21世紀ノーベル文学賞作品を読む(5―上)歳末特別編

 
     ハン・ガンの『少年が来る』――深い悲しみに共感する感性

 今年2024年度のノーベル文学賞に隣の韓国の女性作家ハン・ガンさん(54)が選ばれた。授賞理由は「歴史的なトラウマと対峙し、人間の生命の儚さを露呈させた迫力ある詩的な散文に対して」。その代表作の一つ『少年が来る』の舞台は1980年5月18日、韓国全羅南道の光州を中心として起きた民主化抗争の光州事件。
 戒厳軍の武力鎮圧によって5月27日に終息するまでに、百四十四人(軍側の発表、市民側はその数倍と主張)にも上る活動家や学生や市民が犠牲になった。抗争で命を落とした者がその時、何を思い、生存者や家族は事件後、どのような生を余儀なくされたのか。その一人一人の生を深く見つめることで、韓国の一地方で起きた過去の話ではなく、時間や地域を超えた鎮魂の物語となっている。その心打つ核心部分を以下に紹介しよう。

 ◇1章 「幼い鳥」
 数千人の市民による愛国歌の斉唱が始まる。今朝、赤十字病院には三十の棺が運び込まれ、数千人の群衆のざわめきに混じり、誰かの泣き叫ぶ声が微かに聞こえてくる。端っこの柩の中の酷い死体は、二十歳前後の若い小柄な女性。腐敗が進んで膨れ、胴周りが大人の男性ほどの大きさに。君は体が傷んでいく速度に驚く。
 左胸と脇腹には、銃剣で数回突かれた刺し傷があり、棍棒で殴られたような右側の頭骨は,凹っと陥没して脳髄が見える。それらの目立つ傷が真っ先に腐った。鼻血が噴き出しそうな死臭を我慢しながら、君は蝋燭の炎を覗き込む。(体が死んだら、魂はどこに行くんだろう)ふと、君は思う。どれ位長く、自分の体の傍に残っているのかな。高校三年で小柄な体の僕は、病院の手伝いの一員として若い女性が中心の看護チームの一員として働く。

 病院で働くウンスク姉さんは丸い目を大きく見開いて言った。「軍人が起こしたの。権力を握ろうとして。真っ昼間に人々を殴って、突き刺して、銃で撃ったじゃないの。そんな彼らを私たちの祖国の人たちだと、どうして呼べるのよ」。君は混乱していた。廊下のあちこちで同時に納棺が行われ、すすり泣く声に混じって輪唱のように愛国歌が歌われる間、君は息を殺して耳を傾けた。講堂を埋めた柩はほんとに多かった。
 夕方には、戒厳軍と対立した周辺地域で銃弾に当たった人々が載せられてきた。軍の銃撃で即死したり、緊急治療室に運ばれる途中で絶命したりした人たちだった。亡くなっていくらもたたない人々の姿はあまりにも生々しく、ウンスク姉さんはしばしば講堂の表に飛び出していっては吐いた。その夜、講堂をぎっしり埋め尽くした死者の姿をふと見渡しながら、まるでここに集結しようと約束し合った群衆のようだと君は思った。

 君はこの間の日曜日、外出して街をぎっしり埋め尽くす武装軍人たちと出会った。何となく怖く、川辺の道へ。新婚夫婦と思しい、聖書と讃美歌の本を手にした背広の男性と紺色のワンピース姿の女性を見かけた。銃を担ぎ、棍棒を手にした三人の軍人がその若い夫婦を取り囲む。背広の男性の弁明。「助けて下さい」という懇願をよそに、三人はひたすら棍棒を打ち下ろし続けた。長く垂らした髪を掴まれた女性がどうなったのか、君は知らない。わなわなと顎を震わせながら脱出し、さらに見慣れぬ光景が繰り広げられる街に入っていったからだ。

 集会での話では、戒厳軍は今夜入ってくる、とか。愛らしくぽっちゃりしていたウンスク姉さんの顔は、ここ数日でやつれた。君はソンジュ姉さんに訊いてみたくなる。「今日残る人たちは皆、本当に死ぬんですか?」。小さな歯がぎっしり並ぶ前歯を見せて彼女は笑い、済まなそうに君に言う。「悪いわねえ、ここに君一人残しちゃって」。
 ソンジュ姉さんの言うことが合っているかも知れない。軍人がチョンデを運んでいってどこかに埋めてしまったのかも知れない。でも母さんの言うようにどこかの病院で治療を受けていて、まだ意識がなくて家に電話できないのかも知れない。

 駅前で銃撃された二人の男の遺体が、リヤカーに載せられデモ隊の先頭で行進した日、中折れ帽の老人から十二,三歳の子ども、カラフルな日傘の女性まで、多様な人々が見渡す限り黒山のようになったあの広場で、最後にチョンデを見たのは地区の人ではなくまさに君だった。姿を見ただけでなく、脇腹に銃弾を受けるのまで見た。いや、チョンデと君は最初から手を取り合って先頭の方に、先頭の熱気の方に進み出ていた。
 耳をつんざく銃声にみんな後戻りして走り出した。空砲だ! 大丈夫だ! 誰かがそう叫び、デモの隊列に戻ろうとする人々でごった返す修羅場の中で、チョンデの手を離した。再び銃声が耳をつんざいた時、横向きに倒れたチョンデをその場に残して君は走った。シャッターを下ろした電器店横の塀に、三人のおじさんと一緒に身を寄せて立った。彼らの一行らしい男性が合流しようと駆けてくる途中、肩から血を吹き出して倒れた。

 なんてこった、屋上だ。
 君の横に立っていた、髪が薄くなったおじさんが息を切らしながらつぶやいた。
 ・・・・・屋上からヨンギュを撃ちやがった。
 横のビルの屋上からまた銃声が響いた。よろよろと立ち上がりかけた男性の背中が跳び上がった。腹から滲んだ血が瞬く間に上半身を覆った。横に立つおじさんたちの顔を君は見上げた。誰も口を開かなかった。髪の薄いおじさんが口を覆って声もなく震えた。

 君は目を薄く開けて、通りの中央に倒れた数十人の人々を見た。君が着ているのと同じ空色のトレーニングパンツがちらっと見えたようだった。スニーカーの脱げた裸足がぴくっとしたようだった。君が飛び出そうとした瞬間、口を覆って震えていたおじさんが君の肩をつかんだ。同時に横の路地から三人の青年が走り出た。
 倒れた人たちの脇の下に手を差し込んで起こそうとしたちょうどその時、広場の中央に居た軍人側から突然、立て続けに銃声が起きた。ぐったりと青年たちが倒れた。君は通りの向かい側の広い路地を眺めた。三十数人の男女が両側の塀で、凍り付いたようにその光景を見つめていた。

 銃声がやんで三分ほどが過ぎ、向かい側の路地からかなり小柄なおじさんが一気に走り出てきた。倒れた一人に向かって全力で走った。再び立て続けに銃声が響いて彼が倒れると、今まで君と身を寄せ合っていたおじさんが分厚い手のひらで君の目を覆って言った。
 今出ていったら犬死にだぞ。
 静寂の中で十分余りたった時、軍人の隊列から二人一組で二十人余りが歩いて出てきた。
前の方で倒れた人たちを素早く引きずっていき始めた。それを待っていたかのように、横の路地と向かい側の路地からも十余人が走り出て、後ろの方で倒れた人たちを抱え上げて背負った。今度は屋上からの銃撃はなかった。
 だけど君は、彼らみたいにチョンデの方に走っていきはしなかった。君の横にいたおじさんたちは事切れた連れを背負い、急いで路地の間に消えた。俄かに一人残された君は脅えて、狙撃手の目が届かない場所はどこなのかだけを考えながら、壁にぴったり体をくっつけたまま広場を背にして速足で歩いた。

初出:「リベラル21」2024.12.11より許可を得て転載

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