『宮本三郎南方従軍画集』を推薦する藤田嗣治

著者: 内田 弘 うちだ ひろし : 専修大学名誉教授
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[古書展目録を読む] 毎月、本稿筆者の自宅に数冊の古書展目録が郵送されてくる。東京中央線の高円寺の北口の右先にある西部古書会館、明治大学神田校舎の表通りを少し下がった所にある東京古書会館などで、週末に開催される古書展に出品される古書の目録である。
 数十頁におよぶ古書目録は、最初の古書から最後の古書まで追い番号がついている。二段組みの各頁に数十冊掲示されている。それを1冊ずつ丁寧に読む。その中に、こんな本があるのか、と驚くような書籍を見つけることがある。
 欲しい本は展示会の事前に、葉書かメールで当該古書店に申し込む。申込者が2人以上の場合は抽選になる。是非欲しい本にかぎってというか、当たることは珍しい。当たったときは、時めく。

[『宮本三郎南方従軍画集』に当選した] 最近、或る古書展目録を見て「非常に時めいた」のは、そこに『宮本三郎南方従軍画集』[陸軍美術協会出版部、1943年(昭和18年)]を見つけ、しかもその古書に当選し入手したときである[つぎに掲げる、その表紙の写真を参照]。あくまで参考のために記せば、かなり高価の本である。
 なぜ、その本を手に入れて、時めいたのか。以前、このネット「ちきゅう座」で、なぜ藤田嗣治(ふじたつぐはる)の戦争画のみが戦争画を描いた責任を問われるのかと疑問を出し、宮本三郎も戦争画を描いた、と発言したことがあるからである。そのかつての発言に動機づけられ、その宮本三郎本を目録で見つけ、注文し、当選=入手したのである。この最近の喜びは、旨く表現できない。《かつての恋人に再会したときの時めき》でも形容すべきであろうか。
[なぜ藤田嗣治のみを責めるのか] 「藤田嗣治問題なるもの」には、敗戦直後、日本共産党系の日本美術協会が、藤田嗣治のみを戦争犯罪人として法廷に突きだそうと画策した政治的策謀が潜んでいる。
 その惰性的ともいえるほど反復されてきた「藤田嗣治問題なるもの」の出発点は、藤田嗣治論争参加者たちのほとんどは知らないだろうが、その策謀であることをこの「ちきゅう座」で指摘したのである(内田弘「フジタ像のコペルニクス的旋回」)。その策謀を知らない藤田嗣治批判者たちは、その策謀に踊らされている。ここで渡部富哉氏が真相を解明した「白鳥事件」が思い浮かぶ。「白鳥事件」も或る驚愕の策謀によるものである。
 藤田嗣治をめぐる策謀について、本稿筆者はつぎのように指摘した。
 「フジタの戦争責任を問おうとしたのは、日本共産党系の日本民主主義文化連盟の下部組織である「日本美術会」である。その創立(1946年4月)後まもなく、「日本美術会」の書記長の、それまでフジタと非常に親しかった内田巌がフジタ宅を訪問した。内田はフジタに「日本美術会」の総意として、「日本美術会の決議で貴方を戦犯画家に指名した。今後美術界での活動は自粛されたい」と告げた。このことに「フジタ戦犯画家説」は端を発しているのである」。
 藤田嗣治のみを責める、この問題枠自体を知らず内省することもなく、フジタ責めに「我も、我も」と参加することで、なにか意義あることを実践しているかのような錯覚に陥っているのではなかろうか。

[藤田嗣治だけでなく、宮本三郎も] その拙稿で、戦後日本の画壇の重鎮のひとりとなった宮本三郎も、戦争中さかんに戦争画を描いた、と指摘した。そのように指摘することは、今日でもなおタブーなのであろうか。現存日本洋画壇秩序を温存するために、宮本三郎戦争画に言及しないように、「忖度」しているのであろうか。
 その拙稿で筆者は、宮本三郎もフジタと一緒に、戦争画展が開催されるようになれば、戦争画なるものについて、より包括的総合的に考える機会となるにちがいないと主張した。
[《マレーの虎》を描く宮本三郎] 今回入手した『宮本三郎南方従軍画集』の代表的な戦争画が「マレーの虎」司令官・山下奉文が英国軍捕虜パーシバル司令官に「イエスか、ノウか」と迫る絵「山下・パーシバル両司令官会見図」である(つぎに掲げる二枚のその写真を参照)。
 入手したこの本では、その名画を描くために、宮本三郎が山下奉文と一対一で山下の軍服姿を描いている事実を記録する写真が、本書のほぼ中央の頁に納めされている(本書には頁付けはない)。その「名画」は、用意周到、準備怠りなく描かれたものである。山下も快く宮本に協力している。
 山下奉文は敗戦後の軍事裁判の結果、死刑に処せられた。その報道を宮本三郎は、どのように受けとめたのであろうか。

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+++[上図が本書の「表紙」、下図が「山下パーシバル両司令官会見図」]+++

[藤田嗣治は宮本三郎の同伴者] 藤田嗣治はこの宮本三郎の戦争画集に、つぎに引用する推薦文を寄稿している。
「宮本三郎少佐
 宮本三郎、石川県の産、身長5尺6寸2分、性格温厚、風格さむらい、血液B型、幼くして画をよくし、神童とうたわれ、非凡の誉れ、長ずるに及んで川端[龍子]画塾に学び、素描右に出る者無し。
 二科展の重鎮として追従者門前に殺到し、名声天下るあまねし。
 偶々欧州戦争に遭遇し倉皇(そうこう)[慌ただしく]帰転。今次支那事変、大東亜戦争起こるや、戦争画を志し、遂に山下パーシバル会見の名画を成す。帝国芸術院賞の栄冠を獲得す。
宜なる哉
将来恐るべし。」[…]は引用者補足。

[藤田嗣治と宮本三郎は戦争画壇の親友] 藤田嗣治と宮本三郎が一緒に収まっている写真が本書に掲載されている。両者は親友であった。

[宮本三郎は何を描いたか] この画集の冒頭を飾るのは、つぎに掲げる宮本三郎戦争画「香港ニコルソン附近の激戦」である。

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++++++++++++++[香港ニコルソン附近の激戦]+++++++++++++++++

 この宮本三郎の戦争画「香港ニコルソン附近の激戦」は、藤田嗣治の戦争画「アッツ島玉砕」・「サイパン島玉砕」と、なんと酷似していることか。その色調、壮烈さ・悲壮さで共通している。たとい勝ち戦であっても、死神に取り憑かれたように死線に接する戦いの様相を描く。そのような戦争画を描く者が犯罪者であるのなら、藤田嗣治と同様に宮本三郎も犯罪者である。なのに、なぜ藤田嗣治だけが問題なのか。

[戦地の風物も描く宮本三郎] しかし、この画集に収められている作品は、戦争画だけではない。宮本三郎は、日本軍が進軍し占領した国・地域の人物や風景や様々な物品をスケッチしている。観る現物は、ほとんどすべて初めてのものである。新鮮であり、画家の描写欲を掻き立てる。
 旧日本兵は、戦地への出征を前にして、「官費旅行だ」と冗談交じりに嬉しがった。宮本にとっても、日本軍について戦地に行くことは、日本には存在しない珍しい風物に接する機会でもあり、エキゾチズム(異国趣味)を味わう機会でもあったのであろう。
[宮本三郎のスケッチ力量] 宮本三郎のスケッチの力量は、その本で藤田嗣治が

+++++++++++[宮本三郎が描く占領地の風物(人物)]++++++++++++++

賞賛しているように、しっかりしたものであり、戦後の宮本三郎がよく描いたバレリーナをスケッチするとき発揮した描写力を、すでに身につけていたことをしめしている。描線が的確であり、無駄な線がない。素早く引いた一本の線で対象を把握しきる、ピカソのスケッチを連想させる。

[交通(Verkehr)としての戦争] この規定「戦争とは交通である」は、マルクスの戦争の定義である(『経済学批判要綱』「序説」)。ここで「交通」とは、和戦両用の交通手段いよるだけでなく、さまざまなものの交流・接合とその所産を含む。
 いわゆる戦争をただ単に「敵味方の殺し合い」とだけ言葉で規定して終わるのでは、戦争の本質と実態を把握できない。むろん、武力闘争は戦争の核心部分である。しかし、戦争にはさまざまな側面が武闘に関連する。
[多面的交通としての戦争の諸相] 戦争は、戦後の勝戦国と敗戦国との人的・物的・文化的な交流を包括する。情報線が不可欠であり、武器・弾薬・食糧・医薬品などの兵站が接続する。
 山崎洋子の近著『女たちのアンダー・グラウンド』(亜紀書房、2019年)は戦争が女たちに何をもたらしたか、その悲劇を記録する。シベリア抑留も、中国の日本技術者の「戦後留用」も、戦争がもたらした交通形態である。軍歌の作詞家・作曲家・歌手・レコード会社・慰問団なども戦争に含まれる。戦時の児童たちは、慰問の作文や絵を学校で書かされた。
[戦時満洲の日本軍宣揚歌] 「今に大きくなったなら、兵隊さんになりましょう。兵隊さんよ、ありがとう。御国のために、御国のために戦った、兵隊さんよ、あるがとう」と、1945年(昭和20年)4月から7月まで、在満(洲)国民学校1年生であった本稿筆者は、この歌を学校で歌わされた。
 歌う児童を見て、教員は満足げであった。彼ら教員は重要な戦争協力者であった。いまからかぞえて、74年前に歌ったこの唱歌のメロディーが、いや、その歌をうたう幼い本稿筆者自身の姿全体が、鮮明に脳裏に蘇る。

[戦争動員経験と戦後作品] 作家・学者も戦争に動員される。林芙美子は中国戦線に同伴し戦地ルポを書いた。火野葦平もフィリピンに派遣された。大岡昇平もフィリピン戦線に動員され、戦後『野火』『俘虜記』『レイテ戦記』を書いた。
 三木清は1942年のほぼ1年間フィリピンのマニラに滞在し、日本軍占領地である当地の宣撫の仕事に従事した。大西巨人は対島の対艦隊大砲付きの兵卒であった経験を戦後『神聖喜劇』に援用した。松本清張は、空襲消火訓練にやむを得ない事情で欠席したことを役所の徴兵係に不当に怨まれ、韓国に派兵され、戦後『遠い接近』を描いた。

[戦争を語ると戦争を招くのか] 戦争の実相を知らないで、ただ戦争反対を唱えるだけでは、戦争勢力にかなわない。「みすず書房」の『現代史資料』「朝鮮」の巻などを反戦運動の仲間と読んでいた関東地方北部から、上京して驚いたことがある。
 或る研究会で、高齢の研究者が中国での戦争体験を具体的に語った。
 《ふだんお互いに信頼して仲の良い小隊は、中国大陸で新四軍や八路軍とのゲリラ戦から生還する。しかし仲の悪い小隊は、ほとんど帰ってこなかった》。
 平時に生きる我々にとっても、極めて教訓に満ちた経験談である。
 私は感銘をもってその体験談を聴いていた。ところが、その研究会に参加していた、より若い軍隊経験のある者が、《戦争のことを語ることは、もうやめましょう。そういう行為自体が戦争を招くのです》といった。
その戦争体験談は、そこで中止になった。戦争言霊論である。彼は「科学的社会主義者」を自称した。

[すばらしい《はず》のソヴィエト赤軍] 戦争体験談に反対するその研究者は、別の機会に《ソヴィエト赤軍は、すばらしかったでしょう》と本稿筆者に確認を求めた。本稿筆者が、敗戦直後ソヴィエト赤軍に囲まれて生活した在満洲経験があることを知って、そう尋ねた。実際とは全く反対のことを確認したがった。《いや、まったく反対です》と私は断言した。
 或るソ連赤軍将校は愛人(日本女性)を我が家の隣の南新京旧満鉄社宅一軒に住まわせていた。底冷えがする1945年秋の深夜、その女性の大きな悲鳴が聞こえてきた。明朝、左手の薬指の上半分を切断され、その傷を覆う白い包帯から血が滲む姿で、我が家にやってきて、窮状を訴えた。男の妄想嫉妬による被害である。本稿筆者は満6歳であった。
 八路軍も国民党軍も日本人に対して無謀なことは決してしなかったけれど、ソヴィエト赤軍は日本軍と同じように、強盗・強姦・殺人を好き勝手に行った。

[戦後歌声喫茶でのソ連賛美] 戦後日本は、戦時日本を切断して出発した。「左翼」もそうである。その代表・その象徴が、「歌声喫茶」でのソ連賛美である。「ボルガの舟歌」「シテンカラジン」「黒い瞳」などを、アコーデオン伴奏で、日本の若者たちは、肩を組み明るく歌い合った。主催者は、ソ連赤軍や強制収容所の実態は全く隠蔽し、ソ連を賛美した。そのような自己の事実隠蔽に触れない、《いまごろになって》の「スターリン批判」など、冷笑の対象ですらない。

[憲法9条と戦争犯罪承認の結合] 戦地経験者のほとんどは、敗戦後、自己の戦地における具体的な戦争犯罪を語らなかった。いや、惨(むご)すぎて、語れなかった。しかし中国・朝鮮・フィリピン・シンガポールなどの東アジア諸国民は、その暴虐を忘れはしない。日本人だけが忘れたがっている。無かったことにしたがっている。これが安倍政権を支える侵略戦争・敗戦国民・日本人の負い目である。
 東條英機たちに戦争犯罪責任を押しつけて、自分たちは平和国民であったいまもそうであると偽ることは、我々日本人が生きてきた近代日本史の偽造である。その偽善の醜さを自覚することから、平和運動は、しんじつ、始まる。
[原爆投下の標的となった広島・長崎の歴史] 広島に近い呉で「戦艦大和」が建造され、同型の「戦艦武蔵」が長崎港の三菱重工業造船所で建造された(「武蔵」建造の有様は、吉村昭『戦艦武蔵』が詳しい)。この二つは、砲艦主義を採用する旧日本海軍の誇りである。その広島と長崎は米軍にとって標的であった。
 アメリカの原爆投下は戦争犯罪である。けれども、その標的になる軍事的な背景があった。
広島は日清戦争と日露戦争の時の臨時首都であった。明治天皇もそこに移住した。広島は、近代日本史における主要軍事都市であった。かつて、広島城でその回顧展が開催されたことがある。
[相継ぐ日本製戦争映画ロードショウ] まもなく7月26日[金]から、日本製戦争映画「戦艦大和とアルキメデス」が上映される。これは戦争映画「空母いずも」に継ぐものである。さらに、三本目以後の戦争映画が密かに企画・製作されているだろう。こうして「国民の戦争慣れ」が演出されてゆく。「百の議論より、一本の映画」が強力な影響力を発揮する。

[歴史に根を張る平和運動] 《9条守れ》は、戦争犯罪責任に正面から向かう運動を生みそれと結合してこそ、初めて根を持つ運動になる。《上皇明仁に凭(もた)れかかる「9条守れ」の運動》は、歴史に根をはっていない。《痛みのない、良いところ取りのカッコイイ政治姿勢》は、もろく転がりやすい。(以上)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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