60年6.15闘争に思う

6.15は、私にとって人生で忘れられない日です。特に丸屋博先生の6.15の文章は、当日明治、東大、中央の隊列に続いて南通用門を突破した身としては、感慨がひとしおです。丸屋博先生の言われるように、門を突破した後は広い空間で機動隊の警棒と放水の雨との闘いでしたが、将棋倒しになったことはなく、機動隊の囲いの中に囚われたことが記憶に残っています。私も権力による扼殺だと思います。あれから50年、社会を少しも変革できずに、年老いた自分が情けないです。

私は、高校のとき結核で休学し、その後浪人して60年は大学2年でした。上智は政治活動が禁止されており、学生運動をしても就職すればと甘い考えの持ち主でした。6.15が、私の甘い考えを吹き飛ばし、用意された就職も断り、何とか今日までの生き方を支えています。三里塚の団結小屋の第1号は、私たちの建てたものでしたが、千葉県社会党(社青同協会派)に乗っ取られ、その後社青同KFの団結小屋となりました。小屋には、松岡打倒の落書きがあったそうです。その後、駒井野に労働者団結小屋を作り、戸村さんには亡くなられるまで可愛がっていただきました。その後、日本カーバイトの戦闘的二組結成、クロム公害運動と、党派に属さず、ひとりのist として生きてきたつもりです。6.15で東大のすぐ後の隊列にいた者として、腹と頭を襲う警棒の攻撃で、樺さんの圧死は権力による捏造だと思います。今は、人生最後の活動として、労働運動の危機的状況に少しでもかかわりたいと思って発言しています。恥ずかしながらそれが私の経歴です。