同時代史の中のヘーゲル国家論― 1817・18年法哲学講義と「立憲君主制」のライトモチーフ ―

著者: 滝口清栄 たきぐちきよえい : 法政大学教員
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はじめに

『法(権利)の哲学の要綱』(1820年、以下『法(権利)の哲学』と略記)は出版されてから今日にいたるまで、さまざまな論争を生み出してきた。この書はプロイセン体制追認の書と解釈されることもあれば、鋭い時代批判の書と解釈されることもある。さまざまな論争は、この書の思想的影響力の大きさを物語るものでもある。今日、ヘーゲル法哲学研究は、講義筆記録が出そろう中で、今までになくよい環境をもつようになった。本報告は、ヘーゲルの初めての法哲学講義(ハイデルベルク大学、1817・18年冬学期)を取り上げて、ヘーゲル法哲学、特に国家論の基本的性格を明らかにすることを目指す。その場合、『法(権利)の哲学』の出版は、メッテルニヒ主導のウィーン体制のもと、カールスバート決議による「デマゴーグ狩り」、言論弾圧の時期にあたる。ヘーゲルの国家論は、この時代状況を背景におき、そしてこの時期のフランス立憲思想の新しい動きと、西南ドイツならびにプロイセンにおける立憲運動を視野に入れることによって、よりよく理解できるであろう。

まずK.-H.イルティングの問題提起を手短に振り返っておこう。彼によれば、これまでの解釈には、「補遺」と本文との相違に対する無自覚という重大な欠陥があった。この「補遺」は、ベルリン版ヘーゲル全集『法(権利)の哲学』に、ガンスが講義録から採録したものである(1833年)。イルティングは、この相違を講義録(1818・19年、1822・23年、1824・25年冬学期)の刊行によって示した。ヘーゲルは政治状況が急速に悪化する中で、自分にかけられた政治的嫌疑をかわすために、カールスバート決議による検閲を前にして、『法(権利)の哲学』の原稿に手を入れ、当時の状況に「順応」した。ヘーゲル本来の思想は、検閲という制約を受けない講義の中にあると、イルティングは言う。相違は以下の点に見られる。まず君主権について、『法(権利)の哲学』は、君主の権能が無制約であるかのように叙述する(PR.§273)のに対して、各講義は、君主の決定は制限されて空虚であるという(Ⅱ.25ff.)。理性法と実定法について、18・19年講義はそれらの対立について語るのに対して、『法(権利)の哲学』は「暗にこの対立を否認している」(Ⅱ.79)。さらに歴史哲学的展望について、18・19年講義は「国家を発展した理性の像へと形成すること」が時代の課題であると言う。それに対して『法(権利)の哲学』は理性と現実とが和解に達したかのように語る(Ⅱ.82)。現実との和解という論点は、各講義録序文にはなく、むしろそこでは現実との対立という問題が出ている。イルティングによれば、『法(権利)の哲学』において「理性的なものの現実性という言葉をヘーゲルに語らせたものは、現実的なものの非理性であった」(Ⅱ.82)。そして『法(権利)の哲学』の表題にある「講義に使用するために」という文言は、テキストと講義とのつながりを示唆していると言う。こうしてイルティングは、ヘーゲルは『法(権利)の哲学』の中で「政治的立場を転換した」というテーゼを立て、講義録の読解から「リベラル」な法哲学像を打ち出そうとした。検閲を前にした原稿の改訂、『法(権利)の哲学』と講義との根本的差異という論点は刺激的であり、論議を呼んだ。今日では、検閲と当時の政治状況が『法(権利)の哲学』執筆に影響を与えたであろうこと、また講義録の検討が必要不可欠であること、この問題提起は研究者が等しく認めるところとなった。イルティングの提起は、法哲学研究を新たな段階に進めたのである[1]。その後、学生ヴァンネンマンによる17・18年の講義筆記録が公刊されて、法哲学の原像を見定めることが可能になった。さらに『法(権利)の哲学』の執筆時期に重なる19・20年講義も公刊され、『法(権利)の哲学』研究をめぐる環境が整うにいたった[2]。そして旧来の実定法を理性法の立場から批判する『ヴュルテンベルク王国地方民会の討論』論文(以下『領邦議会論文』と略記)から、現実との和解を語るかのような『法(権利)の哲学』への展開を論じることも可能になった。

ところで、立憲君主制論ならびに君主権論は、法哲学解釈の上で、躓きの石であった。立憲君主制論は歴史的文脈の中できちんと検討される必要がある。歴史的文脈の中で、ヘーゲルが「立憲君主制」なる概念を受容したかを明らかにしなければならない。ヘーゲル法哲学の成立は、同時代、とりわけ復帰王政下のフランス立憲主義、西南ドイツの憲法闘争と深いつながりがある。17・18年講義は、この事情をはっきりと伝えている。本報告は、イルティングの提起を踏まえて、フランス立憲主義ならびに西南ドイツの立憲運動を背景におき、この講義にヘーゲル法哲学の原像を探る[3]。ここからヘーゲルが立憲君主制を執行権と君主権の分離として受けとめ、君主権に公的な圏と私的な圏を新たに構築する際の結節点という意義を与えたことが明らかになる。この公と私の新たな構築に向けた思索は、今日的な課題でもある。この観点から『法(権利)の哲学』を読み解くとき、ヘーゲルの思想的努力と創意工夫が豊かに浮かび上がるであろう。

さらにプロイセンにおける憲法制定の動きを背景において、17・18年講義の基本線が『法(権利)の哲学』に通じていることを確かめておこう。『法(権利)の哲学』は、けっして「順応」の書ではない。そして『法(権利)の哲学』は理論のうちに閉じた体系ではない。ヘーゲルの視線は、フランス革命を起点とする現代史のゆくえにあり、その真骨頂は、このゆくえを見定め、思想の中に汲み上げようとする点にある。その一面を22・23年講義、24・25年講義に見ておこう。ここから歴史に開かれた思想的スタンスが浮かび上がるであろう。

 

一 西南ドイツ立憲運動と17・18年講義

『法(権利)の哲学』の273節に次のようなくだりがある。

「国家が立憲君主制へと成熟していくことは、実体的理念が無限の形式を獲得した近代世界の業績(das Werk der neueren Welt)である。…人倫的生活がこのように真に具体化していく歴史こそが、普遍的な世界史の核心的問題なのである。」

では、この「近代世界の業績」といわれる指標は、いったいどのような点にあるのか。

「憲法体制が民主制、貴族制、君主制に分類されていた段階では、すなわち無限な区別をもつにいたらず、自己のうちに深化するにいたらない実体的一体性の立場には、自己自身を規定する最終意志決定の契機は、国家の内在的な有機的契機としては、それだけで独自の現実性となって登場してはいないのである」(PR.§279A.)

ここでのヘーゲルの文言を軽く受け止めるならば、平板な理解、つまり立法権、執行権、君主権は、それぞれ他の契機をみずからのうちに含みつつ、憲法体制の有機的構成要素をなしている。それらは、普遍、特殊、個別という概念の諸契機に対応している、という理解にとどまることになるであろう。ここでヘーゲルは、成熟した国家になって初めて、最終意志決定の契機つまり君主権が「独自の現実性」になると言う。先の引用を歴史的文脈の中においてみると、君主権という「独自の現実性」ならびに「近代世界の業績」という文言がきわめて重要な意味をもつのである。またヘーゲルのモチーフがどこにあるかを理解する鍵がここにある。

ヘーゲルは、17・18年講義で初めて「立憲君主制」概念を取り入れる。『ドイツ国制批判論』(1799‐1802年)は、君主制と代議制の結合した体制を構想し始める。人倫の構想が基本的に成立した『イェーナ体系構想Ⅲ』(1805・06年)には、「世襲君主は全体の確固たる直接的な結節点である。精神的紐帯は公共の意見(世論)であり、これが真の立法団体である。…君主はあらゆる命令の執行に際して生きている」GW.8.263)とある。これは実質的に後の立憲君主制と重なるであろう。しかしまだ「立憲君主制」概念はない。1807年8月29日、ニートハンマーあて書簡は、本当の国法学者はパリにいる(ナポレオン)、ドイツの君主たちはまだ「自由な君主制」の概念をつかんでいないと述べる(Br1.182ff.)。そして『領邦議会論文』(1817年12月と18年初頭の『ハイデルベルク文芸年報』に発表)は、「理性的な君主制度」(GW15.33,一三)という表現を使用する。「立憲君主制」概念は17・18年講義に初めて登場したのである。「立憲君主制」概念の意味は、この講義から明らかになるであろう。

さて『領邦議会論文』にたびたび登場する文言がある。「最近25年の経験」(GW15,12,33,61,62,一一、一三、六二、六四、六五)という文言である。ヘーゲルは、この1789年から1814年までの年月を「世界史がこれまでにもった最も実り豊かな年月」、「われわれにとって最も教訓に富む年月」、また「誤った法概念や、国制についての偏見を踏みつぶすためには、この25年の法廷より豊かな実りをもたらす乳鉢はほとんど存在しないだろう」(GW15.61,六四)とまで言う。ヘーゲルは、目下の情勢について、「ヨーロッパの諸政府とこれら諸国民の運命、そして彼らの奮闘努力は、ドイツ諸国家の主権を、これらがこれまでなお受けていた制約より解放するにいたったが、これによって、さしあたっては約束にとどまるが、諸国民に自由な憲法が与えられる可能性がもたらされたのである」とし、「しかも君主制度に代議制度の規定を結びつける、すなわち、君主制度に合法的状態や国民の立法への参加の規定を結びつける諸概念は、…今や広く人々の信条にまでなったのである」(GW15.33,一三)と述べる。ヘーゲルがフランス革命を起点とする現代史に格別な注意を向けていることは、明らかであろう。そして1814年から進行している同時代の動きを注視していることも明らかであろう。

この文面を理解するには、同時代の動きに目を向けなければならない。ナポレオン没落後、ウィーン会議が1814年9月に始まり、翌年6月にドイツ連邦(Deutcher Bund)が発足して、西南ドイツ諸国は、領土の大幅な変更とともに法慣習や宗派の異なる新住民を抱えて、「帝国」のもとでの領邦国家から抜けでて、独立国家としての体裁を整えるという課題をもつことになった。新たに国民的‐国家的統一を図る重要な指標が憲法制定であった。憲法制定が歴史の趨勢として否定できないことは、連邦規定13条(「連邦を構成するすべての個別邦国にはラントシュテンデ的憲法(Landstandische Verfassung)が施工されるであろう」)という― あいまいさを含みつつ ―表現となって現れた。ヘーゲルの言う「約束」とはこの13条を指しているであろう。ここに憲法制定をめぐるさまざまな動きが現れる。

その際、西南ドイツ諸国における憲法のモデルは、つとに指摘されるように復帰王政下のフランスで、1814年6月に発布された「シャルト(憲章)」であった。ヘーゲルは、「最近二五年の経験」の集約をここに見て、西南ドイツ諸国の憲法制定の動きを背景に、『領邦議会論文』を執筆し、17・18年講義をおこなった。イルティングを援用すれば、ここでヘーゲルは「南ドイツ初期立憲主義の最も優れた理論家」(Ilt.19f.)たることを示している。またペゲラーによれば、この講義は「原-法哲学」(Ⅰ.ⅩⅣ)の意義をもつ。

この動きの中で、ヴュルテンベルクでは、1815年3月、国王が領邦議会(地方民会)に提出した憲法草案をめぐり、4年余り憲法闘争が展開されることになる。ヘーゲルはこの論争の前半を論評した。ヘーゲルは、民会が「収税金庫」を掌握し、特権化した委員会がおこなう国庫の「強奪と乱費」、住民の生活一般に関わりをもつ司法、行政、税務に、特権的に携わる「書記の狼籍」などの、旧社会の腐敗に対して、厳しい目を向けている。民会の拠り所はいわゆる「古き善き法」にあり、彼らが特権に固執するさまは「現実の世界情勢に逆行する立場」(GW15.54,五〇)であると、ヘーゲルは批判して、その根本的誤謬を「実定法から出発していること」(GW15.60,六二)に求める[4]。ヘーゲルは、『領邦議会論文』において、シャルトをモデルとする国王の憲法草案に近代の理性的な立場を読み取り、ここに「思想が現実性の再生に没頭しているのを見る」(GW15.31,九)。理性的法の実現の中には、「国民に属する代議制度」(GW15.110,一四九)も含まれる。ただしこの代議制度は、アトム化された個人を原理とするものではない。ヘーゲルは、公共的な圏と私的な圏の境界があいまいなまま、「本来、国家に属すべき権利」(GW15.56,五五)が骨抜きにされ食い物にされ、私的な特権が横行する状態を注視している。真に公共的な圏を立て直し、あわせて近代の主体的自由を打ち立てるというモチーフが『領邦議会論文』全体を貫いている。このモチーフと、17・18年講義の「立憲君主制」論は無縁ではない。それどころか深く関わっている。この講義を検討する前に、復帰王政下のフランス立憲主義の新しい動きを見ておこう。

 

二 同時代の所産としての「立憲君主制」

17・18年講義を公刊したイルティングは、その137節に付した注で、「『立憲君主制』という表現は、フランスの復古時代の始まりに初めて形づくられた(たとえば、バンジャマン・コンスタン『政治の諸原理』第二章)。そして、これは成文法によって制限された君主制を意味する(権利の章典以来のイギリス憲法は、この意味で成文法ではなかった)」(Ilt.339)と述べ、その序文では、「シャトーブリアンは、コンスタンの君主権論をわがものとして、それを徹底させた。コンスタンは、大臣権と君主権の分離から、政治的に活動的な国家権力の上に立つ「憲法の番人」として「中立的権力」が国王にふさわしいとする結論を引き出した。それに対してシャトーブリアンは、国王の政治的権限をことごとく否認し、彼を不可謬の神性の地位にまで高めた。…ヘーゲルは『法(権利)の哲学』の憲法理論を、議会主義的君主制に進むフランス立憲主義の正確な知識にもとづいて構想した。このことは、1817・18年の講義から分かる」(Ilt.22f.)。

イルティングは、ここにシャルトのもとでの代議制を支持する正理論派(doctorinaires)の「学派的秘密」を見てとり、そしてヘーゲルもこの事情をわきまえていたと言う。17・18年講義は、イルティングにとって従来の見解を補強するものとなる。つまり検閲を意識して内容的に「順応」した『法(権利)の哲学』に対して、この講義は、ヘーゲル「学派の秘密」を明示していると言う。イルティングは、フランス立憲主義が「議会主義的君主制」を志向することを強調することによって、君主権の役割を低く見積り、ヘーゲル法哲学のリベラルな解釈を補強する。この講義とフランス立憲主義との関連を明確にしたのは、イルティングの功績である。それとともにガンスがすでに彼の1832・33年講義でヘーゲル法哲学とコンスタン(Benjamin Constant,1767-1830)やシャトーブリアン(François Renéde Chateaubriand, 1768-1848)らとの関係を示唆していることも思い起こす必要がある[5]。さて、ヘーゲルはフランス立憲主義をどのような視角から受け止めたのか?イルティングの解釈が見過ごしている論点がある。執行権から君主権を分離すること、そして分離された君主権にどのような機能を見ようとしたか、これらに対するヘーゲル独自の視点を捉えなければならない。それは『領邦議会論文』のモチーフともつながるであろう。まず当時のフランス立憲主義の特質を確かめておこう。

1814年4月、ブルボン王朝が連合国のバックアップを受けて復位してまもなく、「シャルト(Charte,憲章)」は、国王が国民に授与するという形で発布された(6月)。連合国の方針は、フランス革命以前の諸王朝を復位させ、各国の勢力均衡をはかるという点にあった。シャルト第14条は、国王をもって「国家の最高の元首」と明記し、前文は、国王がすべての国家権力の源泉でありかつ基礎であることを唱いあげる[6]。これは一見すると革命以前への逆行ともとれる。しかし「シャルト」はたんなる逆戻りではなく、ナポレオンの帝政時代の市民的自由や制度を継承し、また権力分立を盛り込むものであった。「シャルト」の第13条は「国王の一身は不可侵かつ神聖である。彼の大臣は責任を持つ。国王にのみ執行権が属する」と定めている。そこに大臣が議会に対して責任を負うという規定はないが、ここには国王と内閣の関係について解釈の余地があった。そのため、この13条は、当時の政治的動きと憲法の運用を見る上で、きわめて重要な箇所となる。この「シャルト」のもとで、1815年8月、帝政時代の選挙法による衆議院選挙の結果、定員402名のうち350名が「超王党派」で占められて、ルイ18世は大いに満足する。当初、両者の歯車は噛み合っていたが、超王党派が反動的な施策を打ち出すようになると、国王は内閣を更迭して、議会を抑えにかかった。それは、再び革命が再来するのではないかと懸念するヨーロッパ各国への配慮があったからである。このありさまは「世にも不思議な議会」と言われた。超王党派は国王に対して、議会の多数派から大臣を任命すべきこと、大臣は議会の信任を受けること、といった要求を突きつけたのに対して、少数の自由派が、国王の大臣任命権を擁護するという逆説的な構図が生まれた。この超王党派の左派の論客がシャトーブリアンであり、彼に影響を与えたのが、「正理論派」、つまり「シャルトに則った自由主義」の論客バンジャマン・コンスタンであった。

コンスタンは、1814年5月25日の日付をもつ『憲法草案』で、執行権を、積極的な執行権である大臣権と、消極的な執行権である君主権に分けて、「国王はこの三権の環境において…均衡を維持することにすべての利益を有する中立的および仲裁的権威である」[7]と言う。ここにいう「三権」は、積極的な執行権、立法権、司法権を指している。コンスタンは、政治的・社会的な安定をはかる基軸として、また個人の自由を制度的に保障するものとして、この中立権の理論を提唱した。さらに1815年の『政治の諸原理』第二章で、シャルト第13条の解釈から王権と執行権(内閣権)を区別して、大臣任免権は国王に残しながら、王権から自立した責任内閣制の構想を打ち出すにいたる。また、シャトーブリアンは超王党派に属しながら、王権と執行権の分離というコンスタンの提案を積極的に受けとめ、「責任ある政府」の存在こそが、君主の神聖不可侵ないし尊厳を最大限に保障すると考える(『シャルトによる君主制』1816年)。そこではシャルトの定める国王の法律発議権すら否定される。もし法案が修正ないし否決されるなら、国王の神聖な名が汚されることになる。国王の名は完成した法律にだけ使用される方がよいと考えたのである。一切から超然としながら、しかし一切がそこから流れ出す、そして尊厳と神聖不可侵を可能にするもの、これが立憲君主制であり、議院内閣制であると言う。二人には立場の違いはあるが、両者ともフランス革命以来の混乱を厭う気持ちが強かった。彼らはいずれも、この間動乱を免れていたイギリスの体制を研究した。また立憲君主制にとって議会を公開し、世論と言論の自由を保証することを不可欠とする点で、両者は共通していた。

このように歴史的文脈を踏まえるならば、ヘーゲルの立憲君主制論は、まさに執行権から分離した君主権という着想が初めて確立した復帰王政期フランスの立憲主義につながることが分かる。このつながりを示すものが、17・18年講義なのである。

 

三 17・18年講義と立憲君主制の基本モチーフ

すでに述べたように、ヘーゲルは17・18年講義で初めて「立憲君主制」概念を使用する。理性国家の本質、立法権・統治権・君主権という権力の分節化、これらについての基本的な思想は『法(権利)の哲学』と変わらない。しかし具体的な内容をみると、『法(権利)の哲学』が必ずしも明示していない論点が登場する。その特徴的な点をいくつか見ておこう。

1 〈1814年〉という年ならびに「シャルト」を現代史の集約点と見なしている。

ヘーゲルは革命以来のフランス現代史をふりかえり、諸権力の生みだす混乱に言及する。そうしてこれまでのフランス憲法の欠陥を、「頂点となる主観的統一の欠如」(Ⅰ.§123)に求め、ルイ18世について次のように述べる。

「ルイ18世は、不可侵の憲法を国民に与えた。…彼は、国民精神が革命以来展開してきたすべての自由な理念を憲法に取り入れた。…彼は、国民精神が生み出したところのものを、みずからのシャルト(憲章)のかたちで国民に与えたのである。…それは、権威によるものにすぎなかった。しかしその内容は純化された国民精神なのであった」(Ⅰ.§134A.)。

この総括は、「25年来、1、2ダースもの憲法が制定されたが、すべて多かれ少なかれ欠陥をもつものであった」。それに対して「このシャルトは、不変性の形式を基礎にした灯台である」と言う。ヘーゲルは、シャルトを肯定的に評価しながら、次のように付け加える。「ここでは、よりよいものが不変性の形式をそなえていないために、より悪しきものになっている」。ヘーゲルにとって、シャルトはけっして満足のいくものではない。それでもシャルトとルイ18世について言及をしているのは、17・18年講義だけである。

2 君主権について。

君主権と統治権を明確に区別して君主権を立てるという論点は、この講義で初めて登場する。「君主権はそれ自身憲法体制の一契機であり、君主権がもろもろの決定を調整しなければならないときに従う理性的なものは、もろもろの法律である」(Ⅰ.§138A.)として、「最終的な形式的な決定という契機だけが、個人としての君主に帰属する。君主は、私はそれを意志すると言わなければならない」(同前)。ここで、当時のフランス立憲主義を思い起こすならば、「もろもろの決定の調整」ならびに「最終的で形式的な決定」という論点は、確実にコンスタンならびにシャトーブリアンのモチーフに通じている。また「君主は国民の最高の代表」(Ⅰ.§139)という論点は、シャトーブリアンの「代表君主制」概念を連想させる。

3 統治権に関して、君主は無答責、責任は内閣が負うとしている。

17・18年講義は大臣の副署権を取り上げる。「君主のどの決定も関係大臣によって署名されなければならない」(Ⅰ.§140)。18・19年講義も副署権に言及しているが(Ⅱ.333A.)、19・20年講義は示唆にとどまり(「多くの国々では大臣のある種の責任が正式に規定されている」Ⅲ.253)、『法(権利)の哲学』とその後の講義では表に出ていない。ヘーゲルは、内閣の自立性は議会に対する責任と結びつき、君主の大臣任免権は「恣意の事柄」ではなくなると言う。君主は、議会との関係上、大臣の才能や品位などを考慮せざるをえないからである。「フランスの内閣は、王族への敵対者、すなわち超王党派からなっている」という事例は、「よく構成された君主制における大臣の選任」が「恣意の事柄」でない証左ですらある。この注解で、ヘーゲルは、元首権に属していたものが「内閣活動に移るのは歴史の示すところ」とも言う。この観点はベルリン時代の法哲学講義にも引き継がれる。

4 議会と内閣の関係について。

内閣は議会の多数派の支持を持つかぎりで存続するとしている。「内閣は議会において多数を占めなければならないが、同じく反対派も必然的に存在しなければならない。議会は国家の偉大な助言者である。…内閣は、それだけで多数を占めるかぎりで存続することができる」(Ⅰ.§156)。また議会に法案提出の請願権があり、内閣は「議会の望むすべてに対して理由を…説明しなければならない」(Ⅰ.§149A.)。このことを示すために、たびたびイギリスの事例があげられる。

5 議会について。

租税承諾権によって行政を間接的に制御するなど相応の威力をもつとしている。「議会の仕事には、法的、政治的領域に関する法律を制定するにあたっての協力、市民生活という特殊な領域の法とその作用の仕方を規定するにあたっての協力のほかに、統治権に関して、官吏と統治官庁の振舞いに対する個々人の訴願を取り上げて審査すること、そしてとりわけ租税に対して年毎に承認することが属している。租税承認を通して、議会は統治の案件一般に対して間接的な制御をおこなう」(Ⅰ.§157)。この間接的な制御という論点はヴュルテンベルクの国王の憲法草案にもあった。この権能を明示している点がこの講義の特徴である(なお24・25年講義もこれに言及している。vgl.,Ⅵ.703)。そして「共同の方策は君主権、統治権、ならびに議会権の助言から生じる」と明言する。そこで「議会の公開性」は「出版の自由」と直結するものとされて、「出版の自由の可能性は、審議の公開性をもつ善き議会が、陪審裁判による裁判活動のあるところでだけ成立しうる」(Ⅰ.§155)とされる。責任内閣性‐議会の公開‐言論・出版の自由が一連のものという理解は、コンスタンやシャトーブリアンも同じく持っていたものであった。

以上、特徴的な論点を取り上げた。L.ジープは17・18年講義の権力分立論の方が「後のテキストに見られるよりも、諸権力の重要さをそれぞれに均等に分与し、また、諸権力相互の依存性を制度的により強く保障するかぎりで、古典的権力分立論に近い」[8]と言う。ジープは西ヨーロッパ的代議制民主主義を尺度にして評価を下している。ただし、ヘーゲル自身のライトモチーフに立ち返って、そこからヘーゲルの思想的努力を見るという視点が欠けている。イルティングは、フランス立憲主義が議院内閣制を展望しており、17・18年講義がそれと歩調を合わせている点に注目していた。ヘーゲルは歩調を合わせると同時に、独自のモチーフをもって「立憲君主制」概念を受容している。ヘーゲルが「立憲君主制」概念に込めたモチーフを探らなければならない。次のくだりから見てみよう。

「われわれの時代には、国家が理性的な現存在となる歩みが生じている。この歩みは千年来生じることがなかった。理性の権利が私権に対して真価を発揮したのである」(Ⅰ.§125A.)。

この論点はすでに『領邦議会論文』にあり、19・20年講義も「近年のすべての闘争は、政治的生活を封建的諸関係から純化することにある」(Ⅲ.238,一七九)と述べる。ヘーゲルはこのような視点から歴史の趨勢を見ている。そして政治的公的領域は「普遍的自由の概念の叙述」であると言う。言葉を変えると、憲法体制の特性は「普遍的なものが公然のものとなった法律として意識されるとともに現実化されている」(Ⅰ.§123A.)点に、すなわち普遍意志である法の支配にある。そこに立憲君主制はどうかかわるのか?

「一国民が市民社会を形成するまでに発展して、その具体的な生活と欲求と恣意ならびに良心において自由な自我が無限であるという意識をもつまで発展したとき、そのような国民においてのみ立憲君主制が可能になる。特殊性が自身のなかへと内省すると、一面では普遍的精神となる。それは自身のうちで具体的に編成された不可分の個体として、もろもろの特殊な契機へと分節化する〔権力分立〕。これが憲法体制である。他面でそうした内省は現実的個別性の契機、すなわち君主という個別的主体性の契機である」(Ⅰ.§137)。

主体的自由が申し分なく発展していなければ、つまり個人が社会生活のなかで個として自立したあり方をもてるようになっていなければ、真に普遍的なもの、言いかえれば普遍意志としての法は意識にのぼらない。特権や私権には、この普遍意志が自分を支える拠り所であるという意識はない。主体的自由に対する客観的自由、権利に対する法がはっきりと意識されるには、市民社会の発展が何よりも必要である。「立憲君主制の可能性」はここから生まれる。そして諸権力は、普遍的精神における「分節化」として「概念そのものの諸契機に従った区別」(Ⅰ.§131A.)とされる。この区分は、特殊的「自由に対する絶対的な保障」(Ⅰ.§132)を、そして「普遍的自由へとむかう概念の叙述」(Ⅰ.§137A)を目指している。つまり主体的自由の圏を打ち立てること、ならびに「普遍的自由」としての真に公的な圏を確立することが、諸権力の眼目なのである。「立憲君主制」概念はこのようなライトモチーフを背景にして受容されたのである。「国家の理性的で確固とした有機的編成」(Ⅰ.§138A.)というテーマと、執行権から切り離され形式化された君主権は、どうつながるのであろうか?

ヘーゲルは、君主が「最終的な頂点」(Ⅰ.§131A.)であることを強調する。これは、君主権に強大な権能があるという意味ではない。しかし「教養形成された憲法体制においては、君主の個体性は重要でない」(Ⅰ.§138A.)ということから、君主の機能を低く見積るのも早計にすぎる。ヘーゲルが重視するのは、憲法体制が作動する起点、すなわち「活動が君主から始まる」(Ⅰ.§149A.)という機能であり、この機能が正式に(つまり「形式的に」)憲法体制のもとで〈制度〉化されるという点にある。また「最終的な頂点」には、公的な圏を党派抗争や特殊利害に纂奪させないという意図が込められている。大臣の任免権、形式上の法律の発議と裁可権は、行政府や議会が党派や派閥の抗争の場となり、特殊利害が本来公的な圏を踏み荒すのを阻止するようにはたらく(Ⅰ.§140,149)。また「世襲」には、「頂点」を特殊利害から切り離すという意味がある(Ⅰ.§138)。憲法体制における〈出発点〉というモチーフの背景には、公的な圏域の確立に失敗してきたフランス革命以来の現代史がある。幾世紀にわたり公的なものと私的なものが混同されてきた。この文脈のなかで、執行権から分離された君主権は、この関係を脱構築する結節点という意義をもたされている。ここにヘーゲル独自の視点がある。主体的な自由の圏を確立することと、公的な圏を立て直すという課題は表裏一体をなしている。こうして主体的自由ならびに市民社会の発展と、新たな機能をもつ「君主という個別的主体性」が、人倫的共同体の両極におかれるのである。

 

四 プロイセン憲法闘争と『法(権利)の哲学』

次にプロイセンにおける政治情勢と憲法制定の動きをみておこう。1815年5月22日、国王の憲法発布の公約が出されて、憲法制定への期待が高まっていた。しかし憲法制定は、復古派が解放戦争後しだいに息を吹き返す中で、挫折にいたる。争点は、まず議会の問題にあった[9]。連邦規定13条の「ラントシュテンデ的憲法」という規定は、明確さに欠けていた。復古派はこれを旧身分制的な「等族的」議会と解し、君主の協賛組織にとどめようとした。とくにメッテルニヒは、「代議的」議会を革命の導火線とみて、西南ドイツ諸国ならびにプロイセン改革派の動きを憂慮し、この13条を復古的に規定しようとする。1820年5月、ウィーン最終規約57条が、それである。「…すべての国家権力は邦国の元首のもとに統括されねばならず、主権者である君主は一定の権利の行使においてのみ、ラントシュテンデ的憲法により等族(旧身分制…筆者)との協力を義務づけられるにすぎない」。これは旧身分制を維持し、君主主義を明確にしたものである。またウィーン体制の鍵は、プロイセンとオーストリアの協調にあることから、メッテルニヒは、プロイセン復古派を支援し、憲法と議会の阻止に躍起となった。プロイセン復古派は、ついに1821年6月、国会の開設を無期延期に追い込む。『法(権利)の哲学』は、このようにプロイセンが憲法と議会をめぐり大きく揺れた時期に姿を現したのである。

シュタイン(H.F.K.v.Stein,1757-1831)の改革を引き継いだ宰相ハルデンベルク(K.A.Hardenberg,1750-1822)は、戦争で逼迫した財政の再建に取り組みながら、いよいよ憲法制定に乗り出した。まず手をつけたのは、州議会の改革であった。復古派が、「諸州の連邦」論をかかげて旧議会(貴族、聖職者、都市貴族)の再建を主張したのに対して、改革派は、旧議会の再編(貴族、市民、農民)とそれを土台とした国民代表制をめざした。ただし「国民による国会の直接選挙は、当時、民主主義革命の原理と同じ意味をもった」(フーバー、HD.305)ことから、「代表」は地方議会にとどめ、国会は地方議会からの間接選挙というものであった。1817年3月20日には憲法の審議を促進するために、枢密院が設けられ、さらに30日には「憲法委員会」(議長、ハルデンベルク)が発足する(国王の意向は諮問的性格の議会にあった)。ヘーゲルは、憲法制定作業が本格化する時期にハイデルベルクからベルリンへ赴任する。

同じ頃、ブルシェンシャフトとその同調者の急進的な動きに対して、復古派の主導する警察がデマゴーグ狩りに乗りだす。それは1819年に本格化した。すでにメッテルニヒはアーヘン会議(1818年9-10月)で、ハルデンベルクに憲法制定作業への懸念を表明し、国王には立憲を策す「革命的党派」に注意するよう進言した。メッテルニヒによるプロイセン国王と復古派へのてこ入れはいよいよ強まる。そして、1819年8月1日に連邦政策についてプロイセンと秘密協定を結ぶ際に(テプリッツの密約)、「プロイセンは、…一般的な国民代表制は導入せず、諸州に領邦議会的な体制を授け、そこから邦代表者の中央委員会を形成することに決定した」(Tr.2.542f.)という言質をとるまでになった。憲法と議会とが復古と改革の争点であり、よく話題になるカールスバート会議における出版規制問題は、その第二ラウンドなのである。

ハルデンベルクは、この新連邦政策を「2,3年の例外法規」(トライチュケ、Tr.2.580)とみて、1819年8月23日、憲法小委員会を設け、制憲作業を加速させようとしていた(改革派4名、復古派2名)。しかし議会問題担当大臣フンボルト(K.W.Humboldt,1767-1835)の権限をめぐり、宰相が他の大臣を統括する官僚主義的な総理大臣制をとるハルデンベルクと、シュタインと同様に「合議制」を唱えるフンボルトの対立が表面化した。さらにフンボルトは、カールスバート決議の正式承認にのぞんで、2年間の時限立法とするよう主張して、改革派の中の亀裂を深めた。19年の年末にはフンボルトほか2閣僚が閣外に去り、憲法委員会の活動も停止するにいたる。こうして1820年になると、「内閣、枢密院、宮廷のうちで、今や旧身分制的な心性の持ち主たちがはっきり優位に立った。ハルデンベルクは憲法問題で孤立無援に近くなった」(フーバー、HD.311)。憲法委員会は、ハラーやミュラーを信奉する皇太子(1795-1861)を座長とし、復古派が握ることになったのである。

なおコンスタンは、1821年3月、コレッフ(ハルデンベルクの医師)が送ったベンツェンベルク(Venzenberg,ハルデンベルクの信奉者)の著書(出版、1820年)をもとに、『プロイセンにおける立憲制的諸原理の不可避的かつ真近かの勝利』を著した。それはハルデンベルクを立憲主義、自由主義の旗手として描くものであり、これは、ハルデンベルクの「宮廷における声望に致命的な一撃を加えることになった」(HD.312)という。フーバーによれば、「立憲君主制」を掲げることは「反動が一般化した時代には、反逆の訴えを受けるのとほとんど同じことだった」(ibid.)。ハルデンベルクは、憲法制定に向けた建白書を国王に出す際に(1821年5月)、もはや「立憲君主制」を使用せず、かわって「プロイセン的君主制」を使用する。

以上の憲法と議会をめぐる動きを背景において、『法(権利)の哲学』の立憲君主制論を検討してみよう。

 

五 「理性の象形文字」としての国家論

「理性の象形文字」(Ⅵ.670、五三四)という言葉が、24・25年講義にある。この言葉は『法(権利)の哲学』を、そのバックグラウンドから読み解くことを求めているように思われる。「立憲君主制」は同時代の生まれたての概念であり、しだいに復古派が危険視し、ハルデンベルクも状況に〈順応〉して用いなくなったものであった。『法(権利)の哲学』は、そのように危険視される概念を正面に掲げる。ここには原則の保持という姿勢が浮かぶ。ヘーゲルの熱心な読者ターデンは、1821年8月8日づけ書簡で『法(権利)の哲学』に『領邦議会論文』からの後退を見て、封建的なもの、たとえば土地貴族への批判の欠如を嘆くものの、立憲君主制をとがめていない(Ⅱ.393-399)。むしろ出版からおよそ10年後、保守派の論客シューバルトやシュタールが、「立憲君主制」を「君主制」と相入れないもの、さらには革命の土台として批判する(Ⅱ.561-589)。

「愛国心」にも同じような事情がある。ベーンによれば、『国家学の復興』の著者ハラーは「愛国心そのものに対しては断固として反対し、この感情は君主制の国家にあっては全く容認しがたいものとした。『愛国心』という概念は以前には存在しなかったし、この言葉はほとんど使われたことがない。共和国という概念を「抽象的に」国家に適用するようになってはじめて、愛国心という言葉が使われるようになったというのである」[10]。『法(権利)の哲学』に登場する「愛国心」概念は、当時の歴史的文脈の中では旧体制に批判的な意味をもっていた。保守的・復古的に聞こえる「立憲君主制」や「愛国心」にこのような事情があるとすれば、まして『法(権利)の哲学』を読み解くためには、当時の歴史的文脈のなかで「象形文字」を読み解くようにして、その含意を捉える必要がある。次にヘーゲルが『法(権利)の哲学』に基本ライン(Grundlinien)をどう描き込んでいるかを見ていこう。

さて、君主権の「最終的な意志決定」(PR.§273)という規定は、君主に絶対的な威力を与えるようにみえる。そこで、これを相対化するために、君主権の第三の契機である「憲法体制の全体と法律」が、よく持ち出される。しかし、この「最終的」の意味は、第二の契機である「審議」から探る必要がある。「最終的」を字義通り解すれば、実質をなす「審議」の途上で君主が口を挟まず、その最終場面にのみ関与するという意味になる。この〈最終的な関与〉は各講義録を貫く観点でもある。そして君主の「無答責」(PR.§284)概念は、何よりも統治権から君主権を分離し、形式化するという前提から出ている。「最終的な意志決定」といい「無答責」といい、この言葉の意味は、フランス立憲主義の見識を持つ者であるならば、おのずと分かる。「無答責」は、フランス立憲主義では責任内閣制とワンセットの概念であった。『法(権利)の哲学』が責任内閣制を明言していないとしても、君主の「無答責」そのものが、責任内閣制を指し示しているのである。

ところで当時のプロイセンは、歴史も宗教も異なる地方を抱えたモザイク的な国家であり(ウィーン体制による新版図ライン地方はカトリック。旧版図はプロテスタント。しかも二つの版図には法慣習の違いもあった)、しかも「郡邦割拠制(Partikurarismus)」に立つ旧身分は、政治・財政の改革の障害であった。「イデアリテートIdealität」(PR.§278)という主権の規定は、モザイク的状況、旧身分制的な既得権の廃棄も含意している。「最終的な意志決定」の契機は、「イデアリテート」の人格的表現=君主という規定とワンセットであり、17・18年講義で見たように、公的な圏の新たな確立というモチーフに通じている。

ところで議会の役割は、『法(権利)の哲学』では17・18年講義と比べて低下したように見える。「国家の最高官吏」の「包括的洞察」に対して、議会をその「補足(Zutat)」(PR.§301A.)とする叙述は、その証左に見える。議会問題は当時の最もデリケートな問題であった。ハルデンベルクが1819年10月12日の憲法委員会でおこなった提案は、「用心深く、発議権、公開制、大臣答責制について留保しておいた」(Tr.,Bd.2.580)ほどであった。しかし、ヘーゲルは「原則」に立脚しようとする。「総体性にまで展開された理念の一規定であることの内的な必然性は、外的な必然性や有用性と混同されてはならない」(ibid.)。ヘーゲルは、〈公開性Öffentlichkeit〉の原理にもとづいて、質疑応答の重要性を強調する。「公共の福利と公共の自由のために議会のうちに存する保証は、…予期される多くの人々の監察(Zensur)と、しかも公的な監察がもたらす結果のうちにある」(ibid.)。官吏は、そのためにあらかじめ最善の洞察を働かせると言う。それとともに「議会の公開によって、みんなが知るという契機が拡張される」(PR.§314)。さらに「言論・出版の自由」(PR.§319)がそれを補足する。議会の使命は「共に知り、共に審議し、共に決議するというかたちで、…形式的自由の契機の正当な権利がかなえられるようにすることにある」(PR.§314)。この公開性‐世論‐言論・出版の自由を一連のものとする基本ラインは、フランス立憲主義に確実に通じている。〈公開性〉のもとで、議会のおこなう「監察」は、ただの「補足」にとどまらず、政治的公的圏域への市民の関与を促すであろう。

ヘーゲルが「補足」としての議会ではなく、それ相応の威力をもつ議会を想定していることは、以下からも分かる。議会は媒介機関として、「有機的に組織された統治権と共同して、君主権が極として孤立したかたちで現れて、これによって支配権力や恣意として現れることがないようにすること、他方で、もろもろの地方自治団体やコルポラツィオーンや個人やの特殊的利益が孤立しないようにするという媒介の意義をもつ」(PR.§302)。このことは、君主から自立した責任内閣制のもとで可能になるはずであり、それと共同する議会がたんなる協賛機関であれば、君主権が「恣意として現れることがないようにする」という課題を果たすことはできないはずである。

次に官僚制について見てみよう。ヘーゲルの国家では啓蒙官僚が主導的位置にあると、よく言われる。ここでは、「最高審議職」(内閣)を「合議制(kollegialisch)」(PR.§289)とする点に着目してみよう。「合議制」を内閣の編成原理とする構想は、本来シュタインのものであり、そこには官僚制全体に対するチェックというモチーフが働いていた。これを継ぐフンボルトは、ハルデンベルクのもとで新たに形成されていた官僚制について憂慮していた。彼は入閣(1819年)と同時に、国家宰相制か合議制かという内閣の構成原理をめぐり、宰相ハルデンベルクに闘いをしかけたのであった。ヘーゲルがこの争点を知らないはずはない。ヘーゲルの「合議制」は、シュタインのモチーフと無縁ではないであろう。このモチーフを持ちつつ、ヘーゲルは、新しい「中間階級」の形成に期待を持つとともに、その弊害に眼をこらす。「政府構成員と官吏は、国民大衆の教養ある知性と合法的な意識とが所属する中間身分の主要部分をなす」(PR.§279)と官僚制の理念を語り、その後すぐ「この身分に貴族制のような孤立した立場をとらせず、そして教養と技能を恣意の手段や主人づらをする手段にさせないものは、上から下に向かう主権と、下から上に向かう団体権(Korporationsrecht)との制度である」と言う。24・25年講義は、さらに中間階級の他の部分として「コルポラツィオーンの代表者たち」(Ⅵ.695、五五五)を挙げる。市民社会の自治の成熟が官僚に対するチェック機能を可能にする。なおコルポラツィオーンと地方自治団体(Gemeinde)には代議士選出の母体という役割も与えられる。ヘーゲルは姿を現しつつある普通選挙制に、広範な政治的無関心と公的政治的空間の空洞化を生み出すという問題を見出したからである。

本章で簡単に見たように、公的圏域が成立するための、幾重にもわたるチェックのネットワークを、ヘーゲルは〈制度〉設計を通して構想している。「国家」の冒頭は、「国家は実体的意志の現実性であり、…絶対不動の自己目的である。…個々人の最高の義務は国家の構成員であることである」(PR.§258)と言う。この前に、国家は「個々人の知と活動において媒介されたかたちで顕現する」とある。この落差に読者はとまどう。しかしその先には、「普遍的なものは、諸個人の特殊な利益や知と意志のはたらきを抜きにしては、効力をもたないし貫徹もされない」(PR.§260)とあって、冒頭の論点が相対化される。 国家論の叙述は平板ではない。『法(権利)の哲学』はことさらに基本ラインを読み解く努力を求めているのである。1821年6月9日付けニートハンマーあて書簡は、「私は、欺くことなく(ohne  Gefährde)、デマゴーグ狩りの危難を持ちこたえました。― 嫌疑や中傷に対する心配がないわけではありません」(Bri.2.271)と言う。この「欺くことなく」は、当時の厳しい状況の中でも、『法(権利)の哲学』においておのれの思想の基本ラインをいつわりなく叙述したことを指すものであろう。

 

結び

プロイセンにおける立憲化の試みは結局挫折にいたった。新たな動きは1848年革命を前にした「三月前期」をまたねばならない。22・23年講義は、この試みについて「近年、人々が国家について一般にいっそう明確な見方をもつようになったことはきわめて重要である。憲法を作成することがきわめて一般化した」(Ⅴ.744)ことを評価しながら、他方で「理性的な見方」(ibid.)に立つ必要を強調する。24・25年講義は、「国家は、恣意、偶然、誤謬の圏にある」(Ⅵ.632,五〇一)ことをはっきりと認めて、「不完全な国家」と「完全なものとなった国家」(Ⅵ.635,vgl.,654,五〇三、五二〇)を対比し、あるいは「最良の憲法体制」(Ⅵ.655、五二一)の何たるかを語り、「実体的であるもの」と「外面的な現存在」を区別する意義を語りだす。

17・18年講義は、現代史の総括の上で人倫の理念の具体化するという姿勢を示していた。この姿勢は一連の憲法闘争の終息の中でも変わらない。「新たなものが破壊されて、形式の変更がおのずと次第次第におこなわれる。…立法権は生けるものであり、そこにはさらに特殊な諸制度が入りうるのである」(24・25年講義、Ⅵ.697,五五八)。これは、17・18年講義が示していた論点でもあった。あるいは、ヘーゲルは歴史の視点から、こう言う。「憲法体制を作る絶対的な立法権力は歴史である。…作るということは偶然性の形態をもつが、つねに個々の規定は時代の必要によって展開される。こうしたことがどのように生じるか、君主の自由な意志によるか、あるいは君主から奪い取られるか、あるいはコルポラツィオーンによるか、戦いによるか、あるいは平穏な諸観念によるか、いずれによって生じるかは歴史の問題である。…国民のうちに憲法の規定が必要だという必然性の意識がなければならない。これが歴史における実在的意識というものである」(Ⅵ.696f.,五五七)。南欧では革命運動が勃発し、歴史は変化を招きよせる。「少なくとも主観的自由のある西洋においては、一般に憲法体制は不変のままにとどまらない。それはつねに変化する。つねに革命が起こり、つねに前進が生じる。このことを見るには、五〇年来の意識の発展を考察すればよい。この発展によってすべての制度や関係が形態化されたのである」(Ⅵ.660f.,五二五)。ヘーゲル法哲学は閉じた体系ではない。ヘーゲルは歴史との応答のなかで、歴史的帰趨を見定めようとする。

さて、本報告では、同時代を背景において立憲君主制の意味を探り、そしてヘーゲルの視線が終始、フランス革命を起点とする現代史の展開とそのゆくえにあったことを見ておいた。ここでは検討するにいたらなかったが、ヘーゲルは人倫の理念を具体化するにあたり、市民としての個人がいかにしてシトワイアン(公民)としての気構えをもちうるか、またそれを基盤として、どのような制度的回路によって公的な圏を生きた空間としうるかについて思想的工夫を重ねている。市民社会の成熟の中で、対等な市民的関係を基本にしたコルポラツィオーンならびに地方自治団体が、私的な圏を再編成すること、それらが公的な圏と市民的圏を媒介するものとして重視される。公的な圏と私的な圏がそれぞれ固有の意義をもちつつ、不可分のつながりをもつ鍵は、シトワイアンの気構えをもつ市民の成熟度、またそれを土台にした制度的回路の形成にある。ヘーゲルの思索の中に、時代による制約を見出すことはたやすい。しかしヘーゲルが抱いた公と私の新たな構築というテーマはなお今日的テーマであろう。またそのための思想的努力の中に、さまざまな知的刺激を見出せるであろう。なお『法(権利)の哲学』の方法、構成、展開の検討は、別の機会に譲らざるをえない。

 

凡例

1) ヘーゲルの文献について、以下の略号を用いた。

引用は次の略号と巻数、頁数で表わす。邦訳がある場合はそのあとに漢数字を付した(訳文はそのままではない)。

GW:G.W.F.Hegel Gesammelte Werke,in Verbindung mit der Deutschen Forschungsgemeinschaft,Hrsg. von der Reinisch-Westfälischen Akademie der Wissenschaftten, Hamburg,1968ff.

HW:G.W.F.Hegel Werke in zwanzig Bänden,Hrsg. von E.Moldenhauer und K.M.Michel, Frankfurt a.M.,1969ff.

Br:Briefe von und an Hegel,Bd.1-3,Hrsg.Von J.Hoffmeister, Hamburg,1969. Bd.4/1,4/2,Hrsg.von F.Nicolin,Hamburg,1977,1981. Brのあとに巻数、頁数をおく。

PR:Grundlinien der Philosophie des Rechts、『法(権利)の哲学』(Hegel Werke in zwanzig Bänden,Bd.7,Frankfurt a.Main.)は、節番号で表す(A.は注解を指す)。ただし、節が長い場合は原頁数を付す。邦訳は藤野渉・赤澤正敏訳(世界の名著、中央公論社)を参照した。

Ⅰ:18 17・18年法哲学講義(バンネンマン) G.W.F.Hegel,Vorlesungen über Naturrecht und Staatswissenschsft.Heidelberg 1817/18.Hrsg.von C.Becker …Mit e. Einl.von O.Pöggeler.Hamburg.1983.高柳良治・神山伸弘・滝口清栄他訳『ハイデルベルク大学法哲学講義』法政大学出版局、2007年。『法(権利)の哲学』と同様に示す。

Ⅱ:18・19年法哲学講義筆記録(ホーマイヤー)『自然法および国家法―『法の哲学』第二回講義録』尼寺義弘訳、晃洋書房、2003年。

Ⅲ:19・20年法哲学講義筆記録(筆記者不詳) G.W.F.Hegel,Philosophie des Rechts.Die Vorlesung von 1819/20.Hrsg.von D.Henrich.Frankhurt am Main.1983. D・ヘンリッヒ編『ヘーゲル法哲学講義 1819/20』中村浩爾他訳、法律文化社、2002年。

Ⅴ:22・23年法哲学講義筆記録(ホトー)

Ⅵ:24・25年法哲学講義筆記録(グリースハイム) 『ヘーゲル法哲学講義』長谷川宏訳、作品社、2002年。

*Ⅱ、Ⅴ、Ⅵについては、G.W.F.Hegel:Vorlesungen über Rechtsphilosophie 1818-1831,Ed.v.K.-H.Ilting,Stuttgart-Bad Cannstatt,1973-74. Bd.1がⅡ、Bd.3がⅤ、Bd.4がⅥを所収。

Ilt: G.W.F.Hegel:Die Philosophie des Rechts.Die Mitschriften Wannenmann

(Heidelberg 1817/18)…Hrsg.von K.-H.Ilting.Stuttgart.1983.

『ドイツ国制批判論』、『領邦議会論文』には、以下の邦訳がある。

『ドイツ国制批判論』(『ドイツ憲法論』金子武蔵訳、『ヘーゲル政治論文集(上)』、岩波文庫、一九七四年、所収)GW.,Bd.5所収。

『領邦議会論文』(『一八一五年および一八一六年におけるヴュルテンベルク王国地方民会の討論、一八一五年‐一八一六年の議事録、三三節』上妻精訳、ヘーゲル『政治論文集』下、岩波書店、一九七四年)GW.,Bd.15所収。

 

2) トライチュケ、フーバーからの引用は次の略号と頁数で示す。

Tr:Treitschke,Deutshe Geschichte im neunzehnten Jahrhundert,Bd.2,3.Leibzig.1927

HD:E.R.Huber,Deutsche Verfassungsgeschichte,Bd.1.Stuttgart.1975.

(憲法制定をめぐる動向については、トライチュケ、フーバーの書にあたった)

 

[1] 『法(権利)の哲学』と講義録の「根本的な差異」については一般に疑問視されている。問題点は、Hegel-Studien,Bd.10(1975),11(1976)のホルストマンの書評がよくまとめている。イルティングをめぐる論争について、拙著『ヘーゲル『法(権利)の哲学』 形成と展開』(御茶の水書房、2007年)所収、「補論 ヘーゲル法哲学の研究状況 イルティング・テーゼをめぐって」でまとめておいた。

[2] ヴァンネンマンの筆記録は、カロヴェの筆記の断片とその該当部分に関し一致するため、文献学的に信頼度が高い。19・20年の筆記録(筆記者名、不詳)については、文献上の信憑性に疑問が投げかけられた。二つの筆記録の文献学的検討は、E.W.Lohmann,Hegels Rechtsphilosophische Vorlesungen,Zeignis,Manuskripte und Nachschriften,in:Hegel-Studien,Bd.26,1991.に詳しい。ただし、ヘンリッヒが公刊した19・20年講義筆記録の信頼性問題は、同講義についてのリンギーア筆記録(G.W.F.Hegel, Vorlesungen über die Philosophie des Rechts Berlin 1819/20, nachgeschrieben von J.R.Ringier, hrsg. von E.Angehrn, M.Bondeli und H.N.Seelmann, Felix Meiner Verlag, Hamburg, 2000.)の公刊によってほぼ解消している。

なお21・22年の講義録は、1984年、キール教育大学で発見された(ただし「国家」の章の大部分が欠落している)。G.W.F.Hegel,Die Philosophie des Rechts: Vorlesung von 1821/22, Suhrkamp Verlag,2004.  邦訳は以下のものがある。『G.W.F.ヘーゲル『法の哲学』第四回講義録 1821/22年冬学期、ベルリン キール手稿』尼寺義弘訳、阪南大学翻訳叢書、晃洋書房、2009年。

[3] 17・18年講義の公刊以前に、ニコーリンは、先に挙げた立憲君主制論に関わるカロヴェの筆記断片と『法(権利)の哲学』の論点を対照させて、立憲君主制論のモチーフを探る上で、17・18年講義の刊行の必要を述べていた(F.Nicolin,Hegel uber Konstitutionelle Monarchie,Ein Splitter aus der ersten Rechtsphilosophie-Vorlesung,in:Hegel-Studien,Bd.10.1975.)。この講義の刊行前に、セガは立憲君主制論の成立と展開を論じ、その成立とフランス立憲主義のつながりを、また執行権と君主権を区別するコンスタンの間接的な影響を指摘している(C.Cega,Entscheidung und Schicksal:furstliche Gewalt,in:Hegels Philosohie des Rechts,Hrsg.von D.Henrich u. R.-P.Horstmann.Stuttgart.1982.)。

[4]  フーバーによれば、議会は「近代的な民主的・立憲的な論議を要求したのではなく、旧身分制的体制への追憶を要求し、それを支持したのである」(HD.332)。

[5] フランス立憲主義とヘーゲルとの関連は、すでにガンスが、ベルリン大学での1832・33年冬学期の法哲学講義で示唆している。ガンスは、近代の法哲学の発展を三区分する。ルソー、カント、フィヒテなどの当為の立場を第二期として、フランス革命以降の第三期は、1、過去の現実への回帰(ド・メーストル、ハラー、A・ミュラー、シュレーゲル)、2、革命の経験をともなう現実的なものへの回帰(コンスタン、シャトーブリアン、ロワイエ・コラール(Royer-Collard,1763-1845)、3、法と国家の概念把握に立つ現実的なものへの回帰(ヘーゲル)に区分される(E.Gans, Naturrecht und Universalrechtsgeschihte, Hrsg., v.M.Riedel,Stuttgart, 1981,S.49ff.)。ガンスは、「2」の立場をもって「立憲君主制の形態を発展させ、打ち立てた」(ibid.S.51)と言う。彼はパリ旅行の際、コンスタンを訪問してもいる(ジャック・ドント『ベルリンのヘーゲル』花田圭介監訳、法政大学出版局、1983年、211頁)。なおヘーゲルはコラールの弟子筋のクーザン(Victor Cousin,1792‐1867)と親交があった(同前、134頁)。

[6] 「シャルト(憲章)」の邦訳は以下にある。山本浩三訳「王政復古の憲法(1)、(2)」『同志社法學』同志社法學会編、10巻3号、5号(1958年10月、1959年2月)所収。

[7] 佐藤功『比較政治制度』東大出版会、1967年、79頁。『憲法草案』よりの引用文。なおコンスタンは1815年により明確に、「われわれの憲法は、大臣責任制を確立するにあたり、大臣権を明確に王権から分離する」(Benjamin Constant, Principes de politique,1815,in:Cours de politique constitutinelle,reprint of the 1872 ed. published by Guillaumin,vol.1,Arno Press Inc.,p.18)と明確に述べる。コンスタンとシャトーブリアンに関して、深瀬忠一「バンジャマン・コンスタンの中立権の理論」(北大『法学会論集』第10巻合併号、1960年)、宮沢俊義「シャトブリアンの議院制の理論」(『憲法と政治制度』岩波書店、1968年、所収)、田中治男『フランス自由主義の生成と展開』(東大出版会、1970年)、小野紀明『フランス・ロマン主義の政治思想』(木鐸社、1986年)、レーベンシュタイン『君主制』(秋元律郎他訳、みすず書房、1957年)などを参照した。

[8]  L.Sieb,Praktische Philosophie im Deutschen Idealismus,Frankfurt am Main,1992,S.254.「ヘーゲルの権力分立の理論」小川清次訳(『ドイツ観念論における実践哲学』上妻精監訳、晢書房、1995年 所収)389頁。なお、ジープもこの講義の重要性を認めるが、承認論の視野から読解することから、個別意志に対する普遍意志の優位という面をクローズアップすることになり、結局新たな読解の方向が出てくるわけではない。ハイデルベルク講義(C.ベッカー他編)への書評でも、ヘーゲル国家理論の「自然哲学的背景」、つまり有機体論的な構えへの異和が示される(Hegels Heidelberger Rechtsphilosophie, in:Hegel-Studien,Bd.20,1985,SS.283-291.)。

[9] 邦語文献では、水崎節文「一九世紀初期におけるプロイセン議会制構想」(名古屋大学『法政論集』15、1960年所収)が参考になる。

[10] マックス・フォン・ベーン『ビーダーマイヤー時代―ドイツ一九世紀前半の文化と社会』、飯塚信雄他訳、三修社、1993年、29頁。(Max von Böhn, Biedermeier.Deutschland von 1815-1847,Bruno Cassirer Verlag,Berlin,1911)

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〔study1107:200226〕