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中央大学創立百周年記念長谷川如是閑賞授賞論文
『歴史における保守と進歩』
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解剖台の上でのミシンとこうもり傘の偶然の出会いのように美しい!
ロートレアモン
時間は人間の発展のための場である
(Time is the room of human development) マルクス
======<内 容 目 次>===========================
<はじめに>
第一章 福沢諭吉の進歩主義
第二章 柳田國男の保守主義
第三章 解剖台の上の進歩と保守、
あるいは、人間の発展はいかに可能か
<さいごに>
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<はじめに>
福沢諭吉(1835~1901)と柳田國男(1875~1962)は、日本近代史における進歩主義と保守主義のそれぞれ典型的思想家である。
福沢の「進歩主義」は自身によってもしばしば明言されており、(『民情一新』の第二章の標題に「保守の主義と進取の主義とはつねに相対峙して、その際におのずから進歩を見るべし」とある)
柳田の「保守主義」に関しては例えば橋川文三氏の研究がある。(「柳田國男はわが国における最も純粋な保守主義を代表すると私は考える」ー『保守主義と転向』より)
しかし、少しでも研究を進めてみると、ただちに両者には逆の側面が立ち現われてくるのもまた事実である。福沢の保守性、柳田の進歩性を発見するのはむしろ容易ですらある。福沢が自由民権論の主張と必ずしも同調せず官民調和論を展開したのを、その例証ともみなせよう。一方柳田は、敗戦直後の第一回参議院選挙の時、日本共産党から立候補した中野重治を応援してか、『アカハタ』に「私は共産党へ立候補する」という推薦の談話を寄せたこともある。そうした事実をも踏まえた上でなおかつ、福沢の進歩主義・柳田の保守主義を規定せねばならないのである。
そこで、おこりうる誤解を避けるためにあらかじめ一言するならば、福沢の思想は、革命主義ないしは政治的急進主義とは明確に区別されるような穏健性を持っており、柳田の思想はまた、いっさいの反動思想とは相容れない開明性を備えていたことを指摘しておきたい。急進的な時代風潮に反して福沢は進歩的だったのであり、反動的な時代風潮に反して柳田は保守的だったのである。彼らが革命や反動とは一線を画そうとした傾向性、その動力学が福沢の保守性や柳田の進歩性といった印象を生むに過ぎない。
さらにまた、福沢や柳田を、単に進歩主義、単に保守主義の典型としてのみ扱うのは正当かという問題も残る。単なる政治思想家としてのみは律し切れない巨人の事業を、両者は生涯をかけて成し遂げたのであって、その政治的識見などはある一側面に過ぎないとさえいえる。福沢は日本の近代教育の普及にも功があり、さらに『時事新報』の創設による言論活動、近代産業の育成のための人材作りなど幅広い活躍をなした人であるし、柳田はいうまでもなく日本民俗学の創始者であり、その学問の組織者でもあった。けれども、こうした事情だからこそ逆に、人間に根差した政治意識、内容を持った政治見識が発見可能となるのであって、両者の人格が多面性を持ち深みを持つのは、ディメリットではなくむしろメリットになりうるのである。むろんメリットになりうるのは、両者の政治性が、正確に抽出されるという条件つきのことであるのはいうまでもない。
さて、両者の思想は、革命的でもなく反動的でもなく、それらの中間領域に位置を占め、その意味では同一性格を具有しており、同一地盤に立脚しつつ思想的な成長を遂げたものであると言えよう。では差異はどこからくるか? 言い換えれば、進歩主義と保守主義の差異は、両者においてどのような起源を持つか? このような問題提起によって抽出せしめられた福沢の進歩主義と柳田の保守主義を、さらに日本近代史の文脈において比較・考究しようとするのが、この小論の枠組みである。
第一章 福沢諭吉の進歩主義
福沢の洋学研究は、ペリー来航の翌一八五四年、長崎における砲術修行をもって開始されるが、それ以前の十九才までの幼少年時代には、故郷の中津(現在の大分県)において、当時の武士階級の子弟ならば誰もが修めることになっていた漢学を身につけていたに過ぎず、その教養は特にめずらしいものではなかった。注目すべきは、出生の事情である。諭吉の父は中津藩蔵屋敷に廻米方(まわりごめかた)として勤務していたため、兄弟(一兄三姉)と共に大阪で生まれた。ところが父が翌年病死したため、一家は全員が故郷へ帰還したが、その結果、福沢家は中津に独自の家風を持ち込むことになった。自伝によれば、『私共の兄弟5人はドウシテも中津人と一所に混和することが出来ない。(中略)第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「さうぢやちこ」と云う処を、私共は「そうでおます」なんと云うやうな訳で、お互に可笑しいから先づ話が少ない。夫れから又母は素と中津生まれであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、小供の髪の塩梅式(あんばいしき)、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合(ありあい)の着物を着せるから自然中津の風と違はなければならぬ(』といった具合である。すなわち諭吉は、生まれながらにしてすでにその故郷において異邦人であった。福沢家は異なった文化体系(大阪文化)を家風として中津へ持ち込んだため、「幼少のとき中津の人と言語風俗を殊にして、他人の知らぬ処に随分淋しい思ひをしました」と述べるような孤立感を福沢に味あわせることになったけれども、その孤立は後に重要な意味を持つことになった。
より高い文化を保持するが故に疎外されるその生活環境は、野蛮への嫌悪と、文明への憧れを増幅させると同時に、異なる文化価値体系(大阪と中津)の観念をも、諭吉に体験的に与えた。福沢の思想の根本モチーフである「野蛮(ないしは半開)から脱して、文明へ向かうこと」は、この光栄ある孤立の中にその種子がまかれていた、といっても過言ではない。福沢の幼少年時代の境遇はまた、アンデルセンのみにくいアヒルの子の童話に似ていなくもない。後年の白鳥の羽ばたき(啓蒙思想家への飛躍)に、みにくいアヒルの子の時代は無駄ではなかったのである。さらに、家庭内での大阪言葉が保存されたため、他の子供達と言葉があまり通じなかったことが、後年の福沢に与えた影響も無視しえない。言葉に敏感な子供として育ったから外国語の上達も早かった、といった皮相な意味でいうのではなく、言葉というものが単に思想交換(相互理解)の手段としてだけでなく、相互無理解(思想不交換)の原因にもなりうることを体験的に了解したことは、福沢の書く文章の平明さの理由の一端をも説明するであろうからである。議論の明快さと共に、文章のわかりやすさは、まさに啓蒙思想家福沢の本領ともいってよい。
「自分の文章は最初より世俗と決心し、世俗通用の俗文を以って世俗を文明に導くこと、恰も真宗の開祖親鸞上人が自ら肉食(にくじき)して肉食の男女を教化したるの顰(ひん)に倣ひ、何処までも世俗平易の文章法を押通し、世俗と共に文明の佳境に達せんとするの本願にして、會て初一念を変じたるなき」(『福沢全集緒言』)と述べたその決心も、幼少時代の体験とけっして無縁ではなかった。かくして、あらゆる英雄的人物がその生涯で一度は筈(な)めねばならぬ苦境を、福沢もまたその幼少時代に味わったのであって、この時期に、無意識の内にも培われた貴種流離の感覚=流され王の予感は、後の飛躍のための大きなバネとなったのである。
さて、十余年の洋学研究と、二回の洋行(後にさらにもう一回)による実地観察の成果を組み合わせ、『唐人往来』(一八六五年)を著して福沢は、啓蒙思想家としての述作の第一弾を放った。
『唐人往来』は福沢の思想的な処女作であるのみでなく、啓蒙思想家としての力量をもすでに如何なく発揮した名著であり、頃は所謂(いわゆる)攘夷論の最中に、「一本の筆を振り廻して江戸中の爺婆(じじいばばあ)を開国に口説き落とさん」と企図して記された小冊子である。我々はこの小論に、福沢の思想と理念が立ち上がる原景を見ることができる。政治・経済・軍事の三本の柱を立てて開国の利点と不可避性を説いたその内容を、以下簡単に見ておきたい。福沢が主張した第一点は、いまや政治意識の変革がすべての日本人にとって必要な急務である、という事であった。福沢はまず日本を含むアジアの特徴を、「兎角改革の下手なる国にて、千年も二千年も古の人の云ひたることを一生懸命に守りて少しも臨機応変を知らず、むやみに己惚(うぬぼれ)の強き風なり」と指摘する。アジアは全体として「己惚」の病にかかっており、それは福沢によれば「言語道断、風上にも置かれぬ悪風俗」である。「人情は古今万国一様にて、言葉の唱へこそ違え仁義五常の教なき国はなし。(中略)然るに今、日本一国に限り自ら神国などと唱へ世間の交(まじわり)を嫌ひ独り鎖籠(とじこも)りて外国人を追払はんとするは如何にも不都合ならずや。(略)謂れもなく自国許り別段貴きものの様に思込み、世間の事に頓着せずして我意を言募(いいつの)らば、遂には人の嘲弄を受け、唐士同様の始末に陥り、我国を貴ぶ心より実は却て我国を賎むるの場合に成行べきやと深く心配する処なり」、とまずは気を鎮め心を落ち着けよと、ゆるやかに諭している。第二に、福沢は、外国との交易が始まったことによって、「何は無用、何は有用、之を買ては国の富など、彼是言ふ」、風潮に対して、分かりやすく自由貿易の利点を示さねばならなかった。筋道を立てて経済の仕組みを説明し、自由貿易が決局は富と仕事を増やすための仕組みであることを明快に議論したそのあとで更に福沢は、理屈では分かっても自由貿易を非難する人が絶えない原因を、その心理的な根拠まで遡って追求している。「故に交易は我国一般繁唱の基と思ひ喜ぶべき事にて、少し物心ある人は皆合点せる所なり。然るに世上一般諸色高値難渋と唱る何故なるやと考ふるに、基本は皆人情の自分勝手より起こりたる話に相違なし。大抵世の中の人は自分に都合よき事なれば先づ隠すものにて、金があるとて自慢する金持もなく、大儲けをしたと吹聴する町人もなし。何か自分の身に付き不足あれば少しの事にても頻りに唱触らし仰山に言ひなすは人情の常、当時諸色高値と云ふも矢張り交易の御蔭を以て好き事した所はだんまりにして置き、取ても付かぬ外の事へ交易を引合に出し自儘勝手の愚痴を述ぶることと思はる」。この心理分析の部分などは、現代にもそのまま通用しそうな議論である。第三の国防論の骨子は、「先見ずの短気にて前後を顧みず、是非を弁えず無理なる師をすれば、敗軍の上に世界史末代まで恥辱を遣し、唯一つの道理を守て動かざれば敵は大国にても恐れるに足らず」と、まずは道理に立脚するのが先決問題であり、つぎに、「今日にもせよ一番思立ち、漢学や槍術などは先ずお次のことにして置き、欧羅巴風に見習ひて、蒸気船も沢山に拵へ大小砲も造立て、海陸にも備を設け……」と、軍備の充実のためにも、世界と交わって国力を増すよう努めねばならぬと結論したのである。
ところで、『唐人往来』は、開国の主張を述べたに止まり、その意味では極めて限定的な議論であって、福沢の啓蒙思想の本質を必ずしも全面的に示したものではない。福沢の啓蒙思想の本質的内容、その最大の限目ともいうべきものは何であったか。「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである」(カント)としても、それでは一体何を獲得すれば、未成年状態を脱したと判定されることができるのか?
「古来東洋西洋相対して基進歩の前後遅速を見れば、実に大造な相違である。雙方共々に道徳の教もあり、経済の議論もあり、文に武におのおの長所短所あちながら、扨国勢の大体より見れば富国強兵、最大多数最大幸福の一段に至れば、東洋諸国は西洋諸国の下に居らねばならぬ。国勢の如何は果して国民の教育より来るものとすれば、雙方の教育法に相違がなくてはならぬ。ソコで、東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較して見るに、東洋になきものは、有形に於て数理学と、無形に於て独立心と此二点である」。(『福翁自伝』)
福沢の進歩主義の核心がこの部分で述べられている。東洋が西洋と比較して停滞性を持つ原因は、東洋に於ける数理学(実験精神に裏打ちされた科学)の欠除と、独立精神の欠除、この二点であり、しかもそれを支えているのは儒教教育であるというのが、福沢の生涯を貫く啓蒙活動を背後で支えた根本認識であった。『学問のすすめ』を書いた福沢が、なぜ一貫して儒教主義の復活には反対したのか、「独立自尊」の標語が福沢精神と同等(イコール)とみなしうるのはなぜか、こうした問いの答も、前記の引用文中にあらかじめ示されているといえよう。
丸山真男氏は、福沢が新時代の学問の中心的位置に数理学を置いたことの意味を特に取上げ、徳川旧体制(アンシャン・レジーム)の典型的学問が倫理学(道徳)であったことと対比しつつ、その移動の孕(はら)む意義を指摘されている。(『福沢に於ける「実学」の転回』参照)。しかし私はここでは、福沢が東洋の欠陥として見抜いたその二点(独立心と科学の欠除)が、現在の視点としてもなお有効性を持つような認識であるかどうかを検証してみたい。しかしその前に福沢とは逆に、西洋人の立場から、西洋と東洋の文化現象を比較したマックス・ウェーバーの比較社会学の視点を参考してみよう。この部分は、ウェーバーが、儒教とピューリタニズムについて比較しているところである。
「儒教の倫理も、ピューリタニズムの倫理も、ともに深い非合理的な根底をもっていた。が、それは前者においては呪術、後者においては現世を超越する神のどこまでも究めがたい決断であった。ところで呪術から帰結するものは伝統の不可侵という事実であった。もろもろの精霊の怒りを避けるために、経験ずみの呪術的手段を、究極においては、伝来の生活諸形式を変更するようなことはとうてい許しえなかったのである。これに反して、現世を超越する神と、また被造物に堕落し倫理的に非合理的な現世との関係から帰結するものは、逆に伝統の絶対的な非神聖視と、そして所与の世界を支配し統御しつつ、これを倫理的に合理化しようとする不断の勤労への絶対無際限な使命〔観〕、要するに「進歩」への合理的な即事象的態度であった。こうして、儒教における現世への順応とはおよそ対蹠的に、ピューリタニズムにおいては、現世〔世俗生活〕の合理的改造への使命〔観〕が打ちたてられたのである」。(『世俗宗教の経済倫理』大塚久雄訳)
要するにウェーバーは、呪術の容認(=科学の軽視)、伝統の聖化(=現世の合理的改造の困難)を、儒教の精神とからめてこれを理解し、プロテスタンティズムはその対極に立つもの、と結論したのである。ウェーバーの認識が、福沢のそれと著しい共通性を持っているのは明らかである。
現代中国で、科学技術の現代化が最近の国家の政策目標となっているのは知られたとおりであるし、日本でも科学の基礎研究の立遅れが指摘されているのも事実である。
ロッキード事件とウォーターゲート事件での日米の証人の対応ぶりの違いを観察するにつけても、それが福沢やウェーバーの仮説を援用すると解ける場合が多いのに気付く。議会での宣誓を重んじるか、人との義理を守り抜くかの選択の違いは、独立心の問題と深く結びついている。
「あらゆる政治的概念が、すべて世俗化された神学概念に過ぎない」(カール・シュミット)とすれば、旧体制の神学の打破が福沢の出発にならねばならなかった。独立精神の鼓吹と近代的教育の普及をもって、福沢は日本の啓蒙精神の輝かしい旗手となった。
「欧羅巴の文明を求るには難を先にして易を後にし。先づ人心を改革して次で改令に及ぼし、終に有形の物に至るべし」。このような戦略が述べられた『文明論の概略』は、日本の文明化のための不退転の思想原理が示されている。福沢畢竟(ひっきょう)の名著といえよう。
第二章 柳田國男の保守主義
柳田國男の創始した日本民俗学は、究極に於て何を目指すものであろうか。この問いを自らに課した柳田学の高弟折口信夫は、自身の得た結論を次のように語る。
「先生のあゝした学問は、どういう動機ではじめられ、先生の学問の目的はどこにすゑられてあったか、そう言う事の探究は、後来の人の研究に任すより、我々の方が確かなものを得ていると言へませう。一口に言へば、先生の学問は‘神’を目的としてゐる。日本の神の研究は、先生の学問の着手された最初の目的であり、其が又、今日において最明らかな対象として浮き上って見えるのです。」(「先生の学問」昭21・9)
このころ柳田は『新国学談』全三冊を刊行しているが、その作業は、「新国学談を世に出す為には、自分は文字通り寝食を忘れていた」と述べられるような性質のものであった。「どうして又其様にまで、急いで此本を書いて置こうとしたのか。心有る人ならばすぐにその下心を看破ることが出来るが、看破られるよりも自分で語った方がよい。神社はどうなるのだろうかといふことは、如何にも今日は萬人の疑問となって居る。そうして稀には大胆にその疑問に、答えようとする人もないとは限らぬが、正直にいふと誰にもそんな資格は無い。日本人の予言力は既に試験せられ、全部が落第といふことにもう決定したのである。是からは蝸牛(かたつむり)の匐ふほどな速力を以って、まず其予言力を育てて行かねばならぬのだが、私などはただ学問より以外には、人を賢こくする途はないと思って居る」(『新国学談』)
このような感慨はまた、『先祖の話』(昭・20)の序文で述べられた「今度といふ今度は十分に確実な、又しても反動の犠牲となってしまはぬような、民族の自然と最もよく調和した、新たな社会組織が考え出されなければならぬ」という決意とも通ずるようなものを含んでいた。この序に於てもやはり「国民をそれぞれに賢明ならしめる道は、学問よりも他に無い」と断定されている。
「山に死者の霊魂が先づ入って行き、次第に高く清らかなる處に登っては行くが、久しい約束があって、春秋の初の満月の夜頃に故郷の家に還って来るものと、我々の祖先たちは考え又は想像した」。
『新国学談』で示されたこのような見解は、『田社考大要』(昭・25)では次のように拡張されている。
「人の霊魂がもしも死と共に消えてしまはぬものならば、必ず生きてゐる間の最も痛切な意思、即ち子孫後裔の安全の為に、何か役に立とうという念慮くらゐは、いつ乞も持ち続けられるだろうと、昔は生きてゐるうちから、そう思ってゐた者が多かったのである。我が邦固有の神の信仰には、こういう推理の基礎があり、無言の約束への期待があり、これに対する無限の感謝があって、各人思ひ思ひの祈願は無く、且つ又何でもかでも有るだけの欲望をすべて叶へて下さるものとも、始めから信じてはゐなかった。近代の解釈は無論改定せられてゐるだろうが、ともかくこれは日本の常民の持ち伝へた信仰の特徴であり、同時に又大小諸種の客神の、外から次々と入って来る余地でもあった」。
柳田は、氏神信仰の歴史的な変遷過程の解明と、日本人の信仰形態の復原とを、同時におこなった。柳田は、「私は折口氏などとちがって、盆に来る精霊も正月の年神も、共に家々の祖神だろうと思って居るのである」と、折口との差異を強調するような発言もしている。その折口信夫は、「柳田先生のやうな優れた、何百年に一人か二人しかないやうなお方だと、人間生活のもつ複雑性をうまく見抜れますが、普通の人には、なかなかそれが出来ないのです」(「山の生活」)とも言っているが、しかし彼もやはり熱烈に神を求めた人である。『民族史観における他界観念』はその豊かな成果であった。折口の求めた神は、柳田のそれとはどこか異なっている。一口に言えば、柳田の求めた神は、折口のもとめた神より大きかった。柳田の神の「探究」は、次の歌に示されるような、ある意味でグロテスクな文学的支えを必要としなかった。
神ここに 敗れたまひぬ
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内つ御庭(ミニハ)の
宮出でゝ さすらひたまふ
(折口信夫『近代悲傷集』「神 やぶれたまふ」)
むろんこの二人の考えは根本的に同質でありいわば伴信友と平田篤胤が同じである程度に同じだった。柳田は『神道私見』(大・10)で既に次のように語っている。
「所謂平田派の神道と云ふものは、ごく危ない二つの仮定を基礎として立っている。その二つの仮定と申しますのは、一つは喜式時代までの千五百年間には日本の神道には何等の変遷が無かったと云ふこと、第二にはその後の八、九百年間には非常に激しい混乱があったと云ふこと、此二つの仮定を立脚地として居るのであります。(中略)……玄に於てか自分が衷心より景慕の情を表せざるのを得ぬのは伴信友であります。伴翁は平田翁と同じ時分に世に出て、同じ様な学風に浸って居られながら、而も其研究の態度は別であった。どうしても解釈のつかないことは斯う云う事実があるが理由は分からぬ。又はこの點は斯うかもしれぬが確かには言へないと云う風で、断定を避けて専ら材料の蒐集に心を用ゐられた」。
ここで柳田は、国学の方法について語ると同時に、民俗学の方法についても語ろうとしているのは明白である。国学と目的・志向を同じゅうするがゆえに新国学と名づけられた柳田の学問と、宣長の学問の違いも実はこの方法的差異が主なものである。宣長の国学が中心に置いたのは文献資料であり、それは『古事記』その他であった。いっぽう、柳田は「現実に残って居るものならば、至って幽かな切れ切れの記憶と言ひ伝へ、寧ろ忘れそこなひと謂ってもよい隅々の無意識伝承を、少しも粗末にせず湛念に拾い合せて、今まで心づかづに居たことを問題にして行く」(「鼠(ねずみ)の浄土」)という方法を採った。
宣長も柳田も、共に日本の固有信仰の原形を求めて過去へと遡る。しかし、宣長の文献学的な遡行には、決定的な限界があった。書かれたものだけを方法的に問題としたという点で宣長は、自分が批判した儒教の学者と同じ近世的偏見を免れてはいない。両者の争いは、学問の正当性がどの書物によって保証されるか、という本末転倒の議論に堕する危険性を常にはらんでいた。両者は共に、文献資料で確定される限りの過去しか問題にしえなかったのである。しかも、神典の解読が学の中心に置かれ続ける限り、その仕事は、たとえ上首尾にやりおおせたとしても、文芸批評家の仕事以上に出ることはできない。事実、国学は歌学への関心から出発している。儒学もまた、儒書の注釈がその本来の仕事(ワーク)である。
「都鄙遠近のこまごまとした差等が、各地の生活相の新旧を段階づけて居る。その多くの事実の観測と比較とによって、もし伝わってさえ居てくれるならば、大体に変化の道程を跡付けられるものである」(『先祖の話』)
つまり、柳田は民衆生活の「残留資料(フォークロア)」の空間的分布の比較分析によって、段階的に何処までも時間を遡って行く方法を編み出した。柳田は編み出したその方法によって、いわば学を「言語空間」の枠から開放し、国学的古代研究のレベルから、決定的に飛躍したのである。
「実は自分は現代生活の横断面、すなわち毎日われわれの眼前に出ては消える事実のみに拠って、立派に歴史は書けるものだと思って居る」(『明治大正史世相篇』)とは、その方法に対する特異な自信の程をのぞかせる発言である。(ただしその試みは「失敗した」とこの書に関しては述べている。おそらく日本民俗学の方法論を典型的に示した成功例は古語の退縮過程を検証した『蝸牛考』であると思われる。)
宣長も柳田も、一国の固有の伝統を総体として問題にしたという点で、共通の志向に貫かれていた。しかし、以上のべたように、後者(新国学)は前者(国学)の批判の契機を本質的に内包していたのである。
柳田は、最晩年に、固有信仰の研究から日本民族の起源を巡る問題へと、研究対象の重心を移動している。南島研究の諸論考をとりまとめた『海上の道』こそは、その豊かな成果である。ところで、柳田の民俗学の初期の最大関心事は「山人」の問題にあった。しかし、たとえば「山」と「海」のようなかけ離れたものが、柳田学の内部ではどのように結びつくのか?
「その中でも私等が一番興味を有って見て居るのは、紀州の熊野の海岸の文化、是が大きな仕事をして居ることである。熊野の御山は大変な高い山に祭られている。中世に始めて現われた神様である。……記録が焼けたり失われたりして居るが、熊野の権現様などは、陸地は何處を通って来たといふ言ひ伝へがなくて、船から渡られたらしい痕跡が残っている。船で渡って来るといふと、人は海岸に祭ってなければならぬやうに思ふが、是が熊野といふ信仰の一つの特徴であった。即ち熊野人は山の民であって同時に船に乗る民であった。現在でも山の人間と海の人間とはカテゴリーが違ふやうに考えて居る人もあるが、木をくぼめて舟を造る人間は山の人間であり、又海の人間でなければならぬ」(「海上文化」)。
すなわち、ここでは、山の信仰と海上生活との関係が、紀州の伝統文化に即して考察されている。柳田の探求した諸領域は、内部で網の目のように縦横に連結されている。このことが、柳田を探検するおもしろさを生む理由であり、また柳田学の全貌が容易に見極め難い原因にもなっている。
《参考までに、「山と海」の問題は、折口の場合にはどう考えられたか。
「譬へば、我々が旅行をして、海岸近い山を遠くから見ると、海からずっと浮び出てゐる山の様に見えます。(中略)普通、山の信仰は、山の根元でなく或距離があって、山を始終目にしてゐる土地から起ります。其處から山へ精進しに登って行くのです。海岸地方ならば、海の中から生えてゐる、と思はれる山が信仰の対象になる事が多いのです。そんな現象が起るのは、何故かと申しますと、海から神が出現して来る、といふ信仰があって、其神は、山の方へ登ってゆく、と信じてゐたからなのです」。(「春来る鬼」)
海から出現した神が山へ登って行く光景を、舟に揺られながら見ているような臨場感がある。ここでの折口の推理などは天才的であり、めくるめくまでに美しい。ただし、その仮設が検証できる性質のものか、という問題が残る。いづれにせよ、柳田との差は歴然としている。》
柳田は、真の保守主義を打ち立てるべく、次の如く主張している。
「真の保守主義はやはり亦、歴史の正しい研究から起って、我々の生活の中で維持しなければならぬ現状は何々であるかを考え、若しくは同じ昔風と言っても、過去に於ける不当不必要な改革に由って、中頃以来新たに設けられたものを、再び排除するのもやはり一つの保守事業である。」(『日本農民史』)
柳田の保守主義は、このような問題関心に支えられたものであった。
第三章 解剖台の上の進歩と保守、あるいは、人間の発展はいかに可能か
我々は、福沢の進歩主義、柳田の保守主義の内容をこれまでにみてきた。前者が賛成するのは社会の改善であり、後者が反対するのは社会の改悪であった。前者の批判するものは伝統的宗教であり、後者の背定するものも伝統的宗教であった。前者の要請する心的態度は独立心であり、後者のそれは懐疑心である。しかし、このような違いにもかかわらず、両者が一致して強調するのは学問の必要性その意義である。両者の政治性は、その学問の中味を規定しつつまたこれに規定されつ、独自の一体観を形づくっている。両者の学問の内容は、両者の政治性を根底に於て支えている或る物に他ならない。それゆえ、その学問の比較は、彼らの政治的態度の差異を解明する上に於て、必至の作業とならざるを得ない。そこに於て初めて我々は、日本近代史の歴史的所産である福沢の進歩主義と柳田の保守主義の意義を語ることが出来るのである。
両者の学問の比較に入る前の準備作業としてまず我々はウェーバーがその宗教社会学の緒論考の中で述べた二つの仮設を想い起こしたい。その第一の仮設。日本の近代化は何故成功したか。その理由は、当時のアジア諸国の指導者層のエートスと教養の違いを説明することによって可能となる。インドに於ては「救済哲学」が、中国に於ては「学者的教養」が、しかし日本に於ては武士的エートスに支えられた「世俗的教養」が主なものであり、この職業的戦士階層の世俗性が日本の近代化を推進させる主要な動機であった。その第二の仮設。世界宗教はいづれも文明の中心地域からでなく、文明の周辺地帯から発生した。全体としての文明を問題にするようなエートスは、文明の周辺地帯に住む人達の中から発生する。
第一の仮設は福沢に関連を持ち、第二の仮設は柳田に関連を持つ。
福沢の進歩主義が武士的エートスに支えられていることは、これを幾重にも証明できる。勝海舟を武士道精神に照らして批判した『瘠我慢の説』は、その最大の証明であり、『明治十年丁丑公論』及び『旧藩情』にも武士道精神はむしろ強調されている。福沢は武士道精神の在り方はこれを問題にしたけれども、武士道精神自体は否定したことはない。したがって、福沢に関しては、日本の近代化は武士的エートスに支えられた、というウェーバーの指摘は正しい。
農政学者柳田國男は、南方熊楠の影響によって民俗学へ転換した。両者の出会いを媒介したのは明治末に強行された神社合併政策である。日本民俗学は、まず地方を研究する「地方(ぢかた)学」として出発した。「地方(ぢかた)学」とは、世界的視野を持つ農政学者新渡部稲造によって提唱された新しい学問であった。ところで、柳田は播州出身であり、南方は紀州の人間であった。民俗学も国学も全体としての日本固有の文化を探究するものであったが、宣長は伊勢の人であり、その正統的継承者伴信友は若狭の人である。これら四者は、日本文明の中心地であった幾内五ヶ国(山城・大和・河内・和泉・摂津)を、地続きでぐるりと取り囲む周辺国家郡の中からの出身者であった。周辺とは、中心の隣りという意味であり、中央に対する地方という意味である。国学が研究したのは世界ではなく地方(日本)であり、民俗学もまた日本民俗学であった。中心(幾内五ヶ国)の周辺(播州・紀州・伊勢・若狭)出身者が全体としての日本文明の伝統研究のためのエートスを最大限に保持していたのである。何処が周辺であるかの決定は、ウェーバーの指摘した世界宗教の場合、多分に主観的な面が含まれている。これに反し幾内とは歴史的に客観的な意義を持つ呼称であり、またその周辺とは視覚的な意味においても客観的である。ウェーバーの「周辺世界論」は、国学-民俗学の場合によって、微視的領域でその仮設が検証され、真理性を増したといえよう。
日本の近代史に於て、福沢の進歩主義がまず現われ、次に柳田の保守主義が現われたのは何故であるか。近代化への決断が福沢の進歩主義であり、その近代化への懐疑が柳田の保守主義であった。後者は、前者なしに現われることはできない。それら一連の出来事は不可逆的な過程である。福沢の決断の中味を問うことは福沢の学問の中味を問うことであり、柳田の懐疑の中味を問うことは柳田の学問の中味を問うことでもある。福沢の決断・柳田の懐疑を生み出したものは、両者のエートスと時代背景であった。福沢の思想は、日本の近代を開き、柳田の思想は、日本の近代を閉じた。福沢以前とは、近世日本のことであり、柳田以後とは、現代日本のことである。福沢のエートスは武士的なものであり、柳田のそれは「どちらかといえば士大夫的=貴族的エートス」(橋川文三『柳田國男』)であった。
武士の魂を持っていた福沢は、すべての日本人を、世界的知識人にまで高めようと努力した。貴族の魂をもっていた柳田は、すべての日本知識人を常民に還元するすべを教えた。福沢は、知性の進歩に期待し、柳田は倫理の保守に期待した。福沢は、知性というものが倫理に支えられていることを証明した(と思われる)、柳田は倫理が科学に支えられることを証明した(ように思われる)。知性を尊んだ福沢は、同時にモラルの人でもあった。モラルを尊んだ柳田は、同時に知性の人であった。彼らの知性とモラルは根源的であった。彼らの知性とモラルは、武士道精神と貴族精神に支えられていた。武士と貴族とは、日本の伝統を、そして今日の日本人の魂を根源的に支えている或る物の名称に他ならない。武士と貴族が支えあって、高い文化を維持してきたのが、日本という国の特質であった。したがって、福沢と柳田の絶対的差異は、日本という場において、絶対的同一性へ転換する可能性をはらんでいる。その絶対的同一性が証明される時、その場には、電撃が走り、さらにその電撃は、日本中を襲うであろう。
福沢は、東洋と西洋の精神的混血児すなわち世界人となった最初の日本人であり、柳田は、世界人と化しつつある日本人にたった一人さからって逆にそしてついに原(プレ)日本人へと復帰していった。私の考えでは、このような徹底的な対立は世界史的な意義を持っている。なぜならばこの両極への分裂(世界文明への同化と民族固有の文化への復帰)は、今後全地球的規模でくり拡げられると予想されるからである。世界交通の発達が、その問題の顕在化を促す。福沢と柳田が、そうした世界史的課題にも応じられるような巨大な思想的生産性を発揮しえた背景は、もちろん人格の偉大さという面も無視しえぬが、主としてアジアで最初に近代化を達成しえた日本近代史の特殊事情による所が大きい。福沢は日本の伝統を批判しつつ進歩の理念を世界宗教のレベルにまで高め、柳田は保守の原理を科学にまで高めた。彼らの進歩の宗教と保守の科学は日本近代史の最良の遺産であり、さらに言うならば、両者の思想的対立の哲学的把握は、もしこれを現代日本人がおこなうならば、全世界の人々にも寄与するような文化的創造となりえよう。なぜならば、先程も述べた如く、福沢と柳田の対立は、今後世界で地球的規模で起こりうる問題の原型の意味を、あらかじめ含んでいるからである。
課題の提起は、その解決である。課題の正しい提起は、課題の解決のための最初の条件である。課題の正しい提起は、福沢の全容と、柳田の全容を究めた後に、はじめてなされる。しかしながらそれはきわめて困難な作業である。両者はどちらも思想的巨人であり、学問的天才である。一人でさえもこれを把むに難かしく、二人になればもっと難しい。三才の童児にとってさえあきらかなこの理法に、あえてさからうような現代日本人は果して出現するだろうか?
両者は、一日でも早く自分の学問が克服されるのを望んでいたようである。しかし両者は自分の思想が批判されることはけっしてこれを許さなかった。けれども、我々は、きっと何時の日か、この二人の巨人的思想家を、二人まとめて一撃のもとに打ち倒してしまわねばならない。まさに、ジークフリートの剣がなぎ払われ、アポロンの叡智が輝やいたようなその日こそ、福沢の高笑いが天空から鳴り響き、柳田翁の笑いが御空(みそら)からこぼれ落つるに違いない。そう、私は信じている。
<さいごに>
近代日本の重要な思想家である福沢諭吉と柳田國男の二人を選び、「歴史における保守と進歩」という問題を考察するにあたって、私は自身との“対話”を心がけた。
名著を残すほどの著者は、すぐれた思想家、傑出した人物であり、読者は容易にその真意を理解することができる。そこで読者は、身を低くし、思索の努力を放棄して、著者に問いかける。すると、それまでは意味があると思われた名著の全体が、蜃気楼(しんきろう)のように、意味を消失して、読者の問いを拒絶する。名著には、扉をたたいても、最小限の暗示(ヒント)しか準備されていない。読者は全力をあげて自身との“対話”を試みなければならない。
福沢諭吉とは一体何者か? 柳田國男とは何者なのか? それはまだ、今日の段階では少しも明白になっていない。もちろん部分的な研究はたくさん現われた。しかし、全体像を示して、福沢とは誰か、柳田とは誰かを説いた人はまだいないのである。この意味で、橋川文三氏の『柳田國男その人間と思想』の出現は、衝撃的な中味を含んでいた。橋川氏は、「柳田國男は如何なる意味で世界的知識人か」を問われた。その結論とは、柳田は、魯迅と共に、「アジアの暗黒星雲」である、というものである。この表現でもって示される深淵な洞察の中味が何であるかを明らかにされないまま、すでに橋川氏は他界された。福沢の場合もまた同然である。丸山真男氏が、終戦を挟む数年間に発表された福沢研究は、その後の福沢の全容解明の端緒ともなるべき画期的な労作であったが、氏はその後、ぷっつりと福沢については触れておられない。あるいはひそかに福沢研究が進行しているのかもしれないが、それも定かではない。つまり、福沢も柳田も、なんら全貌は明らかにされないまま、現在に立ち至っているというのが実情なのである。どちらも分かっていないのなら、分からない同士をいっそのことぶつけあわせてみれば、ひょっとしたら何とかなるのではないか、と思いついたのが、無謀にも私がこの小論を書くきっかけとなった。ミシンとこうもり傘は解剖台の上で出会えたや否や。私には何の自信もないことを告白せねばならない。
風なき海に帆を掲げ、潮流に身をまかせて、我等の船は、東シナ海を北上(漂流)しようとする。海図なき航海のその先に、不可視の日本列島は果して姿を現わすだろうか? ニライ・カナイからの幽かな呼びかけに導かれて私は、ついに幻の境へ来てしまったのか? きっと、聴えて来る歌も、幻聴に違いない。
幻の花を見ようよ/たとえ見えなくても/きらめきながら影のように/根も葉もなくて/中空に漂っているものの名を/花と呼んでも 幻と呼んでもいいから
そうと決れば安心して/あるいは諦めて/幻の花を見ようよ/むなしい動作だと分かっていたって/休むことなく衰えてゆくもの/しずこころなく落ちてゆくものを見れば/酔いも深くなるのだから/醒めている眼を眠らせ/みんなで仲良く/幻の花を見ようよ
(辻井喬『たとえて雪月花』「幻花」)
この小論は、神秘空間に船を浮かべ、冒険的航海に乗り出そうとする人々に指し示す、いわば出発の為のメモランダムである。
【歴史における保守と進歩】終
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