9/24現代史研レジュメ:アダム・スミス『哲学論文集』と 中項 問題 -田中正司著『アダム・スミスの経験論-イギリス実践的範例ー』を読む

アダム・スミス『哲学論文集』と中項問題

田中正司著『アダム・スミスの経験論-イギリス経験論の実践的範例-』を読む

現代史研究会2016年9月24日(土)

明治大学リバティタワー1076号

内田 弘 (専修大学名誉教授)

[1古典研究と現代

田中正司先生のこの力作そのものについて報告するまえに、若干「アダム・スミスの現代性」ということをエピソード風に申しあげたい。

スミスといえば、「分業」である。最近、『朝日新聞』の夕刊に「セブン・イレブン」の創業者である鈴木敏文の回顧談が連載された(2016年9月5日から)。「コンビニエンス・ストア」の概念を現実に創ったのが鈴木敏文である。最初の一店は東京のある酒屋の一角を借りて始めた。電算機が実用化されていないころである。特に商品の「適時適量の仕入」に苦心した。いまでは、「店頭の売れ行き情報」が「物流センター」を経由して「生産点(工場)」へ、川下から川上へ流れる。その情報に即して、生産点から物流センターを経由してから店頭に商品が「適時適量」配給される。経済的最適解の可能態はこのような姿で実在している。もし100種類の商品が各店舗に配給されるとすると、各店舗は100種類の商品をそれぞれ、店内の最適の場所に配列する。各店舗は「100種類の商品を元とする群」である。これがスミスの時代とは格段の相違を示す社会的分業の現代の姿の一例である。上からの指令が一方的に垂直に下る権威主義的な「計画経済」は「販売(ポイント・)時点(オヴ・セイルズ)管理システム(POS System)」に対抗できない。

NHKのBS③に「新風土記」という番組がある。最近、「秋葉原」がテーマであった。故障した1960年代アメリカの製品が「電気(デンキ)街」に持ち込まれ、修理を依頼された。各店頭の主人がリレー式にその修理に必要な多様な部品を秋葉原の電機部品店に連絡し、部品を集めて見事に修理した。各店(社会内分業)を超えて多様な部品を直接手配するのは「経営内分業」である。修理に必要な各部品は商品をして販売されるから「社会内分業」である。つまり、《経営内分業=社会内分業》がその修理を遂行した分業の連関である。

法隆寺の棟梁・西岡常一は『木に学ぶ』(小学館ライブラリ)で、「木組み・人組み」という。木材はそれが切り倒される前に立っていた方角に向けて用いなければならない。木材の「北西向きに立っていた部分」は建物の「北西の位置」に用いる。弟子たちは個性に合わせて仕事を配分する。適(人)材適所である。

以上は、現代の事例にもスミスが透視できる、古典と現代の数例である。《今》は、単なる今ではない。過去から現在に蓄積してくる経験は《今》を構成している。現在を過去から現在に至る経過(歴史=現在完了形)で理解する。「シーザーはガリアにいたことがある(Cäsar ist in Gallien gewesen.)」とは、ヘーゲルが『エンチュクロペディー』で本質を規定する例である。《いま・いま・いま》では《いま》は分からない。

田中正司さんは、本書『アダム・スミスの経験論』の冒頭で、「欧米ではアリストテレス研究やカント研究などはほとんど毎年数多く出版されているのに、スミス研究はあまり登場しない。とりわけ、日本では研究者自体が減っているのは残念という他ない」(3頁)と嘆く。「スミスのすべての著作を経験論のフィルターにかけて読むのが支配的な潮流になっているのも、そのためであるといえる」(4頁)と考える。この種の経験論のフィルターも《【いま】の経験主義》にたつものであろう。水田洋さんも『アダム・スミス』(講談社学術文庫)で、何かがあるたびに、スミスが引き合いにだされ、すぐに忘却されてしまうと慨嘆している。持続する古典研究とは別の効用性からスミスにお呼びがかかるのである。

本書は、前書『アダム・スミスの認識論管見』(社会評論社、2013年)をふまえ、それをさらに展開すべく執筆されたものである。すなわち、本書の狙いを、田中先生の言葉で紹介すれば、こうである。

「本書は『哲学論文集』で展開されたスミスの認識論と論理的に照応しながらも、アリストテレスの学説とは異なる、すぐれて主体的・実践的な自然の全体像の経験認識の論理である次第を、アリストテレスとヒュームやカントとの対比において明らかにすることを意図した一つの試論である」(6頁)。

[2] スミス哲学論文集』とアリストテレス・カント

本書の問題枠は、スミスの認識論的概念装置を問う「スミスとアリストテレス・カント」である。ここに、本書の従来のスミス研究とは格段のちがいがある。この独自性の紹介とそれへのコメントが、この報告の主題である。

[十五年戦争下のスミス研究] 従来の問題枠は『道徳感情論』・『法学講義』・『国富論』を統一的に体系的に理解しようとするものであった。その先駆けは、十五年戦争(1931~1945年)のさなかの高島善哉のスミス研究『経済社会学の根本問題』(1941年)であろう。ほぼ同時に大河内一男の『スミスとリスト』(1943年)もでた。戦中のマルクス研究弾圧から「先進国のスミスと後進国のリスト」というかたちで、両者の対比で、マルクス研究を続ける。この戦線後退で結果的に、古典研究の重要性を学んだというのが、約70年前の日本のスミス研究であった。

[スミス像を旋回する哲学論文集』] 田中先生の最近のこの研究の独自性は、これまでのスミス研究史では単なるエピソードとして脇におかれてきた『哲学論文集』(名古屋大学出版会、1993年)がスミスの学知への意味と重要性を発掘していることにある。すなわち、スミスの『哲学論文集』における「天文学史・古代論理学・古代形而上学」の研究に、絡みあう事象や一見するところ説明不可能な事象を、アリストテレスの「中項(メソン)(meson)」(後に詳述)を仲立ちにさせることによって、解明するというスミス独自の方法に着目していることにある。

スミスは、死去を前に後継者に『法学』に関する大量の草稿などのほとんどすべての原稿を焼却させながらも、『哲学論文集』所収の原稿を焼却処分の対象から除外し、その処置を遺言執行人に委ねた。その『哲学論文集』を除外しては、スミスの《意図的な保存》の理由、そこに秘められたスミスの問題意識は全く見えないことになってしまう、と田中先生は指摘する(10頁)。スミスが『哲学論文集』に込めた意味をスミスの学問体系を支える認識論として解読する、これが田中先生の近年の問題意識である。『哲学論文集』に込められたスミスの方法論・認識論を『道徳感情論』・『国富論』などに射影することによってスミス像は大きく旋回するのではなかろか。こう考え、『哲学論文集』をアリストテレスなどの古典を媒介にして解読する。これが本書での田中先生の作業である。

[スミスとニュートン] 田中先生によれば、古代ギリシャ以来の天文学史は、天体観測データを説明する原理を構築するにいたらなかった。これにたいしてアイザック・ニュートン(1642-1727)の『自然哲学の数学的原理』(1687年)の万有引力理論という「中間(third object)」を媒介にすることで初めて、自然界の物理現象を統一的に説明できるようになった。個別的現象を正確に観察しながらも、その感覚的経験を超える見えない全体的なもの・「天界・下界を貫く宇宙の原理」とは何であろうか。自然哲学=形而上学(タ・メタ・タ・フィジカ)[自然学の後の(自然学を超える)学問]を探求し、それでもって感覚経験の事象を一貫して説明すること、これがスミスの認識論の課題であった(以上、10頁前後)。このスミスの問題意識はほとんど『純粋理性批判』(1781年初版、1787年第二版)を執筆するカントのヒュームの懐疑主義を超える問題(本書第3章)と大筋で同じであることに刮目しなければならない。このスミス問題を田中先生は「古典(ギリシャ・ラテンの古典の論理)・対・ヒューム問題(『人間本性論』の反普遍主義)」と名づける(11頁)。

[3] アリストテレスの中項論

[『デ・アニマ分析論後書』] 第2章の中項論は本書の主題であるのでて、コメントは中項を中心にする。田中先生は『哲学論文集』所収論文「外部感覚について」と酷似するアリストテレスの『デ・アニマ(心について[霊魂論])』の感覚論に注目する(マルクスが『デ・アニマ』ノートで論評した真偽論は、最後のヌース論が中心である)。感覚的経験からそれを超越する自然哲学を把握する方法を解明するためである。アリストテレスはそこで、触覚・味覚・嗅覚・聴覚・視覚の五感を比較し、「触覚と味覚は対象に直接に接する感覚であるが、それ以外の感覚は中間媒体を通して感覚される」という。例えば視覚は、光という「中間媒体」を介して物を見る。こうして感覚にも「中間媒体」が介することを確認する。

田中先生はさらにアリストテレス『分析論後書』の中項規定にも注目する。そこでアリストテレスは「個別的感覚経験」が基礎になって「全体的なもの」に到達しうると考えるかぎりで経験論に立ちつつも、この《個別的経験(主語)→普遍的全体(述語)》の順序を逆転して、述語分析のうちに主語の主題を見るという「普遍の原理」を把握することを確認する(16-17頁)。つまり、アリストテレスは、ヒュームのような経験論的な帰納法の限界を超える、普遍認識の活路を探求しているのである。しかし、普遍的なものは個別的経験の分析を離れて存在するものではないとする点(17頁)でカントとも異なる(第3章)。

田中先生は、個別と普遍を結合するものはアリストテレスの「中項(メソン)(meson)」であり、個別が普遍を編成する結果では「中項の系列」となるとみる(19頁)。

主語(=大項・全体的なもの・普遍)と述語(小項・感覚的に知覚された個別事象)の間に、個別の観察結果(データ)を体系的に連結する「中項」を挿入することが可能であれば、主語=大項を認識することになるとアリストテレスは考えた、と田中先生はみる。アリストテレスは、個別的な観察データに中項が潜在し、したがって普遍的なものも潜在すると考えている、というのである。

[自然哲学としての『純粋理性批判』] カントはコペルニクス・ケプラーからニュートンまでの天文学史に対応する新しい形而上学=自然哲学を建設する課題に取り組んだ。天体運動の(ティコ・ブラーエの)豊富な観測データだけでは、それらを一貫して説明できない。アポロニオスやヒッパルコスの「導円-周転円モデル」のように、円の上に小さな円を付加しても、かえって説明を複雑にしてしまい、分かりにくくなる(金子努『宇宙像の変遷』左右社、2013年を参照)。

個別的な感覚経験の累積自体は、それらを一貫して配列する統一理論を開示しない。カントの課題は、この限界を如何に打破するかにあった。では、その統一理論とは何か。何がそれを可能にするのか。感性的経験データを一貫して配列する基準は、人間の思惟能力の批判的分析から、カテゴリーの群として開示される。それを提示した作品が『純粋理性批判』である。カントのその問題意識は「第2版前書」に記されている。時間・空間で知覚する感性的経験と、それを論理一貫して配列する超越論的な基準とは根拠が異なるとカントは考える。

ところが田中先生は、個別的経験と普遍理論には共通する何かが存在すると考える。スミスも天文学史でこの問題を論じ、「簡単な説明原理の発見」にあったとみていたと思われる(この「シンプルな説明原理」は、「シンプルな文体」という「新しいレトリック」を探求する『修辞学・文学講義』のスミスに対応する。Truth is simple.)。

[4] 報告者のコメント

[中項の存在性格としての二面性] では「主語=普遍」と「述語=個別」の間にある「中項」とは如何なるものであろうか、如何に存在するのであろうか。

個別が存在するということは、その本源的なものが分割可能であるからである(アリストテレス『自然学』234b10-20。池田康男『アリストテレスの第一哲学』創文社、2000年、181頁以下を参照)。分割されたものAは分割されたものBへ転化可能である。その転化過程で個別は「より先(プロテロン)(A)」と「より(ヒステ)後(ロン)(B)」の両方に存在しうる(「より先(プロテロン)、より(ヒステ)後(ロン)」『形而上学』第V巻第11章,1010a1)。これが個別に「二重性」が存在する根拠である。AからBへ転化することが可能なこと(転化可能性)が「中項」である。中項とは、AからBへと転化する個別とは別に存在する中間物のことではなくて、AからBへ転化可能な個別自体の存在性格のことであろう

《普遍と個別の関係》も、このような存在性格をもつ《中項》で理解できる。アリストテレスは《論理にとって普遍がより先(プロテロン)であり、個別がより(ヒステ)後(ロン)である》けれども、《我々人間にとっては経験的な個別がより先(プロテロン)であり、普遍がより(ヒステ)後(ロン)である》と考える(『形而上学』第5巻第11章1018b10-20 「認識においてより先であることがらでは、・・・論証法(ロゴス)にとって先であることと、感覚(アイステーシス)にとって先であることとは別である」。)。事物の認識過程が人間にとって了解可能なものであるためには、《我々にとって先である個別から》、始まらなければならない。これは田中先生が確認しているように、アリストテレス=スミスに共通する考えである。この二つの《先》を媒介するのが「中項」である。《我々人間の感覚にとっては普遍よりも個別が先》を《個別→普遍》と書き、《論理にとっては個別よりも普遍が先》を《普遍→個別》と書けば、この二つの《先》は、つぎのように媒介される。

【個別(普遍)=中項=普遍(個別)】。

これが記述=認識の順序である。「具体的個別」に普遍が内在し[個別(普遍)]、具体的個別は「転化可能性=二重性」によってつぎつぎと姿態変換し、それらに内在する普遍は具体的個別を止揚し「普遍的個別」に到達する[普遍(個別)]。

最初の個別は普遍が自己を媒介する最も単純な具体的な形態である。それは「最初の中項」であり、つぎの個別へと自己を連結=媒介する属性をもつ。個別は転化過程ではAかつBに存在しうる。転化した終点Bはつぎの転化の終点Cへの始点でもある。転化する個別は「始点=終点」かつ「終点=始点」である。

始点1=【終点1》=始点2】・・・

最初の個別の[始点1]はつぎの個別に連結する[終点1]でもある。[終点1]は注次の個別の[始点2]でもある。中項とは、個別とは別に存在する物ではなく、個別の独自の二重の属性である。この二重性がスミスのいう、人間感覚になじみみやすい「ニュートンの結合原理」(『哲学論文集』93頁)であろう。ちなみに、

0.999999999・・・=1

の 0.999999999・・・は「1に等しくかつ1に等しくないという二重性」をもつ。その1も、0.999999999・・・と1.000000000・・・1との間の存在である。1も二重性をもつ存在である(ゼノンのパラドックスはこの二重性の「まだ1に到達してはいない、微差がある」という否定的側面のみを観る視点にたつ)。

個別が、二重の存在性格を中項にして、つぎの個別に内包される重層的な過程の究極が普遍(普遍的個別)である。普遍は内部にすべての個別を規則的に配列する不変の構造《普遍(個別)》である。普遍は「要素変換に関して不変な構造」(コペルニクス『天体の回転について』、カント『純粋理性批判』、ヘーゲル論理学、マルクス『資本論』)に近似的である。普遍そのものに到達する過程が、アリストテレスのいう認識過程である(最適解を実現したPOS Systemがあるとすれば、それは「要素(商品)の変換(配列)に関して不変な構造」であろう。現実にはその究極を目指す試行錯誤の連続である。しかも、究極モデルも日々刻々変化している)。

[形相・質料・個別・完全実現態] アリストテレスの経験論的な「小項-中項-大項」の考えは、アリストテレスの「二重の実体概念」と関連する。アリストテレスによれば、「実体」には、「(個別的な形相因と質料因との統一物である)個別」と「純粋形相」とがある(『形而上学』第7巻第4章1030a20,1032b1)。ブドウの木からブドウが採取され、ブドウからワインが作られる。或る個別(ブドウの木)は次の個別(ブドウ)に変態し、その個別はさらに次の個別(ワイン)に変態する。個別的変態過程で或る個別の形相因(Fi)は、つぎの個別を形成する形相因(Fj)による強制的(ステレー)除去(シス)(Sj)の対象になり(『形而上学』第V巻第22章,4a12f.)、つぎの個別にとっての質料因(Mj)になる。

SjFiMi=Mj,

FjSjFi(Mi)=FjMj

例えば、始めから3番目の個別はつぎのようになる。

F3S3F2S2F1(M1)=F3M3

形相因がつぎの形相因によっていわば「上書き」される変態の総過程が展開し尽くすと、もはや質料因が全く無い「テロスを完全に実現した形態」=「完全(エンテ)実現態(レケイア)」に至る。この過程は目的因(テロス)が潜(デュ)勢態(ナミス)を活動態(エネルゲイア)に転化しその使命を果たした状態に到達する過程である。それが「純粋形相」である(これが「要素変換に関して不変な構造」である)。「純粋形相」は、形相が自己(形相自体)を対象とする状態であり、思惟可能な存在のみを思惟している状態である。それは「思惟の思惟」、すなわち、神である(「ここでは理性[思惟するもの]とその思惟対象[思惟されるもの]とは同じものである。・・・神はそのような常に永遠の状態にある」[『形而上学』第12巻第7章1072b20]。ヘーゲルは『エンチュクロペディー』の最後をこの「神」概念を引用して閉じている。論理学(神としての言葉=ロゴスを知ること)から神への円環体系。カントは建設すべき新しい形而上学=自然哲学の対象を「ただ思惟可能なもの」といい、マルクスは『経済学批判要綱』で、価値としての関係を「ただ思惟可能なもの」と規定している)。

その意味で、田中先生が「アリストテレスも、ニュートンやスミスと同じように、中項の探求・発見論による《全体的なもの》の経験論証を意図していたのであるが、中項の系列が無中項になった原理を発見するには至らなかった」(32頁)と判断する点には疑問が残るのではなかろうか。アリストテレスにとって、中項の連鎖の究極である「無中項」は「純粋形相=神」である。

[アリストテレス自身のアポリア] 田辺元は『哲学通論』(岩波全書、1933年)で「アリストテレスの存在論は論理主義と個体主義との統一をその神学に求め、存在自体の学たる存在論としての形而上学は、第一原理としての神の学たるに究極する」(127頁)と明確に指摘する。個別の重層的連鎖には目的因(テロス)が貫徹するからこそ、個別的観察データを連結する中項としての個別が存在可能であり、「中項の系列」は全体を編成する、とアリストテレスは考えたであろう。

しかし、個別の形相は具体的な形相である。それがどのように多く重層的に連鎖しても、すぐれて抽象的なものである「純粋形相」にはならない。個別を規定する形相因と純粋形相とは次元を異にする。諸々の個別を貫徹する形相は具体的形相でなく、抽象的形相でなければならない。ここに、アリストテレスのアポリアがある。田辺元は『哲学通論』で、問題論的(アポレティッシェ)方法(・メトーデ)で構成するアリストテレスの『形而上学』がかえってアポリアに陥っていることを指摘する(121頁)。

[中項としてのあるある》]  田中先生も引用しているように(本書20頁[ただし、to otiなどの横文字は引用者の補足])、アリストテレスは『分析論後書』で中項についてつぎのように論じる。

「われわれは、四つの事柄を探求する。すなわち、[1]事実(何かが何かあること to oti)、[2]根拠(それは何故あるかということto dioti)、[3]存在(何かあるかとういうこと ei esti)、[4]本質(それは何あるかということ ti estin)とである。・・・[イ]我々が事実・存在を探求しているときは、「中項(meson)あるか、あらぬか」を探求している。[ロ]われわれが部分的にあるいは総合的に事実・存在を知っているときに「それは何故あるか」、あるいは「それはあるか」を探求しているときには、《その中項何であるか》を探求している。・・・「それが何あるか(本質)」ということと、「それは何故あるか(根拠)」ということとは明らかに同じものである」(90a)[ボールド体・傾斜文字の強調は引用者]。

アリストテレスにとって、中項の存在問題(ある)および根拠問題(あるか)は、事実の存在問題(ある)および根拠問題(あるか)に対応する。

[1],[3] 或る事実(A)が存在する=Aある[存在](There is A)。

[2] 事実[it=A]は何故Aあるのか[根拠](Why is it A?)。

[4] 事実[A]は何あるのか[本質](What is A?)

[2]と[4]を総合すると、Why is A【what A is?

《何故Aは、Aであること【what A is】であるのか》

となる。《[2]根拠を問う、何故why ?》は、述語である[4]本質【事実は何であるのかwhat ?】が答えられることによって、答えられるのである。[4]本質【事実は何であるか?】が、【AがAであることの述語】=[2]根拠になっているからである。したがって、アリストテレスのいうように、[4]【Aは何であるか】ということと、[2]【何故Aであるのか】という問いは同じ問いなのである。

このことをアリストテレスがあげている月蝕で例解すれば、地球にいる人間にとって月蝕は《月が満ち欠けする》ように見える。《月が満ち欠けすることある》と月蝕の[3]存在が知覚される。しかしその現象の本質と根拠は分からない。月蝕は地上の人間の視覚の限界を超えて知性(悟性)で理解できることであるから、太陽と月の間に地球が介在するという中項が探求される。[4]本質「月蝕とは何か」への問いは、「太陽と月の間に地球あり太陽の光を遮る[1]事実ある」が答えである。[2]根拠「何故、月蝕は起きるのか」の問いも「太陽と月の間に地球あり太陽の光を遮る[1]事実ある」からであるが答えである。アリストテレスがいうように、本質と根拠は同じである。

しかし、アリストテレスは意外な例をあげる。もし人間が地球の見える月面に存在すれば、人間の視覚だけで月蝕は理解できるという(90a20)。アリストテレスは、月面では明るかった部面が次第に暗くなり、ついで真っ暗になり、しばらくすると反対方向から明るくなる、と考えたのであろう。この事例は、アリストテレスが人間の感覚にも普遍的法則を認識する能力があると判断した事例である。田中先生はここに注目したであろう。

上記の月蝕に関する文章には、英語でいえば、二つの【is】(G. esti]≺einai)がある。その二つとは「ある」と「ある」である。「ある」は「存在すること」を意味し、「ある」は、その存在する主語を範疇で規定することを意味する(『形而上学』第5巻第7章1017a8以下の「オン」を参照)。

A(というもの)がある。There is A.

[1]「ある」(アリストテレスのいう「それ自体においてある」)は、あるもの(存在するもの)を、それを認識する人間に媒介する中項である。人間に現象すること「ある」と表現される。「Aがある」と言明することは、そう言明する人間がその言明内容のように存在を知覚していることを意味する。アリストテレスは《事実あるかが問われているとき、中項あるかも問われている》というけれども、太陽と月の間に「地球あること」が月蝕の中項であろう。

[2]「ある」(アリストテレスのいう「付帯性においてある」)存在するものあるもの」をその属性に媒介(カテゴライズ)する中項であり、先にみた「個別の二重の接合可能性を現実化する中項である。

AはBである。A is B.

Aの接合可能性はBの接合可能性に、isという中項によって、接合される。アリストテレスとってすぐれて存在論的な「あることeinai 」(出隆の訳注『形而上学』上、岩波文庫、363ー364頁を参照)は、主語と述語を接合する「である」と「何々が存在する(がある)」に分離される。何か存在するものあると認識されることを前提にして初めて、その存在する(ある)ものの本質が10つのカテゴリー(実体・量・質・関係・場所・時・体位・所持・能動・受動)(アリストテレス『範疇論』1b25)で分析され、その存在するものが「何々ある」と規定=認識されるのである。存在するもの自体(何々ある)が人間に認識されて、それは「何々ある」と範疇化される。その意味で「ある」と「ある」を内包するアリストテレスのeinaiは、存在論と認識論を統一する「存在(オント)=認識論(エピステモロジー)」を基礎づけるものとして再定義できると思われる。すなわち、

《存在論》=============《認識論》

[3]存在=客観→(ある)→主観=[4]本質→(ある)→[1]事実・[2]根拠

[3] 何かある                    [4] それは何あるか   [1]何かが何かある] [2] 何故あるか]

[存在から本質へ]  Aはさらに他の属性(C,D,E,・・・)をもつかもしれない。

A=B,C,D,E,…

Aはもはや単なる存在ではなく、B,C,D,E,・・・の属性=「存在」を統一する「本質」に転化している(価値形態の等価形態、特に第二形態の「無限の系列=無限級数」の等価形態がその一例である)。Aは自己の視座からB,C,D,E・・・を述語として観るように、自己をそれらに射影する。AはB,C,D,E,・・・という形態を遍歴し、その形態で現象する本質となる。「ある」存在から「ある」本質へ転化する。アリストテレスの中項論はヘーゲル論理学に継承される。ヘーゲルは『法の哲学』で、マルクスは『経済学批判要綱』で、アリストテレスの中項問題を《相(あい)対立(たいりつ)する両項がむすぶ関係自体が一方の項に転化する事態=中項の生成》として把握する(関係態としての中項)。その際、分析判断は真であるが、総合判断には真偽問題が存在する(『形而上学』第6巻第4章1027b20。マルクス『デ・アニマ』評注の問題もここにある。内田弘「『資本論』の自然哲学的基礎」『専修経済学論集』通巻111号を参照)。

[中項・『国富論』・『要綱』] 以上の中項論がスミス『国富論』の最初の5つの章に貫徹していることをみよう。その5つの章(1,2,3,4,5)の各々の範疇は、「分業を原理とする二重の接合可能性」をもつ範疇の系列であり、それらはつぎのように重層的に連鎖する。

1.分業     『国富論』体系を貫徹する原理・分業ある。        (分業

2.交換本能 分業を成立・発展させるのは交換本能ある。 [交換本能(分業)]

3.市場     分業の場(関係)は市場ある。       《市場[交換本能(分業)]》

4.貨幣   分業を媒介するは貨幣ある。   (貨幣《市場[交換本能(分業)]》)

5.商品   分業の生産物は商品ある。[商品(貨幣《市場[交換本能(分業)]》)]

このように、スミスの中項研究は『国富論』編成に(も)適用されている。マルクスは『経済学批判要綱』「貨幣章」で5→4→3→2→1という逆の順序で経済学批判を展開する。『国富論』のここの順序が「下向(アップ・シュ)する(タイゲン)系列」(KrV,B388)であるのに対し、『要綱』の順序は「上向(アオフ・シュ)する(タイゲン)系列」(KrV,B388)である。(以上)
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日時:9月24日(土)1:00~5:00

場所:明治大学・駿河台リバティタワー1076号(7F)

JR「御茶ノ水」駅から徒歩5分、もしくは都営地下鉄「神保町」駅から徒歩5分

テーマ「アダム・スミスの哲学的視座-ヒューム、アリストテレス、カントに関連させて」(仮題)

講師:田中正司(横浜市立大学名誉教授)

コメンテーター:内田 弘(専修大学名誉教授)

参考文献:田中正司著『アダム・スミスの経験論』(御茶の水書房2016.6月新刊)、『アダム・スミスの認識論管見』(社会評論社2013)、その他

参加費・資料代:500円

主催:現代史研究会/共催:ちきゅう座

現代史研究会顧問:岩田昌征、内田弘、生方卓、岡本磐男、田中正司、(廣松渉、栗木安延、岩田弘、塩川喜信)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study770:160918〕