古代中国史を逍遥する(5)

参照文献:『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』平勢隆郎著(講談社:中国の歴史02 005)/『黄河の水』鳥山喜一著(角川文庫1963)/『新十八史略』駒田・常石ほか著(河出文庫1,2 1993)…[上からそれぞれ、『シリーズ02』、『黄河』、『史略』と略記]

「史書」とは権力を承認させるための公文書だった

気ままなぶらつきもそろそろこの辺で一応の締めくくりにしたいと思っている。

そこでまず、史書(歴史書)が書かれる背景のところを考えてみる。史書はたいていの場合、時の権力の権威付け(=相互承認)に結びついているように思う。家系図などもそうかもしれないが、自分たちの先祖がどこの「馬の骨」かはっきりしないのでは何とも居心地が悪い。特に権勢をふるう家柄の人間にとっては面白くないだろう。そこで自分の出自を民間伝承の神代の昔に結びつけて神話伝説という壮大な物語を作り上げることになる。しかしその一方で、そういう神話の世界に無縁な庶民間では、逆にありもしない立身出世伝をでっちあげて、架空の苦労話(秋田からリュック一つで上京したなどという)を作り上げることにもなる。これなどもある種の権威付けであろう。いずれも、自分たちは特別に選ばれた者たちであるということを知らしめることがその主要な狙いのようだ。

比較神話学の吉田敦彦によると、「弥生時代に日本にすでにあった土着の要素が、古墳時代にインド・ヨーロッパ的観念体系の枠組みに従って形成された天皇家の王権神話の中に、素材としてかなり大幅に取り入れられたのではないかということは、日本神話の中で水田による稲作に、皇室の王権と密着した非常な重要性が認められている事実からも、予想できる。実際、日本神話は全体が天皇家の王権神話であると同時に、なぜ日本が稲穂の国になったかを説明した稲作の起源神話でもある。」

古代中国史にフィードバックする前に7世紀頃の日本と対比しながらいま少しこの問題を反省してみたい。

古墳時代とは、畿内に生まれた権勢を持ったある部族が部族間の闘い=「壬申の乱」に勝利して、いよいよ大陸に対して自分たちを日本国の代表として示す必要を痛感した時代である。漢字文化すらまだ十分には根付いていなかった(実際に『日本書紀』は中国からの渡来人によって書写されている)。しかし、精いっぱいの虚勢を張って、自分たちは神代の昔から累代伝わる「万世一系」の系譜を持つ一族なり、とでっち上げたのが『古事記』と『日本書紀』(特に公式な史書としての『日本書紀』)である。

古代史家・古田武彦の言によれば、その際、九州などにあった神話伝承なども、自家薬籠中のものとして取り込まれたのであろう。

鷺森浩幸「王権と貴族」(歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座』2「律令国家の展開」東京大学出版会2004)や遠山美都男『天智と持統』(講談社現代新書2010)、森 博達『日本書紀の謎を解く』著(中公新書1999)などによれば、次のようだ。

「『天智』も後世(天武・持統期の『日本書紀』)によって捏造された天皇であり、天智をいわば『初代』と見立てることで、天武・持統時代に律令制が確立したことがわかる。天智を実在した神話の君主に仕立てることは、同時に藤原一門をも不動の地位におくことになる。『不改常典』によって、『万世一系の天皇』の系譜を不動にしたのであろう」。

不改常典は元明の即位、聖武の即位・譲位詔によれば天智が定めた法とされる。しかし、天武の制定した律令法を意味すると理解すべきである。第一に、天智が『天命開別天皇』、天命を受けた君主と位置付けられていることが重要である。当時の王権は皇孫思想ではなく、儒教的な天命思想に基づき、天命を受けた天智の後継者であることに正統性が求められている。第二に、王権の直接的な起点がはるかな神話の世界ではなく、天智というリアルな人格にある点も重要である」。

少々脱線したが、ここでは日本の古代史にはこれ以上立ち入らない。

少し長いが、古代の中国思想と古代日本の対比を考えるうえで、平勢隆郎の『シリーズ02』の次の個所を引用してまとめとしたいと思う。

「(日本では)『古事記』は神話をまとめ、『日本書紀』は史書の体裁を持つが、神代以来の日本の神話を語る。律令時代に出来上がっただけに、都市国家に相当する古代の『国』の神々は、それらに編入され、形を変えている。それら『国』の神々は、もともとはそれぞれの『国』を守護する独自の存在だったはずである。

同じことが中国でもいえる。戦国時代にできた『山海経(せんかいきょう)』という書物には、異形の神々があちこちの山々にいたことがまとめられている。そこに記された神々の加護を受けたのは、それぞれの神の下にあった新石器時代以来の都市である。

戦国時代に都市をまとめ上げる文書行政が進むと、都市の神をまとめ上げる中央の神が出現した。その中央の神を中心に神々を語ると、いわば『古事記』のようなものになる。」

「戦国時代の書物は、領域国家が滅ぼされる過程で失われ、秦の始皇帝の焚書や、項羽が秦を滅ぼした際の焼失などでも失われて、資料事情はすこぶる悪い。しかし、あちこちにその残余が発見できる。例えば、韓の神話は、『左伝』の中に見える。『左伝』は、天下の書物を作ろうとした漢代に、『春秋』の伝として位置づけられた書物である。

『春秋』は戦国時代の斉の国で作られた年代記で、魯・斉の記録を中心に他の小国の記録を加えて出来上がったものだったが、ほどなく孔子が斉の田氏の命令によって作ったという説明が出来上がった。その説明のためのサブテキストが『公羊伝(くようでん)』である。」

「『左伝』は、戦国時代に斉のやり方に反発した韓が、斉で作られた『春秋』と『公羊伝』をくさし、韓の正当性を明らかにするために作られた。ところが、漢代では、この韓の正当性を不明にするために新たな説明を付け加え、その過程で『左伝』は『春秋』の伝(経典本文の内容を説明するためのもの)とされるようになった。」

「(それ故に)『公羊伝』が斉の田氏の正当性を説明するのに対し、『左伝』は韓氏こそが正当であるという説明に作りかえている。それが『書いてある』『事実』である。」

「戦国時代の領域国家がつくりだした史書には、それぞれの独自な説明が付されている。それは何千年の伝統を誇る文化地域の独自性が反映した記述である。それぞれが語った過去は、それぞれに異なっている。夏王朝・殷王朝・周王朝の位置づけも、それぞれに異なっている」

「その戦国時代の史書にも、その史書をまとめた文化地域に中央を据える視点が強く反映される。漢代以後の史書よりはましだとはいえ、提供される「事実」が、そのまま史実になるわけではない」

「あまたある都市それぞれが、自らの都市を中心にものを考え、その外を論じたのが春秋時代であり、幾つかある領域国家が、自らの国家を中心にものを考え、その外を論じたのが戦国時代である」

時代が生み出す多士済済な人物像

実は、「古代中国史を逍遥する」という表題はこの小論にそぐわないようだということに途中から気付いたのだが、すでに掲載されていたためそのままにしておいた。今なら「古代中国史を漫歩(放浪)する」としたいところだ。「逍遥」といえば、言うまでもなく、かのアリストテレスがアテネに開いたリュケイオン学問所のことを彷彿する。そこで学ぶ人たちのことをペリパトス(逍遥)学派と呼んだことは、アリストテレス自身がその弟子たちと一緒の散歩を楽しみながら学問的な議論を戦わせたからだといわれている。

もちろんこの小論はそういう高尚な意図のものではない。ただ、素人の気ままな乱読をメモして感想を述べたに過ぎない。

それはそれとして、中国古代史を散策していると善悪取り混ぜていろいろと興味深い人物に出会い、その都度感慨にふけることが多い。いかなる人も、生きている限り何らかの困難に遭遇し、切羽詰まってどうしてよいやらわからなくなる事態に出くわすことがありうる。歴史上名だたる人物は、そういうぎりぎりの局面において登場しているようだ。

そして中国四千年の歴史をたどっていると、われわれが日常生活で出会うような場面(もちろん、歴史上の事件に比べれば取るに足りない微細なものでしかない)によく似たケースを見出すことがある。その都度、彼らはどう考えてこの困難を切り抜けただろうかと考えさせられるものだ。

当然ながら、時代も状況も、また当人同士の資質も全く異なるので、それらの場面をすっかり真似ようとしてもはじまらないし、何の役にも立たない。しかし彼らの「精神」を学ぶことで、こういう局面をどう切り抜けるべきかを考えるヒントにはなりうる。それはちょうど伝来の碁・棋譜のごときものが「囲碁・将棋の世界」にとって貴重であることと同じなのかもしれない。

近年はやりの「歴史上の人物に学べ」式の通俗本では、例えば信長や秀吉や家康の生きざま、あるいはごく最近では渋沢栄一の生涯などがモデル化され、それらに見習えば「立派な人間」になれるかのごとき言説がふりまかれている。しかし、それらの人物像はたいてい「体制にとって」都合よく作られたものだということを頭の片隅にとどめる必要がある。かつて文部省が提唱した「理想的人間像」である。創作された人物像と実際の人物とは明らかに異なる。

中国の古代史においても、例えば、「孔子は賢人を代表する人物だとする国家もあれば、未来が読めないものの代表だとする国家もあった」と、平勢は指摘している。あるいは、三国志時代の最大の英雄・諸葛孔明も、実は『三国志演義』という小説仕立ての書物の中で祭り上げられたにすぎず、史書『三国史』では、戦略戦術的能力に欠ける「学者」に過ぎないと酷評されている。

孔子は私生児であった(司馬遷『史記』「孔子世家」)。そのため彼は生涯自分の出自にコンプレックスを持ち続けていたといわれる。彼の父親、叔梁紇(シュクリョウコツ)は、もともと殷の遺民が集まってつくられた宋の出自である。司馬遷は「孔子世家第17」で次のように書いている。

「孔子は魯の昌平郷陬邑(すうゆう)に生まれた。その祖先は宋の人で、孔防叔といった。防叔は伯夏を生み、伯夏は叔梁紇を生んだ。紇は顔氏の女と野合して、孔子を生んだ。尼丘(じきゅう)で祈祷し、孔子を授かったのである。時に魯の襄公の二十二年であった。生まれながらにして頭の中央が凹み、尼丘に似ていたので、丘と名付けたという。字は仲尼(ちゅうじ)で、姓は孔氏であった」(『史記』 筑摩書房)。

『史略』によれば、「野合」の子として生まれたことは、当時としては人間としての資格を欠いた子であり、天と祖宗の霊に認めてもらえぬ子という烙印は孔子の精神の最も本質的な部分を形成したため、「幼いころによく祭器を並べ祭礼のまねごとをして遊んだという。ここにはどこの子供も祖宗の霊を祀っているのに、自分の家では父の霊を祀ることがないという孤独な悲しみがうかがわれる」。

『論語」にしばしばみられる「吾これを如何せん」という慨嘆の叫びは、孔子が自己の「こうした宿命に対決し、むなしく蒼穹を仰いで発した、悲痛な問いであったろう」。後年の孔子は、宿命を宿命として受け入れ、自らの努力でこれを克服しようと決心した、「天命に従う」という結論に達したというのが『史略』の常石茂の解釈である。

しかし、考えてみれば、イエス・キリストだって私生児といえるかもしれないし、レオナルド・ダ・ビンチやエラスムスは間違いなく私生児である。精神医学者のフロイトが「モナ・リザ」とダ・ビンチの「母恋し」の関係について書いたものは大変面白いものである。

藤堂明保は、もう少し中国史家として踏み込んだ読み方をしている。三歳で父親を亡くし、少年時に母親とも死に別れた孤児の孔子が、周囲の底辺の民たちの情けで育ったにしても、「なぜ『学』を身につけ、ついに大司寇(だいしこう:司法長官)にまで出世したのだろうか。不思議なことである」。

こういう生まれ育ちの孔子がいかにしてあれほどの高邁な学を身につけることができたのだろうか?ここからは多分に筆者の空想が入るのであるが、たまたま地方に流浪し、住み着いていた殷のインテリの落人が、同郷である鋭利な頭脳の少年を見出し、教育を授けた結果、あの孔子の素地ができたのではないか。彼のまとめた「論語」の原型は、釈迦牟尼の「原始仏教」と同じく、戦乱の世の現実、民間伝承の教え、また彼自身の実体験と思索に基づくところが多かったように思う。

それを「儒教」という形で国家の教育の柱に据えていったのは、漢の時代以後の政治である。「法」による支配は露骨な強制であるが、修身や道徳(あるいは宗教)はわれわれの内面からの支配(自縄自縛)になる。時の権力者が、国教(神道やキリスト教、イスラム教など)を定め、修身・道徳教育にご執心なのはそのせいであろう。

『史略」では、もう少し面白い話が紹介されている。それは孔子の父親が名だたる勇士だったという逸話である。孔紇(叔梁紇)は「佰陽(はくよう)の勇士」とたたえられた勇猛果敢な戦士で、数度にわたり、命がけの戦闘を潜り抜けているという(詳細は略す)。

これで思い出すのは、孔門十哲の一人子路との出会いのことだ。子路は、元無頼の徒であった。彼が住まう田舎に孔子という「教育者」が訪れた時、脅して追い返そうとの魂胆から血の滴る鶏をぶら下げて面会を乞うが、逆に孔子に負けてしまうという話である。「佰陽の勇士」の息子は、実際には子路に劣らず「遊侠の徒」であったのかもしれない。

再び平勢の『シリーズ02』から引用する。

「春秋時代といえば、孔子であり、この人物ほど歴代の尊崇を集めた思想家もいない。尊崇を集めたが故の理想化もかなりある。われわれが目にすることが多い孔子像は、宋明理学(朱子学・陽明学など)とまとめられる学問体系の中で語られたものである。士大夫(したいふ)の理想としての孔子像である。これとは別に、後漢から唐にかけての注釈を通してうかがえる聖人としての孔子像がある。更に、後漢時代にさかんに作られた『緯書』の孔子像である。

孔子は弟子をたくさん育てた。その弟子たちもさらに弟子を育てた。そうして増えていった孔子の後継者たちが、戦国時代には、各国で活躍するようになる。その過程で次第に形を整えるのが原始儒教である。その儒教はわれわれが知る儒教とは異なっている」

「春秋時代は『春秋』という書物に由来する名前であるが、「戦国時代」という名前の由来は何か。『戦国策』は前漢末に出来たもので、『史記』の時代にはまだない。漢代では戦国時代を「六国の世」と呼んでいた。漢は自らを至上の存在にするために、最初の皇帝を生み出した秦を脇役化する必要があった。そのため、秦を間において、周を正統王朝と位置づけ、それを継承する「形」を作り上げた。そのため、《楚・斉・燕・韓・魏・趙》を「六国」と称し、統一秦の時代と分ける意味で「六国の世」と称した。『戦国策』は、戦国時代以来『短長書』などの名称でまとめられていた幾つかの書物を、前漢末に一つにまとめ直したものである。…天下の視点から統一を論じ、まだ統一されていないという意味から「戦国」を論じていることに注意」。

この時代の人物群像は実に興味深い。せめて「諸子百家」のうちの何人かぐらいは取り上げて、想像力を働かせながら論じてみたいと思っていたが、スタミナ不足で尻切れトンボに終わってしまった。

考えてみれば、前5世紀ころに活躍した孔子は釈迦牟尼やソクラテスとほぼ同世代の人物である。中村元の「原始仏教」などを読んで感じるのは、その時代と当人の生々しい息吹である。

釈迦牟尼が毒キノコにあたって腹痛で死んだという話も、実に素晴らしいと思う。彼は超人ではなく、一人の人間なのだ。超人は別世界の住人で、そんな奴らに支配されるのはまっぴらだが、同じ人間である彼らであってこそ、真実尊敬するに値するのであろう。獄中のソクラテスは、別れの挨拶に来た仲間たちと平生のごとく語り、まだ見たことのないあの世を見るのもよいだろうといって平然として毒杯を仰いだという。

ヘーゲル流に言えば、真理は(超越にあるのではなく)「真無限」にあるのだ。

2021.4.8記

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1165:210410〕