第三章 日本資本主義の〈構造〉と経済学体系の模索
福本和夫と経済学の方法
大原社研を辞して無職のまま1924年9月にドイツから帰国した宇野弘蔵は、ベルリンでも世話になった森戸辰男の仲介で10月に東北帝國大学法文学部助教授に就任する。東北帝大にいたキリスト教神学者石原謙(「相対性理論」の普及・研究者の石原純は兄)の世話だったらしい。担当は経済政策論(工業経済・商業経済論も一時兼担)であった。これ以降、「治安維持法」(1925年3月。1928年改正、1941年改正)のもとに、いわゆる労農派教授グループ事件(1937―38年)に連座して検挙されるが、不起訴とされたにもかかわらず、“やむなく”辞職に追い込まれた1941年まで、宇野は仙台で「『資本論』のいうところをいかす方法」をめぐって思索を重ねた。そして、独自の理論体系がその骨格において整ったと宇野がみずから語る1935年前後、『經濟政策論 上巻』(1936年5月)の執筆・刊行にいたるまでのほぼ10年間は、日本資本主義の構造とその〈特殊性〉を把握するにあたって、中央での日本資本主義論争を冷静に観察しつつ、いかにして『資本論』体系のモティーフを活かすことができるか――その方法と論理を模索する十年だったといってよい。
しかし、原理論―段階論―現状分析という三段階構成の経済学体系がはじめからこのオーダーで構想されたわけではない。「『資本論』の中に経済政策論に使えるものがあるとなるべくそれを使うというやり方をしているうちに、『資本論』と私の経済政策論との関係ということが始終問題だったわけです。経済政策論ができるにしたがって『資本論』による原理論ができたわけです」(『経済学を語る』1967年)と語るように、近代資本主義の歴史的過程に支配的な経済政策の性格とその課題をめぐる宇野の思索は、『資本論』体系の“原理的”な探求と往反的に深められたのである。
宇野が、W.ゾンバルト『近代資本主義』(初版、1902年)の “資本主義発達史”(ゾンバルトは「起業家」の機能や「国家」の意義などに注目している)やマルクスの『資本論』第一巻第四篇「相対的剰余価値の生産」のうちの「資本家的生産方法」(分業、協業、機械制大工場)論などを利用して経済政策論の講義を始めたころ、さきに触れたように宇野と偶然乗り合わせた帰国途上の香取丸で「唯物史観」や河上肇について議論しあった福本和夫が、創刊されたばかりの雑誌『マルクス主義』(1924年12月号)に、「經濟學批判のうちに於けるマルクス『資本論』の範圍を論ず」という論文を発表した。福本は、文部省の在外留学期間を延長してパリのカルチェ・ラタンの下宿に籠もって執筆したこの「マルクス『資本論』の範囲を論ず」や「無産者階級運動の方向転換」論など の論攷(草稿)を携えて、“革命への意志”を抱懐しつつ帰国した。雑誌『マルクス主義』誌上で再び宇野は福本と接することになったのである。
雑誌『マルクス主義』は1924年5月に、当時の政治状況を踏まえつつマルクス主義理論の研究・普及をめざす理論誌として創刊されたもので、主筆が山川均、編集責任は宇野の級友・西雅雄であった。『マルクス主義』が発行された大正末から昭和初期は、急進的な社会運動が大衆運動と政治組織をめぐってひとつの転換期に差し掛かっていた。1922年には、山川の「水曜会」、堺利彦らによって共産党(“第一次共産党”)が、コミンテルンの政治方針を踏襲する一部の活動家も加わって非合法に組織されたのだが(同年11月「コミンテルン日本支部」として“認定”)、当時〈三悪法〉と呼ばれた「過激社会運動取締法」・「労働組合取締法」・「小作争議調停法」が廃案になった後、1925年から28年にかけて「普通選挙法」(1925年3月)と極刑を導入した「治安維持法」(1928年6月)とがいわば “抱き合わせ” の形で政治日程にのぼり法制化されたことーーこれら政治秩序の統合(参加と治安)をめぐる“硬軟併せた”政治過程に当面して、それまでの労働組合や農民組合を母体とする「無産者運動」や「社会主義」の運動がひとつの転機を迎えていた。1923年の第一次共産党事件(6月5日)によって堺利彦をはじめ主要な党員や活動家が検挙され(当日の検挙を免れた山川は証拠不十分で無罪)、さらに関東大震災(9月1日)による首都の壊滅・騒擾と戒厳令(9月2日)の発令、大杉栄・伊藤野枝虐殺事件(9月16日、橘宗一少年も扼殺)の衝撃など相次ぐ社会的混乱の渦中で危機に陥った第一次共産党は「解党」を余儀なくされた(“事務機能”的な「ビューロー」が残存)。そうした政治過程の“空白”と理論形成の停滞を埋めるかのようにして雑誌『マルクス主義』が、山川の雑誌『前衛』・『社会主義研究』、『階級戦』などを糾合し“合法誌”として創刊されたのである(先の「『資本論』の範囲を論ず」の福本論文と同じ号には、猪俣津南雄の「金融資本の貿易政策」や高橋亀吉の研究論文なども掲載されている)。
編集責任者の西は第一次共産党事件で検挙されるが、同年12月に保釈された後、雑誌『マルクス主義』創刊号(1924年5月)の編集・発刊に精力的に取り組んでいる(西雅雄『英国労働党発達史』白揚社刊、1924年6月の「序文」に「大正13年5月9日『マルクス主義』[創刊号]の発送を了へて」とある)。そんなある日、福本和夫と署名された分厚い郵便物が『マルクス主義』の編集部に送られてきた。『マルクス主義』の編集を当時手伝っていた東京帝大新人会の林房雄の回想によれば、西は福本の論文を、「おかしな文体だが、なにかありそうな気がする」と判断し「このまま発表していいかどうか」について林に相談したところ、マルクス、エンゲルス、レーニンらの「一度も読んだことのない重要な章句」の引用に満たされた「博学極まる」論文に「完全に圧倒された」林は、ただちに掲載を奨めたという(林房雄『文学的回想』1955年)。このころ山川理論にやや違和感を持ち始めていた西は福本の諸論文に触れる過程で、長年世話になった山川からの離反について“自分の進退をどうしたものか”と苦渋にみちた内心を宇野に打ち明けている。そういう西はのちに、マルクス主義研究における福本理論の意義を、政治革命の条件を重要な要素とする「全体性的考察」とその方法論的な可能性において認め(『マルクス主義』、第25号、1926年5月)、山川の有名な「方向転換」論については「アナルコ・サンディカリズムの精算の必要」を論じながらも「改良主義、日和見主義を喚び起す危険性」を内蔵していたと語り、福本を媒介にして山川から離れやがて「講座派」に与することになった(西雅雄「最近における階級諸運動」、『日本資本主義発達史講座〔第三部 帝国主義日本の現状〕』1933年6月)。
「大衆のなかへ!」という山川の「無産階級運動の方向転換」論(『前衛』1922年7・8月合併号)を「社会主義と組合主義の折衷主義」と批判し、レーニン『何をなすべきか』に依拠して「分離ののちの結合」という“前衛形成”の運動組織論と理論闘争を提唱することによって、山川が主導した経済闘争から政治闘争への拡大を含む無産階級運動の大衆化路線(「全線の方向転換」)に大きな転換を齎した福本和夫の思想(「無産者結合に関するマルクス的原理」)は、25年ころから27年の「二七年テーゼ」(コミンテルン)による福本批判にいたる期間にかけて、いわゆる再建共産党(“再建大会”は1926年12月)の指導理論となったのである。
この時点での福本の斬新性は、わが国のマルクス主義思想史のなかで、マルクスの『経済学批判 序言』に描かれた「唯物史観」の“公式”に独自の理解を施して、『資本論』の経済学批判体系とマルクス主義の革命理論との方法論的な接合を始めて試みたことにあるといってよい。そしてその接合の媒介項としてとくに強調されたのが、「階級意識」であったーー「有産者」と「同一の人間的自己疎外」(マルクス「プルードン」、『神聖家族』)を被る「無産者」の、そのような存在形態に必然的な「事物化された意識」の覚醒による「階級意識」の形成とこれを機縁とする「有産者への反逆」という論点である。これは、ほぼ1923年時点におけるK.コルシュの社会哲学の構案(『マルクス主義と哲学』1923年)であって、このコルシュの構案をベースに設定した福本なりの“体系”にしたがって、マルクス、エンゲルスの文章をそのまま組み合わせたかのように構成された彼の理論、いわゆる「福本イズム」が、決して読み易い文体とは言えないにもかかわらず、おおくの“インテリ”や若い学生活動家を惹きつけたのはおそらく、人格原理の理想主義と教養主義を社会意識と変革志向の基盤とするいわゆる大正デモクラシーの“急進的雰囲気” のなかで、東京帝大新人会に典型的な、社会変革への意志に応ずる「主体的行動の理論」(石堂清倫)が希求されていたからであろう。山口から上京して福本が定宿にした本郷の「菊富士ホテル」の一室には、男女を問わず若い活動家が「過程を過程する」ごとくに蝟集したという“エピソード”も伝えられている(石堂清倫『わが異端の昭和史』上、平凡社ライブラリー、2001年。『共同研究 転向 戦前編』思想の科学研究会編、東洋文庫、2012年)。
福本は雑誌『マルクス主義』に前記論文に続けて、[北条一雄]「欧洲に於ける無産者階級政党組織問題の歴史的考察」(同、1925年4月、5月、6月)、「經濟學批判の方法論(一)~(三)」(同、1925年7月、9月、11月)、[北条一雄]「無産階級運動の『方向轉換』と『資本の現實的運動』」(同、1925年8月)、[北条一雄]「『方向転換』はいかなる諸過程をとるか 我々はいまそれのいかなる過程を過程しつつあるか――無産者結合に関するマルクス的原理」(1925年10月)など、ほとんど毎号のごとく書いていた([北条一雄]は福本の筆名)。そして福本和夫(北条一雄)はこれらの諸論文を、『社会の構成並に變革の過程』(1926年2月刊。これは1925年11月、京都帝大学友会に招かれて「進化論講座第二部―社会進化論講座」で行った「講演ノート」に「若干の推敲」を加えたもの。この講演には、福本が「経済史観的唯物史観」と批判する当の河上肇も聴衆として参加していたという。)、『無産階級の方向轉換』(1926年4月刊)、『經濟學批判の方法論』(1926年6月刊)として刊行するのだが、自ら規定するこれら「初期三部作」はそれぞれ「唯物史観の方法論的研究」、「党組織論の研究」、「『資本論』の方法論的研究」として位置づけられていた。こうした「唯物史観」―『資本論』―前衛党組織論という構成は、その基礎的な発想に則していえば、近代資本主義社会の「事物化」された「生活過程の全域」の変革をめざす社会=政治革命の構想と規定できるだろう。だが、そのような福本の近代資本主義社会の構造に関する方法論的な主張は刺激的な“意想”の問題提起ではあったが、やや “断言”に近いその論述が抽象的な性格を免れていないことに注意しなければならない。
宇野は東北帝大の演習や研究会で福本のテキストを使い、また尊敬する師の“山川イズム”を離れ“福本イズム”に移った西雅雄からもなんらかの情報を得ていただろうから、福本の理論展開をめぐる情報の収集にも務めていたはずである。事実、宇野は自ら語っているように、マルクスの経済学批判とその方法論を理論的に問うという福本に接して、その構想に「驚くと共に感心」し『資本論』研究にとっての刺激と「大事なヒント」を受けている(有澤廣巳・宇野弘蔵・遠藤湘吉「日本資本主義と経済学 座談会」『経済評論』1956年12月。宇野弘蔵『資本論五十年 上』1970年)。
経済学の研究にあたって宇野の方法意識を刺激したのはおそらく、つぎのような経済学の対象を領域的かつ次元的に区別する福本の問題提起ではなかったかと思われる。箇条書き風に誌せば、それは以下のようにまとめられるだろうーー。
[1] マルクスの『経済学批判序説』(「経済学の方法」)に依拠して、「近代有産者社会」(福本が引用するマルクスの原文では「近代社会」moderne Gesellschaftだが、実質的には「近代資本主義社会」にあたるとみてよい)を、(1)「純經濟過程」(2)「國家過程」(政治過程)(3)「意識過程」(4)「國際過程」から成る階層構造の“総体”として捉えること。
[2] 『資本論』の研究対象は(1)の「純經濟過程」の領域であって、「資本家的生産の純經濟過程」における「資本の内在的運動法則」の分析を課題とすること、それに対して「日本の資本主義の現實的過程」の分析は『資本論』の研究範囲を超える領域であり、「資本の内在的運動法則に基づく資本の現実的運動法則」として解明すべきこと。
[3] 「純経済過程」を対象とする『資本論』の内部編成(全三巻構成)については、第一巻「資本の生産過程」・第二巻「資本の流通過程」と第三巻「資本家的生産の総過程」
とは論理次元が異なること。
[4] 「資本主義の現実的過程」とは(2)以下の「国家過程」(政治過程)・「意識過程」・「国際過程」を条件として展開する領域であって、諸国間の政治力学を背景にした政治過程とイデオロギー形成の相剋が問題となる場面であること。
[5] 総じてマルクスの「経済学批判」が終局の課題とするのは、大筋において、「有産者的社会」を構成する「諸過程の統一的全体」(「純経済過程」・「国家過程」・「意識過程」・「国際過程」)の分析にほかならず、その「土台」となるものが「経済的運動法則」(資本の内在的かつ現実的運動法則)とされていること。そして、「諸過程の統一的全体」の構造を、対象への下向的分析と叙述の上向的論理展開に関する上向―下向の弁証法として“過程的に”把握すべきこと。
宇野が『資本論』の研究をすすめるにあたって、以上のような福本が主張する経済学批判体系の構案のうちとりわけ注目したのは、資本主義社会の“原理”を「資本の内在的運動法則」(『資本論』の体系的性格の次元的階層構造もふくめ)として解明し、この“原理”を基準にして「日本の資本主義の現実的運動過程」を「資本の現実的運動法則」として分析するという視座にあったと考えられる。だが、その場合、福本の言う『資本論』の研究対象たる「純経済過程」概念には注目すべき論点が付随していた。福本の「純経済過程」の概念はローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』(1913年。「帝国主義の経済学的説明に寄せた論攷」という副題をもつ)からの“援用”であると思われるが、その際、「純経済過程」の次元を超える「国家過程」(政治過程)・「意識過程」・「国際過程」(国際間関係)の領域においては、「近代有産者的社会」は「非資本領野」(初出では「非資本野」)という契機を条件としてはじめてイデオロギーをふくむ政治力学を通して展開すると、福本が指摘していることーーこの論点は検討に値する。ただし「純経済過程」を次元的に超える「非資本領野」そのものについて福本による明確な説明はほとんどないのだが、それはおそらく「社会的過程としての資本蓄積」に内在的な「非資本制的構造」というローザの蓄積論に係わっている。ローザによれば「剰余価値の産出の場所」と規定される「純経済的過程」が資本蓄積(剰余価値の実現と資本化)の社会的根拠として存続しうるのは、世界市場における「非資本制的構造」(国家権力と収奪をめぐる諸関係)においてであって、福本の「純経済過程」に対する「非資本領野」の位置づけはこのようなローザの構図を踏襲していると思われる。宇野がこの時点で、福本・ローザの〈資本蓄積における「非資本制的構造」〉という分析視座に対していかなる姿勢をとったのかは明らかではない。のちに宇野は、唯物史観をめぐる梅本克己との対談のなかで、「下部構造としての純経済過程の構造」(『社会科学と弁証法』1976年)という言い方をしているが、近代資本主義社会における「非資本制的構造」をめぐる問題は、宇野が帝国主義に関する「段階論」の設定と往反的に、日本資本主義の〈特殊性〉とは何かについて考察する文脈で、格別の論点となるはずある。
さらに、唯物史観と経済学の関係を自分の研究課題としていた宇野にとって、ぬきさしならぬ重要な論点が介在していた。宇野は、「無産者階級の事物化せる意識」の「方向転換」(「分離ののちの結合」)を説く福本の階級意識論を大枠では「正しい」としながらも、そこにある種の“観念論臭さ”を嗅ぎ取っている。宇野がそのように判断したのは、福本の「近代有産者的社会」の構成において、さきの(4)「意識過程」の体系上の取扱いが必ずしも明確ではなかったことに関聯している。この「意識過程」について福本は、「有産者的社会はその社会的意識形態を有する。私の所謂意識過程。有産者的経済過程の内在的矛盾の発展は、この意識過程においてその階級的表現の発展を見[る]……」云々というのであるが、この記述から判断すれば、それは、「資本の内在的運動」に照応する「社会的に妥当する客観的な思想形態」(マルクス『資本論』)としてのブルジョワ的「表象」や「イデオロギー」の生成過程であって、「偶像礼拝的特質」をもつ「社会関係の事物化」の所産を意味すると考えられる。だが、「純経済過程」とそれに内在的な「経済的意識形態」、および「国家過程」つまり政治過程に相対する「意識過程」における「内在的な矛盾の階級的表現」がそれぞれいかなる相互の関聯にあるのか、それらの体系上の位置と内容は必ずしも判然としない。判然としないのは、『経済学批判 序言』に素描された唯物史観の“公式”における「経済的土台」とこれに照応する「イデオロギー諸形態」・「社会的意識形態」の次元、同じく「序言」冒頭に誌された経済学批判の叙述の順序、いわゆる〈体系プラン〉(資本、土地所有、賃労働、国家、外国貿易、世界市場)の問題系、および福本がとくに参照する『経済学批判序説』の「経済学の方法」に記述された「(一)一般的抽象的諸規定」から「(五)世界市場と恐慌」にいたる「篇別」構成――要するに、歴史的世界としての資本主義社会の構造を“弁証法”によって理論的に把握するにあたって、唯物史観の“公式”と経済学批判の叙述プラン(篇別構成)が、マルクスの用語法にも多少不安定なところもあるとはいっても、福本の構想においては渾然として交錯し理論的に整理されていないためではないかと考えられる。だが、繰り返しになるが、福本にしてみれば、「事物化された生活過程の全域」にわたる〈社会的生活過程の総体性〉を支える基礎過程こそ、「無産者」の「自己疎外」と「事物化」された「階級意識」にほかならならず、そこに近代資本主義社会が歴史的社会として存立するイデオロギー的・制度的な根拠があると主張したはずなのであった。
とはいえ、経済学の展開に即して唯物史観を“基礎づける”ことを課題としていた宇野は、資本主義の学問的認識は事物化された社会的存在としてのプロレタリアートの階級意識を表現するというコルシュ=福本の(あるいはルカーチ)の規定を単純に峻拒するはずはなく、おそらく学問的認識にとって階級意識とは何かという論点を〈科学〉としての経済学に応じた別様の問題次元にシフトさせて考えたにちがいない。〈経済学批判とは何か〉をめぐる宇野の方法的な関心は、当時の国家学や社会政策(学)と異なって、『資本論』を方法論的な母型とする経済学が学の体系として自立する根拠と条件を、〈近代科学〉の学問的な流儀に従っていかに定礎するかという方向に問題の構制を組み替えることにあったように思われる。無論、そのような組み替えには(広義の)〈イデオロギー〉論を再定義することが必須の条件となるはずである。「社会の経済的構造」における「現実的土台」とイデオロギーとしての〈科学〉、およびそれらの「照応」関係をめぐる宇野の思考が改めて問題となることになる。
のちに宇野は、原理論による資本主義(「純粋資本主義」あるいは「資本主義の純粋なシステム」)の“完全な認識”が変革の対象と主体を明らかにし、その科学的認識の成果を政治の領域で実践的に利用しうる唯一の階級が「プロレタリア階級」であるという階級論を展開するが、対象認識の“完全性”が対象変革の実践的主体を基礎づけるという宇野の発想は、一般に、対象の法則的認識によって当の世界を技術的・人為的に支配可能であるという近代科学が前提する対象―主体―〈法〉をめぐる “啓蒙の弁証法”(ホルクハイマー/アドルノ)の学問論とそれほどの原理的な径庭はない。
宇野は以上のような福本の問題提起に触発されて、現代資本主義を捉えることが可能な経済学に固有の学問的方法、すなわち「歴史的過程を理論的に把握しようとする社会科学に特有なる方法」をみずからに問うことになったのだと思われる。この過程で、ドイツ留学によって培った思考を通じて、帝国主義段階を現代資本主義の存立地平にかかわる固有の問題次元と思い做しつつあった宇野は、金融資本の蓄積様式とその支配の構造を「資本主義の新たな発展段階」として明らかにしようとしたヒルファディングの『金融資本論』を検討したにちがいない。そういう思索の成果が、資本主義の歴史的発展段階における支配的な資本とこれに応ずる経済政策の基本性格を解明するという段階論の設定と、『資本論』を〈形態構造化〉(Gestaltung)の観点から体系的に再構成することを試みたいわば資本主義の一般理論としての原理論の構想であった。後者の〈形態構造化〉は宇野の言う「形態規定」の論理として論文「貨幣の必然性」で提起され、段階論の具体的な構想が示されたのは『經濟政策論 上巻』においてであった。そして論文「資本主義の成立と農村社会の分解」(『中央公論』1935年11月)で宇野は、講座派と労農派による日本資本主義論争に対する両面批判を意図しつつ、帝国主義段階論が日本資本主義の「特殊形態」の分析に対して有効な媒介的方法たることを確認するにいたったとみてよいだろう。(続)
2024年5月15日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1296:240515〕