12月3日、突如として尹大統領が非常戒厳令を宣言した。野党の反対を「内乱」と決めつける荒唐無稽な大統領の「乱心」は明らかだった。国会が直ちに解除を決議したため、大統領は6時間後に撤回せざるを得なくなった。
任期半ばで既に政権末期状態となり、辞任を求める声が日に日に高まっているさなか、辞職する意思がない大統領が出した結論が非常戒厳だった。幼稚と思える思考で自らの墓穴を掘り、自身が恐れていた弾劾の可能性が一挙に現実味を帯びだした。まさに「愚や 愚や」である。
大統領は三流だが、国民は一流。
非常戒厳を知った多くの市民たちが国会に駆け付け、非常戒厳の即時撤回と軍の国会進入を阻止した。
日本政府と主要メディアは対岸の火事のように憂慮はするが無責任の極みだ。尹大統領を親日派、関係改善の功労者として独善的な評価を与えたことへの反省がまったくない。また、国民のあらゆる権利を奪う非常戒厳と「緊急事態条項」との違いを明らかにせず、改憲が孕む危険性については知らん振りである。日本の民主主義の危うさを韓国から学んだ。
<写真/戒厳宣言を発表する尹大統領/KTVレビ>
韓国語から学ぶもの <その2>
<お詫び>前回号の訂正です-世宗王が公布した「訓民正話」は間違い。正しくは「訓民正音(フンミンジョンウム)。ご指摘に感謝します。
さて、前回号の続きである。韓国語と韓国に向き合いながら何を見、何を考え、何が見えてきたのか。いささか冗長で細切れの文章にお付き合い願いたい。
3月1日と8月15日は韓国人が日本を特別に意識する日だ。1919年に起きた独立運動が3.1記念日、そして1945年の日本敗戦の日が植民地支配から解放の日、8.15光復節。歴史を知らない旅行者、留学生、韓国在住の日本人でも、この日ばかりは肩身の狭い一日を送ることになる。
留学早々、独立運動発祥の地、鐘路にあるタブコル公園に出かけた(下写真)。
ソウル大正面入り口
「日本人が何しに来た」と言われそうで少し緊張した。愛国者と太極旗で溢れる公園で二時間ほど演説に耳を傾け過ごした。
その年、1998年に発足した金大中政権は発足早々外貨不足(IMF危機)で深刻な経済危機に直面していた。そのせいか集会は「外貨危機突破」一色で、さながら現代版の独立運動の観があった。その日はタクシーもバスも例外なく太極旗を付けて走り、街中が国旗で溢れかえっていた。企業倒産による解雇が相次いだ時期。公園や地下道などで炊き出しが行われていた。
<下宿生活>
下宿は二食付き4畳半の部屋に家具付きで月額3万円ほどだった。おかずも5品から6品。キムチは食べ放題。とても気さくで面倒見のいいオバサンは学生たちから母親のように慕われていた。下宿ビジネスを超えた日韓の市民交流があった。
下宿で元AP通信社のカメラマンだった菊池さんと知り合った。彼は世界を駆け回る現役時代から退職したら韓国留学と決めていた。居心地がいいせいか2年近くも勉強と韓国生活をエンジョイした。帰国後、菊池さんは世話になった旧日本人学生たちに呼び掛けて下宿のオバサン夫妻を囲んだ同窓会を開いた。「こんなことは初めて」とオバサンは感激して涙ぐんだ。
ソウル大のオバサンは帰国する時、長い坂道を私の重い荷物を持ってバス停まで見送りしてくれた。
<ミスター スティーブン>
彼はソウル大のクラスメートでアメリカ人留学生。卒業後、大学で英語を教え、テレビの英語番組や旅番組に出演するいわゆる「外タレ」になった。私が韓国人のハンセン病患者の支援をしているのを知って「京郷新聞」に「日本人にもこういう人がいる。アメリカ人の私をブッシュ大統領と一緒にしないで」と記事を書いた。街を一緒に歩いているとサインや写真撮影を求められる人気者だった。アメリカ人と日本人が韓国で話をするのは不思議な世界だ。
<韓国の旅は続く>
時代は金浦空港時代から仁川空港時代へ。成田空港は農民の土地を奪い、流血、死者まで出して開港したが、仁川空港は干拓地に作ったせいかあっという間に完成した。
留学を終えると栃木に新たな仕事を得た。韓国語を生かせる仕事ではなかったが、精神障害者の家族会が運営するホテル付の障害者施設で、社会的な偏見と差別にさらされている障害者のために働くことはやりがいのある仕事に思えた。
だが、赤字続きの温泉付きのホテル(左写真)の経営を軌道に乗せるのは容易ではなかった。障害者がホテル業務の仕事をしながら社会復帰をめざすプロジェクトは国内外で注目を集めた画期的な施設だった。韓国の家族会の代表をホテルに招いて交流。初めて「韓国語講座」を開いたのも施設がある喜連川だった。
施設の運営委員長である国際医療福祉大学の大谷学長からハンセン病について多くのことを学んだことが韓国のハンセン病との縁になった。在職中の2001年8月に北朝鮮にピースボート主催のツアーに参加。韓国に偏りがちな半島を見る目が北朝鮮にも向けられる有意義な旅だった。「南男北女」―北には美人が多いのを確認できたのも収穫だった。
3年半余りで施設の退職を余儀なくされ、2002年から韓国大使館韓国文化院(東京港区南麻布)に転職した。言い古された言葉だが、「日韓の架け橋」という夢が現実になった。金大中大統領の任期最後の年、かつて拉致救援活動にかかわった私が金大中政権の下で働くのは奇跡に思えた。サッカーワールドカップ共同主催国韓国の出先機関の一員としてスポーツ・文化交流が活発化した時期に多岐にわたり貢献できたのはラッキーだった。あるスポーツ交流イベントで韓国を代表して挨拶したことも信じがたい。在任中に金大中の後任に当時無名だった廬武鉉が奇跡的に当選した。韓国の市民運動の力強さをあらためて感じ、一市民として何ができるか考えるようになった。
友人や家族との旅行も素晴らしいが、何といっても旅の魅力は「ひとり旅」だ。
話が前後するが留学を終え、ひとりぼっちの「修学旅行」をした。
汝矣島の民主労組の解雇反対大集会から始まり、大邱(ケーブルカーで八公山登山)、蔚山の現代自動車のスト現場の見学、光州からソウルへと時計回りの駆け足旅行だった。帰国の飛行便は北朝鮮のテポドン発射のため空港で数時間足止めを食った挙句、予想外の愛知県の小牧空港に連れて行かれ、新幹線に乗り継いで深夜の帰宅となった。核保有、ミサイル発射時代の幕開、1998年、テポドンと一緒に帰国して修学旅行は終わった。 テポドンは地名だが、長らく「鉄砲ドーン」と記憶していた。
<上写真テポドン1号>
韓国人と結婚する留学時代の仲間の女性から結婚式の案内をもらった。飛行便が取れず、関釜フェリーで釜山からソウルまで。フェリーは過去5回利用したが、乗客は日韓半々くらいで船中は日本にいるような韓国にいるような不思議な気分になる。青春切符2枚を使ってフェリーを利用すると一番安く韓国に行ける。
その時の旅で印象的だったのは落選運動。保守・守旧派の立候補者に対する市民派の組織的ネガティブキャンペーンに目を見張った。運動は民主化への嵐のように成果を上げた。当時との比較は難しいが、日本では最近SNSを悪用して当選するケースが問題なっているが、公正で厳しい落選運動を見習ったらどうだろうか。
台湾のハンセン病患者に続き、韓国の補償問題が一応落着した2005年、日韓の旧ハンセン病施設を訪ねた。
以下「通信」から転載-
「5月14日、品川から倉敷行きの夜行バスに乗り込み、私の旅は始まりました。最終の目的は20日にソウルで開かれる『交流会』への参加でしたが、岡山の長島愛生園、韓国馬山市郊外にある旧千葉村があった栗九味、小説『太白山脈』の舞台となった筏橋、日本の植民地時代に作られたハンセン病患者隔離施設のある小鹿島(ソロクト)、25年前に光州事件のあった光州市等と少し欲張りな旅でした。韓国を一人旅したことはこれで三回目ですが、今回の旅行は観光というより、自分なりに課題を持たせた、それだけに少し緊張した旅行でした(韓国通信NO59)」。
(写真/上/橋で繋がった長島愛生園/写真下/フェリーで小鹿島へ 現在は架橋)
韓国侵略の歴史に登場する千葉村(栗九味)は日露戦争に翻弄された千葉漁民が移住した村として知られる。軍事侵略と民間人の移住がセットで行われた。旧千葉村のある馬山では独島(竹島)問題が再燃して街宣車が走っていた。
ひっそり静まり返った長島愛生園とは対照的に、翌日訪れたソロク島は島ぐるみの運動会当日で大変な賑わいだった。東京で知り合った自治会長を訪ねたが、会えずじまいだった。島にはソロクトの歴史が資料館に展示され、別館には男性の患者に使用された「断種台」が保存されていた。島外から「ソロクト大好き」という幟やワッペン姿の人たちで賑わっていた。魚市場のおじさんからハンセン病患者に同情する昔話を聞いた。
最近読んだ大阪池田の川口祥子さんが訳した姜善俸著『小鹿島(ソロクト)賤国への旅』詩集『小鹿島の松籟』(解放出版社)から日本の侵略と懶病という二重の苦しみが伝わる。
光州5.18記念公園墓地を再び訪ねた。大きなモニュメントの写真も残されているが、墓石ひとつひとつをのぞき込むように見て回る女性の姿が今でも忘れられない。
<上写真>
2005年5月。旅の最後に韓国良心囚の支援活動を続けた大阪のアムネスティ会員たちが招待されたパーティに参加した。私が「なんでアムネスティ」(前出恒成和子さんの著書名)と思うかもかもしれない。前回号で紹介した韓国から送られてきたファックス翻訳が縁で私もにわか「関係者」となり恩恵にあずかった。パーティに先立って詩人の金芝河との懇親会が開かれた。
<写真/金芝河を囲んで/前列左から3人目が金芝河>
通信64号でも触れたが、彼が民主化運動に果たした功績とは裏腹に民主化以降の彼の行動に批判の声が絶たない。
その後も朴正煕元大統領の娘朴槿恵を大統領選挙で支持したため公然と裏切り者のレッテルが張られた。最近、何故金芝河が公然と朴槿恵支持をしたのか考えることがある。彼が追い求めた理想と現実の民主化路線に生まれたギャップに彼は抗ったのではないか。彼は新しい農業に挑み、一昨年江原道原州で亡くなった82歳。
口では民主主義を語りながら権威主義的で無原則に妥協をする政治家は日本にも韓国にも多い。政権を得ること、政権を維持することだけに腐心する政治に対して批判することは決して間違いではない。
次号に続く
初出:「リベラル21」2024.12.07より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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