5/28 テント村談話室 高良留美子さん「二十歳の思考―女と男について考えたこと」

第3回テント村談話室 ―脱原発から新しい生活文化の構築へ─

話題提供者・高良留美子さん 「二十歳の思考―女と男について考えたこと」

●日時・5月28日(月) 午後3時から5時まで

●場所・経済産業省前・反原発テント広場

●資料代・500円

①「互いに孤独な人間同士の愛情、相手の中に死んでしまったり、相手とぴったり一緒になってしまうことのない、そうすることができないほど、そうすることがよくないことだと知っているほど、殺しても殺すことができない個の強さをしっかり持っている人間同士の愛情とはどういうものか。/愛そのもの、受動性そのものになり切ることのできない女の愛情とはどういうものか。ものと精神とのあいだを無限にさまようものなのか」。(高良、1953年)

②「人間対人間の直接的・自然的・必然的関係は、男性対女性の関係である。(略)この関係の性格から、どの程度まで人間が類的存在として、人間として自己になり、自己を把握しているか、という結論が生じてくる。男性対女性の関係は人間対人間のもっとも自然的な関係である。(略)この関係ではまた、どの程度まで人間の欲望が人間的欲望になっているか、したがってどの程度まで人間にとって人間としての他の人間が欲望になっており、どの程度までそのもっとも個人的な定在における人間が同時に共同存在になっているかも示されている」。(マルクス『経済学・哲学手稿』より)

③「かくて働く婦人の自然とその活動は、二重の意味で抑圧されている。彼女の性的自然は生産と切りはなされた結婚生活の中でのみ肯定され、人間的な仕事である生産の中では否定される。結婚生活は女の自然を肯定するが、その人間的活動(生産への参加)を否定する。かくして人間的なものと自然的なものとははっきり分裂する。人間的なものが自然的でなく、自然的なものは人間的でない。生産の外に結婚があり、生産と結婚とは両立しない。

男性にとってはどうだろうか。ボーヴォワールは「男性であることの幸福な特権、人間であることと男であることとがぴったり一致して矛盾していない」といっているが、それはブルジョワ階級とプチ・ブルジョワ階級の男性のみを指すのであり、労働者階級の男性は含まれない。この階級の男性は、たしかに働きながら飲み、食い、結婚して子供をつくることができる。だが彼の労働は、こうした労働以外の活動のための単なる手段になってしまう。かくして飲み、食い、産むことが彼の人間的活動(であるべき)生産活動から切りはなされて、そういうことだけが楽しみであり、そのときだけ自由を感じるような生活があらわれる」。(高良、1953年)