わたしたちは< 自然の系 >につつまれて、なおかつ
不条理に屈することのない
人としての気高さをもつものとしてありたいとねがうものです。
最近ようやく原発廃止を訴える科学者として、
各地の講演会やメディアに登場されはじめた小出裕章氏が
在勤される京大原子炉実験所は、じつは隣町の熊取町にあります。
小出氏の、科学者であると同時に人としての在り方をみずからに問う姿勢には
だれもがまなぶべきものがあります。
そのような態度は、
科学的探究も、心も、権力に売ったカガク者村から異端視されるでしょうが。
たしかにそのカガク者たちのように、
ひとは権力がふるまう利権の誘惑に弱いものです。
だからこそ、
小出氏の「 屈することなく」生きる姿勢が、
なによりも人として「 気高い」とおもいます。
そしてこのように、ゆたかな精神にみちている人が全国に大勢おられることをねがっています。
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わたしたちは戦後復興といわれる時期に、
米国の「明るい科学= 原子力平和利用」というプロパガンダに「思想的敗北」をきっして以来、
今回の東電福島原発溶解事故に直面するまでのおよそ五十年という時間を
いたずらに夢遊患者のようにくらしてきました。
それは 悔やんでも悔やみきれない
ただ むなしくうしなわれた「ゆたかな未来」 であった。
とりかえしのつかない原発の 現実は
いま 子どもたちの未来を ふたたび うしなわせてしまうのか。–
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– 屈することなく といえば、
けっして政・官・業の権益群とその既成概念の下の「フッコー」などにからめ捕られないことです。
いままで、
さんざん地方を見捨て、荒廃させてきたものたちのおためごかしを真に受けてはならない。
「フッコー」という名の開発行政の軍門に下ってはならない。
震災「復興」という言葉は、
被災地域の人たち自身の主体性のうえにかかげられなければならない!
人間の関係性までも機能主義一辺倒のなかにに封じこめる近代行政都市社会では、
個人の存在意味がだれでも代替可能とされるために、
人びとの精神はどんどん強迫的にそぎ落とされ、
衰弱させられることからまぬがれない。・・・
だからいくらおいしいことをならべたところで、官製の発想からは、
東北に、いわばそうしたミニトーキョー風な
近代主義の< 叡智の結晶 !>をつくってしまうことになるほかないだろう。
そうであってはならない!
すなわち < 復興 >とは、
互いの < 個の尊厳と自由 > を規範にした
精神性のゆたかな地域社会をあらたにかちとることでなければならない。
そこでは、< 合理的 >である必要など無くてもいいのだ。
借りてきたヨーロッパの町並みのようである必要などありはしないのだ。
そんなことは二の次である。
そこに、個の尊厳と自由の理念化が絵に描いた餅のような条例化だけではなく、
< 町 >として実現しているかどうかである。
既成概念をふみこえたその理念のもとに、
– 山から海までのゆたかな自然の体系を恢復する環境施策を実行しているか?
– 町の人の安全と自由がどこまでも保障されているか?
– 歩道がくまなく優先されているか?
– 自然エネルギーが優先されているか?
– 個人が創業維持できる町の商環境をととのえているか?
さらには
– 少年少女や、年配者が < かけ替えのない >ひととして地域に存在しているか?
(「点数教育」と「介護依存」を< 個 >の位置から問いただし、
互いのかけがえのない存在をみとめあう、
ゆたかな精神の自由・自立の社会こそがもとめられる。)
もちろんのことに、これらの理念は
この国のすみずみに 実現されてしかるべきことなのである。
http://blog.goo.ne.jp/5tetsu (ブログ・心理カウンセラーがゆく!)より転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0532 :110701〕