編集部 注:本稿は昨年の 11月27日(土)■世界資本主義フォーラム:伊藤誠 連続講座「『資本論』と現代世界」第1回 「1968年革命」とマルクス・ルネッサンス
での質疑時における筆者の質問部分である。
詳細は「11.27 伊藤誠先生フォーラム事後報告」
https://2a740400-c582-422a-b08e-931f276ca7b8.filesusr.com/ugd/eaeae1_d857a2b159ad481ca2f65eb0fb674601.pdf
及び「世界資本主義フォーラム」 https://www.worldcapital.online/ を参照して下さい。
*関連投稿「一般均衡理論に対する素人的疑問――丸山徹教授の新著『経済の数学解析』を読んで――」(1月5日) https://chikyuza.net/archives/116462
岩田昌征
(1)私にとって労働価値説は、純粋経済理論の枠内にとどまるものではない。経済社会の 発展史における近代以降社会をそれ以前の諸社会から区別する決定的な価値論である。価 値という概念に祖先の神聖性、金銀宝飾量、武人的力量、哲学的精神等ではなく、一般民衆 が日々行う労働を結びつけ、労働価値論なる概念を生み出した近代社会の誕生。近代社会は、 労働価値の社会である。労働価値論の否定とは、近代社会の否定を意味する。効用価値論に はそのような社会発展の画期を示す意味が見当たらない。
(2)価格次元と労働価値次元の二つの次元を重合して、資本主義を見る立場に賛成する。 価格一元論を取らない。私個人としては 第 3 の次元が必要と考える。人間社会は、何事か を実現するに、必ず費用代償を支払う。第一に価格で支払われる。第二に 労働で支払われる。第3に生命で支払われる。生命活動の重要部分が 労働であるが、その労働の源である生命で支払われるのである。支払いの形は 資本主義市場経済の場合、自己責任の究極形式として自殺が組み込まれている。ちなみに、社会主義計画経済の場合、他殺がそれであり、社会主義協議経済の場合、兄弟殺しがそれである。ただし社会主義経済の場合、かかる形の生命支払いは、社会的に自明なものとして受容されていなかった。資本主義経済はか かる生命支払いを人々が心の中で受け止めているので、その回転が持続する。効用価値論をとると、かかる生命による支払いの問題があらかじめ排除されてしまう。労働価値論を取れば 労働の源泉としての生命自体が代償費用となることの社会経済システム論的な問 題を発見できる。
(3)欧米マルクス・ルネッサンスの一到達点としてジョン・ローマーJohn E. Roemer の Analytical Foundations of Marxian Economic Theory, 1981, Cambridge University Press.が 挙げられるべきだと思います。伊藤教授の話の中にスティードマンが出てきてもジョン・ローマーは出てきませんでした。それゆえ伊藤教授が本書を、マルクス・ルネッサンスにおいて、どう位置づけているかを知りたい。
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〔study1200:220108〕