「ルネサンス」-「宗教改革」-「マキアヴェッリ」(4)

都市の貧困に輪をかけた地方(農村)の貧しさ
歴史家が挙げるこの時代の特徴は、それまでの中世封建制社会(地方領主が中心になってその周辺に家臣団をまとめた群雄割拠の社会構成)が崩壊し、絶対主義(中央集権的に君主の至上権のもとにまとめられた専制的な政治形態)の時代が形成されてきたという点にある。つまり中世から近世への移行期にあたるのがこの時期である。
先にペストの大災害について述べた個所で、フランスの著名な歴史家フェルナン・ブローデルについて少し触れた。改めてブローデルの『物質文明・経済・資本主義15-18世紀-日常性の構造1』(村上光彦訳 みすず書房1986)から該当する個所を引用してここでの議論に供したい。
「フィレンツェはとりわけ貧しいとはいえない地方にあるのに、それでも1371年から1791年までに、大豊作の年がわずか16回だったのに対して、食糧欠乏の年は、111回あった。…なお、都市住民が苦情をこぼしつけていたからといって、都市だけがこうした運命の打撃に曝されていたように即断してはなるまい。都市には倉庫・備蓄品・《穀物取引所》があったし、国外から購入する道も開けていた。…逆説的に思われようが、時には農村のほうが都市よりはるかに苦しい目にあったのである。それに農民は、商人・都市・領土に従属して生きていたから、備蓄品をあまり用意できなかった。農民としては食糧欠乏の際には、都市目指して流れ込み、どうにかこうにかしのいで身を寄せ合って群がり、街頭で乞食をし、16世紀になってもまだヴェネツィアやアミヤンで見られたように、往々にして広場で死んでゆくよりほか手がなかったのである。
やがて都市はこれらの規則的な侵入から自営せざるを得なくなった。侵入してきたのは周辺の困窮者だけでなく、時には非常に遠方から、全く軍勢のように、貧民の群が波打ちながら移動してきたのである。1573年、トロワ市の近郊と市内街路とに、《他所者》の乞食が見る見るうちに湧き出てきた。彼らは飢え、ぼろをまとい、虱などの害虫にたかられていた。彼らは24時間の市内滞留しか許可されなかった。しかしやがて有産市民は、市内そのものおよび近隣農村の極貧の徒の間に《蜂起》が生ずるのではないかと恐れた。(その結果、貧民にパンと一枚の銀貨を分配してトロワ市から追い払った)。」(pp.82-3)
「有産市民のこの獰猛さは、16世紀末期、また17世紀に入ってからは、さらに度外れに酷くなっていった。問題は、貧民から牙を抜いてしまうことであった。パリでは、病人及び不具者は以前からずっと病院にさし向けられていたし、五体満足なものは二人ずつ鎖に繋がれて、市の濠で際限なく掃除を続けるという、つらくて嫌気のさす作業に従事させられた。イギリスでは、早くもエリザベス朝末期に救貧法が登場した。実はこれは貧民に対抗する法律であった。西ヨーロッパ全域を通じて、貧民及び望ましからざる者のための施設が増大していった。救貧院、懲役場、強制収容所…。」(pp.83-4)

マキアヴェッリが『君主論』で唱えた民衆の武装化(各都市国家におけるコミューン的な独自軍隊の創設)が、貴族や金持ちたちに敬遠された大きな理由には民衆蜂起 の可能性(危険性)があったように思う。庶民が危機的な状況下において、自分たちの土地と生命を守るために武器を持って蜂起 すること(「ドイツ農民戦争」や「パリ・コミューン」などを考えればわかる)は、いつの時代でも大いにありうるのである。この15~16世紀のヨーロッパ社会では、先に見たペストや「100年戦争」の影響で、社会は疲弊荒廃し、いまや実存の危うさに遭遇した民衆による「命がけの叛乱」が起こりうる雰囲気が醸成されていたとみることができる。例えば、ミケランジェロの代表作の一つと言われる「ダヴィデ像」が立ち向かっている相手は巨人ゴリアテであるが、これは弱者たる民衆が、強者たるローマカトリック教会や封建領主や侵入する外敵などの権力者に抗する闘いを象徴しているともみなしうるのである(羽仁五郎の『ミケルアンヂェロ』はその点を強調している)。
実はミケランジェロは、前に触れたサヴォナローラ(「ポポロ、リヴェルタ(民衆、自由)」を唱えて焚刑に処された僧侶)を終生評価していたといわれる。
だからこそこれら権力者は必死になって民衆暴動を鎮撫しようとしたのである。

もちろん鎮撫は、ただ力づくの鎮圧ではない。庶民の怒りの矛先をかわすための、いわゆる「ガス抜き」的な政策も大いに採用されている。カーニバル(謝肉祭)やシャリヴァリなどという村々における季節の祭り(フェストでの無礼講)の奨励などはその典型であるが、もちろん文芸活動や、行き過ぎない限りでの「宗教改革」なども巧みに利用されている。
「16世紀、ルネサンス国家の時代、王たちはまだ成功したばかりの国家統合を保全するために大胆な政治を志した。宗教改革も大航海も大遠征もそれである。」樺山:前掲書(p.206)                                                                                                                                                                                             
「ルネサンス君主は、一見すると国家統合の実を示し、強大な専制的な国家機構を築き上げたかに見える。だが実際には、どの国王軍も、直臣と諸侯軍に、多数の傭兵を併せた混成体であり、国民的忠誠によって結びつけられたものではない。国家は仮想上の機構だった。」樺山:前掲書(pp.208-9)

全くの余談であるが、日本でも1945年の終戦直後から1950年にかけては、これに類する大混乱の時代であったといわれる。日本労働運動論の専門家・山本潔(東大社研)によれば、米軍の間接統治下にあって、日本の労働運動が、「資本主義的社会体制の存続そのものを深刻に問うたのは、…(この)戦後危機の時代以外にはない」(『戦後危機における労働運動』御茶の水書房)という。実際に終戦直後、かの政治学者・丸山真男ですら、どこかで「国民は銃を棄てるな」という意味のことを書いていた。

マキアヴェッリをどのように位置づけるか
既にマキアヴェッリについては、私見も含めて縷々述べてきてはいるのだが、ここではまとめる意味で、諸大家のご意見をいくつか紹介したい。
まず政治学者(西洋政治思想史)の佐々木毅は、この塩野の本のあとがきで次のように書いている(『 わが友マキアヴェッリ』によせて)。少し長いがなかなか興味深いので引用する。
「マキアヴェッリが厳しい思想的対立や社会的疑念から比較的自由に取り上げられるようになったのは、ようやくこの一世紀ばかりのことである。それはまた、ブルクハルトによって現代的スタートを切ったイタリア・ルネサンスについての研究の進展とも、一定の相互扶助関係にあったといってよい。ところでルネサンスと言えば、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロなど絵画や彫刻の天才たちが何よりも念頭に浮かぶ。中世の宗教性に支配された世界からの人間の解放というのはブルクハルト以来の基本テーゼであるが、それを後世に最もポピュラーな形で伝えているとされてきたのは美術であった。
…美術の天才たちも、こうした社会的雰囲気のなかで活動し、したがって、それを伝えるエピソードに事欠かないが、彼らの生活には政治や社会の姿は間接的にしか現れない。政治に携わり、あるいはそれに関係するのは、人畜無害な人間では必ずしもないし、よかれあしかれ、人間の持っている諸側面、特にその可能性と振れの大きさをストレートに、大きく浮き彫りにしてくれる群像であったといってよい、ここに中世と宗教改革との狭間に一瞬開花したこれらの人間たちの独特の魅力が巧みに描き出されることになる。そうした流れの中で考えるならば、マキアヴェッリが登場するのは一つの当然の結果であるといってよい。マキアヴェッリこそは、光り輝くばかりのルネサンスの常識的イメージに対して、人間社会の苦さと苦悩を誰よりもストレートに、容赦なく表現した人物であったからである。政治はいつの時代でも華やかさと共に耐え難い俗物性と残酷さを伴うが、彼こそは政治と統治の問題をルネサンス人らしい率直さと徹底性を持って語った人物であった。」塩野:前掲書(pp.625-6)
「塩野さんはこの中で、マキアヴェッリの思想を分析することを直接目的にしたわけではなく、マキアヴェッリの書簡やフィレンツェ政庁への報告書などを巧みに使いながら、外見的にあまりパッとしないこの人間の実像を生活の現場から描き出している。…そうしたマキアヴェッリ像の一つの核と思われるものは、その半周辺性とでもいうべき特徴である。生まれにおいても、教育においても、政治的地位や社会的境遇においても、マキアヴェッリはフィレンツェ社会の支配層からやや離れたところに位置していたということである。」塩野:前掲書(p.627)
「身分的にも精神的にも、これまで支配的であったものと「切れている」という感覚、あるいは、そのことをバネにして、精神的、政治的広がりを模索しようという精神の在り方は、疑いもなくマキアヴェッリの大きな特徴であった。しかも、仏王シャルル八世のイタリア遠征以来、世の中はいわば乱世に突入しており、マキアヴェッリは書記官として、乱世の後始末に文字通り、東奔西走したのであった。…歴史的に見ても、イタリアは他のヨーロッパの国々と万事システムが違い、特に政治の傾向ははっきりと違っていた。都市国家や教皇庁の存在はその一例であった。その上、マキアヴェッリはイタリアの文脈の中でも半周辺的な拠点に立ち、したがってさらに話はズレてくることになる。マキアヴェッリはある意味でイタリアを常に念頭に置いて議論したわけであって、主観的にはその世界にとどまっていた…しかし…幾重にもわたるこの文脈のズレが(彼の議論を)全く違った世界に移植(したのである)。」塩野:前掲書(pp.628-9)

マキアヴェッリの立ち位置が「半周辺的」なものであったが故に、かえって事態を第三者的な目でとらえることができたのだ、というのが佐々木の見解である。

次にイタリア・ルネサンスが専門の西洋史学者・会田雄次による「マキアヴェリの生涯と思想」(世界の名著16 中央公論社1966/85の序文)を引用する。
「(当時のイタリアは二つの国家類型)に類別される。その一つは君主国群(ミラノ、ナポリ、中北部の小君主国)であり、他は都市国家群(フィレンツェ、ヴェネツィア、シエーナ、ルッカなど)である。一般的に言えば都市国家は、中世封建制度の束縛を打破して民主制を樹立したところに、その近代的進歩性が認められる。だが都市国家はその名の通り、孤立した単位であって、もし統一国家の中に組み込まれれば、それは自らの消滅を意味することになる。従って都市国家は、その成立と同時に、保守的な、現状維持的な性格を担わざるを得ない。ということは、この都市国家グループは一致してイタリアの統一に対して反対の立場をとることとなる。それゆえ君主国はむしろイタリア統一に対して進歩的性格を持つのに対して、都市国家はかえって自己保存のために歴史に逆行したという矛盾も存在するのだ。」同書(p.20)
「マキアヴェリは フィレンツェ の人間である。 フィレンツェは商人都市として、イタリアの統一に対しては、むしろ反対の立場を取り続けてきた都市ではなかったか。その故に上層市民と中産市民の階級対立、更にはピサ戦争の苦しみを味わわなければならなくなったフィレンツェは、より痛烈に、イタリアの不統一そしてその原因ともなった傭兵制度の弊害を身に染みて悟らなければならなかった。そしてピサ戦争の収拾、軍隊制度の改革を公務上つかさどらなければならなかったマキアヴェリは、フィレンツェ のこのディレンマを、一人で真正面から被らなければならなかったのである。…共和国出身者であるマキアヴェリが、チェーザレ・ボルジアに、ユリウス二世に、イタリア統一の夢を託したのは、このような彼の特殊な環境によるのである。」同書(pp.36-7)
「商人的合理主義の世界は、経済要因が政治、軍事における有力な武器であるという意識の上に成立してきた。彼はこれに正面から反抗する。彼は『政略論』(第二巻第10章)で、金は戦争の力の源泉ではないと異議を唱える。そして富の所在によって政治が動かされる現実を批判し(第一巻第49章、第三巻第28章、第46章)、政治こそ厳しい主人であると主張する。…この彼の立場は、近代世界において、個人を完全な従属的構成分子として取り囲む、生きている機構としての国家の理念に発展することになる。」同書(p.38)

会田雄次によれば、フィレンツェ共和国出身の共和主義者マキアヴェリは、当時のフィレンツェが置かれたディレンマを一身に背負って苦悩している。苦悩の末のマキアヴェリの解決策は、「国家理念」にあった。つまり国家による政治的な統制、独自の軍隊整備、またチェーザレ・ボルジアやユリウス二世のような独裁的な君主による強力な統治の必要性、まさに戦乱の世の中を勝ち抜く為の諸方策こそが『君主論』なのだということになる。右翼の論客たる会田雄次の面目躍如というところか。

ミケランジェロの「ダヴィデ像」のところで触れた歴史学者・羽仁五郎は『ミケルアンヂェロ』(岩波新書)のある個所で、マキャヴェリについて、「フィレンツェの生んだ世界最初の近代的歴史家」として位置づけている。それは『フィレンツェ史』を読めばわかるという。しかし塩野が指摘するように、この書がコシモとロレンツォによるメディチ家の盛期で終わっていてその後のメディチによる独裁的な支配に及んでいない点、そしてそれがマキャヴェリの再就職の希望と関係していたこと、などを考え併せた時、少々疑問が残る。
最も羽仁がこの本を出版したのが昭和14年(1939年)だったということを考える時、ミケルアンヂェロやマキャヴェリに仮託して彼が何を主張したかったかがわかる。羽仁は、事態を冷静に分析すること、そして自主性をもって主体的に世の中に向き合うべきことを諭している。以下、羽仁の日本帝国主義(ファシズム)批判の一文を引用する。
「誰でも思い出すように、歴史上の封建主義の支配の原則は、Divide et impera!民衆を分裂させよ、しかして支配せよ、ということにあった。これはいわゆる敵や臣下を分割することを秘訣としたばかりでなく、国民を分割し孤立分散させ、そこにその狭い民衆相互の関係の中になおややもすれば人民を互いに嫉視猜疑対立せしめようとした。そして封建支配下の農奴国民の物資的ないし政治的社会的経済的悲惨のすべてはその精神的不幸に相応じた。封建制下の大多数民衆が精神的に一つの陰鬱な受け身の精神の消極主義の状態に陥れられていたことは、人の知るごとくである。何もしないのが一番良い。何か新しいことをすると危険だ。こうして幾百幾千の散在する僻村に、あるいは点々たる農家に、あるいは城壁をめぐらした小さい町に、農奴国民はそうしたちりぢりばらばらのせまいひとりひとりの小世界に全く閉じ込められ孤立無援の生活を続けさせられ、物質的にも精神的にも欠乏の日々を暮らした。…ブリゥゲルの名画、”盲人が盲人を導く”を見よ。」(p.31)

私がここに諸大家のマキャヴェッリ像を比較紹介したのは、どれが正しいかを問うつもりではない。私自身は「絶対的にこれが正しいマキャヴェッリだ」などとマキャヴェッリの「実体論」をとなえる者ではないからだ。書き手(諸大家)それぞれが、自己の立場で独自のマキャヴェッリ論を構築している。その時代の人たちもそうであったはずだ。そういうことを離れてマキアヴェッリそれ自体などどこにもない。他者が描く諸像(他者との諸関係)のアンサンブルこそがまさにその人の実在であるからだ。

当初予定していたよりもだいぶ長すぎたので、そろそろここらで擱筆したいと思う。この小論の冒頭部で述べたように、この論考は、「マキアヴェッリを軸に据えて、この時代を概観してみたらどうだろうかという考え」から起筆したものだったが、書き出したらその素材の奥行きの深さと内容の面白さに引かれてしまった。もちろん、この程度の小論ではほとんどその興味深さのとば口にも至っていない。ルネサンス、宗教改革にはほとんど触れられていないばかりか、この時代は「大航海時代」でもあり、また商業資本の勃興期でもあるが、残念ながらそれらには筆が及ばなかった。今後の課題にしたい。

最後に、近代科学との関係について『近代科学の歩み』H. バターフィールド、W.Lブラッグ他著 菅井準一訳(岩波新書1956/64)から、次の個所を紹介しておしまいにしたい。
「中世の宗教的教条が、余すところなく、しかもゆるぎなく、確立していた時代には、知的な対象や科学の方法は、少なくとも余計なものであった。」(p.19)
「中世の半ばごろに、その知識的な雰囲気が変わってきているからである。この時代には、信仰そのものさえ、人の興味を全く占領することができなくなっていたらしい。なお宗教が主流を占めている文化のただなかに、文学にも哲学にも、世俗なことへ専心する傾向が、突如として現れた。宗教自体の内部にも、初期の托鉢僧の運動を含むあらゆる種類の少数派の運動が、思想の統一をかつてないほどかき乱した。意見の不一致は、中世の学問の真中心にさえも現れ、哲学論争はドグマの基礎そのものを揺さぶるかに見えた。そしてかなり穏やかに宗教上の異見を表明する背後にも、極めて深刻な懐疑と疑惑の可能性が潜んでいたのである。」(p.24)(「なぜ中世に科学は後退したのか?」 M.ボストン/ケンブリッジ大・中世経済史教授)
                               204.11月12日記

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion13996: 241208〕