このところ世間の話題は専ら「コロナ禍」に向けられているようだ。東京の罹患者はここ幾日か幾何級数的に増加している。
政府関係者は、今になって初めてわかったかのように、PCR検査の不足、予防的措置の遅れ、罹患者の早期発見と入院治療を手早く実施しうる医療施設の増設、器具類などの不足・不備を声高にわめき始めている。一体、それまでの専門家会議とは何だったのだろうか。
「コロナ禍」が世間で問題になり始めたころ、おそらく1月か2月初めのころ、既に心ある医療関係者はこれらの点を指摘し、早期の対応をメディアで述べていた。早急に準備すれば、費用も少なく、犠牲者も最小限に抑えられると…。
しかし、オリンピック開催に血眼の政府関係者、東京都の首長などは、この段階では全く耳を貸そうともしなかった。日本は「安全な国」の一点張りだ。
それどころかこの期間、国会で安部内閣が腐心していたのは、「モリ・カケ・サクラ」の自分たちがかかわる「犯罪」事件のもみ消しと、米国のトランプ政権へのお追従(オスプレイ配備やFMS=対外有償軍事援助への貢献)であった。しかも「コロナ対策」で明らかになったのは、肝心の基本対応をよそにしての新たな犯罪的行為(不要なアベノマスクへの公的資金233億円の浪費、また電通や竹中平蔵が関わる人材派遣会社(パソナ)関連への専一的な業務委託、さらにGo Toトラベル、イベントへ1兆6千億円をつぎ込み、大手旅行会社、交通会社を支援、など)ということである。
反対を押し切って強引に実行した「Go To」企画は、無様な失敗に終わっただけでなく、当初から警告されていた「コロナ禍の全国ばらまき」というこれ以上ない酷い結果を生み出している。
これらの腐敗しきった政府の無責任政策のしりぬぐいは、いつものように国民、特に弱者へと転嫁される。小資本、零細な「居酒屋」や「食堂」などは、この圧をもろに受けている。従業者は解雇や休業、あるいは感染の危険を覚悟しての就業を余儀なくされる。生活できないからだ。その結果は絶えざる「危機神経症」、そして幼児の育児放棄と重大事故、等々の痛ましい事態が持ちあがってくる。
こういう貧困社会を、誰だったかが、「貧窮は遺伝する」というようなことを言っていた。けだし名言である。子供の七人に一人が貧困状態にあるといわれる。先日、三歳の娘を一週間部屋に放置して死なせた母親(母子家庭)は、自分自身も悲惨な幼児時代を経験している。こういう痛ましい事件を生む貧しい社会が累々として続いている。
以下では、1789年「フランス大革命」直前のパリの状況を活写した著書から貧困ゆえの腐敗、堕落の一部を取り上げ考えてみたい。
「大革命」直前のパリの状態との比較として
『18世紀パリ生活誌 タブロー・ド・パリ』メルシエ著 原 宏編訳(岩波文庫1989)
Le Tableau de Paris 1782,83,88という本がある。この本の面白さは、当時のパリの状況が上層部から下層部にいたるまで、しかもさまざまな職業にわたって観察され、描かれている点にある。当時の世界で一、二の大都会パリ、「花の都」と謳われながら、その生活環境たるや、庶民の住環境は不潔そのものであったこと。その一方で、王侯貴族は広壮優雅な大建築と広大な庭園を造って実にゴージャスな生活を送っていたことがわかる。すでにして酷い格差社会が生みだされている。
パリの庶民の生活を知るために、この書の(上)の「小ブルジョワ階級について」という小見出しがつけられた箇所から、少し長くなるが引用してみたい。
≫私はここで中産階級最下層のクラスについて話そうと思うが、この階級はいわゆる細民と接しており、その細民はまた更に賤民に溶け込んでいる。…
小ブルジョワの娘は、他の娘ほど母親の目が厳しくない。ケープを着て外出する口実にはいつも事欠かない。妊娠でもしない限り貞操堅固だといわれる。しかし妊娠してしまうと、親の家を出て、六か月後には街の女になっている。彼女らの兄弟はある日ふと軍隊に入り、18か月後には脱走し、それっきり消息を絶ってしまう。志願兵の供給源はもはやこの小ブルジョワだけになった。昔は善良なブルジョワの息子は、しばらく軍役に服することを名誉としていたものだ。今では軍役には何の魅力もなく、放蕩の根源とか不名誉な身売りとしかみなされなくなっている。
悪人になった者はみな、おそらく最初はまず惨めな子供であったのかもしれない。この階級特有の貧しさのために、両親は自分の子供たちに何一つしてやれない。従って子供たちは、細民階級の場合よりもひどい不良になるが、それは日々のパンを与えてくれる頼りになる技術をもたないからである。
ブルジョワの一番下の層の娘は、「かけはぎ」でそれと分る。「かけはぎ」というのは、布の繕い方のことで、穴を蜘蛛の巣に似た網状のものでふさぐのである。憐れな娘たちは、そんなふうに「かけはぎ」だらけの肩掛けをしているのだ。≪
実際にこういう描写を読むと、どこかに今日の状況が思い当り、重なるところがある。貧しさは悲惨なものである。日本人の生活が貧しいのは敗戦後の一時期だけのことではない。親の世代、いや更にはるか昔からこのような悲惨な生活が繰り返され、社会的に再生産されてきているのである。もちろん、今日に至るも状況は少しも変わっていない。どこに「豊かな日本」が存在しているのだろうか。
もう少し続きを見てみる。
≫小ブルジョワは、庶民層よりも人情に乏しく、自分の子供でもあまり抱擁することがない。子供たちが少し大きくなると、子供たちのことは忘れてしまい、それより少し金でも貯め込もうなどと考える。初聖体拝受を受けさせてしまえば、してやるべきことはみなやったと思い込む。それで彼らにとっては、子供の教育は完了なのである。
既に結婚の許される年齢になっている娘たちは、教理問答を習いに行く。その厳かな日が、彼女たちにとって着飾る機会となり、初々しい魅力の限りを尽くして人前に出ることになるだけに、娘たちの方が少年たちよりも、その日のことを余計に不安に思う。聖職者が美少女の一隊を先導するが、その少女たちもやがて坊さんの手から抜け出していく。今のところ彼女らの顔にはまだ無垢の影が宿っているが、しかし腐敗した世界がやがて彼女らを追い求める時が来るのだ。少女たちの周りに見られる実例も、誘惑も貧困も、楚辺手が危険を増幅することになる。しかも何たることか! 初聖体拝受の年が、貞淑の終わりとなることが、極めて多いのだ。…裕福で、放蕩者の誘惑者どもがもうすでに彼女たちの顔を覚えようと教会にやってくる。そこでは少女たちが悪徳の罪からお守りくださいと哀願しているのだ。彼女たちがしとやかに目を伏せているのに、悪徳の目は物欲しそうに彼女らを見つめている。…≪
堕落、悪徳を個人の責任として見過ごし、非難することができるであろうか。ましてや、「被差別部落民」とか「在日」とかという差別の目を日常的に浴びせられている人たちを「自己責任」という冷たい言葉で片付けることができるだろうか。
結論に代えて
国家の破綻(債務不履行でのデフォルト)、政権の責任放棄は、あるいはこの国にも起こりうるかもしれない。しかし、それを社会の根本的な改革へと結びつけるためには、どうしてもそれを目的的に推進する圧倒的な庶民の力(主体性)が形成されなければならない。
ご存じのように「フランス大革命」は、このような為政者側の腐敗と、市民層、特にパリの底辺の住民の不満に端を発しながら持ち上がった。しかしその結果は決して十分なものではなかったこともよく知られている。
人民主義者の歴史家ミシュレは次のように述べる。
≫(ロベスピエール派の処刑という)道を通って、われわれは巨大な墓場(ナポレオン体制)へと赴いたのである。この墓場にフランスは500万人の人々を葬った。≪『フランス革命史』ミシュレ著 桑原武夫・多田道太郎・樋口謹一訳(中央公論社「世界の名著48」1979)
ここでは、ロベスピエールの「恐怖(テロル)政治」の向こう側に、反動的なナポレオンの軍事体制が待ち構えていたこと、こうしてフランス革命の理想が潰え去ったことが慨嘆されている。
マルクス主義の立場に立つ歴史家のマチエは、「フランス革命」をこう総括する。
≫この共和国は、戦争と多くの苦しみから生まれ、そして無理やりに自分の原則に反した恐怖政治という鋳型の中に投げ込まれ、驚嘆すべき数々のことをしたにもかかわらず、…次第次第に狭くなってゆく基礎の上に支持されたこの共和国は、自分の命に結び付けようとした人々からさえ理解されなかった。対外戦争の勝利まで、この共和国を存続させるには、建設者の熱烈な神秘主義と超人的なエネルギーが必要であった。二千年間続いた王制と奴隷制度を数カ月で持って消すことはできない。どんなに厳しい法律でも、一撃で人間の性質や社会制度を変えることはできない。市民制度を設け、富の帝国を転覆するために、独裁を永続させようとしたロベスピエールもクートンもサンジュストも、この事をよく悟っていた。…≪『フランス大革命』上、中、下 マチエ著 ねづまさし・市原豊太訳(岩波文庫1971)
アナトール・フランスは『神々は渇く』という小説の中で、ギロチンにかけられる直前の、最晩年のロベスピエールのほんの一瞬の姿であるが、実にうまく描き出している。
「フランス大革命」を主題にするつもりなら、当然、ジョルジュ・ルフェーヴルの労作などに関説せざるを得ないであろうが、ここではそれは控えさせていただく。その代り、かのフリードリヒ・エンゲルスの次の冷静かつリアリティに富む一文を引用して当座の結論に代えさせて頂きたいと思う。
≫…有産階級は普通選挙権を通じて直接に支配するのである。…プロレタリアートが、まだ自己解放を遂げるまでに成熟していない間は、彼らは大多数が、現存の社会秩序を唯一の可能なものとして認め、政治的には資本家階級のしっぽ、その最左翼であるだろう。しかし彼らが自己解放へと成熟するにつれて、彼らは自らを独自の党に結成し、資本家の代表者ではなしに自分たち自身の代表者を選挙するようになる。こうして普通選挙権は労働者階級の成熟の尺度である。それは今日の国家では、決してそれ以上のものであることはできないし、またそれ以上のものにはならないであろう。≪『家族・私有財産・国家の起源 ルイス・H・モーガンの研究に関連して』エンゲルス著 戸原四郎訳(岩波文庫1965)
2020.8.4 炎暑の朝を迎えて
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〔opinion9997:200804〕