じく確実に増加している。だからこそ、企業内部でもこのところますます管理が強化されているようである。企業内管理体制の強化から、社会全体の管理体制化が進んだ時、危機は一気に社会全般へと広がってくるのではないだろうか。

今、世界は緊迫を孕んでいる、中東の出来事は、われわれにとって人ごとではない。

2013.8.20記

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/

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