母語教育の導入式
時間を少し遡ります。東チモールの国営通信社『タトリ』(2024年4月18日)によると、去年2024年の4月18日、教育省はラウテン地方自治体(以下、ラウテン)とマナトゥト地方自治体(以下、マナトゥト)そしてRAEOA(ラエオア=オイクシ/アンベノ特別行政地域、旧名・オイクシ地方自治体、以下、オイクシ)における基礎教育課程への多言語教育計画の立ち上げ式を首都デリ(Dili、ディリ)でおこないました。この記事の写真によると開会式にはジョゼ=ラモス=オルタ大統領が出席し、教育親善大使のカースティ=ソード=グズマンさん(シャナナ首相の夫人、オーストラリア人)がインターネット通信を介して遠隔参加しました。
ドゥルス=デ=ジュスス=ソアレス教育相はこの会場で次のように述べました――世界的な研究によれば、母語をもつ子どもたちが第二言語・第三言語を学ぶ前に、識字能力と基本的な計算能力の基礎を築かなくてはならないのです。わたしたちの国では農村部においてテトゥン語もポルトガル語も話せない子もなかにはいることを考慮すれば、わたしたちがその子たちの母語で識字能力と基本的な計算能力を学ぶことを支援して、そのあとに子どもたちがじっくりと公用語を学ぶ段階へ教育課程に沿って進むのがよいのです。これが多言語教育です」(同『タトリ』より)。
つまりここでいう多言語教育とは、幼稚園や小学校低学年など基礎教育課程で子どもたちに教師がその子たちの母語で教えることを意味し、英語やインドネシア語などポルトガル語以外の外国語を使用することは意味しません。「多言語教育」といわずに「母語教育」といえばよさそうですが……。
遠隔地から(オーストラリアからか?)インターネット通信を介して参加したカースティ=ソード=グズマン教育親善大使は、世界のなかの東チモールという国の文化の固有性を強化する多言語教育の重要性を説き、教育制度において誰一人とも置き去りにされてはならないと信念を述べ、さらに一人の母親(シャナナとの間に子どもがいる)として、農村部の授業を参観したときのショックを語りました。つまり農村部では何千人の子どもたちが公用語であるテトゥン語とポルトガル語を学ぶ段階に至らなかったという現実にショックをうけたというのです。そして教育親善大使はこう指摘します――しかしこれは農村部だけにかぎったことではありません。2015年の国勢調査によると、教育初期課程の子どもたちの70%が第一言語としてテトゥン語を話せないのです――(同記事より)。
また同記事は、2012年に上記の三地方に試験的に母語教育を導入した結果、成果が現れたことからこれらの地方から母語教育を拡大してほしいという要望の声があがったと伝えています。
この記事だけを読むと、現政政権・教育省による母語教育への意気込みと見通しの明るさだけが書かれているので、多言語教育(母語教育)計画が順風満帆であるかのような印象を受けますが、決してそうではありません。以下、母語教育の歩みをざっと振り返ります。
反発を喰らう母語教育
上記三地方のラウテン・マナトゥト・オイクシの計12校へ試験的に母語教育が導入されたのは2012年ごろ(正確にいうと、2007年に発足したシャナナ=グズマン政権が2008年ごろから母語に目を向け始め、2011年に具体的な準備がされ、実践されたのは2013年から)、今から10年以上も前のことです。
試験的とはいえ、そしてごく限られた範囲とはいえ、学校教育に母語が導入されるのは画期的なことでした。そしてこの試みは当時反発を喰らったのです(現在も)。
2012年当時はシャナナ=グズマン首相が第四次立憲政府を率いていましたが、シャナナ首相夫人のカースティ=ソード=グズマンさんは教育親善大使であり、当時のラモス=オルタ大統領は独身だったことからファーストレディという役割も担い、さらにユネスコ東チモール委員会の長でもありました。さらにまたカースティ=グズマンさんはその当時の東チモール政府の要請によりユネスコなどの国際機関によって立案された「母語を基本とする多言語教育計画」の調停役も務めたのです。したがって東チモールにおける母語教育にかんしてカースティ=グズマンさんは歴史的な役割を果たした人物といえます。
以上のような事情から母語導入は海外から輸入された計画である印象を受けたのでしょう、母語導入に反対する人たちからは、母語導入は外国勢力によるものだという陰謀論もでたりもしました。しかし忘れてはならないことは、母語導入計画はあくまでも東チモール政府が主体となって進められた計画であることです。
母語導入に反対する人は、学校に母語が導入されると憲法で定められている公用語とくにポルトガル語がないがしろにされてしてしまうのではないかとよく心配します。ポルトガル語がないがしろにされることに〝カチン〟とくる傾向はフレテリン(東チモール独立革命戦線)に強くみられます。フレテリンは、ポルトガル植民地主義にたいするアフリカにおける民族解放闘争と連動し、東チモールのポルトガル植民地支配からの脱却を急進的に訴えてきた歴史的政党ですが、なぜかポルトガル語にたいしては〝頑なな〟といいたくなるほど強い親和性をみせる傾向があります(古い世代に限られるかもしれないが)。一方、シャナナ首相率いるCNRT(東チモール再建国民会議)は母語による学習に柔軟性をみせます。
公用語をしっかり国民に学んでもらうためにも母語を導入するのだという意見は、母語導入に反対する人を納得させません(このへんにわたしは理解に苦しむ)。また公用語としてのポルトガル語を教育現場で軽んじるのは憲法違反であるという憲法論もしばしば反対論者からでますが、憲法をもちだすのなら、30言語ほどあるといわれる東チモールの地方語の保持・発展を憲法は定めているので、母語としての地方語を教育現場に導入しないことは地方語をないがしろにすることではないか、それは憲法に反することでないかというという矛盾に突き当たることになります。しかし母語教育に反対する人はその矛盾を感じないようです。もしかして母語は家で話されているのだからそれでいいのだという思い込みがあるのかもしれません。ともかく、母語導入をめぐるおよそ10年前の賛否両論の意見は噛み合わず、実りある真の言語論争に至らなかったとわたしは記憶しています。
母語導入後の論争
三地方に母語が試験的に導入されたのち、2014年6月、国会はポルトガル語を第三サイクル以降になって初めて主要言語として基礎教育に導入する取り決めを採択し、同年11月、その決議が公布されました。「第三サイクル」とは小学校の低学年三年生のことでしょうか、ともかく小学校に入学していきなりポルトガル語を基礎教育課程に組み込まないことになったのです。
そして2015年1月、政府は上記の発布された法令を有効にするという決定をしました。「発布」されたのだからそれで充分に「有効」ではないか、「有効」の決定は不必要ではないかとわたしは思うのですが、おそらくここでいう「有効」とは教育制度にしっかり組み込むぞという国会の意思表示を意味するのではないかと推測されます。いずれにしても「発布」で決着をみなかったことに反対勢力の抵抗を見てとることができます。この「有効」という決定事項の見直しを求める国会議員有志18名が評価検討のための国会を開くことを求めたのです。同年2月にその国会が開かれる予定でしたが、当時、シャナナ首相から首相の座を手渡されたフレテリンのルイ=マリア=デ=アラウジョ首相による新しい政権(2015年2月~2017年9月)の慌しさもあってその国会は3月に延期となりました。そして3月、その国会が開催されたのですが、CNRTはこの件はすでに決定事項だとして退席し、審議は成立しませんでした。こうした混乱気味の国会状況のもと、カースティ=グズマンさんと国会議長・国会議員のあいだで母語導入をめぐって以下のような論戦が展開されました。
当時の国会議長・ビゼンテ=グテレスはポルトガル語が基礎教育課程で導入されないという取り決めが法令化されたことにたいして――外国人と国連機関は東チモールの選択した言語の基本戦略を妨害しないで敬意を払ってほしい――とあからさまに不快感をポルトガルの通信社によるインタビューのなかで表明したのです。「東チモールの選択した言語の基本戦略」とはもちろんテトゥン語とポルトガル語が公用語であると憲法に定められていることを指します。これにたいしてカースティ=グズマン教育親善大使は――国会議長は遠隔地に二つの公用語をよく話せない子どもたちがいることを忘れている。東チモールはポルトガルの植民地ではない。国会議長には国益を守る義務がある。自分のよく知る言語で教育を受けるという子どもたちの権利を国会議長は守る義務がある――と反論したのでした。
すると「東チモールはポルトガルの植民地ではない」というくだりがフレテリンからCNRTまでの国会議員から一斉に反発を喰らってしまったのです。
フレテリンはこう反発しました――ポルトガル語の使用と植民地主義の問題を結び付けようとすることは完全に間違い。東チモールがいまだにポルトガルの植民地だとは誰もおもっていない。ポルトガル植民地として東チモールでのポルトガル語使用を関連させるのは誤りだ。そうなればオーストラリアはまだイギリスの植民地ということになり、持ち込まれた言語を話すことがすべて植民地的となる(デビッド=シメネス議員)――。
味方であるはずのCNRTからも――東チモールは自由であり、もうとっくにポルトガル植民地でなくなった。自由な国会によって言語の決定がされている。植民地主義はこの問題とは無関係だ(ナタリノ=ドス=サントス議員)――。
公用語を話せない遠隔地の子どもたちのために母語による教育を進めてきたのに、こんなかたちで一斉反発をされるとは、カースティ=グズマンさんは失意に沈んだことでしょう。おりしも2015年3月、シャナナ=グズマン計画戦略投資相とカースティ=グズマン教育親善大使は離婚しました。離婚の原因はこの件とは全く無関係な夫婦間の私的な事情であると思いますが、カースティさんにとって辛い時期だったに違いありません。その後、周囲の勧めがあって二人は夫婦のよりを(形式的に?)戻していますが、これ以降カースティさんが東チモールの公の場に姿を現す場面はめっきり減ってしまい現在に至っています。
母語による教育効果
2016年、つまり母語が三地方に試験的導入が実施されてから3年たつと、その結果が「ユネスコ東チモール国民委員会」によって報告されました。簡単にいうと、母語を使うと生徒の理解はすすむという成果が現れたのです。かくして同委員会は、「母語に基づく多言語教育」は規模拡大していくべきであると勧告しました。
効果が出たというのに母語教育が進まず
母語を使うと生徒の理解はすすむという専門家による調査結果がでたのですから、さあこれからは学校での母語使用に弾みがつくと思いきや、そうはなりませんでした。2017年(この年はルイ=マリア=デ=アラウジョ首相政権の最後の年、そして選挙の年)、公用語を授業で使用した方がよい、授業で母語を使用することに賛同できない、と一部の国会議員による抵抗が続きました。
一部の国会議員だけではなく、当時のタウル=マタン=ルアク大統領(2012~2017年)も、授業は母語ではなく憲法で定められている公用語を使用するべきだという立場を表明しました。その理由として、政府指導者は自分の子どもたちを海外の学校に送っているのに一般庶民の子どもが母語で教えられるのは差別であるという理由を大統領は挙げました。タウル=マタン=ルアク大統領は教育の平等という観点を提示しました。しかし基礎教育課程での母語導入が議論されているのであり、政府指導者の裕福な家庭の子どもが海外留学するのはある程度成長したあとであることを考慮すれば論点がずれているといわざるをえません。また、政府指導者の子どもが国内のポルトガル学校や国際学校に幼児期から通っているとすれば、その子たちは東チモールの地方語で基礎教育を受けることはないでしょうが、それが果たして東チモール人のアイデンティティ確立のため良いことなのか? 幼児教育における外国語教育の善し悪しを議論するのが先決です。
2017年、そうこうしているうちに大統領選挙と議会選挙を迎え、本来ならば法令化された母語教育は推進されるべきですが、この政治日程のために宙吊りになった感があります。そして2017年の選挙の結果、東チモールは政治的袋小路に迷い込み、そして新型コロナウィルスとの闘いの時を迎え、しばらく母語を使った教育計画は立ち切れになりました(以上、東チモールだより 第205・296・297・335・342・346号などを参照のこと)。
次に、母語による教育計画が再浮上するまでの東チモール政局をざっとおさらいしておきます。
多言語教育計画の再浮上まで
シャナナ=グズマンが初めて首相の座に就いたのは2007年8月~2012年8月です。2012年の選挙でもシャナナ=グズマン率いるCNRTは第一党となり、連立を組み、シャナナ=グズマン首相は第二期を迎えました。しかしこのときシャナナ=グズマンが首相を務めたのは2015年8月~2017年2月まででした。シャナナは自ら首相の座をフレテリンの幹部で医師であるルイ=マリア=デ=アラウジョに譲り、シャナナは「グレーラーサンライズ」ガス田開発に専念するために計画戦略投資相になりました。いわばCNRTとフレテリンの二大政党による大連立政権です。この期間は、政敵といわれるフレテリンのマリ=アルカテリ書記長とCNRTのシャナナ=グズマンの蜜月の時代でした。しかしこの蜜月時代はそもそも無理があったのでしょう、その後、反動が現れ二大政党と二人の対立は鋭利化し、政局はいわゆる袋小路に迷い込んでしまうことになります。
2017年の選挙ではフレテリンが第一党になったものの、マリ=アルカテリ書記長は国会の過半数を占める連立政権樹立に失敗し、マリ=アルカテリ首相による第七次立憲政府は少数政権となってしまいました。2017年、先に実施された大統領選挙でフレテリン党首(フレテリンの場合、党首より書記長のほうが強い権限をもつ!)のルオロが大統領になったので、少数政権樹立が可能になったのです。しかし野党多数派は少数政権に立ちはだかり、マリ=アルカテリ首相は国会運営をまともにできず、2018年6月に前倒し選挙(こう東チモールでは呼ばれるが、やり直し選挙といった方がわかりやすい)がおこなわれ、シャナナのCNRTとタウル=マタン=ルアクのPLP(大衆解放党)そしてKHUNTO (チモール人国民団結美しき豊穣)の三党連立勢力が勝利し、これが政権を握り、タウル=マタン=ルアクが首相となりました。
この三党連立政権による第八立憲政府は国会多数を占めたので安定するかに見えましたが、フレテリンのルオロ大統領はCNRTの党員が閣僚候補になることについて見直しを要求しつづけたため、政府閣僚数席が空白になったままでの政権運営となり政治的袋小路は継続しました。そのうちにシャナナ=グズマンとタウル=マタン=ルアクという独立の両雄は並び立たず、CNRTは最大与党であるにもかかわらず政府の国家予算案に棄権票を投じる行動に出て、この政権は自滅してしまいました(2020年1月)。タウル=マタン=ルアク首相はCNRTが三党連立政権を潰したといい、辞表をルオロ大統領に提出し(2020年2月)、シャナナ=グズマンによる新たな連立政権が発足するかに思われました。
このとき新型コロナウィルスが世界的に流行しはじめ、東チモールにもその脅威が迫って来ていました。ルオロ大統領は国家非常事態宣言をし(2020年3月)、タウル=マタン=ルアク首相による辞表は正式に受理されていないとして、タウル=マタン=ルアクは辞表を撤回し首相に留まり、新型コロナウィルス対策の指揮を執ることになったのです。結局、タウル=マタン=ルアク首相は、CNRTの代わりにフレテリンを最大与党として迎え入れ、2023年までの5年間、第八次立憲政府の任期をまっとうしたのです。
2017年から2021年ごろまでは、政治的袋小路と新型コロナウィルス対策のために母語教育を論じる状況になかったし(2020年5月にはフレテリンとCNRTの議員が国会議長の椅子をめぐって国会で場外乱闘を演じるほど政局は荒れに荒れた)、2020年からフレテリンが最大与党となったためでしょうか、「母語を基本とする多言語教育計画」は話題にのぼりませんでした。
第八次立憲政府の晩歳1~2年間は、政局は落ち着きました。そして2023年の選挙により同年7月1日、現在のシャナナ首相による第九次立憲政府が発足し、本文冒頭に紹介した2024年4月の教育省による多言語教育計画の立ち上げ式を迎えたというわけです。
2025年は母語導入拡大の年か
2024年11月15日、国会の予算審議で母語使用について質疑応答がされました。基礎教育への母語導入をめぐる国会討論の復活です。
フレテリンのエレーナ=マルチンス議員は、母語導入は多くの生徒にとって外国語の知識を減少させるのではないかと述べ、「今日、世界の人びとはポルトガル語や英語で国際社会で競っている。東チモール国民の子どもたちに母語を導入する必要はない。母語の導入は国内的にそして国際的に競争する機会を失わせるかもしれない」と懸念しました。
これにたいし与党CNRTのセデリジア=ファリア=ドス=サントス議員は、公用語を知らない生徒の助けになるから多言語教育の導入は必要であるとし、「母語導入にかんしてわたしたちは(2012年当時)それを導入する側であった。それは全国民的な言語であるテトゥン語やポルトガル語を失うためではなく、子どもたちに容易にこれらを学べるように橋渡しをするためである。遠隔地の農村部で小さな子どもたちがテトゥン語もポルトガル語も話せない。三年生までの低学年の小さな子どもたちが依然として読み方ができないのは、先生がポルトガル語だけを教室で話すからであるという調査資料がわれわれにはある」と反論しました(『ディアリオ』、2024年11月18日)。
それにしても国会で母語使用について再び本格的に(?)議論されるまで実に長い時間がかかったものです。これだけを見ても永く外国支配を受けてきた地域が国として独立し国家の基礎固めをすることがいかに困難を極めるかをわたしたちは伺い知ることができます。本文冒頭、2024年4月の教育省による多言語教育計画の立ち上げ式のときのカーティス=グズマン教育親善大使の心境はいかほどであったことでしょうか。
同国会でドゥルス=デ=ジュスス=ソアレス教育相は、多言語導入は生徒の読解力を助けると教育省は認識しているとし、「誰でも平等に教育を受ける権利があるのでこれを保証するために努力していく」と述べ、2025年度における多言語教育導入のために教育省は準備をしてきたと述べました(同『ディアリオ』)。つまり教育相は、今年は国家予算を使い母語教育を広く導入していくことを示唆したのです。今年は母語導入が拡大されるかもしれません。
協調性に欠けた大鉈をふるう現シャナナ政権の振る舞いにはほとんどわたしは賛同できませんが、母語による教育については例外的に賛同できる政策です。
教育の平等な権利を確立せよ
上述した教育相の発言にあった「誰でも平等に教育を受ける権利」の「保証」にかんしていわせてもらえば、読み書き困難などなんらかの学習障害を背負っている子どもたちにしてみれば母語で教えられても厳しい状況におかれるわけで、いわんや母語以外の言語で授業を受けたらどのような困難に直面するのか?という視点が東チモールで欠如しているのが非常に残念です。一般に、教室の4~6%(ひょっとしたら10%)の子どもたちがなんらかの学習障害をかかえているかもしれないといわれています。誰一人として置き去りにされない先進的な教育制度を東チモールが目指すことを願います。
善意に満ち溢れた外国人が知識や経験を披露して東チモールを支援しようとしてもそれはあくまでも外部からの支援です。東チモールの言語問題は東チモール人にこそ解決できる問題であることを認識しつつ、多言語社会である東チモールの言語問題にこれからも注視し、母語による教育の進展を見守っていきたいと思います。
★東チモールの言語問題の基本について、拙著『東チモール、山の妖精とゲリラ』(1997年)・『東チモール、未完の肖像』(2010年)、そして共著『東ティモールのことば、テトゥン語入門』(青山森人・中村葉子・伊東清恵・市之瀬敦、2013年)を参照のこと(いずれも社会評論社)。
青山森人の東チモールだより 第527号(2025年1月31日)より
e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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