青山森人の東チモールだより…アミルカル=カブラル、生誕百年

法務大臣が急死

東チモールの法務大臣・アマンディオ=デ=サ=ベネビデス(1964年6月16日生まれ)が、1月20日(土)、急死しました。スイスの「ダボス会議」から帰国するシャナナ=グズマン首相を迎えるため他の閣僚たちとともに「ニコラウ=ロバト議長国際空港」に出向いたベネビデス法務大臣は、帰国したシャナナ首相と握手を交わした後で倒れ国立病院に搬送されましたが、そのまま息を引きとりました。死因は心臓発作と報道されています。遺体安置所で涙にくれる法務大臣の家族のなかに帰国したばかりのシャナナ首相の姿がありました。

東チモールではパスポートの発行を担っているのが法務省です。法務省は、前政権からパスポート(の帳面)不足が問題となりパスポートを申請しても取得するまで多大な時間がかかることで批判の矢面に立たされている省庁です。5万冊のパスポートが届いた、もう使い切った、パスポート申請はしばらく受け付けない、また2万冊が新たに届いたので申請受付けを再開する……と東チモールは海外から届けられるパスポート帳に依存する不安定なパスポート受配給の状況におかれ、さまざまな理由で海外に出たい東チモール人にとっては心休まる日がないという状態が恒常的になっているありさまです。パスポート申請するために大勢の人たちが法務省の建物に押し寄せて大混雑が起こることもあり、法務省は各種事務手続きの効率化を図るためにデジタル化に努め、この1月18日、オンラインシステムの導入を開始したばかりでした。デジタル化によって閉塞的な役所仕事の現状打破になるのか……まさにこれからというときにその成果を確認する間もなく急死してしまったベネビデス法務大臣はさぞ無念だったことでしょう。

今年はアミルカル=カブラルの生誕百周年

1973年1月20日は、ギニアビサウとカボベルデの解放闘争の指導者アミルカル=カブラルが暗殺された日です。カブラルが亡くなって早くも51年が経ちました。そのカブラルが誕生したのは1924年9月12日、つまり今年はカブラル生誕百年にあたる記念すべき年です。

ポルトガル植民地であった西アフリカのギニアビサウとカボベルデ、アフリカ中部の海に浮かぶサントメ イ プリンシペ、南部アフリカのモザンビークとアンゴラ、以上アフリカの5ヶ国の民族解放闘争は、同じポルトガル植民地であったアジアの東チモールの民族解放闘争に多大な影響を及ぼしました。

1975年、アフリカのポルトガル植民地の独立に東チモールも続くかと思われましたが、独立後のアンゴラとモザンビークが内戦に陥った背景と同じくしてインドネシア軍が東チモールを侵略し、東チモールは1975年から過酷な武装闘争を強いられました。アフリカの旧ポルトガル植民地のうちギニアビサウ・アンゴラそしてモザンビークの独立戦争では、当時独裁国家だったポルトガルはNATO(北大西洋条約機構)の一員だったことから、NATOの戦闘機がアフリカ人を攻撃し、村を焼き払いました。これは東チモールにおいてインドネシア軍がアメリカから供給された武器で人口の三分の一である20万人の東チモール人を死に至らしめたことと政治背景を同じくします。しかしアフリカ人のゲリラ戦はポルトガルを勝てない戦争という泥沼に追い込み、とくにアミルカル=カブラル率いるギニアビサウのゲリラ部隊は、人口比でいってベトナムにおけるアメリカ軍兵士の数より多いポルトガル兵を釘付けにすることで南部アフリカの同志国モザンビークとアンゴラの闘争に最大の貢献をしました。アミルカル=カブラルはアフリカだけでなく、ポルトガル軍と戦うことがポルトガル独裁政権に苦しむポルトガル人にたいする最大の連帯の証であるとし、これが1974年4月25日、ポルトガル軍の大尉たちを中心とする「カーネーション革命」につながりました。アミルカル=カブラルはポルトガルに再生の道を拓いてやったともいえるわけです。今年2024年は「カーネーション革命」から50周年にあたる年でもあります。

モザンビークとアンゴラは独立後も内戦状態となり、平和を謳歌するまでにさらに多難の年月がまちうけていましたが、モザンビークとアンゴラの独立が南部アフリカへの自由の波の発信地となり、自由の波はナミビアへ、そしてついには南アフリカに到達しアパルトヘイトの制度撤廃へ結実したのは周知のとおりです。

その南アフリカが現在、ガザのパレスチナ人にたいして集団殺害(ジェノサイド)をしているとしてイスラエルを国際司法裁判所に訴え、南アフリカとイスラエルの口頭弁論が行われるという歴史的な裁判審理が展開されています。ギニアビサウという南部アフリカから遠い西アフリカの小国が、ポルトガル軍を釘付けにしてアンゴラとモザンビークに最大の支援をし、南部アフリカの解放に貢献したアミルカル=カブラル率いるギニアビサウの解放闘争の精神がいまハーグの国際司法裁判所で蘇えり闘っているといえばちょっと言い過ぎでしょうか。

アミルカル=カブラルはアフリカ最大の思想家であるとはよくいわれることです。しかしアミルカル=カブラルを評価するうえで欠かせないのは思想と実践を統合した人物であるということです。アミルカル=カブラルついては、『アフリカ革命=ギニアの解放』(バジル=デビッドソン著、野間寛二郎 訳、理論社、1971年)、『アフリカ革命と文化』(アミルカル=カブラル著、白石顕二・正木爽・岸和田仁 訳、亜紀書房、1980年)、『文化による抵抗―アミルカル・カブラルの思想』(石塚正英 著、柘植書房、1992年)、『アミルカル=カブラル 抵抗と創造 ギニアビサウとカボベルデの独立闘争』(アミルカル=カブラル協会 編訳、柘植書房、1993年)、そして『アミルカル・カブラル アフリカ革命のアウラ』(石塚正英 編、石塚正英・白石顕二 共著、柘植書房新社、2019年)などの本がありますので、是非、カブラル生誕百周年に因んで一読してみてはいかがでしょうか

MedaFrica(medafrikatimes.com)というインターネットのニュースによれば、アミルカル=カブラルの生誕百周年記念祭をカボベルデとギニアビサウを皮切りに1月20日から全世界に向けて「アミルカル=カブラル財団」が発信していくとのことです。3月にはアンゴラで、そして4月にはポルトガルの「カーネーション革命」50周年記念と連携するのだそうです。この記事で、「これはアミルカル=カブラル財団の最大の挑戦だ」と同財団のカボベルデのペドロ=ピレス元大統領がカブラル生誕百周年記念祭にむけた意気込みを語っています。懐かしい、ペドロ=ピレス……わたしは東チモールに足を踏み入れる前にカボベルデに旅行しペドロ=ピレスと会って、東チモールへの連帯強化を求めたことがあります。そのときペドロ=ピレスは、アフリカならば陸続きで運動を連動させることができるが、東チモールは地理的に孤立しているから難しいと述べ、国連の場で東チモールを支援することぐらいしかできないのが残念そうでした。そしてカボベルデでは、ノルウェー人女性と東チモール人男性のカップルの住む家に泊めてもらい、アミルカル=カブラルの未亡人であるアナ=マリア=カブラルを紹介してもらいました。アナ=マリア=カブラルと交流し、アミルカル=カブラルの思い出をきけたことは身に余る光栄でした。

ギニアビサウでは混乱した政治状況が残念ながら現在も続いていますが、そんなギニアビサウを東チモール政府が国家予算を計上して支援するのも、東チモールにとってギニアビサウが民族解放闘争の大先輩であり、苦しかった自分たちに連帯してくれた同志にたいする想いがあるからです。

世界中で、日本でも、そして東チモールでも、アミルカル=カブラルの生誕百周年を祝う何らかの記念行事があることを切に望みます。

 

青山森人の東チモールだより  510号(2024121日)より

e-mail: aoyamamorito@yahoo.com

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/
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